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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
二章

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第20話 新しい練習場


 新しい練習場には、リングがあった。


 青いキャンバス。四方を囲むロープ。天井から吊るされた4本のサンドバッグ。壁一面の鏡の前では、男子部員が2人、縄跳びをしている。


 綾乃は入口で足を止めた。


 昨日、みんなで荷物を運んだときにも見た場所だ。けれど、あのときは倉庫から持ってきた用具を片づけるだけで精いっぱいだった。


 今日からは、ここで練習していい。


 倉庫の硬い床にマットを敷いていた頃は、リングに上がるだけでも、男子の拳闘部に頼まなければならなかった。


「綾乃、何してんの?」


 後ろから美波に肩を叩かれた。


「……ちょっと、見てた」


「昨日も見たじゃん」


「そうだけど」


「入ろうよ。うちらの部なんだから」


 美波は迷いなく練習場へ入っていった。


 うちらの部。


 まだ少しくすぐったい。綾乃は美波を追い、リングの角にある踏み台を上がった。ロープの間をくぐって、キャンバスを踏む。


 足の裏が、わずかに沈んだ。


 ロープに手をかけて押すと、張りのある反発が返ってくる。試合のときだけ借りていたリングを、今は練習のために使える。


「綾乃先輩!」


 入口から、ひまりの声がした。大きな道具袋を抱え、天井を見上げている。


「サンドバッグ、4つもあります!」


「向こうのは1本だったからね」


「全部使っていいんですか?」


「男子と順番にね」


「はい!」


 ひまりは嬉しそうに一番近いバッグへ向かった。後ろから入ってきた千尋は、入口脇の棚を確認している。


「先輩。昨日運んだタイマー、ここでいいですか?」


「うん。真田くんたちにも確認して」


「分かりました」


 千尋はすぐ近くの男子部員へ声をかけた。律はもう壁際でストレッチを始めている。


 みんな、昨日までと変わらない。それが少し嬉しかった。


 綾乃がリングを降りると、美波が戻ってきた。


「そうそう。女子ロッカー、男子とちゃんと分かれてた。鍵もある」


「よかったね」


「いや、そこ大事だから。変なのいるし」


 美波が壁際を顎で示した。


 パイプ椅子に座っているのは、汚れた作業着の中年男だった。


 只野汚山。


 昨日、あれほど文句を言いながら荷物を運んでくれた男が、今日も缶コーヒー片手に居座っている。


 見学者として入っていいかは、昨日、真田に確認してもらった。施設を使う部員でも、登録されたコーチでもない。それなのに、誰よりも先に来ていたらしい。


「先生、女子ロッカー覗いたら警察呼ぶからね」


「誰が覗くかよ」


「ほんとに?」


「鍵かけんだろ?」


「当たり前じゃん」


「じゃあ無理だな」


「やる気だったの!?」


 美波の声に、近くの男子部員が振り返った。


「只野さん」


 綾乃は椅子の正面に立った。


「そういう発言は、新しい部では控えてください」


「古い部ならよかったのか?」


「よくありません」


「じゃあ変わんねえだろ」


 どうして注意するたびに余計なことを言うのだろう。


 それでも、今日も来てくれた。


「先生、今日は何からやりますか?」


「知らねえよ」


 即答だった。


 近くでバンテージを巻いていた男子部員が、手を止めた。


「……先生?」


「違う」


 只野が面倒くさそうに答える。


「え、コーチなんですか?」


「違うっつってんだろ」


 美波が笑い出した。


「先生、男子にも説明してあげなよ」


「お前が先生って呼ぶのやめろ!」


「綾乃が先に呼んだんじゃん」


「私のせい!?」


 そこへ真田がやってきた。


「白石先輩。まず各自でアップから始めましょうか。リングはあとで順番を決めましょう」


「ありがとう。そうしよう」


 真田は男子部員たちへ声をかけた。縄跳びの音が増える。床を蹴るシューズの音に、奥のミットを打つ乾いた音が重なった。


 男子と女子、合わせて10人。


 新しいボクシング部の、最初の練習だった。


◇


「綾乃、もう一回」


「うん」


 鏡の前の空いた場所で、美波と向かい合った。互いに拳を当てない対面シャドーだ。


 綾乃が左足を前に置き、ジャブを伸ばす。美波は頭を右へ外し、綾乃の左手の外側へ半歩回った。


 速い。


 綾乃が左を戻す頃には、美波はもう次の位置にいる。


「はい、次!」


 美波が笑った。


「ちょっと待って」


「何?」


「今、打てたよね?」


「え?」


「私のジャブを避けたあと。こっち、空いてたよ」


 綾乃は自分の左脇を指した。美波の右拳が、そこへ向く余裕はあったはずだ。


「あー……うん。空いてた」


「なんで打たなかったの?」


「だって、避けたじゃん」


「避けたけど」


「次が来るかもしれないし。だったら、もう一回避けた方がよくない?」


 美波は軽くステップを踏んだ。


 綾乃には、あんなふうに避ける方がずっと難しい。けれど、打ち返さなければ相手はまた踏み込んでくる。


「……もう一回やろう」


「いいよ。今度は打ってみる」


 綾乃がジャブを出す。美波は外へかわした。


 右拳が少し動く。


 しかし、綾乃が構え直すと、その拳は止まった。


「あー、やっぱ無理」


「今、打とうとしたよね?」


「した。でも、打ったら次のパンチ避けられない気がする」


 美波は自分の右手を見た。


「逃げるのは簡単なんだけどなあ」


 簡単。美波はそう言う。


 綾乃が同じことをしようとしても、足が追いつかない。できることが違うから、つまずく場所も違う。


 そのとき、奥から大きな音がした。


 ――ドンッ!


 ひまりの右ストレートだった。サンドバッグが揺れ、吊り鎖が鳴った。


「うわ、すげえ」


 男子部員の1人が思わず声を漏らす。


「えへへ……ありがとうございます!」


 ひまりは照れくさそうに笑った。


「大熊さん、ミットもやります?」


「いいんですか!」


 男子部員がミットを構える。ひまりは左を出し、続いて右を打った。


 ――パンッ。


 サンドバッグのときとは、まるで違う音だった。


「あれ? もっと強く打って大丈夫ですよ」


「あ、はい!」


 ひまりは構え直した。後ろ足で床を押し、腰を回す。


 けれど、拳がミットへ届く直前、肩の動きが鈍った。


 ――パシッ。


 男子部員がミットを下げた。ひまりも不思議そうに自分の右拳を見ている。


 綾乃は声をかけそうになった。


 最後まで打って。


 でも、それで打てるようになるなら、あの存続戦でも苦労しなかった。


「綾乃?」


 美波に呼ばれた。


「あ、ごめん」


「また人のこと見てる」


「……うん」


「今、私と練習してるんだけど」


「そうだね」


 綾乃は苦笑した。


 ひまりが気になる。千尋も、律も気になる。男子部員との練習の進め方も、まだ調整が必要だ。


 気づけば、また全部を考えている。


 最後の試技では、自分が一番信じられる基本のジャブを選んだ。あれで勝てたのに、部長に戻った途端、全員の分まで背負おうとしている。


「美波、もう一回お願い」


「いいよ。今度はちゃんと打つからね」


「うん」


 綾乃は、美波の前足へ視線を戻した。


 まずは、目の前の1人。


◇


 休憩に入る頃、千尋が鏡の前で動きを止めていた。


 左ジャブ。右ストレート。そこで一度止まり、足の位置を確かめる。もう一度、同じ動き。


 綾乃が横を通ると、千尋はスマートフォンで撮った映像を確認していた。


「どう?」


「フォームの再現性は上がっています」


「そうなんだ」


「ただ、試合で同じように動けるかは別です」


 千尋は自分からそう言った。


「あの最初の試技では、相手が途中で動きを変えました。私はそれに気づいていたのに、確認を重ねてしまったんです」


「うん」


「今も、止まって確認する癖が残っています」


 千尋は画面を閉じ、もう一度構えた。


 鏡なら、何度でも止まって見直せる。でも、相手は待ってくれない。


「何か手伝おうか?」


「ありがとうございます。でも、まず自分でもう一回やります」


「分かった」


 綾乃は少し離れた。千尋も、分かっている。なら、今すぐ自分が答えを出す必要はない。


 そのとき、リングの方から声がした。


「……まだ、そこまで入んのかよ」


 只野だった。


 椅子に深く座り直し、律の足元を見ている。


 律はリングの端でシャドーをしていた。低く構え、相手の左ジャブを想定して頭を外へ逃がす。後ろ足で床を押し、前足を大きく踏み込んだ。


 そこから左を振ろうとして、肘が窮屈そうに曲がる。


 律は止まった。


「只野さん」


「何だよ」


「今のですか?」


「うん」


「どこが入りすぎなんですか」


「足」


「足のどこですか」


「前」


「それじゃ分かりません!」


 律の声が練習場に響いた。


 只野は顔をしかめる。


「うるせえな。見たまんまだろ」


「見たまんまじゃ分からないから聞いてるんです!」


 綾乃は二人へ近づいた。


 佐伯との試技でも、律は懐へ深く入ったとき、左を十分に振れなかった。本人もそれを分かっているから、何度も同じ動きを試している。


「先生、少しだけでも――」


「お前までうるせえな」


 只野が綾乃を見た。


「口挟むな。こいつが自分でやってんだろ」


 綾乃は口を閉じた。


 律はもう一度、只野へ向き直っている。分からないことを、何度でも聞ける子だ。綾乃が代わりに尋ねる必要はなかった。


「じゃあ、もう一回やります」


「勝手にしろ」


 律が構える。後ろ足を押し、潜り、さらに踏み込む。左拳がまた詰まった。


 只野の視線が、律の前足で止まる。


「……惜しいな」


 律が顔を上げた。


「何がですか?」


「何でもねえよ」


「今、惜しいって言いましたよね?」


「言ってねえ」


「言いました!」


 律はリングのロープをくぐって降り、只野の正面まで歩いていった。


 綾乃は後を追おうとして、足を止めた。


 今は、律に任せよう。


◇


「白石先輩」


 横から真田に声をかけられた。


「ちょっといいですか」


「うん。何?」


 真田はタオルで汗を拭きながら、壁際の只野を見ていた。


「あの人、本当にコーチじゃないんですか?」


「……本人は違うって言ってる」


「ですよね」


 真田が苦笑した。


「でも、さっきから鳴瀬の足ばかり見てますよ」


「分かる?」


「ええ。入り込んだあとの足の位置を見てはるんです」


 綾乃も只野を見た。


 律が何か言う。只野が面倒くさそうに答える。その間も、只野の視線は律の足元へ落ちていた。


「俺らの試技のときも、あんな感じでした」


 真田が続ける。


「パンチが当たったかどうかより、その前後の動き見てたような気がして」


「……うん」


「何者なんですか、あの人」


 綾乃は少し考えた。


 最初に倉庫であの一撃を見たときから、知りたかったことだ。


 只野は日雇いだと言う。ボクシングをしていたことはあるらしい。でも、どこで何をしていたのかは教えてくれない。


「……私も、よく知らない」


「そうなんですか?」


「うん。でも、ボクシングのことは、よく見えてると思う」


 真田はしばらく只野を眺めていた。


「……せやと思います」


 それだけ言って、また練習へ戻っていった。


 綾乃は少し驚いた。真田ほどの選手でも、同じことを感じるのだ。


 正体は分からない。けれど、只野の短い言葉で、自分たちは何度も助けられてきた。


 それは確かだった。


◇


 練習が終わる頃になっても、律は諦めなかった。


「只野さん」


「まだいんのかよ」


「入りすぎって、どこまでが入りすぎなんですか」


「知らねえ」


「じゃあ見てください」


 律は只野の前で構えた。


「ここから入ります」


「勝手にしろ」


 頭を外へ逃がす。潜る。踏み込む。さらに一歩。


 左を振ろうとして、拳が止まった。


「今のもですか?」


「……うん」


「じゃあ、どこまで入ればいいんですか!」


「だから知らねえって」


「さっきからそればっかり!」


「お前もしつけえな!」


 片づけを始めた男子部員たちが振り返った。


 只野は頭を乱暴に掻く。律は動かない。小さな身体で、只野の正面に立ったままだ。


「教えてください」


「やだね」


「お願いします」


「面倒くせえ」


「お願いします」


「……あー、もう!」


 只野が椅子から立ち上がった。


 律が一歩も退かないので、只野の方が横へずれる。


「明日、グローブ持ってこい」


「毎日持ってきてますけど」


 只野の口が止まった。


「……じゃあ、ミット」


「ここにあります」


 律がすぐ横の棚を指した。


 只野は棚を見た。律を見た。もう一度、棚を見た。


「…………」


 美波が吹き出した。


「あはは! 先生、今の格好つけるの失敗したでしょ!」


「うるせえよ!」


「だって全部あるんだもん!」


「分かってんだよ、そんなこと!」


 男子部員たちからも笑いが漏れた。


 綾乃も、思わず口元を押さえた。


 あの倉庫には、足りないものばかりだった。だから、練習を考えるときは、まず道具があるかどうかを確かめなければならなかった。


 でも、ここにはある。リングも、ミットも、グローブも。


「……ったく」


 只野は悪態をつきながら出口へ向かった。


「待ってください!」


 律が追いかける。


「結局、何をするんですか!」


「知らねえよ」


「またそれですか!」


 只野は引き戸に手をかけた。そのまま出ていくかと思った。


 けれど、扉を開ける直前、振り返らずに言った。


「明日、リング空けとけ」


 律が止まった。


「……リング?」


「そうだよ」


「私が使うんですか?」


「ほかに誰がいんだよ」


「只野さんも?」


「うるせえな」


 引き戸が閉まった。


 律はしばらく扉を見つめ、それからリングへ戻った。


 構える。低く沈む。左ジャブの外へ潜る。踏み込む。


 左拳が詰まった。


 前足を少し引き、もう一度やる。それでも、うまくいかない。


 綾乃は、さっきまで只野が座っていた椅子を見た。


 あの人は存続戦のために相手を調べ、勝つために必要なことを言ってくれた。


 でも、あの勝負はもう終わった。


 次の試合が決まっているわけでもない。ただの、明日の練習だ。


 それなのに、只野は自分から「明日」と言った。


「綾乃、帰るよー」


 美波に呼ばれた。


「うん。律、リングの順番は真田くんたちと相談してね」


「はい!」


 律は返事をすると、また左を振った。


 綾乃は荷物を肩にかけ、出口へ向かった。


 明日、あの人は本当に来るのだろうか。


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