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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
二章

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第26.5話 先生の採点


「生活態度、2点」


 美波がそう書き込むと、千尋が横から覗き込んできた。


「高すぎませんか」


「えっ。2点だよ?」


「遅刻、飲酒、言動の不適切さを考慮すると、加点できる根拠が一切ありません」


「千尋、容赦なさすぎない?」


「事実です」


 練習が終わったあとのボクシング部。


 リングの横にある長机を、女子5人が占領していた。グローブは棚へ片づけた。キャンバスや床の水拭きも終わっている。練習場に残っているのは、吊りサンドバッグが微かに軋む音と、遠くで男子部員が縄跳びを跳ぶリズミカルな音くらいだった。


 美波の前には、ルーズリーフが1枚。


 一番上には、太いマジックペンでこう大書されていた。


『只野先生・採点表』


 きっかけは、綾乃だった。


 昨日、只野から「全部70点」と突き放されたらしい。真面目な綾乃はそれをひどく気にして、今日も律を相手に黙々とジャブの打ち方を模索していた。


 あんなに何でも高水準にこなせる綾乃が70点なら、自分たちはいったい何点になってしまうのか。


 考えたら、なんだか無性に腹が立ってきたのだ。いつも自分たちばかり一方的に値踏みされている。なら、こっちだって採点して突き返してやったっていいはずだ。


「はい次! 清潔感!」


「0点です」


 律が間髪を容れずに即答した。


「早っ!」


「昨日と全く同じ作業着のシャツでした」


「あー……」


 美波も思い出した。胸ポケットのあたりに、うっすらと茶色いコーヒーの染みがあった。


 昨日よりは少し薄くなっていた気がする。洗ったのだろうか。それとも、水でゴシゴシ擦っただけだろうか。


(……やめよう。深く考えるのは精神衛生上よくない)


「まあまあ、おまけで2点でどう?」


「どうして2点もあるんですか」


「一応、服を着てるから?」


「服を着ているだけで加点されるんですか?」


「律ちゃん、そんな冷酷な真顔で言わないでよ!」


 隣でひまりが笑いすぎて、パイプ椅子からずり落ちそうになっていた。


「じゃあ、ひまりは何点?」


「えっと……5点!」


「高い! 甘い!」


「でも先生、今日はちゃんと靴下が左右同じ色でしたよ!」


「採点基準が幼稚園児なのよ!」


 長机の端で、綾乃がこめかみを押さえた。


「美波、これ……まさか本人に見せるつもり?」


「もちろん!」


「やめた方がいいと思う。絶対に怒るでしょ」


「えー。私たちだって、毎日あのおじさんに言いたい放題言われてるんだよ?」


 綾乃は言葉に詰まった。


 そこなのだ。先生はいつも勝手なことばかり言う。


 避けるだけの美波には「いつ殴んの」。ひまりには「力抜くな」。千尋には「遅え」。律には「入りすぎ」。そして綾乃に至っては「全部70点」。


 いつも私たちばっかり好き勝手に採点されているのは、どう考えても不公平だ。


「だから今日は、先生を逆採点する日! 先生にも、自分が世間一般で何点なのか思い知らせてやるの!」


「……絶対に面倒なことになると思うけど」


 綾乃はため息を吐きながらも、席を立とうとはしなかった。


(よし、部長も巻き込み完了)


◇


「それで、技術はどうしますか?」


 千尋が身を乗り出す。美波は採点表の一番上の空欄を見た。


『ボクシング技術』


 ここが、最大の問題だった。


「……100点?」


「私は100点でいいと思います!」


 ひまりが真っ先に勢いよく手を挙げた。


「だって先生、すっごいですもん!」


「どの部分がすごいの?」


「えっと……いっぱい!」


「それ採点になってないから!」


 美波が突っ込むと、ひまりは頬を膨らませた。


「違いますって! 私が強く打つときも、怖くて力を抜いちゃうときも、先生には全部お見通しなんです。私自身、打った瞬間に何が起きたか分かってないことすらあるのに!」


 ひまりは両手をぎゅっと握り締め、胸の前で小さく構えを作った。


 あの子は本当に優しいから、拳を当てる直前まで相手の痛みを想像してしまう。けれど、この数日で変わり始めた。サンドバッグには思い切り打ち込み、人間相手には決めた強さで軽く触れる練習をしている。まだ失敗はするけれど、怯えて手を止めるだけではなくなった。


「なるほどね。じゃあ、ひまり枠は100点」


「はいっ!」


「律ちゃんは?」


「……技術だけなら、間違いなく高いと思います」


「100点?」


「満点かどうかは分かりません。私たち、あの人の全力なんて見たことがありませんから」


 律は少し眉根を寄せて考え込んだ。


「でも、私が深く入りすぎて左が死んでいるのを、ただ立って見ただけで見抜いたのは紛れもない事実です」


「実家のお父さんやお兄さんには言われてなかったの?」


「言われたことはあります。でも、何をどう直すかという言語化において、あの人と家族では決定的に違いました」


「どっちが正しかったの?」


「……まだ、比べられません」


 律は誤魔化さずに答えた。


「ただ、あの人に言われた通り、靴1足ぶん斜め外に足を置いたら、初めて拳が詰まらずに振れる感触がありました。まだ毎回ではありませんけど」


 美波は小さく頷いた。律にとっては、それがすべてなのだ。自分の身体が変わる瞬間があった。それ以上の証明なんて、今の彼女には必要ない。


「じゃあ、千尋」


「採点対象が『観察能力および生体力学的指摘の正確性』であるならば、極めて高い評価を与えざるを得ません」


「日本語で」


「ほぼ100点です」


「最初からそう言ってよ!」


「ただし、すべての競技技術を本人が実演・実証したわけではありません。よって満点の認定には客観的エビデンスが不足しています」


「まだ理屈こねる!」


「暫定値として、98点を提案します」


 美波はペンを走らせた。98点。あのだらしないおじさんにしては、立派すぎるハイスコアだ。


「綾乃は?」


「……私も、高いと思う」


 綾乃は少し迷うように視線を泳がせてから言った。


「先生、できないことを全部いっぺんに直そうとは絶対にしないでしょ」


「うん」


「1個だけ急所を指摘して、あとは『自分で考えろ』って突き放す。正直、言われた瞬間はすごく悔しいし腹が立つこともあるけど」


 昨日の「70点」の余韻だろう。綾乃はまだ、どこか悔しそうに唇を噛んでいる。


「でも、何を言おうとしていたのかは、あとになって自分の身体を動かしているうちに分かってくることが多いから」


「じゃあ100点?」


「そこまでは、まだ……悔しいからあげたくないかな」


「あはは! 綾乃まで意地張ってる!」


 美波は笑いながら、ルーズリーフに数字を書き込んだ。


『ボクシング技術 98点』


 満場一致とはいかなかったが、とんでもない高得点だ。そして、美波は次の項目を指差した。


『教え方』


「……これ、何点?」


 長机を、気まずい静寂が包み込んだ。


◇


「10点」


 律が氷点下の声で言った。


「低っ!」


「論理的な説明を放棄しています」


「それはそう!」


「質問しても『自分で考えろ』の一点張りです」


「そうそう!」


「距離を修正してほしいのに『入りすぎ』の4文字で終わらせます」


「分かるー!」


「その上……実技の指導にかこつけて、余計なことばかり言ってくるじゃないですか」


 律の額に青筋がピキリと浮かんだ。


 あ。美波も思い出した。


 リングの上で律に間合いを体感させようとしたときだ。平然と胸元を凝視して「いいおっぱいしてんな」と言い放ち、クリンチの練習だと言い張ってやたら身体を密着させていた。あれは100パーセント、指導に必要のないただのスケベ心だった。


「じゃあ、律ちゃんは10点ね」


「……0点でも構いません」


「怒ってるなあ」


「当然です」


 ひまりがおずおずと手を挙げた。


「でも、先生の言うことって、言葉が短くてすごく頭に残りやすいですよ!」


「おっ、ひまりは高評価?」


「はい! 私、『あれもこれも全部直せ』って言われたら、パニックになって何から手をつけていいか分からなくなっちゃうので!」


 確かに。ひまりは一度に複数の指示を与えられると、全部やろうとして自爆するタイプだ。


「じゃあ、ひまりは何点?」


「90点です!」


「高っ!」


「だって、本当にできるようになったんですもん!」


 千尋がペンを持ち直した。


「評価軸が混同されています。説明の言語的明瞭性と、指導の工学的有効性は明確に分離して評価すべきです」


「出た、千尋の仕分け作業」


「分離します」


「はいはい。じゃあ2つに割るよ」


 美波はルーズリーフの枠にサッと縦線を引いた。


『説明の分かりやすさ』


『指導した結果』


 こうして分けると、残酷なほど現実が浮き彫りになった。


 説明は短い。短すぎるし、不親切だし、品性がない。腹が立つ。


 でも――結果は、全員に出始めているのだ。


 美波は逃げながら打つカウンターの初動を掴んだ。ひまりはパンチの強さを選ぶ練習を始めた。千尋は予測が外れて足が止まりそうになっても、立て直そうと動けるようになってきた。律は相手の懐へ潜る位置を、靴1足ぶん外へずらす練習をしている。そして綾乃は、まだ悩みながらも、ただ綺麗なジャブを打つだけの優等生から脱皮しようともがいている。


 全部、あの男が投げ捨てるように吐いた、たった一言が引き金だった。


「……指導の結果は、高いよね」


 美波が呟くと、千尋も深く首肯した。


「全員に改善の兆候が認められます。ただし、公式試合での再現性は依然として未検証ですが」


「分かってるって。千尋、今日は話を難しくしないでよ」


「意味が不明瞭です」


「議論がどんどん学会発表みたいになっちゃうってこと!」


 ひまりが笑い、律まで小さく口元を緩めた。美波はペンを滑らせる。


『説明 20点』


『指導結果 90点』


「よーし! 次、酒と素行!」


「0点です」


 今度は、5人の声が完璧なユニゾンで揃った。


「そこは全員一致なんだ!」


◇


「……お前ら、何やってんだよ」


 背後から、低く濁ったしゃがれ声が降ってきた。美波はバッと振り返った。


 いつの間にか、長机のすぐ後ろに只野が立っていた。片手にはコンビニの缶コーヒー。もう片方の手は作業着のポケット。だらしなく猫背を丸め、薄い頭頂部が体育館の蛍光灯をテカテカと反射させている。


 美波は慌ててルーズリーフを両手で伏せた。


「べ、別に? 何もしてませんけど?」


「そのわざとらしいツラは、確実に何か企んでるツラだな」


「企んでない!」


「じゃあ見せろよ」


「嫌です!」


 只野が胡散臭そうに目を細めた。


「お前ら、また俺の悪口でも書き連ねて盛り上がってんのか?」


 誰も目を合わせない。まずい。こういうときに限って、部長の綾乃の生真面目さが裏目に出る。


「……先生の、指導評価を少し」


「綾乃ぉ! 隠蔽してよ!」


「嘘をつくのは良くないでしょ」


 只野の口元が、下品にニヤリと吊り上がった。


「へえ……。俺の採点表ねえ」


「……そうですけど」


「女の採点なら俺も自信あんだけどな。顔と胸とケツのバランスなら――」


「そっちの話はしてない!」


 美波が全力で遮った。


「ほんっと、そういうとこ!」


 律が胸の前で腕を組み、氷のような視線を突き刺す。


「今の一言で、言動の点数をさらにマイナス5点してください」


「まだ下がるの!?」


「もともと0点ですので、すでにマイナス領域です」


「容赦ねえな、チビ」


「チビじゃありません!」


 只野は意地の悪い笑みを浮かべたまま、机の上からルーズリーフをひょいとつまみ上げた。


「あ、返して!」


 美波の手は届かない。只野の濁った目が、一番上の数字へと滑る。


『ボクシング技術 98点』


「……何だこれ」


「先生のボクシング技術の評価」


「98?」


「そうだよ」


「2点足りねえじゃん」


「そこ気にするんだ!?」


 美波が目を丸くした。


「当たり前だろ。どこで減点食らったのか理由くらい知りてえよ」


 千尋が姿勢を正して淡々と答える。


「現時点において、只野さんの全競技技術に対する体系的な実証実験が完了していないためです」


「じゃあ、お前が全部検証してから点数つけろよ」


「その予定です。今後のスパーリングおよびミット打ちにおいてデータを収集します」


「予定あんの!?」


 美波は思わず千尋を二度見した。大真面目だ。この子は本気であのおじさんのボクシングを解剖する気でいる。


 只野は呆れたように鼻を鳴らし、次の項目へ視線を移した。


『説明 20点』


「……おい」


「はい」


「これ、低すぎねえか?」


「極めて妥当です」


「千尋、ノータイム即答!」


「必要な論理的説明を著しく省略する傾向が確認されています」


「ちゃんと教えてやってんだろ」


「解決策を質問した際、解答ではなく問いで返されるケースが多発しています」


「自分で頭使って考えろって言ってんだよ」


「その教育的意図が受講者に伝達されるまでに、過大なタイムラグが発生しています」


「結果的に伝わってんなら文句ねえだろ」


「結果オーライは教育工学において推奨されません」


 只野が舌打ちを鳴らした。


「屁理屈ばっかり達者なクソガキだな」


「客観的事実の陳述です」


(うわ、千尋つよ……!)


 美波は吹き出しそうになるのを必死で堪えた。あのだらしない大人に対して、正面から無表情で正論のカウンターを叩き込めるのは千尋くらいのものだ。


 只野はふん、と視線を下へ落とした。


『指導結果 90点』


 その瞬間、只野の口が止まった。


 紙をつまむ指先の力がわずかに抜け、もう一度、その数字を無言で見つめ直す。


「…………ふうん」


 それだけだった。いつもの憎まれ口は出てこない。


 そして、最後の項目へ目を滑らせた。


『生活・酒・清潔感 総合3点』


「……おいコラ」


「はい?」


「これ、100点満点だよな?」


「そうだけど?」


「3点?」


「3点」


「俺、そんなに薄汚ねえか?」


 美波は只野の胸元を指差した。


「先生。その作業着のシャツ、いつ洗った?」


「…………」


「ねえ、最後に洗濯機回したのいつ?」


「着たのは今朝だぞ」


「袖を通した時間じゃなくて、洗剤で洗った日を聞いてんの!」


 律がスッと椅子から立ち上がった。


「もういいです。返してください」


 只野の手からルーズリーフを素早く奪い取る。


「清潔感は0点に修正します」


「律ちゃん、追い打ちがエグい!」


「それと、女子部員に対するパーソナルスペースの侵害も独立項目として追加します」


「さらにマイナスが加速する!」


 ひまりがお腹を抱えて手を叩き、綾乃もとうとう堪えきれずにクスクスと笑い出した。練習後の薄暗い練習場に、5人の笑い声が心地よく反響する。


◇


「で?」


 只野は缶コーヒーをちびちびと口に含みながら言った。


「そのクソみてえな紙切れ、何に使う気なんだよ」


「別に? 先生にも世間一般的な評価を知ってもらおうと思っただけ」


「暇人だな、お前らは」


「先生にだけは言われたくない!」


「俺はこれでも日雇いの現場で忙しいんだよ」


「今はもう仕事終わったんでしょ?」


「…………」


「ほら、今は暇じゃん!」


 只野が無言で盛大に舌打ちした。美波が勝ち誇ったように笑う。


 すると、只野が顎で律の抱える紙をしゃくった。


「なあ。その『指導結果』って、具体的に何なんだよ」


 美波は目を丸くした。


「何って……先生に言われて、私たちがどう変わったかだよ」


「ふうん」


「私、避けたあとにカウンターをねじ込めるようになってきたし」


「まだ当て勘が合ってねえションベンパンチだけどな」


「1発当たったんだから、2発目も当たるもん!」


「調子に乗んなよ」


「乗ります!」


 ひまりが元気よく手を挙げた。


「私もです! 先生のおかげで、10段階の強さを自分で選ぶ練習ができました!」


「まだ大暴走してっけどな」


「はい! だからもっと練習して、思った強さで打てるようになります!」


「下手くそって言われて胸張るなよ」


 律が淡々と続ける。


「私は、只野さんのセクハラまがいの態度には今でも強い嫌悪感があります」


「まだ根に持ってんのかよ」


「ですが、『一個外』という位置の指定が極めて有用だったことは認めます」


「そりゃどうも」


「だからといって必要以上に身体を密着させるのはやめてください」


「話がすぐ戻るな」


「戻してません、現在進行形の問題です」


 千尋が手元の端末を軽く叩いた。


「私も、観察データを確定させてから動くのではなく、動的仮説に基づいて現場で補正するプロトコルへと移行中です」


「話が長えよ」


「只野さんの指示が極端に短すぎる反動です」


 美波がたまらず吹き出し、只野の眉間に深い溝が刻まれる。


 そして――最後は綾乃だった。


「……私は、まだです」


 練習場が、ふっと静まり返った。


 綾乃は椅子に座ったまま、両手を膝の上で固く握りしめていた。


「先生の言いたいことは、分かりました。でも、何を削ぎ落として、何を選べばいいのか……まだ自分の中で答えを出せていません」


 昨日の「全部70点」。綾乃はまだ、その迷宮の入り口に立っている。


「だから、90点なんです」


 只野が視線を向けた。


「あァ?」


「全員ができるようになったわけじゃありません。部長の私が、まだ途中で足踏みしています」


「…………」


「先生の指導結果を100点にするのは、私が答えを見つけてからにします」


 只野は、綾乃の瞳をまっすぐに見つめた。それから、美波を、ひまりを、千尋を、律を、順に見渡す。


 何か説教染みたことでも言うのかと思った。いつものように毒づいて、煙に巻くのかと思った。


 けれど。


「……好きにしろよ」


 それだけだった。空になった缶コーヒーをゴミ箱へ放り投げ、だるそうに背中を丸めて歩き出す。


「じゃ、俺は帰るぞ」


「先生!」


 綾乃が立ち上がり、呼び止めた。


「何だよ」


「明日も、よろしくお願いします」


 美波は、その言葉に何の疑問も抱かなかった。ひまりも、千尋も、律も、ただ当然のような顔をして只野の背中を見つめていた。


 先生は、最悪だ。


 教え方は不親切で、生活態度は荒れ果てていて、口が悪くて、平気で胸や尻を見てくる最低の中年男。


 それでも。


 自分たちは明日も、この男にリングの横にいてほしいと思っているのだ。


 美波は手元の採点表を見下ろした。


(そっか……)


 採点表なんて作らなくても、答えは最初から全員の中で決まっていたのだ。


「……先生、そういうことだからね!」


「どういうことだよ」


「明日もちゃんと来てよね!」


「はァ? 俺は日雇い労働者だぞ。毎日のようにタダ働きで来る義理なんざねえよ」


「じゃあ、明日は来ないの?」


「…………」


「本当に来ないんだ?」


「うるせえな! 明日のことなんざ明日にならなきゃ知らねえよ!」


 美波はニシシと悪戯っぽく笑った。


「はいはい! じゃあ、また明日ね!」


 只野は返事をしなかった。ただ、出入り口の重い鉄扉に向かって歩きながら、頭の後ろで片手をヒラヒラと無造作に振っただけだった。


◇


「……ねえ、綾乃」


「何?」


「この採点表、どうする?」


 綾乃はルーズリーフを受け取り、書かれたデタラメな数字の羅列を眺めた。


 ボクシング技術、98点。説明、20点。指導結果、90点。生活・酒・清潔感、総合3点。


 まともに平均値を出したら、落第点もいいところだ。


「……ファイルに保管しておこうか」


「えっ、本気で言ってる!?」


「うん。あとで見返したら、私たちの歴史として面白いかもしれないし」


「うわー、綾乃ってほんとそういう記念品好きだよね!」


 美波が笑い、綾乃が紙を丁寧に2つに折った、そのときだった。


「……あのおっちゃん、ほんまに毎日来てくれとるんやな」


 リングサイドの用具棚の陰から、低く落ち着いた声がした。


 真田だった。男子部のグローブを拭きながら、こちらのやり取りをずっと聞いていたらしい。


 美波が振り返る。


「来てるよー。ほぼ毎日皆勤賞」


「へえ……」


「何? 真田くんも採点表作ってほしいの? 男子部目線で」


「いや、俺らはそんな恐れ多いことよぉせんわ」


 真田は苦笑いしながら首のタオルを直した。そして、只野が出ていった閉ざされた扉を、静かな目で見つめた。


「……あのおっちゃん、どこまで見えとるんやろな」


 美波は首を傾げた。


 あのおじさんが、どこまで見えるか?


 何か聞こうとしたが、真田はすでに「お疲れさんでした」と爽やかに頭を下げて更衣室へ歩き出していた。


 美波は綾乃の手からルーズリーフを奪い返し、一番下の余白に太いペンでサッと書き足した。


『総評――人間としては極めて深刻な問題あり。ただし指導は全員一致で継続希望!』


「……美波」


 綾乃がジト目でため息をつく。


「何さ?」


「それ、体育会の監査とか学生課の人には絶対に見せないでね」


「分かってるってば!」


 美波はもう一度、その歪で凸凹な採点表を眺めて吹き出した。何度見直しても、ひどい点数だ。


 それなのに、5人全員が、明日もあの男がリングの横に座っていることを疑っていない。


(……ほんと、うちらも大概おかしな部活だよね)


 美波は笑いながら、紙をパタンと畳んでカバンに押し込んだ。


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