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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
二章

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第27話 男も見るの?


真田亮介の右ストレートが、また空を切った。


 相手は半歩下がっただけだ。


 それなのに、届かなかった。


「はい、そこ」


 先輩が左グローブを下げる。


「真田、お前、今日は右が遠いな」


「……そうですね」


 真田は構えを解き、右肩を一度回した。


 大学ボクシング部のリング。


 いつも使っているキャンバスの上で、いつもの相手と軽いスパーリングをしていた。


 先輩の左ジャブが来る。


 真田はガードを上げる。


 受ける。


 右を返す。


 たったそれだけの、何度も練習してきた動きだ。


 高校時代から、こうして打ち返してきた。相手が先に手を出したからといって、攻撃を譲るつもりはない。


 むしろ、そこからが自分の番だった。


「もう一回、お願いします」


「ええよ」


 先輩が構える。


 真田も左足を前へ置き、軽く膝を曲げた。


 互いに手を伸ばせば届く距離。


 相手の左肩が動いた。


 ジャブ。


 真田は顎を引き、前に出した右グローブで受けた。


 そのまま右足で床を押す。


 腰が回る。


 右ストレート。


 ――シュッ。


 先輩の頭は、もうそこになかった。


 拳が届く前に、相手の前足が後ろへ引かれていた。


「……あれ?」


 今度は先輩が笑った。


「惜しかったな」


「いや、惜しくないですよ。完全に外されました」


「そうか?」


「はい」


 真田は右手を戻した。


 自分のパンチが遅かったわけではない。


 踏み込みも悪くなかった。


 ただ、相手が早く離れた。


 なら、もう半歩詰めればいい。


 そう考えかけて、やめた。


 今日の先輩は、さっきから同じように下がっている。


 どうしてやろ。


 理由を確かめたい。


「もう一本、いいですか」


「おう」


 真田は構えた。


 そのとき、リングの向こうで笑い声が上がった。


「ひまり! そこ十で打ったらバッグ飛んでくって!」


「十のつもりで打ってません!」


「じゃあ、何のつもり?」


「七です!」


「七でそれ!?」


 橘美波の声だった。


 向こうのサンドバッグでは、大熊ひまりが右ストレートを打ち込んでいる。


 バッグが揺れる。


 ひまりはすぐに次を打たず、自分の右拳を見ていた。


 隣の雨宮千尋が、何やら数字を記録している。


 真田はその様子を横目で見た。


 女子五人が入ってきてから、練習場は賑やかになった。


 最初は、声が増えただけだと思っていた。


 ところが、この数日は違う。


 橘は避けた直後に手を出すようになった。


 大熊はサンドバッグと人を相手にするときで、打ち方を変えようとしている。


 雨宮はタブレットを見ている時間が少し減った。


 鳴瀬は、潜り込む直前の足の位置を何度も確かめている。


 白石は相変わらず正確なジャブを打つ。


 ただ、最近は当てたあとの相手まで、じっと見ていることが増えた。


 全員、何かを直そうとしている。


 その中心にいるのが。


「……あのおっちゃんか」


「ん?」


 先輩が聞き返した。


「いえ。何でもないです」


 真田は首を振った。


 リングの外。


 壁際のパイプ椅子に、腹の出た中年男が座っている。


 只野汚山。


 缶コーヒーを片手に、だらしなく背中を丸めていた。


 あの人がボクシングをしている姿は、ほとんど見たことがない。


 鳴瀬の練習で少し動いたときも、派手なことは何一つしていなかった。


 足を置く。


 拳を伸ばす。


 必要なところで止める。


 それだけだった。


 けれど、鳴瀬はその短い動きを何度も繰り返している。


 女子五人は、昨日、あの人に点数までつけていた。


 技術九十八点。


 指導結果九十点。


 生活態度は、ほとんど零点。


 ふざけた採点表だった。


 それでも、指導結果の数字だけは、妙に引っかかっている。


 あの五人は、只野に言われて何かが変わったと感じている。


 なら。


 自分の場合は、どうなるんやろ。


「真田。続きやるか?」


「あ、はい」


 先輩の声で、真田はリングへ意識を戻した。


「お願いします」


◇


 練習が一段落したころ、真田はロープをくぐってリングを降りた。


 タオルで顔の汗を拭き、グローブを外す。


 只野はまだパイプ椅子に座っていた。


 さっきと違うのは、缶コーヒーが空になっていることくらいだ。


 近くでは、美波が千尋のタブレットを覗き込んでいた。


「えー、また私のミス増えてる」


「増えたのではありません。記録項目を追加しました」


「同じじゃん!」


「違います」


 真田は二人の横を通り、只野の前で足を止めた。


「只野さん」


「あ?」


 只野が顔を上げた。


「俺も、見てもらっていいですか」


「……何を?」


「ボクシングです」


 只野は真田を見た。

 上から下まで。


 一度だけ。


「男だろ、お前」


「はい」


「じゃ、見てもつまんねえな」


 真田は返事に困った。


「……男やと、あかんのですか」


「女なら見てて楽しいもんがあるだろ」


 只野が、すぐ近くの美波たちへ視線を向けた。


「胸とかケツとか――」


「先生!」


 美波が振り返った。


「またそれ!?」


「何だよ。正直な感想だろ」


「ボクシング見ろって!」


「見てるだろ」


「どこを!?」


「いろいろ」


「最悪!」


 只野は面白そうに鼻を鳴らした。


 千尋がタブレットを閉じる。


「性別によって観察の精度が変わるという科学的根拠はありません」


「俺の趣味の話だよ」


「では、評価対象として不適切です」


「お前、昨日から採点ばっかしてんな」


「採点は終了しています」


「なら黙ってろ」


「発言の不適切さは、引き続き記録できます」


「お前ほんと可愛げねえな!」


 美波が腹を抱えて笑い始めた。


 真田も、思わず口元を緩めた。


 なんや、このやり取り。


 とても指導者と選手の会話には聞こえない。


 けれど。


「只野さん」


 もう一度、呼んだ。


 只野が真田を見る。


「一回だけで構いません。俺の動き、見てください」


「……」


「女子の皆さんが、ここ数日で変わってきたんは分かります。何を言われたら、そうなるんか。ちょっと気になって」


 只野は缶を振った。


 中身がないのを確かめ、床に置く。


「何だよ。女どもが見てもらってるから、お前もって?」


「それもあります」


「へえ」


「でも、俺も強くなりたいんで」


 只野の目が、ほんの少しだけ細くなった。


 真田は続きを待った。


 あの人なら、何か言うだろうか。


 構えがどうだ。


 踏み込みがどうだ。


 右が遅い。


 腰が浮く。


 そういうことなら、何でも聞いてみたい。


 只野は、あっさり言った。


「もう見た」


「……え?」


「さっきリングにいただろ」


「はい」


「見たよ」


 真田は瞬きをした。


「……いつですか?」


「お前が右ばっか振ってたとき」


 背中に、嫌なものが走った。


 右ばっか。


 確かに、さっきは右が空振りしていた。


 でも、それは先輩が距離を切ったからだ。


 只野は椅子に座り直した。


「お前、左もらったあと、必ず右返すな」


 真田の口が止まった。


◇


「……必ず、ですか」


「おう」


「右を返すのは、別に間違いやないと思いますけど」


「間違いだなんて言ったか?」


「いえ」


 真田は答えながら、自分の右手を見た。


 相手の左ジャブに対して、右を返す。


 基本的なカウンターの一つだ。


 何度も練習してきた。


 試合でも使ってきた。


 相手に先手を取られても、すぐに打ち返す。


 そこで引かないことが、自分の強さの一つだと思っていた。


「でも、毎回ってことはないでしょう」


「そうか?」


「はい。相手が遠かったら打ちませんし、体勢が悪ければ――」


「左もらったときの話してんだよ」


 只野が遮った。


「お前が何でもない顔で右を返せる距離。そこへ左が来たら、どうすんの?」


「……右です」


「だろ」


「それは……そうですけど」


「じゃ、毎回じゃねえか」


 真田は黙った。


 美波が横から口を挟んだ。


「え、真田くん、右得意なんでしょ?」


「まあ、得意な方やと思います」


「じゃあ、それでよくない?」


「それな」


 只野が言った。


 真田は思わず顔を上げた。


「え?」


「別に右が悪いって言ってねえだろ」


「……はい」


「ただ、毎回返すんだなって話」


 真田は只野を見た。


 何とも思っていないような顔だった。


 言い終えたから、もう用はない。


 そういう顔だ。


「……それだけですか?」


「それだけ」


「直し方は?」


「知らね」


 真田は少し笑ってしまった。


 なるほど。


 昨日、女子五人が教え方を二十点にしていた理由が、よく分かった。

「ほんまに教えてくれへんのですね」


「お前、俺に何頼んだ?」


「……動きを見てください、と」


「見たろ」


「ええ」


「じゃ、終わり」


 只野はまた缶コーヒーへ手を伸ばしかけ、空だったことを思い出したらしい。


 舌打ちした。


 真田はその顔を見ていた。


 腹が立たないと言えば、嘘になる。


 けれど。


 気になって仕方がなかった。


「……すみません。もう一回、リング使ってきます」


「勝手にしろ」


「ありがとうございます」


「礼言われることしてねえよ」


 真田は頭を下げ、リングへ戻った。


◇


「先輩。もう一本、相手してもらえますか」


「ん? ええけど。何や、今日はようやるな」


「ちょっと、確かめたいことがあって」


 先輩がグローブをつけ直す。


 真田もバンテージを締め直し、グローブへ手を入れた。


 リングに上がる。


 ロープを背にしないよう中央へ進み、互いに距離を取った。


「さっきと同じ感じでお願いします。顔は軽く触れるだけで」


「了解」


 真田は構えた。


 左足を前に。


 右踵を少し浮かせる。


 相手も同じ構えだ。


 先輩が軽く左を伸ばした。


 真田の右グローブに触れる。


 右を返しかけて、止めた。


 ……今のはガードの上だ。


 もらったわけではない。


 もう一本。


 先輩が半歩近づく。


 左ジャブ。


 今度は真田のヘッドギアの額へ、拳頭が軽く触れた。


 その瞬間。


 右足が床を押していた。


 腰が回る。


 右肩が前へ出る。


 ――シュッ。


 先輩が一歩下がった。


 右が空を切る。


「……あ」


 真田は思わず声を漏らした。


 考える前に、打っていた。


 あまりにも自然だった。


 自分では選んだつもりだった。


 左をもらった。


 右で返せる。


 だから打つ。


 いつもの判断だ。


 ただ。


 判断した覚えが、ほとんどない。


「どした?」


 先輩が尋ねた。


「……もう一回、同じのお願いします」


「おう」


 真田は構え直した。


 次は、右を出すかどうかを自分で決める。


 先輩の左肩を見る。


 前足を見る。


 相手が入ってくる。


 左。


 ヘッドギアへ軽く触れた。


 真田の右手が動いた。


 ――止める。


 今度は、出さなかった。


 その代わり、先輩の次の左が飛んできた。


 ――パシッ。


 真田の右グローブに当たる。


 先輩が首を傾げた。


「……何やってんの?」


「いや……」


 右を出さなかった。


 それだけだ。


 代わりに何をするかは、何も決めていなかった。


 だから、ただ受けた。


 真田は歯を噛み合わせた。


 右を返せば、相手は下がる。


 返さなければ、また左が来る。


 だったら、どっちが正しい?


 そんな問いなら、昔から何度も考えてきた。


 問題はそこではない。


 右を返すかどうかを、自分で選べていなかった。


「先輩」


「ん?」


「さっき、何で下がったんですか?」


「お前の右が来ると思ったから」


 先輩はあっさり答えた。


「一回目で分かった。左当てたら、すぐ返してくるやろ。せやから次は、右が出る前に足引こうと思って」


「……」


「そしたら、ほんまに右来たし」


 先輩は笑った。


「お前の右、速いからな。当たったら嫌やし」


 真田は黙ったまま、右グローブを見た。


 速い。


 当たったら嫌。


 その評価は、嘘ではないはずだ。


 これまで何人もの相手に、この右を当ててきた。


 試合も勝ってきた。


 だから、正しいと思っていた。


 でも。


 速いと分かっていれば、相手はもっと早く下がることができる。


 右が来ると分かっていれば、右を打たせるために左を出すことだってできる。


 考えてみれば、当たり前の話だった。


 それを、あのおっちゃんは。


 何本か見ただけで。


「……もう一本、お願いします」


「まだやるんか」


「はい」


 真田は右手を上げた。


 止めるだけでは駄目だ。


 右を出さないと決めるだけでも駄目だ。


 今度は、相手が何をするつもりで左を出してきたのかを見たい。


 先輩が構える。


 左が伸びる。


 真田は右を返した。


 ――シュッ。


 また外れた。


「……っ」


 先輩が笑った。


「真田、さっきから何を確かめてんねん」


 真田も、少し笑ってしまった。


「自分でも、よう分からんようになってきました」


 失敗した。


 分かっていても、また打った。


 けれど、さっきまでと違う。


 今は、何をしてしまったのか分かっている。


「すんません。もう一回だけ」


「ほんまに最後やぞ」


「はい」


 真田は構えた。


 足裏に体重を乗せる。


 肩の力を抜く。


 目の前にいるのは、いつもの先輩だ。


 知らない相手ではない。


 それでも、右が来ると分かっている相手と向き合うのは、妙にやりにくかった。


◇


 練習を終え、真田がリングを降りると、只野はまだ壁際にいた。


 今度は何も飲んでいない。


 腕を組み、少し上を向いている。


 寝ているのかと思った。


「只野さん」


「……あ?」


 起きていた。


「さっき、ありがとうございました」


「だから何もしてねえよ」


「いえ」


 真田はグローブを外した。


 右手の指を、何度か開いたり閉じたりする。


「自分では、右を選んで出してるつもりでした」


「おう」


「でも、何回かやってみたら、左をもらった瞬間に勝手に出てました」


「だろ」


「……はい」


 真田は苦笑した。


「強みやと思ってたんですけどね」


 只野が片目だけ開けた。


「強みだろ」


「え?」


「お前、右速えじゃん」


「……はい」


「当たるんだろ」


「当たります」


「じゃ、強みだろ」


 真田は答えられなかった。


 只野は面倒くさそうに頭を掻いた。


「ただ、相手も馬鹿じゃねえからな」


「……」


「毎回同じなら、待つだろ」


 真田は頷いた。


 それは、さっきの先輩がもう教えてくれている。


 右が来ると思ったから下がった。


 速いから、早く離れた。


 たったそれだけだ。


「右を返したら駄目ってことじゃないんですね」


「誰がそんなこと言ったよ」


「……ですよね」


 真田は笑った。


 あのおっちゃんは、指導が下手だ。


 聞かれたことにも、ろくに答えてくれない。


 昨日の二十点は、やっぱり妥当だと思う。


 でも。


 自分が正しいと思っていたものを、否定しなかった。


 右を捨てろとは言わなかった。


 ただ、毎回返している、と言った。


 それだけで、自分の右の見え方が変わってしまった。


「……また、見てもらってもいいですか」


「やだね」


「そこを何とか」


「男の練習なんか見てても、楽しくねえって」


「そない言わんと」


 只野は鼻を鳴らした。


「勝手にやれよ」


 それは、断っているのだろうか。


 許しているのだろうか。


 真田には分からなかった。


 ただ。


 あの五人が毎日この人に食い下がる理由は、少し分かった気がした。


「ほんなら、またお願いします」


「聞いてねえな、お前も」


 只野が呆れた声を出した。


 真田は頭を下げ、用具棚へ戻った。


 グローブを置き、バンテージをほどく。


 右手首を包んでいた布を一本ずつ外していく。


 今日、何か新しい技を覚えたわけではない。


 右ストレートが速くなったわけでもない。


 むしろ、今まで当たり前にできていたことが、急に難しく感じる。


 左をもらったら、右。


 その右を待たれているとしたら。


 相手は、次に何をしてくる?


 バンテージをほどく手が止まった。


 ……待てよ。


 真田は、もう一度その場面を考えた。


 相手の左。


 自分の右。


 その右が来る前に、相手の足が動く。


 今日の先輩と同じだ。


 ただ、一つ違う。


 これまでの試合で、自分の右を待っていた相手がいた。


 何度も。


 それでも、真田は右を返し続けた。


 右が遅かったのではない。


 相手の反応が速いだけでもなかった。


 真田はほどきかけのバンテージを握った。


 あいつは。


 俺が右を出すって、最初から分かっとったんか。


 リングの向こうで、サンドバッグが重い音を立てた。


 真田は顔を上げた。


 今日の先輩ではない。


 何年も前から、自分の右を知っている相手。


 その顔が、久しぶりにはっきり浮かんできた。

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