第28話 黒瀬蓮
黒瀬蓮。
スマートフォンの画面に並んだその名前を見るだけで、胃の奥が冷たく縮み上がるような感覚があった。
真田亮介は、再生ボタンの上に置いた親指を止めていた。
大学の練習を終えた夜。寮の自室で、ベッドの端に腰を下ろしている。風呂には入った。夕飯も済ませた。あとは寝るだけだというのに、高校時代の試合映像を開いていた。
今日、只野に言われた一言が、どうしても頭から離れなかったからだ。
『お前、左もらったあと、必ず右返すな』
最初は、そんなはずはないと思った。
相手の手元を見て、距離を測り、その都度判断して拳を選んできた自負がある。殴られた反射だけで右を振るような雑なボクシングをしてきたつもりはない。
けれど、練習後に先輩へ頭を下げ、軽い接触ありの約束練習を頼んで確かめてみたら、本当に出ていた。
相手の左ジャブがガードに触れた瞬間、考えるより先に右足が床を蹴り、右肩が前へ出ていた。
自分では、状況を見て選んでいるつもりだった。相手が左を出す。右を返せる距離なら返す。ただそれだけのことだと思っていた。
それでずっと勝ってきた。
高校時代、公式戦で負けた相手は1人しかいない。
黒瀬蓮。
その1人にだけ、何度も負けた。
真田は動画を再生した。
画面の中で、赤と青のヘッドギアをつけた2人の高校生がリング中央へ歩いていく。
1人は自分。もう1人が、黒瀬だった。
高校で最後に、あいつと拳を交えた日の映像だ。もう何度も見返した。今さら再生したところで結果が変わるわけではない。
それでも、スマートフォンを横向きにして画面を見つめた。
◇
黒瀬は、最初から手の届かない場所にいたわけではない。少なくとも、高校に入ったばかりの頃は真田の方が上にいた。
真田の右ストレートは、同世代の中でも速く、重かった。届く間合いなら迷わず打つ。相手が下がれば追う。左をもらっても、すぐに右を打ち返す。その右で何度も流れを変え、高校で主要タイトルを3つ取った。
けれど、黒瀬は試合を重ねるたびに変わっていった。
以前なら当たっていたはずの右が、届かなくなった。無理に踏み込めば、打ち終わりを狙われた。警戒して足が止まれば、今度は黒瀬が先にジャブを差し込んでくる。
黒瀬が高校で獲得した主要タイトルは、6つ。真田の倍だった。
しかも、真田が決勝や準決勝まで勝ち上がると、何度もその黒瀬に止められた。
そこまでの相手なら勝てる。強い相手にも、苦しい試合でも、どうにかポイントを拾って勝ち上がれる。
それなのに、トーナメントの最後で黒瀬と当たると勝てなかった。
『真田は、黒瀬と相性が悪いだけや』
周囲からそう慰められたこともある。真田はその言葉が嫌いだった。
同じルールで、同じリングに立っている。相性のせいにするのは逃げだ。負けたのは自分の実力が足りなかったからで、黒瀬が自分の上を行っていたからだ。
だから、何度も敗戦の映像を見返した。右の速度、踏み込みの深さ、左の戻し、ガードの隙間。負けた原因を1つずつ潰そうとしてきた。
それでも、次にリングで向かい合う黒瀬は、いつもその先を行っていた。
◇
画面の中で、開始のゴングが鳴った。真田は音量を少し上げた。
あの日も、自分は勝つつもりでリングに立っていた。
先に動いたのは黒瀬だった。左ジャブ。
画面の中の真田は、右グローブでそれを受ける。黒瀬が半歩引く。真田が左を伸ばして距離を測り、黒瀬の頭がわずかに外へ動く。
もう一度、黒瀬の左が来た。さっきより速い。
真田は上体を引いた。グローブの端がヘッドギアの額に触れる。
あの瞬間、自分が何を考えたかははっきり覚えている。
――返せる。
そう確信して、右足で床を押した。腰が回り、右ストレートが伸びる。
画面の中の真田の右は、確かに速かった。黒瀬の顔面へ一直線に伸びている。
だが。
黒瀬は、真田の右が出るより先に距離を切り始めていた。
前足を引き、上体を後ろへ逃がす。真田の拳が空を切り、右腕が伸びきって戻るまでの隙に、黒瀬の左ジャブが返ってきた。
――パシッ。
ガードの脇へ軽く触れると、黒瀬はそれ以上追わず、すぐに足を運んで距離を取った。
真田は動画を止めた。
「……待っとったんか」
静かな部屋に、自分の声が落ちた。
今までずっと、黒瀬の左は自分を止めるための牽制だと思っていた。ジャブで先に触り、こちらが下がったところへ前へ出るための布石だと。
けれど、止めた画面の中の黒瀬は、左を出した時点で前へ出る体勢を取っていなかった。前足の踵はすでに浮き、いつでも後ろへ下がれる位置に重心が残っている。
画面を少し戻し、再生する。止める。もう一度戻す。
何度見ても同じだった。
黒瀬は、真田の右を見てから反射で避けたのではない。
真田が右を打ち返したくなる深さに、自分から左を置いていたのだ。こちらが反射で右を出すと分かっていて、最初から空振りさせるためにジャブを突いていた。
昼間、部の先輩に言われた『お前の右が来ると思ったから』という言葉が蘇る。
先輩は癖を読んだ。だが黒瀬は、その癖を引き出すところから組み立てていたのだ。
◇
真田は動画の続きを再生した。
黒瀬は、ただ下がって避けるだけの選手ではなかった。
中盤、真田が黒瀬の右をガードで受け止め、左ジャブから右のストレートにつないだ場面がある。
今度は当たった。ヘッドギアの側面に拳が届き、画面の向こうから歓声が上がる。
あのときの手応えも覚えている。芯で捉えた重い衝撃が手首へ返り、黒瀬の頭が揺れた。黒瀬だって全てのパンチを避けられるわけではない。自分の右は通用する。そう思った。
しかし、その直後だった。
黒瀬の動きが変わった。
それまでジャブを出しては離れていたのに、今度は左を2度続けて伸ばしてきた。1発目はガードへ、2発目はその上へ。真田がいつものように右を返そうとしたところへ、黒瀬の右ストレートが先に重なった。
真田は打つのをやめ、両腕を上げて受け止めるしかなかった。黒瀬はすぐに横へ回り、また距離を作った。
真田は再生を止めた。
……そうやった。あいつは、俺の右を避けるだけやなかった。
これまで映像を見返すとき、真田は自分の右が当たった場面ばかりを何度も確認していた。どこから踏み込んだか、どうすればもう一度あの右を当てられるか。そればかり考えて、当てられた直後に黒瀬が何を変えたのかを、ちゃんと見ていなかった。
真田はスマートフォンを膝の上に置いた。
試合が進むほど、黒瀬は1つの形にこだわらなくなっていった。こちらが右を返せば下がり、返さなければ前へ出る。距離を詰めれば横へ動き、追いすぎたところへ左を置く。
自分の武器である右を封じられたまま、最後は黒瀬の手が上がった。
◇
あの試合のあと、黒瀬と短く言葉を交わしたのを覚えている。
リングを降り、控室へ続く廊下で水を飲んでいたときだ。マウスピースを外した口の中には血の味が残っていた。頬が熱く、右肩が重い。グローブを外した手はまだ細かく震えていた。
そこへ、タオルを首にかけた黒瀬が歩いてきた。
「真田」
顔を上げる。
「……何や」
「お疲れ」
「おう」
黒瀬も汗だくだった。少しの沈黙のあと、先に口を開いたのは黒瀬だった。
「今日の右、速かったな」
真田は顔をしかめた。
「……当たらへんかったやろ」
「当たったよ」
「1発や2発やん」
「その1発が嫌なんだよ」
黒瀬は、何でもないことのように言った。
嫌なら、どうしてあんなに冷静に外せるのか。どうして次も迷わず左を出せるのか。そう聞きたかったが、負けた直後に口を開く気にはなれなかった。
黒瀬はタオルを肩へかけ直した。
「またやろうな」
「……おう」
真田は短く返し、去っていく背中を見送った。
次こそはと思っていた。だが、高校のうちに勝つことはできず、黒瀬は別の大学へ進んだ。
2人ともボクシングを続けている。高校時代に終わらなかったものを、そのまま抱えて。
◇
「……お前、寝えへんの?」
部屋の扉が開き、同じ寮で暮らす部の先輩が入ってきた。
「まだ起きてたんか」
「はい。ちょっと映像を」
「またボクシング?」
「まあ」
先輩が画面を覗き込んだ。
「ああ、黒瀬か」
「……はい」
「ほんま好きやな、お前」
「好きで見てるわけちゃいます」
「せやろな」
先輩は笑って壁にもたれた。
「俺、あいつ以外には高校の公式戦で負けてへんのです」
「知ってるよ。何回聞いたと思てんねん」
「……すんません」
「いや、ええけど。黒瀬がおらんかったら、お前もっとタイトル取れたやろな」
何度も言われてきた言葉だった。黒瀬さえいなければ。別のブロックなら。決勝で当たらなければ。
真田は少し考えてから、首を振った。
「……でも、黒瀬がおったんで」
「おう」
「負けたんです」
「そらそうやけど」
「そこを抜いて考えても、しゃあないでしょう」
真田はスマートフォンを持ち直した。
「次も、あいつがおるんで」
先輩はしばらく黙ってから、小さく笑った。
「……せやな」
黒瀬がいなければ取れたはずのタイトルなんて欲しくない。黒瀬がいる場所で、あいつを倒して取る方がいい。そのために大学でもボクシングを続けている。
それなのに、今日あの作業着のおっちゃんに言われるまで、自分の右が相手にどう見られているかに気づけなかった。
真田は、そこで初めて動画を閉じた。
◇
翌日の練習。真田は昨日の先輩にもう1度、軽い接触ありの約束練習を頼んだ。
「またか? 別にええけど、今度は何を試すん?」
「左をもらったあと、です」
「ああ、例の右か」
「はい」
リング中央へ進み、先輩の左が届く距離で構える。
「軽くお願いします」
「了解」
先輩の左が来た。真田の右グローブに触れる。
昨日までなら、そのまま右を返していた。今度は返さない。
左足を少し外へ運び、相手の正面からずれる。先輩の右グローブが、真田の右ストレートを警戒して上がるのが見えた。
真田は、両グローブの間にできた隙間へ左ジャブを伸ばした。
――パシッ。
グローブに触れると、そのまま1歩離れる。
「……お」
先輩が声を上げた。
「今の、右ちゃうんや」
「はい」
「なるほどな」
真田は頷いた。右を出さずに済んだし、ただ受けるだけでも終わらなかった。
もう1本。先輩の左が伸びる。真田は頭を外し、前足を動かして左ジャブを出す。今度は先輩が1歩下がって届かなかったが、無理に追わなかった。悪くない。
「もう1回、お願いします」
「おう」
先輩が構える。今度の左は、さっきより短かった。
真田は前足を動かし、左を出そうとした。
ところが、先輩は左をすぐ引き戻し、そのまま前へ出てきた。真田のジャブより先に、相手の右グローブが顔の前へ伸びてくる。
真田は慌てて両手で受けた。
――パシッ。
「……っ」
先輩が笑った。
「今度はそっちばっかりやな」
真田は思わず苦笑した。
右を出すのをやめたら、今度は「左を出そう」と決め打ちして動いていた。これでは同じだ。相手の左を見た瞬間、別の決まった動きに飛びついているだけで、相手を見て選べていない。
「……難しいですね」
「そらそうやろ。今まで得意やったことを、急に変えようとしてるんやし」
「変えるつもりはないんです」
「ん?」
「右は、そのまま使いたいです」
真田は右グローブを持ち上げた。自分の最大の武器だ。黒瀬だって、その1発を嫌がっていた。捨てる理由はない。
「ただ、相手が待ってるときまで、同じ右を出したくないんです」
「なるほどな」
「次は、左をもらってからやなくて、その前の動きも見ようと思います」
「おう。やってみよか」
真田は構え直した。先輩の肩、前足、伸びてくる左。自分の右が届く距離か、相手はそこに残るつもりか。
見るものが増えて、正直面倒だった。左が来たら右を強く返す方が、ずっと単純で気持ちいい。
でも、黒瀬はその単純さを知った上で勝ってきた。ならば、こちらも知られたままで終わるわけにはいかない。
◇
「……おい、兄ちゃん」
休憩中、後ろから声をかけられた。
壁際のパイプ椅子に座り、片手で腹を掻いている只野だった。
「はい」
「何だよ、さっきのは」
「練習です」
「見りゃ分かるけどよ」
「じゃあ何ですか」
「右、打たねえの?」
真田は少し驚いた。女子の練習で美波やひまりが騒いでいる向こうで、こちらの動きも見ていたらしい。
「打ちますよ。ただ、毎回同じになるのは避けたいと思って」
「ふうん」
只野は興味があるのかないのか分からない顔で頷いた。
真田は少し迷ってから、口を開いた。この男に話してどうなるかは分からない。だが、昨日の夜から頭にあることを言ってみたくなった。
「只野さん」
「あ?」
「高校のとき、どうしても勝てへん相手がいたんです」
「へえ」
「黒瀬蓮いう選手です」
「知らねぇな」
即答だった。真田は少し笑った。
「全国でも有名な選手なんですけど」
「だから?」
「……いや、別に」
只野は欠伸をした。真田は続けた。
「俺、高校で3つタイトル取りました」
「おう」
「でも、黒瀬は6つです」
「へえ」
「俺、黒瀬以外には公式戦で負けてません」
「すげえな」
真田は一瞬言葉に詰まった。そこは素直に褒めるらしい。
「……ありがとうございます」
「で?」
「……で?」
「何が言いたいんだよ」
真田は口を閉じた。
黒瀬が強いこと。何度も負けたこと。右の癖を利用されていたこと。話そうと思えばいくらでも話せるが、それでこの人に何かを言ってほしいわけでもない。
只野はもう、女子の練習の方へ顔を向けていた。
「先生! ひまりのバッグ、すごい音したよ!」
「バッグは音で勝敗決まんねえぞ」
「分かってるって! 先生が見てないから呼んだの!」
「うるせえな」
いつものやり取りを聞きながら、真田は自分の答えを口にした。
「……勝ちたいんです」
只野がこちらへ顔を戻した。
「黒瀬に?」
「はい」
「何回負けたんだよ」
「高校の公式戦では、何度も……」
「そ。で、もう諦めたん?」
「諦めてません」
それだけは、すぐに答えられた。
「俺、もう1回あいつとやりたいです。今度は勝ちたいです」
「ふうん」
只野は何とも思っていないような顔で頷き、それから言った。
「じゃ、次勝ちゃいいじゃんじゃね」
真田は、しばらく動けなかった。
あまりにも簡単に言われた。
高校3年間、何度も練習して、何度も負けた相手だ。右を磨いて、足を鍛えて、それでも届かなかった。昨日ようやく自分の癖に1つ気づき、それを直すことすら今日の練習で苦労したばかりだ。
それを、この作業着のおっちゃんは、平気な顔で「次勝てばいい」と言った。
真田は、握っていたタオルを強く引っ張った。
「……只野さん」
「あ?」
「そない簡単に言わんといてくださいよ」
只野の缶コーヒーを持つ指が止まった。
真田は、目を逸らさなかった。




