第25話 数字の外
千尋の予測は、当たっていた。
美波の前足の向きが変わる。重心が右へ動き、頭がジャブの軌道から外れた。
完全に、予測した通りだった。
千尋の左ジャブは空を切り、美波の身体がするりと右へずれる。
――ここまでは、予測通り。
問題は、その直後だった。
――パシッ。
「はい、まず一発!」
「……っ」
美波の右グローブの拳頭が、千尋の左頬に軽く触れた。
千尋は奥歯を噛み締め、反射的に半歩後退して両腕のガードを固め直す。
まただ。
予測は当たった。美波先輩は間違いなく右へ避けた。
なのに、なぜ自分が打たれている?
「千尋、大丈夫? 効いてない?」
「問題ありません。もう一度お願いします」
「え、まだやるの? もう息上がってない?」
「まだ試した回数が足りません。もう少しお願いします」
「うわ出た、千尋の『検証』。論文じゃないんだからさあ」
美波が額の汗を拭いながら苦笑する。
2人が立っているのは、大学ボクシング部の正規リングの上だった。顔面への強打を避け、軽く触れる程度のスパーリング。
千尋は両腕のガードを耳の横へ引き戻し、左足の母指球にかかる荷重を確かめた。
リングの外では、首からタオルを提げたひまりがタブレットを両手で構えている。
「千尋ちゃん! 今の、ちゃんと高画質で撮れてます!」
「ありがとうございます。今の場面をあとで見返せるようにしておいてください」
「はいっ!」
「それと、次はもう少し右から撮ってください」
「右ですね!」
ひまりがダッシュで移動しかけて、ピタッと固まった。
「……えっと、私から見て右ですか? それとも千尋ちゃんから見て右ですか!?」
「ひまりから見て右です」
「あっ、はいっ! それなら分かります!」
美波が堪えきれずに吹き出した。
「あはは! 千尋、ひまりにカメラ係やらせると、そっちのパラメータ調整だけで試合終わっちゃうよ?」
「測定精度を保つための正当な指示です」
「いや、間違ってないけどさあ」
千尋は返答を切り上げ、美波の構えへ焦点を合わせた。
今日の課題は、あまりにも明確だった。
――相手の初動を読み、先に動くこと。
あの内部試技で、自分が喫した敗北。
相手の左肩がわずかに動く。ジャブなのか、ワンツーの布石なのか、あるいはフェイントか。その可能性を網羅し、相手の打撃が完全に「確定」する瞬間を待ってから身体を動かそうとした。
思考は完璧に正しかった。相手の癖も、後半には手に取るように見えていた。
だが、何が来るか確定させた頃には、相手の拳は自分の顔へ届いていた。
正しさを確認してからでは、間に合わない。
あれから、千尋の思考回路はその命題に呪縛され続けていた。
では、アルゴリズムのどこを削るべきか。
観測変数を減らす。
条件分岐を単一化する。
処理速度を稼ぐために、情報を絞り込む。
導き出した答えは、美波の回避方向だけを見ることだった。
左ジャブを出すと、美波は右へ頭を外すことが多い。ならば、右へ動いた瞬間に次の攻撃を準備できるはずだった。
「千尋?」
美波がグローブをポンと打ち鳴らす。
「まだ頭の中でプログラミング走らせてる?」
「……いえ。お願いします」
「はいよ。いくよー」
美波の膝がわずかに緩む。
千尋は左足を小さく踏み込み、ジャブの届く距離へ入った。
左。
美波の頭が右へずれる。
――予測通り!
来た!
美波が右へ避けたと確かめてから、千尋は右を出そうとした。
――パシッ。
またしても、右グローブが千尋の左頬に軽く触れた。
「二発目ー!」
「…………」
「ねえ千尋、さっきと全く同じパターンだよ?」
「はい」
「そんな潔く認められると、逆に罪悪感湧くんだけど……」
千尋は冷たく唇を結んだ。
同じだった。だが、脳内のログを急速に巻き戻すにつれ、千尋の背筋に冷たい戦慄が走った。
――違う。「同じ」ではない。
以前の美波は、避けてから打とうとしていた。だから回避と反撃の間に、一拍の遅れがあった。
だが、今は違う。
美波が頭を右へ動かし始めた瞬間、右のグローブも千尋の顔へ向かっていた。
回避と反撃が、一つの動きになっている。
予測した方向は合っていた。
だが、その先の行動が変わっていた。
「ひまり、録画を一時停止して見せてください」
「はいっ!」
ロープ越しに端末を受け取り、先ほどのコマ送りを再生する。
千尋のジャブの初動。美波のスリップ。そして、回避の完了を待たずに放たれる右のカウンター。
何度見ても同じだ。千尋が回避を確かめてから右を出そうとする間に、美波の反撃が届いていた。
「……前の記録にはない、新しい動きです」
「そりゃそうでしょー!」
美波が得意げにVサインを掲げてみせた。
「私だって只野先生にシゴかれて、日々アップデートしてるんだからね! 避けてから打つんじゃなくて、避けながら打つ! これが橘美波バージョン2.0よ!」
「以前は、避け終わってから反撃まで一度止まっていました」
「昨日までは、ね!」
「今は、その止まるところがありません」
「でしょ? 褒めてくれていいよ!」
千尋は、暗転しかけたタブレットの画面を食い入るように見つめた。
胸の奥が、氷を詰められたように冷えていく。
過去の記録が間違っていたわけではない。
ただ、目の前にいる美波先輩は、昨日までの記録通りには動いてくれない。
(……なら、新しいデータを採取すればいい) 千尋の思考が、強迫観念のように高速回転を始める。
右が出る前の肩の動き。足の位置。踏み込みの深さ。
美波が反撃に転じるトリガーとなる予兆動作をすべてリストアップし、新たな条件分岐モデルを構築し直せば――。
「おい」
リングの下から、泥水を啜ったようなしゃがれ声が降ってきた。
パイプ椅子にふんぞり返った只野だった。薄汚れた作業着のポケットに手を突っ込み、ぬるくなった缶コーヒーを指先で弄んでいる。
「また始まったな、あァ?」
「……何がでしょうか」
「お前のその、全部机の上で検算してハンコ押さねえと一歩も足が出ねえっていう、重度の潔癖症だよ」
「そのような診断名は精神医学に存在しません」
「今俺が名付けてやったんだよ」
「でしょうね」
只野は缶コーヒーを喉へ流し込み、獲物を解体するような濁った目で千尋を見上げた。
「で、リングの上で何やってんだ? 電卓でも叩いてんのか」
「美波先輩の動きが変わりました。新しいパターンを記録し直しているところです」
「ふうん。で、その新しい設定とやらは、いつ完成すんだよ」
「試行回数とサンプルサイズに依存します」
「明日か?」
「何度か練習して、動きを確かめないと――」
「来週か?」
「……確約はできません」
「じゃあ、今日の美波には殴られっぱなしで『データ収集中です』って言うのか?」
息が、詰まった。
喉元に冷たい刃を突きつけられたような感覚に、千尋の思考回路が一瞬ショートする。
「……私の推論自体は、間違っていません」
千尋は絞り出すように反論した。震えそうになる声を、冷徹な平熱で押し殺す。
「以前の映像から導き出した『右へ避ける』という予測は、完全に的中していました」
「そうだな。当たってたな」
「ならば、その先の分岐条件を補正するのが、論理的に最も正しいアプローチです」
「好きにしろよ」
只野はフンと鼻を鳴らし、椅子の背もたれをギシリときしませた。
「ただなァ」
「はい」
「お前が昨日ノートにまとめた美波と、今目の前でヘラヘラ笑ってステップ踏んでる美波は、同じ人間か?」
千尋は視線を上げた。
キャンバスの上で、身軽にバウンドしながらこちらを見つめる美波。
同じ人間だ。身長も、体重も、骨格も同じだ。
だが――放たれてくる拳のリズムは、昨日の彼女と決定的に異なっていた。
「……違います」
「だろ」
只野は煙草の灰を床に落とすように、無造作に言い放った。
「数字は昨日まで。今日どう動くかは、目で見ろ」
千尋はタブレットを見下ろした。
昨日までの数字を使うことと、今日の動きに合わせることは、別の話だ。
それでも、どうして自分は、数字を確かめるまで足を出せないのだろう。
「……では、今の動きを確認し、次の反撃を確定させてから――」
「だからよォ、いつ動くんだって聞いてんだよ」
「っ……」
「相手に『今から殴るんで合意書にサインしてください』って頼むのか? ククッ、アホくさくて反吐が出るな」
美波がお腹を抱えてリングのロープを叩いた。
「あははは! 千尋、私に覚書提出する? 『これより右斜め45度にスリップします』って捺印しようか?」
「不要です」
「じゃあ念書? 『パンチ当たっても痛がりません』って書く?」
「そのような自己申告はスポーツにおいて信用に値しません」
「また正論でガード固めてきた!」
千尋はタブレットの電源ボタンを押し、画面を黒く沈めた。
胸の奥で、激しい混乱と葛藤が渦巻いていた。
美波先輩は、次も右へ避ける可能性が高い。
だが、左へ回るかもしれない。
そのまま踏み込んでボディを打ってくるかもしれない。
どうする?
完全に確定するまで、相手の挙動をじっと見届けるのか?
――それでは、あの内部試技の繰り返しだ。
観測し、分析し、確証を得てから動くのでは、世界はすでに次の瞬間へと移行している。
かといって、何の情報も持たずに目を瞑って突っ込むことなど、千尋の理性が許さない。
予測は、必要だ。
だが――予測を「真実」として確定させてから動く必要は、ないのではないか?
(……仮説のまま、動く)
千尋の脳裏に、電撃のような閃きが走った。
確実な正解は待たない。右へ来る可能性が高いと思ったら、それを前提に動き始める。
もし仮説が外れたら?
その瞬間に、狂ったパラメータをその場で強引に修正すればいい。
間違えることを恐れて足を止めるな。間違えながら、走りながら、リアルタイムで軌道を書き換えろ。
「美波先輩」
「ん? なに?」
「もう一度、お願いします」
「お、まだ心が折れてないねえ」
「はい」
千尋はロープ越しに、タブレットをひまりの両手へ押し戻した。
「今回は、インターバルでの映像確認を挟みません」
「えっ、いいんですか千尋ちゃん!? せっかくスローモーションで撮る準備してたのに!」
「必要なら終わってから見ます。今は、目の前の相手に集中します」
「しょ、小脳……!?」
千尋はリング中央へ戻り、美波と対峙した。
「アプローチのプロトコルを変更します」
「ほう?」
美波が面白そうに眉を跳ね上げる。「じゃあ私も、さっきと違う動き試してみようかなー」
「……」
「冗談だよ。いや、半分本気」
千尋は肺の底から、熱い息を長く吐き出した。
そうだ。相手は生きた人間なのだ。
こちらが変えれば、向こうも変えてくる。その無限の変数の揺らぎこそが、ボクシングという競技の正体なのだ。
◇
美波が構える。
細身の身体が、猫のようにしなやかに沈む。
距離は、互いの左ジャブが半歩踏み込めば届くほど。
千尋は思考のギアを切り替えた。
確定を待つな。仮説を信じて、先に身体を投げ出せ。
――仮説A。左ジャブに対して右へ避け、右を返してくる可能性が高い。
千尋は躊躇を捨て、左足を踏み込んだ。
左ジャブ!
ただし、深く突き刺さない。相手の反応を引きずり出すための、測定用のプローブ。
美波の頭部が、右へ沈んだ。
――来た!
仮説Aだ!
だが、千尋はその回避完了を目で見届ける前に、すでに次のアクションを起こしていた。
伸ばしかけた左腕を即座に巻き戻し、ガードを耳に貼り付けながら、右足から引き、左足も追わせて半歩下がる!
美波の右グローブは千尋の鼻先を通り過ぎた。
「あッ!」
美波が驚きの声を漏らす。
「今の、バックステップ!?」
「はい」
「私の真似して逃げたの!?」
「違います。右が届かない距離に下がっただけです」
「それを世間では『真似』って言うの!」
「目的が違います」
美波は笑っていたが、千尋の心拍数は跳ね上がっていた。
避けた。相手のカウンターを空振りさせた。
だが――千尋の眉間には、深い皺が刻まれたままだった。
――防いだだけだ。
こちらの攻撃は当たっていない。相手の反撃を避けただけだ。
ゼロ点ではないが、勝利のポイントには程遠い。
「もう一度お願いします」
「いいよー、どんどんおいで!」
構え直す。
次も同じく、左ジャブの牽制。
相手は右へ避ける。その仮説を脳内にセットし、千尋は前へ踏み込んだ。
左肩を押し出す。
その瞬間、美波の身体がいつもと逆へ動いた。
千尋から見て右。美波は自分の左へ回り込もうとしている。
――予測が外れた。
以前の千尋なら、ここで両足が止まっていただろう。
なぜ右へ行かない?
左へ動いた理由は?
過去のデータとの不整合は?
その疑問を解決しようとして、両足がキャンバスに縫い止められていたはずだ。
(考えたまま、見ろ)
さっきの只野の言葉を思い出す。数字は昨日まで。今日の動きは、目の前にある。
千尋はジャブを深追いせず引いた。
前に置いた左足を軸にして、右足を小さく運ぶ。美波が千尋の右へ回り込むのに合わせて身体の向きを変えた。正面に、もう一度美波を捉える。
拳を打ち返す余裕はなかった。
それでも、美波を正面に捉え直せた。
「……へえ」
美波が足を止め、小さく息を漏らした。
「ついてきたね、千尋」
「はい」
「前だったら、私がフェイントで横に抜けたら、一回『えっ』って顔して固まってたのに」
千尋は荒い息を吐きながら、何も言わなかった。
美波の指摘は、残酷なほど正確だった。
予測が外れた。
だが、理由を調べるより先に、目の前の足へ合わせて身体を向け直せた。
理解しきる前に、動けた。
「千尋ォ」
リング下から、只野の気だるい声が飛んできた。
「はい」
「今の、ヤマが外れたな」
「はい。外れました」
「で?」
「外れても、足を止めずに向きを変えられました」
「ふうん」
只野はそれ以上、褒めもしなければ貶しもしなかった。
ただ缶コーヒーの飲み口を見つめ、退屈そうに指を動かしているだけだ。
千尋の胸に、かすかな悔しさがチリリと灯る。
合格点ではないのだ。
予測が外れても対応できた。それは守備の最低ラインに過ぎない。
自分はまだ、あの内部試技で失った一勝を取り返すための武器を手にしていない。
「美波先輩、次をお願いします」
「はいはい。タフだねえ、千尋も」
◇
3度目の交差。
千尋は左足を滑らせ、ジャブを放った。
美波が右へスリップする。
千尋は深追いせず、前足を小さく引き戻して距離の主導権を握る。
美波が回避の動きに合わせて、右のストレートを返してくる。
――パシッ。
千尋は戻した右グローブで、その軽い接触を受けた。
顔には届かなかった。
そのガードの隙間から、千尋は間髪を容れずに左ジャブを押し返した!
だが、美波はすでに頭部を後方へ引き戻していた。
千尋の拳は、美波の額の数センチ手前で空を切る。
「惜しいっ!」
リングサイドからひまりの悲鳴のような大声が飛んだ。
「千尋ちゃん、今すっごく惜しかったです!」
千尋は小さく首を横に振った。
「試合なら当たっていません。反撃が遅れました」
「でもでも、さっきより全然止まってなかったですよ!」
「……それは、事実です」
悔しさと同時に、奇妙な手応えが指先に残っていた。
反撃は当たらなかった。
だが、予測が外れた瞬間に、世界が静止することはなくなった。
自分の身体が、思考の重力から少しずつ解放され始めている。
「千尋、もう1本いく?」
「はい」
「ほんと元気だね。千尋って、疲れを知らないアンドロイドか何かなの?」
「かなり疲れています」
「えっ、そうなの!?」
「足が重くなっています」
「全然そんな顔に見えないんだけど!」
「顔に出さないだけです」
「そういうとこだけ無駄に器用なんだから!」
美波が腹を抱えて笑った。
その無防備な笑顔を見た瞬間、千尋の脳裏に悪魔的な計算がよぎった。
(……今、踏み込めば当たる) 相手は完全に脱力している。重心も浮いている。
だが――千尋はその衝動を自制した。
これは練習だ。相手の油断を突いてポイントを取っても、運動の法則を検証することにはならない。
「美波先輩、構えてください」
「はいはい、真面目だねえ」
美波が再び両腕を掲げ、構えを整えた。
千尋も前へ出る。
今度は、反応を見るための浅いジャブ。
左を突き出す。
美波が予測通り、右へ頭をスリップさせる。
そして、身体のバネを使って右のカウンターを放ってくる。
――来る。
千尋は左腕を伸ばし切る前に引き戻し、半歩だけ後退した。
美波の右拳が、空間を空振る。
そして。
千尋は下がった足で床を押し、左足を前に運んだ。
美波の右腕が、空振りの慣性によって前方に伸び切っている。
その拳が、肩の回転によって元の位置へ戻るまでの――ほんの一瞬。
千尋はその「戻りの時間」を、頭で計算する前に、視覚の情報として捉えた。
――今だ。
間合いを詰め直し、左拳をまっすぐ出す。
――パシッ!
美波が前に構えていた左グローブの拳頭側へ、千尋の拳が軽く触れた。
「あッ!」
美波が目を丸くして、その場に棒立ちになった。
「今の……先に出された!?」
千尋は即座に拳を引き、ガードの位置へと戻した。
当たった。
顔面への直撃ではない。ガードの上だ。公式戦なら有効打にはならない。
だが――今までとは、全く違う現象がリング上で起きていた。
美波が右を放ち、その腕が戻るまでの死角。
相手の攻撃を予測して間合いを外し、その拳が空を切ったという「現場の事実」を網膜で捉えた瞬間、次の左が勝手に飛び出していた。
最初から最後まで、確定した未来などどこにもなかった。
途中で仮説を立て、途中で軌道を修正し、動的な変化の波に乗りながら放たれた一撃。
千尋は、自分の青いグローブを見つめた。
……こういうことか。
これが、あの男の言っていた「今日どう動くかは目で見ろ」という言葉の意味なのか。
「千尋?」
美波が恐る恐る顔を覗き込んできた。
「大丈夫? どっか痛めた?」
「問題ありません」
「なんか、ものすごい般若みたいな顔で自分の手見つめてるけど……」
「平時の表情です」
「いや、平時より3倍くらい怖いから!」
千尋はすっと顔を上げた。
「美波先輩」
「なに?」
「もう一度、お願いします」
「ええっ!? まだやるの!? 私のスタミナがそろそろゼロなんだけど!」
「今のが偶然かどうか、もう一度確かめたいんです」
美波は呆れたように天を仰ぎ、それからニッと白い歯を見せた。
「いいよ。何回でも付き合ってあげる。ただし、次は私だって同じ手は食らわないからね!」
美波が再び構えた。
千尋が前へ出る。
左ジャブを放つ――その瞬間。
美波は自分の右へ逃げると見せかけ、逆の左へ踏み直した。
千尋の拳が空を裂く。
「あっ」
「ほーらね!」
美波が悪戯っぽく笑う。
「私も学習する生き物なんだよ!」
「……はい」
予測が、また外れた。
だが――千尋の足は、もう止まらなかった。
前へ突っ込みすぎないよう重心を制御し、美波の横移動に合わせて素早くステップを踏み直す。
その光景を、リング下の只野が冷めた目で見つめていた。
缶コーヒーを指先で回しながら、低く呟く。
「今のも外れたな」
「はい。外れました」
「で? 次どうすんだよ」
千尋は美波の足元から目を離さずに答えた。
美波先輩は、次も変則的なステップを使ってくる可能性がある。
右か、左か、あるいは直進か。
その確率を、今の千尋には確定させる術はない。
だが――確定できなくても、自分は動ける。
「……もう一度、見ます」
「ふうん」
「ただし、足を止めて確認するのではなく」
千尋は左足を踏み込み直した。
「相手の動きを見ながら、動きます」
只野は何も答えなかった。
ただ缶コーヒーの最後の一滴をすすり、空き缶をゴミ箱へ無造作に投げ捨てただけだった。
カラン、と乾いた金属音が響く。
だが、千尋にはもう、その無言の背中だけで十分だった。
◇
只野が練習を切り上げるよう言ったとき、千尋の練習着はびっしょりと汗で肌に張り付いていた。
リングを降り、ひまりからタオルとタブレットを受け取る。
「千尋ちゃん、お疲れ様です! 冷たいお水どうぞ!」
「ありがとうございます」
「さっきの、すっごくかっこよかったです! 美波先輩のパンチ避けて、ズバッて当てたやつ!」
「どの試行のことでしょうか」
「えっと……美波先輩が『先に出された!』って叫んでたやつです!」
千尋は録画フォルダから、該当のタイムスタンプを開いた。
美波の右の空振りと、千尋の左ジャブがガードへ触れた場面。
確かに、あの一連のシーケンスは成功している。
だが、そのあと何度か試しても、美波が動きを変えるたび、同じ反撃はできなかった。
一度の成功だけでは、まだ足りない。
「完全には機能していません」
「そうなんですか……? でも、前より全然たくさん動けてましたよ!」
「……そうですね」
それは、否定できない事実だった。
千尋はスタイラスペンを走らせ、スプレッドシートのレイアウトを大幅に改編した。
これまでの記録シートには、静的な観測データばかりが整然と並んでいた。
相手の肩の傾斜角。
ステップの歩幅。
使用頻度の高いパンチの割合。
回避方向の傾向。
条件を増やせば、過去の映像はもっと細かく説明できる。だが、生身のリングの上では、その精密すぎるモデルこそが自らの手足を縛る鎖になっていたのだ。
千尋は、新しい入力カラムを追加した。
――事前の仮説。
――現場での実測値。
――ズレが生じた瞬間に選択した補正行動。
そして、最後の一行。
――次に検証すべき動的アクション。
画面を見つめる。
数字を捨てたわけではない。
統計を否定したわけでもない。
ただ――数字の持つ「役割」が、根底から変容していた。
これまでは、「絶対に間違えないための防壁」として数字を集めていた。
これからは、「次に踏み出すための足場」として数字を使う。
「千尋ー」
美波が濡れタオルを首に巻き、スポーツドリンクのボトルを片手に近寄ってきた。
「また画面とにらめっこしてんの? 反省会?」
「本日の試技データの整理です」
「また数字増やしてんの?」
「はい」
「懲りないねえ。先生にあれだけ『昨日まで』って言われたのに」
千尋は静かに顔を上げた。
「只野さんは、数字を捨てろとは言っていません」
「……え、そうだっけ?」
「『数字は昨日まで。今日どう動くかは目で見ろ』と言いました。過去の数字を捨てろとは言っていません。今の動きを見て更新しろ、という意味だと考えます」
美波が目を丸くして、それから吹き出した。
「あはは! 全部自分に都合のいい理屈に翻訳してんじゃん!」
「極めて論理的な解釈です」
「まあ千尋が前向きなら何でもいいけどさー。で、今日の私のスコアは何点?」
「点数の算出機能は実装していません」
「つけてよー。100点満点でさあ」
「何のパラメータに対する評価ですか」
「可愛さと華麗さ」
「それはボクシングの競技規則において一切加点されません」
「そこは嘘でも『美波先輩が100点です』って言っとくのが後輩の処世術でしょ!」
千尋は0.5秒だけ美波の顔を凝視し、無機質にペンを走らせた。
「では、自己申告として『自称100点』と記録します」
「自称って書くな! もっとリスペクトを込めなさい!」
ひまりがケラケラと笑い、美波もつられて大笑いした。
千尋は手元の画面へ視線を戻す。
今日の自分のボクシングに、確定した評価を下すことはできない。
仮説を立て、動く。
外れたら、見ながら直す。
試合で同じことができるかは、まだ分からない。
本番の試合になれば、相手はもっと速く、もっと狡猾に動くだろう。
今日よりも激しいフェイントを仕掛けてくるはずだ。
判断が遅れ、再びあの日のように打ちのめされるかもしれない。
それでも。
以前の自分とは、決定的に違う。
間違いを恐れて足が止まることは、まだある。でも、止まったあとで立て直す方法が少し分かってきた。
外れたなら、外れた現実の只中で、次の選択肢を選び直せばいいのだから。
千尋はタブレットの記録欄に、一行を書き加えた。
――仮説が破綻しても、次の運動連鎖を停止させないこと。
記録を保存し、端末を閉じる。
パシッ、パシッと規則正しい乾いた音が、静まり返り始めた練習場に響いていた。
千尋が視線を向けると、リングの隅で、部長の白石綾乃が1人、黙々と左ジャブを繰り返していた。
左足の踏み込み。
右腰のタメ。
肩の回旋から拳の到達点まで。
教科書のお手本のように、寸分の狂いもない軌道。
さっきから、同じ軌道で何度も繰り返されている。
千尋はその美しい軌道を、しばらく無言で見つめた。
綾乃先輩のジャブは、今日も驚くほど正確だ。
外から見ている限り、何一つとして欠点など見当たらない。
ただ――。
あれほど完璧に、狂いなく美しいジャブを打ち続けているというのに。
綾乃先輩の横顔は、一度として満足そうに緩むことはなかった。




