第22話 似てるだけ
その夜、律は同じ動画を5回見直した。
古い海外中継の映像だった。画質は荒く、照明は妙に黄色く、リングサイドの観客の顔も潰れている。画面の中では、1人の日本人ボクサーが青いロープを背負っていた。
若い。引き締まった身体。髪もある。
今日、リングの上で律の胸元を眺めていた腹の出た中年男とは、何一つ似ていない。
それでも、足の運びだけは気になった。
律は画面を一時停止した。
「……ここ」
数秒巻き戻し、再生する。
相手の強烈な右ストレートが飛んでくる。日本人ボクサーは、大袈裟に身を引かない。頭をほんの数センチ横へずらしただけで、拳は頬の横を抜けていった。
律はまた停止ボタンを押した。
今日、同じものを見た。腹立ちまぎれに打った自分の右ストレートを、只野はまったく同じように、ほんの少し頭を動かしただけでかわしたのだ。
「いや……」
律はすぐに頭を振った。こんな避け方、場数を踏んだプロなら誰でもやる。決して珍しい技術ではない。
動画を先へ進める。画面の左下に、擦れた英語のテロップが残っていた。
――MOUNTAIN。
律が物心ついた頃から、実家のビデオデッキで何度も目にしてきた選手だった。
実家の棚には、父や兄たちが研究用に集めた国内外の試合テープが山のように並んでいた。祖父の全盛期よりは新しく、現代のトップ選手たちよりは一世代古い、90年代後半から2000年代初頭の映像。そのなかに、マウンテンのテープがあった。
マウンテン。
24戦24勝24KO。
2000年、ラスベガスで世界統一王座に挑んだ日本人ボクサー。
父も兄たちも、あの世界戦については知っていた。ボクシングを長く見てきた人なら、名前を聞いて思い出す選手だった。
けれど、今の大学生で知っている人は少ないだろう。
律は、子どもの頃からこの男の試合が好きだった。
派手な連打を見せるわけではない。華麗にリングを走り回るわけでもない。
相手の強打を紙一重でかわし、その場から短く鋭いカウンターを突き刺す。特に、相手の懐へ滑り込みながら放つ左ボディ。
深く潜っているように見えるのに、左を加速させるだけの空間は、きちんと残してある。
律は動画を止めた。
「……一個外」
呟いて、律は画面に顔を近づけた。
同じ言葉で説明できる。ただ、それだけでは足りない気がした。
もう一度、再生する。
マウンテンが、相手のジャブの外側へ頭を沈める。前足が入る。けれど、相手の胸元までは潜り切らない。靴一足分だけ外側に残った位置から、左のショートフック。
短い。重い。
相手の身体が、くの字に折れる。
律はベッドの上で跳ね起きた。
今日、リングの上で只野に「そこだ」と足で示された位置。そのままだった。
似ている、どころの話ではない。
自分がずっと目指してきて、今日ようやく身体でつかみかけた動き。その完成形が、画面の中にあった。
律は再生位置を戻した。
もう一度。
もう一度。
6回目の再生を終えたところで、スマートフォンの画面をシーツの上に伏せた。
「……これだ」
律はシーツの上で左手を握った。
今日、只野が指したのは靴一足ぶんの位置だった。自分が長年詰めすぎていた距離。その違いを、画面の中の選手は当たり前のように使っている。
一度、立って試してみたくなった。
でも明日は朝練だ。ここでベッドから降りたら、きっと止まらない。
律はスマートフォンを枕元に置いた。寝よう。明日の朝練もある。
そう決意した、わずか10秒後。
律は再び、暗闇の中でスマートフォンに手を伸ばしていた。
◇
翌朝の練習場。律の視線は、準備体操の間中ずっと只野の足元に注がれていた。
「何だよ」
案の定、すぐに気づかれた。
「別に」
「昨日から視線が気持ち悪いぞ」
「只野さんにだけは言われたくありません」
「何で俺だけなんだよ」
「自覚がないんですか」
「ねえよ」
いつもの只野だった。リング脇のパイプ椅子にどっかりと腰を下ろし、プルタブを開けて缶コーヒーを啜っている。
律は少し離れた鏡の前で構えた。
低く沈む。外へ。一個外。左。
昨日つかみかけた感覚が、まだ身体に馴染んでいない。どうしても踏み込みが慎重になりすぎる。
「遠い」
パイプ椅子から只野の声が飛ぶ。律は構え直す。
一個外。左。
「今度は深い」
もう一度。
「遅い」
もう一度。
「頭が上がってる」
律はピタリと動きを止めた。タオルで汗を拭い、只野の前へ歩み寄る。
「只野さん」
「何だよ」
「ちょっと、お手本見せてください」
「何を」
「今の動きです」
律はもう一度、その場でステップの軌道を示した。
「見りゃ分かるだろ」
「只野さんがやってるところが見たいんです」
「やだ」
「何でですか!」
「疲れる」
「1回だけでいいです」
「やだね」
「昨日はリングに上がってくれたじゃないですか」
「昨日の俺と今日の俺は別人なの」
「都合よすぎませんか!?」
只野はそっぽを向いて缶コーヒーを飲んだ。
律はパイプ椅子の真ん前から一歩も動かなかった。10秒。20秒。30秒。
只野がひどく嫌そうに顔を歪める。
「……まだいんのかよ」
「やってくれるまで、ここにいます」
「怖えよ」
「早くしてください」
只野は盛大に天を仰ぎ、深いため息を吐き出した。
「めんどくせえなあ……本当に……」
缶コーヒーを床へ置き、のっそりと立ち上がる。
それだけで、律の背筋にスッと緊張が走った。
只野はリングへは上がらなかった。床の上で、だらしなく両腕を胸の前に持ち上げる。
「これでいいか?」
「もっとちゃんと構えてください」
「注文の多い奴だな……」
ぼやきながら、履き古した靴の左足を半歩前へ滑らせた。
構える。
その瞬間だった。律の喉が、ヒュッと小さく鳴った。
腹は出ている。背中も丸い。作業ズボンの上からでは、筋肉らしいものは何も見えない。
なのに――床を捉える足の裏、膝の角度、重心の落ち方。そこだけが、さっきまでの只野とは別物だった。
「ほらよ」
只野が動いた。
左手を軽く突き出す。架空の相手のジャブを誘うように、上半身をわずかに揺らす。
頭部を斜め外側へスッと沈める。
足が入る。深く潜り込みすぎない。
その位置で、腰が鋭く回った。
ボディを打つ左拳は出していない。腰を回し、手首を軽く返しただけだった。
それなのに、律の脳裏に、昨夜スマートフォンで穴が開くほど見つめたあの荒い映像が完全に重なり合っていた。
若い身体。
黒い髪。
マウンテン。
相手の左を外へかわし、一歩踏みとどまり、左ボディを抉り抜く――あの黄金の軌道。
「……今の、もう一回お願いします」
律は思わず只野の左足を指さした。
「何でだよ」
「足を置くところです。どうしてそこで止められるんですか」
「お前が入りすぎなんだよ」
「それは昨日も聞きました」
「じゃ、昨日やれよ」
「今日もできないから聞いてるんです!」
只野はひどく面倒くさそうに、床の缶コーヒーを拾った。
「足元ばっか見てねえで、相手見ろ」
「……はい」
答えになっていない。けれど律は、さっきの一歩を忘れないうちに試したかった。
只野は椅子へ戻り、缶コーヒーをすすった。
「練習しねえのかよ」
「……します」
「じゃ、とっとと動け」
律は奥歯を噛んで、鏡の前へ戻った。
低く沈む。外へ。一個外。左。
「深い」
背後から、いつもの乱暴な声が飛んできた。
◇
午前中の練習が終わったあと、更衣室の前で美波に腕を掴まれた。
「律ちゃん、今日ずーっと先生の顔を穴が開くほど見てたけど、何?」
「見てません」
「見てた。完全にロックオンしてた」
「美波先輩こそ、人のこと見すぎです」
「私は堂々と観察してるからセーフなの」
「アウトだと思います」
美波が意地の悪い笑みを浮かべて顔を近づけてくる。
「まさか……ああいう枯れたオッサンが好みのタイプ?」
「絶対に違います!」
即座に叫んだ。
「49歳、酒飲み、日雇い、お腹ぽっこりだよ?」
「だから違います!」
「平気で胸元見てくるよ?」
「絶対に違いますって言ってます!」
美波が大笑いした。
「あはは、じゃあ何なの?」
律は口をへの字に結んだ。
マウンテン。その名前が喉元まで出かかった。けれど、強引に呑み込んだ。
言えるはずがない。自分自身、荒唐無稽な妄想だと分かっているのだ。
「……昨日教わった足の置き方、昔の試合映像にも出てきたんです」
「先生と同じ?」
「似た動きです。でも、映像ではもっと簡単そうに打ってて」
「じゃあ、律ちゃんもできるようになるんじゃない?」
「それができないから困ってるんです」
「そっか。頑張れ、律ちゃん」
美波はそれ以上深く突っ込もうとしなかった。
「まあ、先生が昔ボクシングやってたってのは本当みたいだよね」
「本人も認めてました」
「どのくらい強かったんだろ」
「さあ……そこまでは」
「聞けばいいじゃん」
「教えてくれませんでした」
「あはは、先生らしいねえ」
「先生じゃないって怒られますよ」
「律ちゃんまでその返し覚えてきたじゃん!」
律は道具袋を肩に担ぎ直した。
練習場の出入り口付近で、真田が只野に声をかけているのが見えた。
「只野さん、今日このあと少し時間ありますか?」
「ねえよ」
「まだ用件言うてませんけど」
「どうせ面倒な話だろ」
「倉庫から運んだ用具のことで、ちょっと確認したいんですけど――」
「俺に聞くなよ」
「手伝ってもらったから聞いてるんです」
「知らねえよ。綾乃にでも聞け」
「それはそうですけど……」
真田が困ったように頭を掻いている。
だらしなく背中を丸め、缶コーヒーを握りしめた作業着の中年男。どこからどう見ても、あの画面の中で鋭く輝いて見えたボクサーの面影は微塵も感じられない。
律は静かに視線を外した。
似ているのは、あの足の運び方だけだった。
見ただけでできるなら苦労しない。次こそ、あの位置から左を出したい。
◇
その夜。
律は自宅の部屋で、何度も古い動画を開いていた。
見るつもりなどなかった。けれど、検索履歴を指先が勝手にタップしていた。
青いマットの上を、ボクサーが軽やかに歩く。
相手の左が伸びる。
外へ頭を沈める。
一個外。
左ボディ。
律はそこで画面を止めた。
昼間、練習場の床の上で只野が見せた、あの最小限のシャドーが脳裏で重なり合う。
重なる。完璧に重なってしまう。
けれど。
律は画面を指で広げ、足元を拡大した。
靴の輪郭が四角い粒になって崩れる。これ以上大きくしても、足の置き方は分からない。
律はベッドを降り、床に左足を置いた。
半歩、外へ。
手を伸ばす。
近い。もう少しだけ外。
動画では簡単そうだった、自分の足ではまだ置き場さえ決まらない。
律は動画を閉じた。
今度こそ、スマートフォンの画面を机の上に伏せる。
画面の中で何度も見た左と、今日、只野が足で示した一歩。
「……似てるだけ、じゃないのかな」
同じ技術でも、自分が使えるとは限らない。
律はもう一度構えた。今度は、少しだけ拳が前へ出た。
明日の練習で確かめよう。
スマートフォンを伏せても、床の上の左足だけは、なかなか元の位置に戻せなかった。




