第21話 一個外
リングを空けた。
それなのに、来ない。
朝の合同練習が始まって、もう10分。
律は青いキャンバスの上から出入り口を睨んでいた。
昨日、只野は確かに言ったのだ。
『明日、リング空けとけ』
だから真田に頼んだ。
男子の練習予定をずらしてもらい、最初の30分だけ使わせてもらうことにしたのだ。
あと20分しかない。
「律ちゃん、先生って時間指定したっけ?」
リングの下で、美波が足を伸ばしながら笑っている。
「……してません」
「じゃ、遅刻じゃないじゃん」
「リングを空けろと言ったのは、あの人です」
「それはそう」
美波はまるで困っていない顔で頷いた。
困るのは私だ。
リングの使用時間を交渉したのも、昨日からずっと足の位置を考えているのも、私なのだから。
「只野さんの来訪時刻に規則性はありません」
千尋がスマートフォンを見たまま言った。
「調べたんですか?」
「記録はしています。予測には使えていませんが」
「じゃあ、今言う必要あります?」
「ありません」
律は息を吐いた。
二人に付き合っていても、時間が減るだけだ。
ロープから離れ、構えを取る。
目の前にいるのは、佐伯だと思うことにした。
自分よりずっと背の高い相手。
あの長い左ジャブ。
拳が伸びる瞬間を想像し、頭を軌道の外へ沈める。
前足を踏み込み、後ろ足を寄せる。
さらに半歩、懐へ入る。
左を打とうとして、肘が詰まった。
……まただ。
深く入れば、相手の長い右は打ちにくくなる。
けれど、こちらも左を振る場所がなくなる。
では、浅く入ればいいのか。
前足を少し手前で止めてみる。
今度は右の拳が飛んでくる気がして、肩が先に縮こまった。
避けるのはできる。
入るのもできる。
そこから殴る。
それが、つながらない。
「何やってんの」
聞き覚えのある、眠そうな声がした。
振り返ると、只野が入口に立っていた。
作業着のポケットに片手を突っ込み、もう片方には缶コーヒー。
「遅いです!」
「知らねえよ」
「リング、空けておいたんですよ!」
「空いてんじゃん」
「あと20分しかないんです!」
「じゃあ20分やりゃいいだろ」
そういう問題じゃない。
只野はリングへ向かいかけたが、律が足元を指差すと止まった。
「外履きのまま上がらないでください」
「うるせえな」
文句を言いながら作業靴を脱ぐ。
真田が棚から予備の室内用シューズを出してくれた。
「ありがとうございます、真田さん」
「いや、ええよ。リング使うなら、俺も近くにおるから」
真田はロープ脇に立ち、男子部員たちへ先に縄跳びを始めるよう声をかけた。
只野は借りた靴を履き、腹をつかえさせながらロープをくぐった。
上着を脱いでコーナーに置く。
律はバンテージを巻いた手にグローブをはめた。
「ミットは?」
「いらねえ」
「昨日、持ってこいって言いましたよね」
「言ったっけ」
「言いました!」
「忘れた」
……殴っていいだろうか。
「じゃあ、何をするんですか」
「お前、いつものやつで入ってみろ」
「只野さんに?」
「ほかに誰がいんだよ」
只野は左手を前へ伸ばした。
ジャブを出したつもりらしい。
右手は腹のあたり。
顎も上がっている。
あまりに隙だらけで、逆に嫌だった。
「早くしろよ」
「……いきます」
律は膝を緩めた。
伸びた左腕の外へ頭を逃がす。
前足を入れ、もう一歩。
只野の腹が目の前に来た。
左拳を出そうとしても、肩が相手の身体に近すぎる。
肘を曲げたまま押すような形になった。
「近えだろ」
「分かってます」
「じゃあ何でそこまで来んだよ」
「手前だと右をもらいます」
「お前も打てねえじゃん」
「だから聞いてるんです!」
只野が律を見下ろした。
視線が顔から下がり、胸元で止まる。
「……いいおっぱいしてんな」
「どこ見てんですか!」
「目の前にあんだろ」
「最低です」
「知ってる」
律は一歩下がった。
美波の笑い声がリングの下から聞こえる。
「先生、男子もいるんだからさー!」
「だから先生じゃねえっつの!」
近くにいた男子部員が、縄跳びを回す手元へ視線を落とした。
聞こえなかったことにするらしい。
……こんな男に聞かなければならないのが、腹立たしい。
「もう一回やります」
「おう」
律は構え直した。
左腕の外へ頭を沈め、前足を入れる。
さらに踏み込む。
また、近すぎた。
只野が腕を伸ばし、律の肩の後ろへ回した。
「ほら、こうなる」
引き寄せられた肩が、只野の胸元へ押しつけられる。
左拳は完全に使えない。
そこまでは分かる。
なのに、只野は腕をほどかず、わざと身体を寄せてきた。
「ちょっと。くっつかないでください!」
「クリンチの練習だろ」
「違います! 今は入り方の練習です!」
「似たようなもんだ」
「全然違います!」
律は只野の胸を押し、一歩離れた。
腹が立った。
さっきから、この男は人の身体ばかり見ている。
右拳を顔へ伸ばす。
当てるつもりで打った。
鼻先を当てて、少しは黙らせてやりたかった。
ところが。
グローブが届く直前、只野の首がわずかに傾いた。
肩も小さく動き、顔が拳の線から外れる。
律の右は、鼻先をかすめることもなく通り過ぎた。
「……え?」
大きく仰け反ったわけではない。
足も動いていない。
ほんの数センチ。
それだけで、当たると思った場所にはもう顔がなかった。
「鳴瀬、顔はあかんで!」
リング脇から真田の声が飛んだ。
律は右拳を引いた。
「……すみません」
真田へ答えてから、只野を睨む。
「なんで避けるんですか」
「殴られたら痛えだろ」
「寸止めするつもりでした!」
「当たったらどうすんだよ。痛えの嫌だもん」
この男、本当に何なんだ。
只野は答えず、律の足元を見た。
今度は、胸ではない。
「……もう一回」
声が少し低くなった。
律はグローブを上げた。
「また入るんですか?」
「そう。いつもどおり」
只野の左手が伸びる。
頭を外へ。
前足を踏み込む。
後ろ足を寄せる。
もう半歩――。
「そこ」
律は止まった。
「ここですか?」
「違う。今、行きすぎた」
「だから、どこまでですか」
只野は舌打ちし、律の前足の横へ自分のシューズを置いた。
律がいつも深く踏み込む位置から、靴一足ぶん斜め外側。
「そこまで入らなくていい。こっちだ」
律は示された場所へ前足を移した。
さっきまでより身体が相手から離れ、少し外へずれる。
「……ここ?」
「そこだ。一個外で打て」
「一個……外?」
「そう」
「何の一個ですか」
「靴だよ。お前の靴、一個ぶん」
律は自分の足元を見た。
頭は只野の左の軌道から外れている。
肩は只野の身体に触れない。
左肘を曲げても、脇が潰れない。
右脇腹が見えた。
ここなら、左が届く。
「打ってみろ」
律はゆっくり左を出した。
グローブは只野の脇腹に触れる前で止める。
さっきまでと違う。
肘を無理に畳まなくていい。
肩も回る。
「……ここですか」
「今はな」
「今は?」
「相手が動きゃ変わるだろ。もう一回」
律は元の位置へ戻った。
頭を外へ。
潜る。
前足を斜め外へ置く。
そこで、左を打とうとして一拍止まった。
「遅え」
「今、位置を確認してたんです!」
「止まんな」
「止まらないと、そこに足を置けません!」
「足じゃねえよ。身体ごと止めんな。潜ったら止まるな。そのまま左」
「……同時に?」
「そうだよ」
「だったら、最初からそう言ってください!」
「今言っただろ!」
只野が面倒くさそうに前へ出た。
「場所貸せ。お前、そこに立って左を伸ばせ」
律が左グローブを前へ伸ばすと、只野はその正面に立った。
借り物の室内シューズ。
出っ張った腹。
とても速く動ける身体には見えない。
けれど。
只野は頭を左の軌道から外し、前足を斜め外へ運んだ。
足の裏がキャンバスを捉えるのと同時に腰が回る。
短い左。
拳は律に届かないところで止まった。
ただそれだけなのに、途中で引っかかる場所が一つもなかった。
「……今の」
「お前のやつだろ」
「私のと、違います」
「深さだけだよ」
只野はもう元のだらしない立ち方に戻っていた。
律は今見た足元を、自分の足でなぞった。
頭を外へ。
前足を斜め外へ置く。
足の裏で床を捉え、その動きのまま腰を回す。
左。
……打てる。
「ミット」
只野が言った。
「いらないんじゃなかったんですか」
「当てるなら要るだろ」
律が棚を指すと、只野は顔をしかめた。
「分かってんだよ!」
リング下にいた真田が、厚手のボディミットを渡してくれた。
只野はそれを右脇腹の前に構えた。
ミットの面が、律の左拳を向いている。
「変なとこ打つなよ。俺、もう若くねえんだから」
「知ってます」
「そこは否定しろよ」
「早く構えてください」
律はグローブを上げた。
只野の左手が伸びる。
外へ潜る。
前足を斜め外へ置く。
足が床を捉えるのと同時に腰を回し、左を短く振る。
――ドッ。
ミットの革が沈んだ。
さっきまで、拳を出そうとする前に肩がつかえていた。
今は違う。
足で床を押した力が腰の回転につながり、そのまま左へ伝わった。
「……あ」
「もう一回」
元の距離へ戻る。
潜る。
外へ。
左。
――ドッ。
「もう一回」
今度は深く入りすぎた。
ミットの端をかすめる。
「違う。近え」
「はい!」
戻る。
前足を置く。
左。
「遅い」
戻る。
もう一度。
「今の」
当たった。
同じことをしているつもりでも、少しずつ違う。
深く入りすぎることも、手前で止まってしまうこともある。
それでも、うまくいった一発だけは分かった。
左が、詰まらなかった。
只野はミットを下げた。
「今日はそこまで」
「まだできます」
「お前はな。俺の腕が痛えんだよ」
「じゃあ、明日もやります」
「勝手にしろ」
律は息を整えながら、自分の前足を見た。
新しい技を覚えたわけではない。
ずっとやってきた潜り方だ。
ずっと打ってきた左だ。
ただ、最後の一歩を入れすぎていた。
「……こんな違いで」
「何だよ」
「こんな少しの違いで、こんなに強く打てるんですか…」
「今、打てただろ」
律は頷きかけて、首を振った。
「まだ毎回同じようにはできません」
「なら、やれ」
それだけ言って、只野はミットを真田へ返した。
律はふと、さっきの動きを思い出した。
腹の出た中年男が、借り物の靴で見せた、あの短い左。
「只野さん」
「あ?」
「それ、誰に教わったんですか」
只野は一瞬だけ口を閉じた。
「忘れた」
「そんなわけないでしょう」
「うるせえな」
リングを降りながら、只野がぼそりと呟く。
「……俺、何やってんだろうな」
「自分から来たんでしょう」
「お前がしつこいからだろ」
「来いとは言ってません」
「可愛げねえなあ」
「あります」
「どこにだよ」
「知りません!」
美波がまた笑っている。
「先生、律ちゃんに負けっぱなしじゃん!」
「だから先生じゃねえっつの!」
只野は文句を言いながら、椅子の方へ戻っていった。
律はリングに残った。
もう一度、左手を前へ伸ばす。
その外へ潜る。
前足を置く。
左。
今度は、途中で止まってしまった。
……難しい。
でも、さっきの一発は確かに打てた。
律は構えを解かず、出入り口の方を見た。
只野が避けた右ストレート。
只野が一度だけ見せた、あの短い左。
自分が何年も練習してきた動きのはずなのに、あの人の足の運びだけが、妙に記憶に引っかかっていた。
どこかで、見たことがある気がした。




