第24話 強さを選べ
――ドンッ!
ひまりの右ストレートがサンドバッグの真ん中に入った。重いバッグがぐっと後ろへ揺れ、鎖がガチャガチャと鳴る。
隣でミットを持っていた男子部員が、ぽかんと口を開けた。
「……すげえな」
聞こえた。
今、すごいって言いましたよね?
「えへへへ……!」
嬉しい。ものすごく嬉しい!
褒められたら、もう一発打ちたくなる。これは仕方ないことだと思う。
ひまりは左足を前に置き直した。右足で床を押し、腰を回す。肩が前に出るのに合わせて、右拳を突き出した。
――ドンッ!
また鎖が鳴った。
「先生ぇ!」
ひまりは振り返った。
「今の! 今のどうでしたかっ!?」
壁際のパイプ椅子に沈んでいる只野は、缶コーヒーをすすっていた。
「強えな」
「ほんとですかぁっ!」
「おう。馬鹿みてえに強え」
褒められた。
あの、何を聞いても面倒くさそうにする先生に!
明日は槍でも降るんじゃないだろうか。
「じゃあ、もう一回いきますね!」
「それ、人間相手にもできんの?」
伸ばしかけた右手が止まった。
「……え?」
「今の強さだよ。向かいに人が立ってても、同じように打てんのかって聞いてんだ」
ひまりはサンドバッグを見た。
黒い表面には、拳が当たった跡がうっすら残っている。
バッグならいい。
痛いと言わない。顔をしかめない。
どれだけ強く打っても、明日には同じ場所にぶら下がっている。
でも、人は違う。
この前の内部試技で、相手の脇腹に入った左ボディ。
あの感触は、まだ忘れられなかった。
相手の息が詰まり、ほんの一瞬だけ動きが止まった。
当たったときは嬉しかった。
でも、そのすぐあとで思った。
――絶対、痛かったよね。
もっと強く入っていたら?
相手が倒れてしまったら?
試合が終わっても、ずっと痛かったら?
「……た、たぶん……」
「たぶん?」
「相手がいたら、ちょっと……手加減というか……」
「また当たる前に抜くだろ」
返す言葉がなかった。
試合では、怖いままでも当てられた。
だけど、それで平気になったわけじゃない。相手に効いたときの感触を知って、むしろ前より考えてしまう。
「で、でもですね、先生!」
「先生じゃねえ」
「全力で人を殴ったら、危ないじゃないですか!」
「危ねえな」
「ほらぁ!」
「だから何だよ」
「え?」
「全力か、触るだけか。その二つしかねえのか?」
ひまりは首を傾げた。
全力。
手加減。
……その間?
「半分くらいで打つってことですか?」
「そうだよ」
「でも、半分ってどうやるんですか? グラムで決めるんですか?」
「知らね」
「先生ぇ!」
只野は頭をかき、やっと椅子から立ち上がった。
「千尋」
「はい」
「数字、好きだろ」
「好き嫌いより、使い道の問題です」
「じゃあ十段階で」
千尋はリング脇の長椅子へタブレットを立てかけ、ひまりの足元からサンドバッグまで映るよう角度を調整した。
「本人の感覚で強さを十段階に分ける、ということですね?」
「それ」
「実際の衝撃力とは一致しませんが、同じ動きを繰り返せるかは確認できます」
「じゃ、それやれ」
「分かりました」
千尋が録画を始めた。
ひまりだけが、まだ分からない。
「あの、私は何をするんですか?」
只野がサンドバッグを顎で示した。
「十が全力」
「はい!」
「まず三で打て」
「三ですね。全力の三割くらい!」
「おう」
「……で、先生。身体のどこを三割にするんですか?」
「知らね」
「そこを教えてくださいよぉ!」
鏡の前で美波が笑い出した。
「あはは! ひまり、先生の説明を真正面から受け止めたら負けだよ!」
「先生じゃねえ!」
ひまりは両手をぎゅっと握った。
十より三が小さいことくらい分かる。困っているのは、足も腰も勝手に全力で動きたがることだ。
数字だけ教えてもらっても、身体はダイヤル式じゃないんですけど!
「とにかく、三でやってみます!」
「おう。さっさとやれ」
◇
「三」
只野が言った。
ひまりはサンドバッグへ、そっと右手を伸ばした。
――パシッ。
表面を軽く叩く音。
「それ何?」
「三です!」
「一だろ」
「三のつもりです!」
「じゃあ五」
「はいっ!」
さっきより強く。
でも、全力じゃない。
右足で床を押して、腰を回す。
――ドッ!
バッグが後ろへ揺れた。
「俺には八くらいに見えるな」
「ええっ!? かなり優しくしましたよ!」
「どこがだよ。じゃあ七」
「さっきの八から、少しだけ抑えるんですよね?」
「そういうこと」
「その『少し』が分からないんですぅ!」
分かるけど。
八から七って、どのくらい弱くするんだろう。
ほんのちょっと?
その、ほんのちょっとが分からない!
迷って右を出す。
――パシッ。
「二くらいだな」
「難しいですぅ!」
美波が壁に手をついて笑っていた。
「あはは! ひまり、出力調整のつまみ壊れてない?」
「壊れてません!」
「『温め』か『核爆発』しかない電子レンジみたい」
「ちゃんと途中もあります!」
「今、二だったじゃん!」
「ありますぅ!」
千尋はまったく笑っていない。
「申告した強さと、実際の動きがかなり違っています」
「千尋ちゃんまで!」
「動画を見ても、弱く打つときだけ腰が止まっています」
ひまりは自分の右グローブを見た。
弱く打とうとしたら、力を抜くしかないじゃないですか。
ほかに、どうすればいいんですか。
「おい、ひまり」
「はいぃ……」
「お前、弱く打とうとすると、全部止まってんの」
「……全部?」
「足も腰も肩も」
只野は面倒くさそうに右拳を出してみせた。
「三で打てって言われると、腕だけでちょんって触ってんだろ」
「だって、強くならないように……」
「それで形まで崩したら、別のパンチだろ」
ひまりは、さっきの自分を思い出した。
三で打ったとき。
確かに足はほとんど動いていなかった。腰も回っていない。
ただ、腕だけを伸ばした。
あれじゃ、いつもの右ストレートじゃない。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
「形は変えんな」
「はい」
「足も腰も使え。ただし、勢いは自分で抑えろ」
「……はい」
「最後までちゃんと打つ。強さだけ選べ」
ひまりは息を飲んだ。
いつものフォーム。
でも、いつもの全力ではない。
そんな器用なこと、自分にできるんだろうか。
「難しそうです……」
「だから練習してんだろ」
確かに!
それは、すごく正しい!
ひまりはもう一度サンドバッグへ向かった。
左足を前。右足は後ろ。
構えはいつもと同じ。
右足で床を押す強さだけを少し抑える。腰も回すけれど、急がない。
三。
今度こそ三。
右。
――パンッ!
サンドバッグが小さく揺れた。
当たるまで、腰も肩も止まらなかった。
さっきの、ただ触っただけのパンチとは違う。
「あっ! 今の!」
「五くらいだな」
「三です!」
「俺には五に見えた」
「じゃあ、もう一回!」
只野はもう椅子へ戻ろうとしていた。
「勝手にしろよ」
◇
「三!」
――パシッ。
「五!」
――ドッ。
「七!」
――ドンッ。
只野が数字を呼ぶたび、ひまりは右を打った。
最初は散々だった。
三と言われると、そっと触ってしまう。七と言われると、力んで肩が上がる。
全力なら簡単なのに。
少し抑えるだけで、どうしてこんなに難しいんだろう。
「分かりやすいな、お前」
「何がですか!」
「全力だけ上手え」
「褒めてます?」
「半分な」
「残り半分は?」
「不器用だ」
「ひどい!」
美波がまた笑っている。
でも、悔しいけれど言い返せなかった。
全力のときは迷わない。足で床を押して、腰を回して、拳を出す。それだけでいい。
弱くしようとすると、途中で何かをやめたくなる。
「五」
只野の声。
ひまりは右を打った。
――ドッ。
サンドバッグが揺れた。
「もう一回、五」
「はい!」
さっきの踏み具合を思い出す。右手が軽すぎず、重すぎず出た、あの感じ。
もう一発。
――ドッ。
「あ……!」
さっきと似ている。
拳に返ってきた感触も、バッグの揺れ方も。
「千尋ちゃぁん!」
「はい」
「今の、どうでした!?」
千尋が長椅子からタブレットを取って録画を見返した。
「二回とも、バッグの揺れ方は近いですね」
「ほんとですか!」
「はい。衝撃力までは測れていませんが、動きの大きさは似ています」
「じゃあ、同じくらいで打てたんですね!」
「そう考えてよさそうです。でも、二回だけですから」
ひまりは両手を上げた。
「先生! 今の、二回とも五くらいでしたか!?」
「俺にはそう見えた。まぐれかもしれねえけどな」
「じゃあ三回目もやります!」
「おうおう。続けろ」
美波がひまりの肩をぽんと叩いた。
「よかったね。電子レンジ、修理できそうじゃん」
「壊れてませんってば!」
◇
「じゃ、次は人」
只野が言った。
ひまりの笑顔が固まった。
「……人?」
「バッグ相手だけ上手くなっても、試合できねえだろ」
それは、そうだけど。
今、やっと楽しくなってきたのに!
「だ、誰とですか?」
美波が、ものすごい速さで視線をそらした。
「あー、私、昨日いっぱい動いたから。今日はもう休業」
「美波先輩! さっき元気に笑ってたじゃないですか!」
「笑うのは別の筋肉だから」
「そんなぁ!」
千尋はタブレットを抱えた。
「私は体格差を考えると、受け役には向きません」
「千尋ちゃんまで!」
律は、ひまりよりずっと小さい。
ひまりが最後に綾乃を見ると、綾乃が苦笑した。
「私でよければ、いいよ」
「綾乃先輩……!」
「ただし軽くね。ほんとに軽く」
「はいっ! アリさんにも優しくするくらいで!」
「そんなに力まなくていいから」
笑っている。
綾乃先輩は、笑ってくれている。
だから余計に、傷つけたくない。
ひまりは綾乃と一緒にリングへ上がった。
向かい合って構える。綾乃が前へ出したグローブを目標に、軽く触れる練習だ。今日は顔も身体も強く打たない。
「最初、三」
只野の声がリング下から飛んだ。
「はい!」
「三のつもりで、軽くな」
「はい!」
綾乃がグローブを少し前へ出す。
「ここに、トンって当てて」
「……はい」
ひまりは右拳を構えた。
いつものストレート。
でも、目の前にいるのは綾乃先輩だ。
当たったら、腕が動く。
痛くないかな。
大丈夫かな。
考えた途端、肩が固くなった。
――ペシッ。
「……一だな」
「うう……」
分かっている。
また途中で止めてしまった。
「大丈夫。もう一回いこう」
綾乃がグローブを掲げ直した。
「はい!」
今度は、さっきバッグで覚えた動きのまま、右。
――パシッ。
綾乃のグローブが少し後ろへ動いた。
「ご、ごめんなさい!」
「え? どうして?」
「今、痛くありませんでしたか!?」
「全然。軽く触れたくらいだよ」
「ほんとですか!?」
「ほんと」
そう言われても、ひまりの右手はなかなか元の位置に戻らない。
バッグとは違う。
グローブの向こうに、人の腕がある。
――怖い。
やっぱり怖い。
「ひまり」
「は、はい!」
「私の顔じゃなくて、こっちのグローブを見て」
綾乃が左手を少し上げた。
「今日はここへ軽く当てるだけ。怖かったら途中で止めよう」
「……はい」
「無理して強くしなくていいからね」
ひまりは頷いた。
先輩は、自分が怖がっていると分かってくれている。
それでも、向かいに立ってくれている。
だったら。
「もう一回、お願いします!」
「うん」
綾乃のグローブだけを見る。足と腰は、さっきと同じ。
拳が届く手前で、肩がすくみそうになった。
でも、今度は止めない。
強くしすぎず、最後まで伸ばす。
――パシッ。
「あっ……!」
いつもの形で打てた。
なのに、綾乃のグローブはほんの少し動いただけだ。
「先輩! 痛くないですか!?」
「痛くないよ。今の、よかった」
只野が鼻を鳴らした。
「三くらいだな」
「三っ!」
「そう言ってんだろ」
「できましたぁ!」
ひまりは嬉しくて、綾乃へ近づきかけた。
「あっ、もう一回いいですか!」
「もちろん」
もう一度。
同じくらいの強さで。
足元を確かめる。さっきの軽さを思い出して、右。
――パシッ。
今度は当たったあと、右手をすぐにガードへ戻せた。
「先生ぇ!」
「あ?」
「今のも三ですか!?」
「そんなもんだろ」
「やったぁ!」
美波がロープの外から笑った。
「ひまり、子犬みたいに喜んでんじゃん」
「だって嬉しいんですもん!」
「三でそれなら、十が出たらどうすんの?」
「もっと喜びます!」
「あはは、そうだろうね!」
ひまりも笑った。
怖さが消えたわけじゃない。
でも、怖くても、途中で止めずに打てた。
強さを決めて。
先輩が痛くないくらいに。
それが嬉しかった。
◇
対人練習を終えてリングを降りると、只野がサンドバッグを指さした。
「次、七」
「はいっ!」
ひまりはバッグの前に立つ。
三より強く、十より控えめに。足元を確かめ、腰まで動かして右を出した。
――ドンッ!
バッグが大きく揺れ、鎖が鳴った。
「先生! 今のどうでした!?」
「七くらい」
「やったぁ!」
「一発だけだろ」
「でも七です!」
ひまりは右手を見た。
さっき綾乃のグローブに触れたときとは、全然違う強さ。
だけど、フォームは同じだ。
自分で選べた。
まだ一度だけでも。
「もう一回、七!」
「いや、次は十」
ひまりの手が止まった。
「……人に、ですか?」
「何でだよ」
「あ、違うんですね」
「目の前のバッグだろ」
「よかったぁ……!」
思わず胸をなで下ろした。
「てっきり綾乃先輩に全力で打てって言われるかと!」
「馬鹿か。練習で壊してどうすんだよ」
ひまりは只野を見た。
この人、そんな当たり前のことを考えるんだ。
「先生でも、そういうこと考えるんですね」
「どういう意味だよ」
「もっと『ぶっ倒せ!』って言う人かと……」
「試合ならな」
「言うんですか!?」
「知らね」
「もう!」
只野は面倒くさそうに缶コーヒーを揺らした。
「相手壊したら、明日誰と練習すんだよ」
ひまりは口を閉じた。
「練習は、明日もやるためにやんだろ」
明日もやるため。
綾乃先輩と。
美波先輩、千尋ちゃん、律ちゃんとも。
みんなで、また練習するため。
だから、今日は強く打ちすぎない。
怖いから逃げるんじゃない。
明日も一緒に練習したいから、自分で強さを選ぶ。
「……はいっ!」
ひまりは大きく頷いた。
「ほら、十」
「はい!」
サンドバッグへ向き直る。
今度は全力で踏み込む。サンドバッグの真ん中へ、右を伸ばした。
――ドンッ!
重い音とともにバッグが大きく揺れた。
「十っ!」
ひまりが振り返る。
只野は首を傾げた。
「九」
「ええっ!? どうしてですかぁ!」
「最後、ちょっと抜いただろ」
「抜いてません!」
「抜いた」
「抜いてませんってば!」
只野はまた椅子に座った。
もう教える気がなさそうだ。
でも、ひまりは笑っていた。
三を狙って、軽く触れられた。
五くらいの二発も、似た感触で打てた。
七も一度だけ当たった。
まだ、狙った数字どおりに毎回打てるわけじゃない。
それでも、全力か手加減か、その二つだけではなくなった。
今日は十をバッグに。綾乃先輩には軽く。
自分で選ぶ練習を、やっと始められた。
「先生ぇ!」
「何だよ、まだ騒ぐ気か」
「もう一回、十でいいですか!?」
「勝手にしろ。バッグと仲良くやってろ」
ひまりは笑いながら構え直した。
リングの上では綾乃が美波と練習している。千尋はタブレットを見ていて、律は鏡の前でシャドーを繰り返していた。
明日も、きっとここに来る。
明日も、大好きなみんなと練習したい。
相手が変わったら、また怖くなると思う。今日だって、先輩のグローブを見た瞬間に足がすくんだ。
でも、怖いから全部やめるんじゃない。次も、その場で強さを選びたい。
ひまりは息を吸った。
もう一度、右。
――ドンッ!
サンドバッグが揺れた。
ひまりはその揺れが戻るまで、拳を構えたまま待っていた。




