第23話 逃げたあと
美波は、8発全部を避けた。
左ジャブ。右ストレート。もう一度、左。少し深く踏み込んできた右。
全部、見えた。
頭を外し、半歩下がり、するりと横へ回る。相手のグローブが鼻先を虚しく通り過ぎるたびに、足先だけは軽やかに弾んでいった。
「はい、そこまで」
綾乃がグローブを胸の前で合わせ、動きを止めた。軽いマスボクシングだった。
美波は誇らしげに両手を大きく広げてみせる。
「どうよ?」
リング下のパイプ椅子に座る只野を見下ろした。
「今の私、1発ももらってないよ。パーフェクト」
「うん」
「そこは素直に褒めるところじゃない?」
「で?」
「で?とは?」
美波が小首を傾げると、只野も同じ角度で首を傾げた。
「お前、いつ殴んのよ?」
美波の顔から、得意げな笑みが綺麗に消え去った。
「……今、避ける練習してたんだけど」
「誰が決めたんだよ」
「私」
「じゃ、勝手に一人で別競技やってんの?」
「ボクシングです!」
「じゃあ殴れよ」
「それがすんなりできたら苦労してないんだけど!」
リングの外で、千尋が手元のタブレットから目を上げて小さく頷いた。
「現状、美波先輩の回避率は極めて高い一方、回避完了後の攻撃行動への移行率は著しく低水準です」
美波がロープ際から振り返る。
「千尋、それ日本語に翻訳できる?」
ひまりがおずおずと横から手を挙げた。
「あの、私もお願いします……」
千尋が0.5秒だけ思考を巡らせる。
「避けたあと、ほとんど殴っていません」
「最初からそう言ってよ!」
「専門的かつ客観的な正確性を優先しました」
「知ってるけどさあ」
美波はグローブを腰に当て、ぷっと頬を膨らませた。
言われなくても、分かってはいるのだ。前の内部試技でも全く同じだった。
逃げることだけなら、誰よりも上手くできる。相手が打ってくる、避ける。追ってくる、また逃げる。最後の最後、退路を塞がれたときにだけ、逃げ道を作るために反射で左を1発だけ突き刺せた。
けれど、それだけだ。あれは攻撃ではなく、ただの非常口のドアノブを回しただけにすぎない。
「別にさ」
美波はパイプ椅子の只野へ向き直った。
「相手のパンチを全部避けられてるなら、それでよくない?」
「いいんじゃねえの」
「いいんだ?」
「一生、相手が勝手に空振りしてバテてくれるならな」
「嫌味な言い方するなあ」
「試合で向こうが追ってこなくなったら、どうすんだよ」
美波は言葉に詰まった。
内部試技の第2ラウンドが、まさにそれだった。
相手が苛立ちを抑えてリングの中央で待ち構えた途端、自分から何を仕掛ければいいのかが全く分からなくなってしまったのだ。
「……困る」
「だろ」
「じゃあ、どうすればいいのさ」
「知らねえよ」
「出た!」
美波は露骨に嫌そうな顔をして唇を尖らせた。
「律ちゃんには親切に教えたじゃん」
「じゃん言うな」
「自分だってさっき言ったくせに!」
「言ってねえよ」
「言ってるってば」
只野がひどく面倒くさそうに顔を背けた。美波は逃がさない。
「先生」
「先生じゃねえ」
「私にも教えてよ」
「やだ」
「差別?」
「面倒くせえ」
「律ちゃんの方が可愛いから?」
只野が一瞬だけ天井を仰ぎ、真顔で呟いた。
「胸はお前の方が――」
「そこまで!」
綾乃の鋭い声が、練習場を両断した。
「先生、今の台詞の先は言わなくていいです」
「先生じゃねえ」
「そこじゃありません!」
男子部員たちが、またしても示し合わせたように全員で明後日の方向を向いた。
美波は吹き出して笑ったあと、息を整えてもう一度構え直した。
「で?」
「何がだよ」
「私、どうすればいいの」
只野は舌打ちを一つ鳴らし、渋々リングへ視線を戻した。
「綾乃、もう一回」
「はい」
「今度、お前普通に追っかけろ。当てにいけ」
「分かりました」
「美波」
「はいはい」
「逃げろ」
美波が片眉を跳ね上げる。
「結局それ?」
「いいからやれよ」
◇
綾乃がスッと踏み込んでくる。
左ジャブ。美波は頭を外す。右ストレート。半歩下がる。
綾乃がもう一歩、的確に間合いを詰めて追撃してくる。美波はサイドステップで右へ回る。
「はい」
リングサイドから、只野の乾いた声が飛んだ。
「今」
「え?」
美波が声に反応して視線を振った瞬間、綾乃の伸ばした左ジャブが額へペチリと触れた。
「痛っ!」
「何してんだよ」
「『今』って言われたから先生の顔見たんだけど!」
「俺見てどうすんだよ、アホか」
「じゃあ何が今なのさ!」
「殴れたろ」
美波の足が止まった。
「……どこで?」
「最初」
「どの最初?」
「ジャブ避けたところ」
「そんなの、もうとっくに終わってるじゃん!」
「だから遅えっつってんだよ」
カッと頭に血が上る。
「綾乃、もう一回!」
綾乃が息を吸い、構え直す。
「美波、いくよ」
「うん!」
綾乃の鋭い左ジャブ。
美波は右斜め前へ頭を傾け、ギリギリで外す。避けた。
すかさず相手を見る。反撃できる隙を探す――。
けれど、その視線の先で、綾乃の左腕はすでに元のガードの位置へ綺麗に戻っていた。右ストレートの構えもガッチリと固まっている。
「ほらな」
只野がパイプ椅子から鼻を鳴らす。
「もう閉まったろ」
「何が?」
「穴だよ」
「穴?」
「殴れる隙間のことだよ」
美波は目を細めて綾乃の構えを見つめた。
「避けてから探すから、もうねえんだよ」
只野が自分の無精髭の顎をポリポリと掻く。
「お前はな、避ける。相手を見る。構え直す。それから『よし、打とうかな』って頭で考える。そんなトロくさいことやってりゃ、誰だってガード戻すに決まってんだろ」
「そんなに何段階も踏んでないよ!」
「踏んでる」
「踏んでません!」
「踏んでるって」
「千尋!」
美波が縋るようにリング外へ叫んだ。千尋が待ってましたとばかりに端末を掲げる。
「ハイスピードカメラの映像で解析すると、美波先輩の回避動作終了から反撃の筋電位発生まで、平均0.42秒の空白時間が――」
「ごめん、やっぱいい! 聞かなきゃよかった!」
「まだ統計的有意差の説明に入っていません」
「数字が具体的すぎて余計に刺さるから!」
只野がよっこいしょと音を立てて立ち上がった。ロープに手をかける。
「美波」
「何?」
「逃げたあとに打つな」
美波は目を丸くした。
「……は?」
さっき言っていたことと正反対ではないか。
「殴れって言ったよね?」
「言った」
「今、打つなって言ったよね?」
「言った」
「先生、昨日のお酒がまだ残ってたりする?」
「飲んでねえよ、まだ午前中だぞ」
「じゃあ何なのさ!」
只野は美波の文句を聞き流し、綾乃へ視線を投げた。
「綾乃、さっきのジャブ出して」
「はい」
綾乃が軽く左腕を伸ばす。
只野は、その拳が鼻先へ届く直前、首の角度をわずかに右へ傾けて外した。
それと全く同時に――只野の右手が、綾乃の左肩のすぐ横の空間へ、スッと滑り込むように突き出された。
打ってはいない。拳を握り込んでもいない。
ただ、相手のパンチをかわす頭の動きと、自分の腕を前へ伸ばす動作が、1ミリのズレもなく完全に重なり合っていた。
「……あ」
美波の喉から、掠れた声が漏れた。
避け終わっていないのだ。
只野の頭部が右へ傾き、相手のジャブをやり過ごしているまさにその瞬間、右腕はすでに相手の無防備な顔面の横へ突き刺さっていた。
「逃げてから殴るんじゃねえよ」
只野がだらりと腕を下ろし、元の位置へ戻る。
「逃げながら、殴るんだよ」
美波は言葉を失った。
今目の前で見せられた動きを、脳内で何度もスロー再生する。
「でも……それだと、避けるのが雑にならない? 殴る方に意識がいったら、相手のパンチ当たっちゃうじゃん」
「じゃあ、当たれよ」
「嫌です! 痛いもん!」
「なら避けろ」
「殴るのは!?」
「殴れ」
「両方同時にやれってこと!?」
「ボクシングって、そういうスポーツだろ」
美波はぐうの音も出なくなった。
「……急に正論ぶるのやめてよ」
只野はパイプ椅子へ戻り、再び缶コーヒーを手にした。
「お前さ、逃げんの上手いんだから、その足を捨てんなよ」
美波はハッとして、思わず目を見開いた。
「捨てなくて……いいの?」
「何で捨てる必要があんだよ」
「だって、逃げてばかりいるから攻撃できないんだって、ずっと怒られてるみたいだったから」
「逃げるのが悪いわけじゃねえよ」
只野は缶のフチに口をつけ、ぶっきらぼうに言った。
「逃げて、そこで終わっちまってんのが駄目なんだろ」
胸の奥に、ずしりと重いものが落ちてきた。
美波は何も言い返せなかった。
逃げるのが悪いのではない。避ける才能そのものは、自分の最大の武器なのだ。ただ、その先に拳を繋いでいなかっただけ。
美波は息を深く吸い込み、グローブを固く握り直した。
「綾乃」
「うん」
「もう一回。本気でジャブ打って」
「いくよ」
◇
綾乃の鋭い左ジャブが飛んでくる。
美波は右斜め前へ頭を外す。
同時に、右の拳を前へ――。
出ない。
腕がピクリと痙攣するように固まり、前へ伸びない。
身体の防衛本能が、「まず安全な場所へ逃げろ」とブレーキを踏んでしまうのだ。
「痛っ!」
右を出そうとしたせいで頭の引きが甘くなり、綾乃のグローブが鼻先をかすめた。
「美波、大丈夫?」
「大丈夫! もう一回!」
左ジャブが来る。外す。右。
また腕が遅れる。避け終わってから右を振る。
空振り。綾乃はとっくにガードを戻している。
「遅え」
只野の容赦ない野次が飛ぶ。
「避けてから振ってんじゃねえか。それじゃただの順番待ちだ」
「分かってるってば!」
美波は額の汗を拭った。悔しかった。
長年、痛い思いをしたくない一心で磨き上げてきた「逃げる身体」が、ここにきて自分自身の拳を縛り付けている。
避けると同時に打つ。言葉で言うのは簡単だが、脳と身体の回路が激しく拒絶反応を起こしていた。
綾乃が息を整えて構え直す。
「美波、一回力を抜いてみよう」
「力……?」
「当てようと力むから、身体が止まるんじゃないかな」
リング下の只野が、缶コーヒーを揺らしながらぼそりと呟いた。
「最初から倒そうとすんな。当てる気配なんざ見せなくていい。お前が逃げる通気口の隙間に、ただ右手を放り込んどけ」
美波は一瞬、目を瞬かせた。
倒そうとするな。
逃げる隙間に、手を置いておくだけ。
(……あ、そうか)
内部試技の最終ラウンド。退路を塞がれたあの瞬間、自分が打った左と同じだ。
倒すためでも、ポイントを取るためでもなく、ただ自分が逃げるためのスペースを作るために突き出したあの拳。
「綾乃、もう一回!」
「いくよ!」
綾乃の左が、空気を切り裂いて一直線に伸びてくる。
美波は頭を右へ傾けた。
殴り倒そうとはしない。拳に力を込めない。
ただ、自分の身体が右斜め前へすり抜けていくその回転の遠心力に任せて、右腕の力を完全に抜き、脱力した拳を相手の顎の横へポイと放り投げるように突き出した。
――パシィッ!
乾いた、軽やかな破裂音がリングに響いた。
綾乃の左ジャブが空を切り、その直後、美波の右グローブの甲が、綾乃の左頬をペチリと叩いていた。
美波の身体は、すでに相手の攻撃ラインの外側へと抜け出ている。
美波はその場に立ち止まり、目を丸くした。
「……え?」
殴った感触が、ほとんどない。
力いっぱい振り抜いたわけでもない。
なのに、相手のパンチを避けたその一瞬の隙間に、自分の右手が綺麗に突き刺さっていた。
綾乃も驚いたように足を止め、自分の左頬を手袋で触った。
「……今のは、見えなかった」
美波は恐る恐るリング下を見た。
パイプ椅子の只野は、缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱へ放り投げた。
カラン、と乾いた音が落ちる。
「……それだよ」
只野は視線を合わせずに、ぼそりと言った。
「威力は蚊も殺せねえションベンパンチだけどな」
美波の胸の奥で、カチリと何かの歯車が噛み合う音がした。
逃げながら、打つ。
避けることと、殴ることは、敵対する二者択一ではなかったのだ。
美波は思わず吹き出し、満面の笑みを浮かべた。
「先生! 今の、ちょっとカッコよくなかった!?」
「先生じゃねえ。あと調子に乗んな、二度と当たらねえぞ」
「当てるもん! もう一回! 綾乃、もう一回やろう!」
跳ねるようにステップを踏み直す美波を見て、綾乃も苦笑しながらグローブを構え直した。
千尋が端末に「回避と攻撃の完全同期、初動確認」と静かに記録を打ち込む。
避けた、その先へ。
美波の新しいボクシングの扉が、音を立てて開かれようとしていた。




