第26話 七十点
翌日の練習でも、綾乃には、できないことが少なかった。
左ジャブ。右ストレート。フック。足の運び。ガード。距離の取り方。
どれか一つを指定されれば、たいていは要求された動きができる。
だからこそ、困っていた。
「綾乃先輩、もう一回お願いします」
リングの向こうで、律がグローブを合わせた。
「うん。次は少し速くするね」
「はい」
綾乃は左足を前へ置き、構え直した。
今日の相手は律だ。
打撃は軽い接触までに抑え、互いの距離と攻防のつながりを確かめる練習をしている。
律は小さい。綾乃とは身長も腕の長さも違う。普通に立っていれば、こちらのジャブが先に届く。
しかし、律は普通に入ってこない。
膝を曲げ、上体を低くする。こちらの前手が伸びる外側から潜り、懐へ入ってくる。
何度も見てきた動きだ。
綾乃は左を出した。
――パシッ。
律の右グローブに触れる。
律は頭を少し外して前へ出た。
綾乃は右足を引き、距離を保つ。
追ってくる。
もう一度、左。
律が踏み込む足を止めた。
そこで綾乃は右を出した。
律はガードを固める。
当たる。
軽い接触だが、狙った場所には届いた。
「はい、そこまで」
リング下の真田が声をかけた。
律が構えを解く。
「ありがとうございました」
「うん。どうだった?」
「やっぱり、綾乃先輩のジャブは長いです」
「そう?」
「入ろうとすると、先に当たります」
綾乃は頷いた。
その評価は嬉しかった。
距離を守ることも、ジャブを当てることも、ずっと練習してきた。
間違ってはいない。
ただ。
「律、さっき何回か入ってきたよね」
「はい」
「ジャブが見えてなかった?」
「見えてました」
「じゃあ、どうして?」
「……入れそうだったので」
綾乃は律を見た。
律は当たり前のような顔をしている。
「左で一度止められても、次はまた潜る場所がありました」
「……そっか」
それ以上、聞かなかった。
律は礼をしてリングを降りていく。
綾乃は自分の左グローブを見た。
ジャブは当たっていた。
距離も守れた。
右も出せた。
それでも律は、止められたあとに足を置き直し、また懐へ入ろうとしていた。
こちらの攻撃を知らないわけではない。
知っていて、入ってきた。
それが、どうにも気になった。
◇
「綾乃ー! 次、私やっていい?」
ロープの向こうから、美波が顔を出した。
「もう休憩終わったの?」
「終わった! 千尋に三分間みっちり検証されて、頭まで疲れた!」
千尋がタブレットから顔を上げる。
「三分間ではありません。休憩を挟んでいます」
「そういうところだよ!」
「事実です」
美波がリングへ上がってきた。
綾乃は思わず笑った。
少し前まで、美波は避けることに夢中だった。
今は違う。
避けながら、打ってくる。
まだ毎回ではない。それでも、これまでの美波にはなかった動きだった。
「よし、綾乃。今日こそ私の華麗なカウンターを食らわせてあげよう」
「昨日、千尋に一発当てられてなかった?」
「うっ」
「見てたよ」
「見ないでよ、そういうところ!」
「リングの外からだけど、見てたよ」
「だからって覚えてなくていいじゃん!」
綾乃は笑いながら構えた。
美波と向かい合うと、律とはまったく違う距離になる。
美波は頭の位置をよく変える。
前へ出るより、相手の拳を外すことが得意だ。
こちらから攻めなければ、たぶん何も始まらない。
「いくよ」
「はいよ!」
綾乃は左ジャブを出した。
美波が右へ頭を外す。
右が返ってくる。
綾乃は前に出した左を戻し、グローブで受けた。
すぐに右を返す。
美波が離れた。
届かない。
「おおっ、今の危なかった!」
「避けたでしょ」
「まあね!」
美波は楽しそうだ。
綾乃はもう一度踏み込む。
左を見せる。
美波の目が動いた。
右ストレート。
美波は左へずれる。
綾乃は追いすぎず、前足の位置を直した。
次は左フック。
美波が下がる。
届かない。
さらに距離を詰めようとすると、美波が右を返してきた。
綾乃はガードで受ける。
――パシッ。
「はい、当てた!」
「ガードの上だよ」
「気持ちは当てた!」
「それは点数にならないから」
「厳しい!」
美波が笑う。
綾乃も少しだけ笑い、また構え直した。
左は出せる。
右も。
フックも。
距離を外すこともできる。
美波の反撃に対応することも、それほど難しくない。
では、何が足りない?
相手の動きが見えないわけではない。
パンチの種類が少ないわけでもない。
まして、ボクシングが下手になったわけでもない。
むしろ、以前より身体はよく動いている。
なのに。
「綾乃?」
「……あ、ごめん」
「どうしたの? 今、打てたじゃん」
美波が少し首を傾げた。
確かに、打てた。
美波がガードを戻すより先に、左を出せる瞬間だった。
それを見てから、右もあると考えてしまった。
右を出すなら、次のフックまでつなげられる。
でも、美波が横へ動いたら?
足を合わせる方が先だろうか。
そんなことを考えているうちに、美波はもう離れていた。
「……もう一回、お願い」
「いいよ。でも綾乃、疲れてない?」
「平気」
「そう? ならいいけど」
美波が構える。
綾乃も構えた。
今度は、迷わない。
左。
美波が避ける。
右。
外れる。
追わない。
距離を取り直す。
失敗ではない。
むしろ、正しい。
けれど美波は、何事もなかったように次の構えへ戻っていた。
綾乃は、自分の左手を少しだけ握り直した。
◇
「……なあ」
リング下から声がした。
只野だった。
壁際のパイプ椅子に座り、片足を投げ出している。
「綾乃」
「はい」
「お前、何やってんの?」
綾乃は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「練習です」
「見りゃ分かる」
「じゃあ、何を聞いてるんですか?」
「何したいんだよ」
綾乃は答えようとした。
美波にパンチを当てたい。
距離を支配したい。
相手の攻撃を受けずに、自分の攻撃を通したい。
勝ちたい。
どれも間違っていない。
でも、どれを答えればいいのだろう。
「……勝つための練習です」
「うん」
「だから、攻撃も防御も、できることを増やして――」
「増やして?」
「……」
只野が缶コーヒーを置いた。
「お前さ、全部七十点なんだよ」
綾乃は眉を寄せた。
「……七十点?」
「ジャブも七十点。右も七十点。足も七十点。守りも七十点」
「そんなに低いですか」
「高えよ」
「え?」
「どれもそこそこできんだろ。下手な奴よりよっぽど上手え」
綾乃は困惑した。
褒められているのか、けなされているのか分からない。
「だったら、何が問題なんですか」
只野が鼻を鳴らした。
「相手からしたら、何も怖くねえ」
返す言葉がなかった。
「何でもできる奴ってのは、何でもしてくんだよ」
「……はい」
「ジャブが来ても、次は右かもしれねえ。フックかもしれねえ。下がるかもしれねえ」
「そうです」
「で?」
「……で?」
「相手は、何を嫌がってんの?」
綾乃は美波を見た。
美波もこちらを見ていた。
さっきの練習。
自分の左に、美波は右へ避けた。
右には左へ逃げた。
フックには下がった。
全部、正しく対応されていた。
こちらも正しく打っていた。
それなのに、美波の動きはほとんど崩れていない。
やりたいことを、やらせてしまっていた。
「……避けられています」
「そうだな」
「でも、避けられるのは、相手も上手いからです」
「そうだな」
「私のパンチが悪いわけではないでしょう?」
「そうだよ」
綾乃は唇を結んだ。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らね」
「先生!」
「先生じゃねえって」
只野は面倒くさそうに頭をかいた。
「お前、前もそれ聞いたよな」
綾乃は口を閉じた。
前。
まだ倉庫で練習していた頃。
真面目すぎる。
つまらない。
そう言われた。
正しい動きを増やして、かえって迷ってしまった。
あの内部試技でも同じだった。
二勝二敗。
自分が負ければ、五人の同好会が終わる。
何もかも正しくやろうとして、身体が固まった。
そのとき、只野に言われた。
全部やるな。
一個でいい。
だから、左ジャブを選んだ。
自分が一番信頼している、何千回も練習した基本の一発。
その左で勝った。
三勝二敗。
あの試合は、間違っていなかった。
「……あのときは、ジャブを選びました」
「おう」
「それで勝ちました」
「勝ったな」
「でも、今は駄目なんですか?」
只野はすぐに答えなかった。
代わりに、美波へ顎をしゃくった。
「おい、美波」
「はい?」
「綾乃とやってて、何が一番嫌?」
「えっ。何、急に」
「何でもいいから」
美波は少し考えた。
「んー……綾乃、全部ちゃんとしてるからね」
「おう」
「ジャブも嫌だし、右も嫌だし。足も速いし」
「で?」
「……どれが一番って聞かれると、難しいな」
美波は綾乃を見た。
「強いんだよ? 綾乃は。普通にめちゃくちゃ強い」
「うん」
「でもさ……」
少しだけ言いにくそうにした。
「あの内部試技の最後は、本当に嫌なジャブだった。見てて、相手が前に出られなくなったの分かったもん。でも今日は、避けたあとも次の動きを考えられた。あのときの左ほどは、嫌じゃなかったかな」
綾乃の手が止まった。
美波が慌てて両手を振る。
「あっ、悪い意味じゃなくて! 全体的にすっごい上手いって意味!」
「……分かってる」
「ほんと?」
「うん」
綾乃は笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
全部、上手い。
それは自分が目指してきたものだった。
苦手を減らす。
穴をなくす。
相手に付け入られる場所を作らない。
そのために六年間、練習してきた。
できなかったことが、一つずつできるようになった。
苦手だった右も。
距離が近くなったときの対応も。
疲れた終盤の足も。
どれも、前より上手くなった。
なのに。
あの試技では通じた左さえ、今日の美波には次の動きを諦めさせられなかった。
「……七十点」
綾乃は小さく繰り返した。
只野が頷く。
「そ」
「全部できるのに、どれも決め手じゃない」
「そういうこった」
綾乃はリングの床へ目を落とした。
悔しかった。
自分がやってきたことを否定されたような気がした。
でも、否定はされていない。
七十点は高い。
只野もそう言った。
今までの練習が無駄だったわけではない。
それでも、足りない。
「……じゃあ、全部九十点にすれば」
「何年かかんの?」
「……」
「お前、卒業すんだろ」
綾乃は顔を上げた。
それを言われると弱い。
まだ大学三年。
けれど、残っている時間は無限ではない。
美波は四年だ。
同じ五人で練習できる時間は、もっと短い。
今のままでも試合はできる。
ある程度は勝てる。
でも、もっと上を目指すなら。
「……全部を上げる時間は、ありません」
「だろ」
只野は立ち上がり、腰を伸ばした。
「一個、相手が嫌がるもん作れ」
綾乃はその言葉を聞いた。
一個。
また、一個だ。
「ジャブですか?」
「知らね」
「右ですか?」
「お前が決めろ」
「どれを選べばいいか分からないから、聞いてるんです!」
「俺がお前の相手と試合すんの?」
「……しません」
「じゃ、お前が決めろよ」
只野は缶コーヒーを拾い上げた。
これで終わり。
そう言いたげな顔だった。
綾乃は思わず声を上げた。
「先生!」
「何だよ、うるせえな」
「一個選べって、前にも言いましたよね!」
「言ったな」
「それでジャブを選びました!」
「おう」
「じゃあ、今度もジャブでいいんですか!?」
只野は綾乃を見た。
一拍。
「お前のジャブ、相手は嫌がってんの?」
綾乃は言葉を失った。
只野はもう答えを待っていなかった。
「じゃ、考えろ」
それだけ言って、椅子へ戻っていった。
◇
「……ひっどい言い方」
美波が小声で言った。
「でも、なんか分かる気もするんだよね」
綾乃は黙っていた。
美波がロープに肘を乗せる。
「綾乃って、何でもちゃんとやってくるじゃん」
「そう?」
「そうだよ。私なんか避けることしか考えてなかったのに」
「美波には、ちゃんと武器があるでしょ」
「まあね!」
胸を張った。
すぐに笑う。
「いや、まだ完成してないけどさ。でも、避けるのなら絶対負けたくないって思ってる」
綾乃はその言葉を聞いた。
絶対に負けたくない。
美波は避けることに、それを持っている。
ひまりには、一発の強さがある。
千尋には、相手の動きを読み取ろうとする目がある。
律には、自分の距離へ潜り込む技がある。
四人にも、それぞれ苦手なことはある。
それでも、そこから逃げずに練習している。
でも、一つだけ、誰にも負けたくないものがある。
自分は?
綾乃はグローブを見た。
左。
右。
足。
ガード。
何でもできる。
では、一番は?
「綾乃?」
美波が顔を覗き込んだ。
「また全部考えてるでしょ」
「……うん」
「あはは。綾乃らしい」
「笑いごとじゃないんだけど」
「分かってるよ」
美波は笑うのをやめた。
「でもさ、綾乃が一番上手いのは、私たち全員知ってるから」
「……」
「それは忘れないでよ」
綾乃は顔を上げた。
美波はもう、いつもの笑顔だった。
「じゃないと、部長が落ち込んでると、こっちまで困るし!」
「そんなに顔に出てる?」
「めちゃくちゃ」
「……気をつける」
「そこも真面目!」
美波が吹き出した。
綾乃も、今度は少し笑えた。
◇
練習が終わったあと。
部員たちは、それぞれ片づけを始めていた。
ひまりはサンドバッグの下を拭いている。
律はグローブを外し、千尋と何か話していた。
美波は真田にちょっかいを出して、あっさり言い返されている。
いつもの光景だ。
綾乃はリングに残った。
グローブは外さない。
もう少しだけ、確かめたかった。
左足を前に置く。
右足を後ろに引き、両足の幅を整える。
顎を引く。
左グローブを出す。
――シュッ。
空を切る。
戻す。
もう一度。
――シュッ。
同じ軌道。
同じ距離。
同じ速さ。
自分でも、悪くないと思う。
肘は開いていない。
肩も必要以上に上がっていない。
後ろ足にも重心が残っている。
戻りも遅くない。
きれいなジャブだ。
何度打っても、ほとんど同じように出せる。
それだけ練習してきた。
だから、あの内部試技でも使えた。
勝つために、一番信頼したものだった。
けれど。
――相手は、これを嫌がっているだろうか。
綾乃は拳を止めた。
その答えが、分からない。
当てることはできる。
しかし、相手がこの左を警戒して、入ってくるのをやめるだろうか。
相手がこの左を嫌がって、自分の得意な攻撃を捨てるだろうか。
あの内部試技では、これで相手の前進を止められた。けれど、今日はどうだった?
ジャブを正しく打つこと。
ジャブを当てること。
次の右につなげること。
それは考えていた。
でも、相手に何をさせないために打つのか。
相手がどう動くようになれば、自分のジャブが効いていると言えるのか。
綾乃は構えを解いた。
今日の自分は、次に何を打つかばかり考えていた。
その一発で相手の選択肢がどう変わるのか、見ていなかった。
「……七十点、か」
小さく呟いた。
そのとき、後ろから声がした。
「綾乃先輩」
律だった。
リングの下に立っている。
「まだやるんですか?」
「……うん。少しだけ」
「じゃあ、私、相手します」
「え?」
「さっきの続きです。私ももう一回やりたかったので」
律は自分のグローブを持ち上げた。
綾乃は少し考えた。
律は、今日も何度も潜ってきた。
ジャブを当てても、次にはまた同じように入ろうとしていた。
その律を、どうすれば止められるだろう。
もっと速く打つ?
もっと強く?
当てる場所を変える?
いや。
今はまだ、答えを決めなくていい。
まず、律がどう入ってくるのか。
何を嫌がるのか。
そこから確かめたい。
「……律」
「はい」
「明日も、私の相手をしてくれる?」
「もちろんです」
「一度止められても、別の角度からまた入ってきてほしい」
律が不思議そうに首を傾げた。
「……いいんですか?」
「うん」
「また、潜りますよ」
「それでいい」
綾乃は自分の左グローブを見た。
七十点。
今まで、それを悪い点数だと思ったことはなかった。
でも、七十点の左を何百回打っても、相手が嫌がるとは限らない。
もっと正しく打つだけでは、足りないのかもしれない。
「私、この左を変えたい」
律が綾乃を見る。
「フォームをですか?」
綾乃は首を横に振った。
「……ううん」
もう一度、左を出した。
いつも通り、まっすぐ伸びる。
悪くない。
どこも、悪くない。
だからこそ。
「この左で、相手が何を嫌がるのか。そこを、ちゃんと見たい」
律は少し考えてから、頷いた。
「分かりました」
綾乃は拳を戻した。
自分が何を打てるかは、もう知っている。
次は。
この拳を向けられた相手が、何をできなくなるのか。
それを見つけなければならない。
リングの向こうで、只野が大きな欠伸をした。
「おーい。帰るぞ、もう」
「はい!」
綾乃は返事をした。
それからもう一度だけ、左を伸ばした。
――シュッ。
いつもと同じ、きれいなジャブだった。
その先に立つ相手は、まだいなかった。




