第19話 ボクシング部
申請書の最上部、団体名の欄だけが白く残っていた。
綾乃は学生課の会議室で、その空欄をじっと見つめていた。白い長机を挟んで、隣には美波。向かいには拳闘部の真田が座っている。
統合の形式、練習場所の共用、防具やリングの管理規定、安全指導体制、そして男子と女子、双方の部員名簿。他の項目はすべて埋まっていた。何度も確認し、抜けがないように美波にも確かめてもらい、真田とも一項目ずつ丁寧に読み合わせを終えていた。
けれど、その一番大切な名前の欄だけが、ぽっかりと空いていた。
「名称ですが、どうされますか?」
学生課の職員に促され、綾乃は真田へ視線を向けた。真田も困ったように、額を指で掻きながら申請書を見つめている。
数日前まで、自分たちは互いの譲れないものを賭けてリングの上で拳を交えていた。
3勝2敗。
勝った。けれど、それは「女子同好会が拳闘部を負かして叩き潰した」という意味ではなかった。拳闘部と女子同好会を対等に統合し、1つの部として再構築する――それが、あの勝負の約束だったからだ。
「……大学拳闘部のままじゃ、駄目なんですか?」
隣の美波が、探るような声で聞いた。職員が穏やかに答える。
「規則上は問題ありません。ですが、今回の申請は『既存の拳闘部への女子部員の追加・編入』ではなく、両団体の対等統合という扱いになっています。名称変更を希望されるなら、このタイミングが一番手続きとしてスムーズですが」
「だってさ」
美波が真田を見る。
「どうする、真田くん?」
「俺に振るんですか」
「だって、元はそっちの名前でしょ」
真田はすぐには答えなかった。綾乃にも、その逡巡の理由は痛いほど分かっていた。
『拳闘部』。
自分たちにとっては見慣れた3文字でも、真田たち男子部員にとっては意味が違う。練習場の壁に並んでいた歴代の大会写真。黒ずんだ表彰状。何代も前から受け継がれてきたミットやヘッドギア。そのすべてに刻まれてきた、歴史の重みそのものなのだ。
「名前、残したい?」
綾乃が静かに尋ねた。真田は少しだけ眉を下げ、首の後ろをポリポリと掻いた。
「……そりゃ、なくなるっちゅうのは寂しいです。俺らが入る前からあった名前ですから」
「うん」
「でも」
真田は申請書の白い空欄を見つめた。
「そっちの5人が、俺らの部に『入れてもらう』みたいな形になるのも、なんか違うと思うんです。対等に戦って勝ち取ったのに、それじゃ筋が通りませんから」
綾乃は何も言わなかった。真田がそこまで自分たちの立場を考えてくれていたことが、胸の奥を温かくした。
勝ったから上が奪い取るわけでも、負けたから下がへりくだるわけでもない。そんな関係にするために、5人であの二週間を過ごしてきたわけではないのだから。
「ならさ、普通に『ボクシング部』でいいじゃん」
美波があっけらかんと言い放った。
綾乃と真田が同時に美波を見る。美波が「何その顔」と可笑しそうに笑った。
「もっと捻った名前がいい? 男子女子混合拳闘研究会とか、新生体育会拳闘部とか、大学ボクシングクラブとか。どれがいい?」
「全部嫌です」
真田が即答した。
「でしょ?」
美波は空欄を指差した。
「だったら、ただの『ボクシング部』。一番シンプルで分かりやすいよ」
あまりにも普通だった。けれど、だからこそ綾乃の胸にすんなりと落ちてきた。
男子も女子も付かない。拳闘部でも、同好会でもない。誰もが対等に拳を握るための場所。
「……私、それがいいと思う」
真田も噛み締めるように小さく頷いた。
「俺も、それが一番しっくりきます」
「では、こちらに記入をお願いします」
職員が黒のボールペンを置いた。美波がそれをひょいと取り、綾乃の手元へ押し付ける。
「はい、部長。書いて」
「なんで私?」
「こういうお堅い書類を間違えずに埋めるの、得意でしょ」
「得意じゃないよ……慎重なだけ」
言い返せないのが少し悔しかった。
綾乃はペンを握り、団体名の空欄へ、一画ずつ丁寧に文字を走らせた。
――ボクシング部。
書いてみれば、本当に6文字だけのあっけない名前だった。けれど、書き終えたインクのツヤを見つめていると、胸の奥が震えて、しばらく視線を逸らすことができなかった。
◇
正式な統合承認の通知が学生課から届いたのは、それから3日後の夕方だった。
「通りました!」
千尋が倉庫の引き戸をいつもより速い足取りで開けて入ってきた。手に持ったスマートフォンの画面を、そのまま綾乃の目の前へ突き出す。
「統合申請、正式に承認です。新団体名も『ボクシング部』として登録完了しています」
「本当に!?」
「嘘をつく理由が見当たりません」
「そこは『本当です』でいいの!」
美波が横から画面を覗き込んだ。
「で、部費は? 予算つくの!?」
「予算の執行申請は来年度の別枠処理になります」
「ちぇー、すぐには貰えないんだ」
縄跳びを跳んでいたひまりが、ピタリと動きを止めた。
「じゃあ……私たち、今日から本当に『部』なんですか?」
「今日からです」
「同好会じゃなくて?」
「部です」
「正式な体育会の!?」
「ひまり先輩、何回確認すれば気が済むんですか」
「だって……!」
ひまりの顔がパーッと輝いた。
「部ですよ! 正式な部活です!」
「そこ、そんなに嬉しいんだ」
美波が笑う。
「嬉しいですよ! ちゃんと認められたんですから!」
綾乃も思わず笑顔になった。けれど、そのまま何気なく古い倉庫の中を見渡した瞬間、微笑んでいた口元が微かに止まった。
使い込まれて革の破れかけた古いサンドバッグ。壁の釘に無造作に掛けられたバンテージ。床のコンクリートに直接置かれた救急箱とタイマー。カタカタと異音を立てる首振りの扇風機。
ここで、4人から5人になった。
設備なんて何一つなかった。夏は蒸し風呂のように暑く、床は膝を痛めるほど硬く、部費すらなかった。それでも「なくなってしまうかもしれない」と言われたときは、全員で必死に守ろうとした場所だった。
「で」
美波が辺りを見回す。
「これ、どうすんの?」
一瞬で現実に引き戻された。
「使える備品は、あっちの練習場へ持っていくよ」
綾乃が答える。
「全部持っていくの?」
「向こうにも揃ってるから、重複するものは置いていっていいと思う」
千尋がすぐに端末を操作し始めた。
「移動対象の物品を優先度順に分類します」
「切り替え早いなあ」
美波が呆れる。
「練習拠点が移転する以上、迅速なロジスティクスが必要です」
「余韻とか浸らないの?」
「作業と並行して浸ってください」
「難易度高いって」
ひまりが、静かにサンドバッグへ歩み寄って手で触れていた。
「これも、持っていきますか……?」
「それは、ここに置いていこう。向こうにはもっといいバッグが4本もあるし」
「……そうですか」
ひまりが分かりやすく肩を落とす。
「別に、この倉庫が爆破されて消えるわけじゃないからね。鍵は学生課からそのまま借りておけるし」
「また来てもいいんですか?」
「たぶんね」
「じゃあ、たまに来ます!」
「何しに?」
「……サンドバッグに会いに」
「彼氏かよ!」
美波が吹き出した。
そのとき、ガタガタと大きな音を立てて引き戸が開いた。
「おい、引っ越し屋を呼んだのはどいつだ」
全員が一斉に振り返る。
薄汚れたいつもの作業着を着た只野が、片手にコンビニの袋、片手に缶コーヒーを下げて立っていた。
美波が速攻で手を挙げる。
「はーい、私!」
「金取るぞ」
「缶コーヒー1本でどう?」
「舐めてんのか」
「じゃあ2本!」
「まとめ買いで安くなってんだろ、それ」
只野は悪態をつきながら倉庫の中へ入ってくると、床にまとめられた用具袋を見下ろした。
「何だこれ、多すぎだろ」
「持っていくものです」
綾乃が答える。
「俺、重労働するとすぐ腰やるんだけど」
「さっき普通に歩いて入ってきましたよね」
「歩く腰と持ち上げる腰は別物なんだよ」
「初めて聞きました、そんな解剖学」
只野は舌打ちしながら、一番手前にあった大きな袋のジッパーを開けた。
「グローブ、ミット、縄飛び……」
そのまま隣にあった小さめのトートバッグへ手を伸ばす。美波がすかさずその手をパンッと叩いた。
「そこ、女子の着替え!」
只野の手がピタリと止まる。
「先に言えよ」
「なんでちょっと嬉しそうな顔してんの」
「気のせいだ」
「顔が思いっきり鼻の下伸ばしてる!」
「四十九のおっさんの顔をそんな凝視すんな。惚れるぞ」
「ないないない!」
「即答すんな。傷つくだろ」
「傷つく機能ついてたんだ」
綾乃はこめかみを押さえた。
「只野さん、無駄口叩いてないで手を動かしてください」
「俺、何しにここに来たんだっけな……」
「荷物運びです」
「そこ即答すんのやめろ」
文句を言い散らしながらも、只野は一番重そうな金属骨組み入りの用具バッグをよっこらしょと持ち上げた。
「重っ……!」
「無理なら私たちが持ちますよ」
綾乃が手を伸ばすと、只野は半身を引いてかわした。
「いい。中で荷物崩れて怪我されたら労災申請する」
「どこに申請するんですか」
「大学学生課」
「只野さん、大学の職員じゃありません」
「じゃあ、お前らの同好会」
「もっと違います。もう同好会でもありません」
只野はぶつぶつと文句を並べ立てながら、バッグを片肩へ担ぎ直した。その横を、律がミットを両手で抱えて通り過ぎようとする。
「それ、私持ちます」
「いらん。お前が持ったら地面引きずるだろ」
「引きずりません」
「身長何センチだっけ?」
「言いません」
「151」
「なんで覚えてるんですか!」
「チビの数字は覚えやすいんだよ」
「最悪です」
律が冷たい目で睨みつけ、只野も上から見下ろす。
そのとき、只野の視線が、ふっと律の足元へ落ちた。
「……お前、その入り方まだやってんのか」
「何がですか」
「試技の最後。入ったあと、左打てなくなってただろ」
律の顔から、さっきまでの苛立ちが消えた。
「……見てたんですか」
「見えるだろ」
「じゃあ、どこまで入ればいいんですか」
「知らん」
「またそれですか!」
「今は荷物持て。部員だろ」
「只野さんは何なんですか」
「部員じゃねえ」
「じゃあ、なんで一番重い荷物担いでるんですか」
只野の足がピタリと止まった。
「……俺が一番聞きてえよ」
美波が爆笑した。
◇
最後に残ったのは、倉庫の壁にテープで貼られていた古びた紙だった。
『女子ボクシング同好会 部員募集』
綾乃が最初に自分で印刷し、自分で貼ったものだ。端が湿気で少し黄ばんでいる。
「剥がす?」
美波が隣で聞いた。
綾乃は少しだけ迷ってから、頷いた。
「うん」
セロハンテープを端から慎重に剥がす。紙がバリバリと音を立てて壁から離れた。それだけで、ガランとした倉庫が急に広く見えた。
「捨てますか?」
千尋がゴミ袋を持って尋ねる。
「……取っておく」
「綾乃って、そういうの絶対捨てられないタイプだよね」
美波が笑う。
「悪い?」
「ううん、別に。そのうち新しい部の部室ができたら壁に飾れば?」
「やめて、恥ずかしいから」
「創部の歴史でしょ」
「同好会だったの、実質3週間くらいだけどね」
「短っ!」
千尋が真顔でツッコむ。
ひまりが笑い、律も小さく口元を緩めていた。綾乃は紙を折らないように丁寧にクリアファイルへ収めた。
外から只野の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい! 誰かドア開けろ! 両手塞がってんだよ!」
「はいはい今行きます!」
美波が走っていく。
「『はい』は1回!」
「お母さんかよ!」
「殴るぞ!」
夕暮れの倉庫に、賑やかな笑い声が響き渡る。
綾乃は最後に一度だけ、誰もいなくなった暗がりの中を見渡した。
ここで始まった。
けれど、この場所に留まるために勝ったわけではない。
「綾乃先輩!」
ひまりが入り口から手を振る。
「行きましょう!」
「うん」
電気のスイッチを落とし、重い引き戸を閉め、鍵をかける。
外では、只野が巨大なバッグを担ぎ直しながら待っていた。
「遅えんだよ」
「すみません」
「早くしろ、重え」
「一回下に置けばいいじゃないですか」
「一回下ろしたもんをもう一回持ち上げる方が面倒なんだよ」
律がその横を並んで歩く。
「明日、もう一回見てください」
「何をだよ」
「私の潜り方です」
「やだね」
「見てください」
「しつこい女はモテんぞ」
「関係ありません」
「俺はモテる女の方が好きだ」
「聞いてません」
只野が顔をしかめ、歩みを止めた。
「お前らさ……」
「なんですか?」
「俺を、新しい練習場まで連れてく気か?」
誰もすぐには答えなかった。美波が笑いながら先頭を歩いていく。
「荷物、そっちに運ぶんでしょ?」
「今の荷物の話じゃねえよ」
「じゃあ何の話?」
只野は口を開きかけ、そして閉じた。
「……何でもねえよ」
また、だるそうに歩き出す。
綾乃は、その後ろ姿を静かに見つめた。
肩には自分たちの重い荷物。口では嫌だ、面倒だと吐き捨てる。なのに、彼の足は帰る方向とは逆へ向かっている。
明日からは。
男子の拳闘部でもない。
女子の同好会でもない。
ただの、ボクシング部。
10人の部員と。
なぜか1人ついてくる、肩書きのないスケベな男。
綾乃は少しだけ笑った。
新しい練習場までは、まだ少し歩く。




