第18話 あと1個
二勝二敗。
綾乃が青いロープをまたぐ。
キャンバスへ下ろした左足が、少しだけ重い。
振り返った。
千尋はタブレットを胸に抱えている。負けてから、画面ばかり見なくなった。
美波はトップロープへ肘を乗せ、いつもの顔で笑っている。
ひまりは両手を胸の前で組んでいた。自分が試合をしていたときより、今の方がよほど緊張している。
律は額へ髪を張りつかせたまま、黙ってこちらを見ていた。
四人が一試合ずつ戦った。
二勝二敗。
残った一つが、自分だった。
「綾乃先輩」
ひまりが呼ぶ。
「お願いします」
「うん」
「ひまり」
美波が肩を小突いた。
「それ、一番言っちゃ駄目なやつだよ」
「え?」
「こいつ、頼まれると勝手に全部背負っちゃうから」
「美波」
「ほら。もう怖い顔してるし」
「してない」
「してるしてる」
言い返そうとして、やめた。
図星だった。
口の中が乾いている。
千尋が集めてくれたデータ。
相手の左。
踏み込んでくる右。
返しの左フック。
距離。
ポイント。
あと一試合。
自分が落とせば終わる。
頭の中へ、やることが次々と増えていく。
「おい」
横から声がした。
只野だった。
前の試合が終わってから、まだ立っている。
空いたパイプ椅子の横で腕を組み、綾乃の顔を見ていた。
「何ですか」
「顔こええぞ」
「今、美波にも言われました」
「二人に言われたら認めろ」
「試合前なんですけど」
「知ってる」
只野の目が一度、綾乃の胸元へ落ちた。
「怖い顔すんなよ。胸見るか顔見るか迷うだろ」
「どっちも見ないでください」
「無茶言うな。目ぇ付いてんだぞ」
「最低」
「知ってる」
「開き直らないでください」
「四十九にもなって今さら直すの面倒なんだよ」
美波が吹き出した。
「最低を年齢のせいにした」
「うるせえ」
綾乃の肩から、少しだけ力が抜けた。
リングの向こうを見る。
相手はもう軽く足を動かしている。
「何かありますか」
「何が」
「最後の試合なので」
「知らん」
「律には言ってましたよね」
「勝手に口から出ただけだ」
「私には出ないんですか」
「出ねえよ」
「負けたらどうするんですか」
「帰って飲む」
「私たちの話です」
「知らん」
即答だった。
腹が立つ。
それでも待った。
只野が面倒そうに眉を寄せる。
「……お前さ」
「はい」
「また全部背負ってリングに上がろうとしてんだろ」
綾乃は黙った。
只野はもうこちらを見ていない。
「あと一個取れりゃいいんだろ」
「……はい」
「なら一個取りに行け」
「何をですか」
「そこまで俺に聞くな。自分で決めろや」
レフェリーから声がかかった。
それだけだった。
本当に、それだけ。
綾乃は中央へ歩く。
一個。
何を持っていく。
右ストレート。
左フック。
ボディ。
足。
カウンター。
高校一年から六年間。
覚えたものなら、いくらでもある。
でも。
構えた瞬間、左拳が少し前へ出た。
最初に教わったもの。
何万回打ったか分からない。
疲れても出る。
怖くても出る。
迷ったとき、身体が勝手にそこへ戻る。
ジャブ。
綾乃は顎を引いた。
◇
ゴング。
相手の左が先に来た。
速い。
綾乃は頭を右へずらす。
グローブがこめかみの横を抜けた。
すぐ左を返す。
相手が下がる。
届かない。
追わない。
拳を戻す。
もう一度。
左。
今度は右手で払われた。
そのまま相手の右が飛んでくる。
綾乃は左肩を上げ、顎を隠した。
拳が肩を擦る。
右を返せる。
身体が動きかける。
その前に、左。
相手の額へ触れる。
半歩離れる。
中央へ戻る。
相手の眉が少し動いた。
また左。
相手も左。
グローブ同士がぶつかる。
綾乃はすぐ引いて、もう一本。
今度は額へ当たった。
相手が一歩下がる。
追えばワンツーまで入る。
右腰に力が入る。
やめた。
戻す。
左。
相手が動き出す前に置く。
肩。
胸。
グローブ。
きれいに顔へ当たらなくてもいい。
相手が何かを始める前に、一本ある。
それだけで、最初の動きが少し遅れる。
「白石ー!」
只野の声が飛んできた。
「地味すぎて寝るぞー!」
綾乃の眉が動いた。
今言うか。
「黙って見てて!」
美波が怒鳴り返す。
「見てるから眠いんだよ!」
「じゃあ寝てろ!」
「金取られるなら寝ねえよ!」
「払ってないでしょ!」
何なんだ、あの二人。
相手の左。
綾乃は頭を外す。
左を返す。
相手が下がる。
追わない。
また中央。
地味で結構。
カン。
第1ラウンドが終わった。
◇
「地味!」
戻った瞬間、美波が言った。
「さっき自分で怒ってたでしょ」
「あれはあいつが言ったから腹立ったの」
「同じこと言ってる」
「私は褒めてる」
「絶対嘘」
「でも、今までで一番地味」
「だから褒めてない」
ひまりが首筋へ冷たいタオルを当ててくれる。
「でも先輩、相手の人、すごく嫌そうでした」
「そう見えた?」
「はい」
千尋がタブレットを見る。
「先輩のジャブで、相手のファーストアクションが遅れてます」
美波が眉を上げる。
「最初の一手を、毎回左で邪魔してるってこと?」
「かなり大ざっぱですが、そうです」
「それでいいじゃん」
「精度が落ちます」
「試合中に論文は書かないから大丈夫」
ひまりが笑った。
綾乃も少し笑う。
千尋が画面を見ながら続けた。
「相手は先輩の左を一度処理してから次へ移っています。今のところ、それで先手を取れています」
「そっか」
数字を聞いても、さっきまでのように頭の中が膨らまない。
左。
そこだけ見ればいい。
綾乃は只野を見る。
もう椅子に座っていた。
「ちゃんと見てました?」
「見てたよ。途中から」
「途中から?」
「最初は脚見てた」
綾乃は少し意外だった。
「足運びですか」
「太もも」
「帰ってください」
「試合終わるまで帰らせねえの、お前らだろ」
拍子木が鳴った。
只野は缶コーヒーを振る。
「ほら。次行け。俺の鑑賞タイム終わるだろ」
「最低」
「三回目」
◇
第2ラウンド。
相手は出方を変えてきた。
綾乃が左を出す。
その下へ頭が入る。
速い。
距離を一気に潰された。
「っ」
脇腹へ衝撃。
左。
綾乃は肘を締める。
すぐ右が来た。
頭を守る。
近い。
肩がぶつかりそうな距離。
ここでは長いジャブが伸びない。
相手が押してくる。
綾乃が半歩下がる。
また来る。
右を打てる。
左ボディもある。
アッパー。
クリンチ。
横へ逃げる。
頭の中に、選択肢が一気に増えた。
右を出す。
外された。
左が返ってくる。
避ける。
なら次。
ワンツー。
相手が少し下がる。
追う。
左。
右。
左フック。
全部知っている。
全部練習した。
だから全部出せる。
なのに。
相手の動きが急に軽くなった。
綾乃の右を外す。
すぐ返す。
左フックの下へ潜る。
また来る。
打ち合いになった途端、向こうの方が楽しそうに見えた。
「おい白石!」
只野の声。
「全部盛り始めんな! ラーメンかお前!」
うるさい。
今、分かってる。
そう思った瞬間。
頬へ硬い衝撃。
「っ!」
視界が横へ流れる。
右足が半歩ずれた。
背中へロープが当たる。
「綾乃!」
美波の声。
相手が来る。
右。
ガード。
左。
肩で受ける。
次。
何を返す。
右。
アッパー。
クリンチ。
足。
また増えている。
違う。
綾乃は左を出した。
相手の鼻先。
パシッ。
前進が止まる。
もう一本。
今度は胸。
相手の足が一瞬止まった。
綾乃は横へ出た。
ロープから離れる。
中央。
相手も向きを変える。
左。
払われる。
すぐ、もう一本。
額へ当たる。
相手の頭が少し上がった。
綾乃は息を吐いた。
これだ。
まずは、これ。
右を捨てるわけじゃない。
足も使う。
守る。
でも、迷ったら先に左。
相手が来る。
左。
止まる。
綾乃が離れる。
また左。
カン。
第2ラウンド終了。
◇
椅子へ座った。
頬が熱い。
ひまりがタオルを当てる。
「大丈夫ですか?」
「平気」
「赤いです」
「あとで冷やす」
美波が顔を覗き込む。
「美人が台無しだよ」
「誰が美人だ」
「そこ否定するんだ」
「今はどうでもいいでしょ」
「俺は美人だと思うぞ」
横から只野が口を挟んだ。
綾乃は振り向く。
「聞いてません」
「じゃ、言っとく。身体込みで」
「黙っててください」
「褒めてんのに」
「どこがですか」
美波が腹を抱えている。
「先生、今のはアウト」
「先生って呼ぶな」
「そこ?」
「そこだよ」
いつもどおりだ。
少し笑えた。
千尋がタブレットを見る。
「今のロープ際、ストッピング・ジャブになってました」
美波がすぐ言った。
「前へ来るところに左置いて、止めたやつね」
「そうです」
ひまりも頷く。
「顔じゃなくて胸に打った方」
「はい。倒すためではなく、前進を止めるための――」
「千尋」
美波が手を上げた。
「そこから長い?」
「少し」
「続きはあとで」
「重要なんですけど」
「今は綾乃の呼吸戻す方が重要」
千尋が口を閉じる。
不満そうだが、タブレットも下げた。
綾乃は只野を見る。
「また、やりました」
「何を」
「全部」
「見てた」
「気づいてたんですか」
「ラーメン呼ばわりまでしたろ」
「例えが最悪です」
「伝わったならいいだろ」
「もっと普通に言えないんですか」
「普通に言ったらコーチみたいで気持ち悪い」
綾乃は一瞬、返す言葉を失った。
只野は缶を傾けた。
空だった。
「自分で戻れたんだから、それでいいだろ」
今度は、少しだけ声が低かった。
「一個でいいんですよね」
「知らん」
「言った本人ですよ」
「俺の言うこと真に受けるな。人生失敗するぞ」
「説得力ありますね」
「だろ」
拍子木が鳴る。
綾乃は立った。
「行ってきます」
「おう」
只野は空き缶を片手で潰そうとして、潰れずに諦めた。
◇
最終ラウンド。
相手は最初から近づいてきた。
もう綾乃に、楽に左を伸ばさせるつもりはない。
頭を動かす。
前の手で触る。
低く入ってくる。
綾乃の左が空を切った。
すぐボディ。
肘で受ける。
左フック。
右手で守る。
近い。
長いジャブは出ない。
綾乃は右足を斜め後ろへずらした。
身体の正面を少しだけ外す。
相手も向きを変えてくる。
左。
腕を伸ばしきれない。
短く出す。
額へ当たった。
相手の頭がわずかに起きる。
その間に一歩離れる。
距離が戻った。
左。
今度は長く伸ばす。
払われる。
もう一本。
胸へ。
相手の前足が止まる。
綾乃も止まる。
追わない。
相手がまた来る。
左。
右。
一つずつ受ける。
まっすぐ後ろへ逃げない。
横へ出る。
向き直った相手へ、また左。
逆へ動く。
また左。
入ろうとすれば左。
止まれば左。
離れれば、半歩だけ入って左。
派手なものは何もない。
でも、相手はさっきから一度も好きな形で入れていない。
左肩が重い。
前腕が張ってくる。
拳を戻すたび、腕が少しずつ遅くなる。
「腕下がってんぞー!」
只野の声が飛んだ。
「分かってます!」
思わず返した。
「喋る元気あんなら上げろ!」
腹が立つ。
でも左手が少し上がった。
それでも出る。
相手が大きく右を振った。
綾乃は頭を外した。
拳が耳の横を抜ける。
相手の身体が前へ流れる。
右が空いた。
打てる。
今度は迷わなかった。
まず左。
顔を上げさせる。
そこへ右をまっすぐ出した。
ガッ。
硬い感触。
相手の頭が後ろへ動く。
「おお!」
只野の声が聞こえた。
今のは、指示じゃない。
ただの声だった。
綾乃は追わない。
一歩戻る。
構え直す。
相手が来る。
また左。
それでいい。
右を使っても。
足を使っても。
戻るところだけ決めておく。
頭の中が、さっきまでよりずっと静かだった。
相手が最後に踏み込んでくる。
左。
かわす。
右。
肩で受ける。
もう一歩来る。
綾乃も左足を踏み込んだ。
最後の左。
パシッ。
ヘッドギアの正面を叩く。
カン、カン、カン!
ゴング。
綾乃は左拳を戻した。
そこで初めて、腕の重さに気づいた。
◇
勝ったかどうかは分からない。
第1ラウンド。
第2ラウンド。
第3ラウンド。
頭の中で計算しかけた。
やめる。
もう何も変えられない。
綾乃はリング中央へ歩いた。
相手と並ぶ。
レフェリーに手首を取られる。
ロープの向こう。
美波が身を乗り出している。
ひまりは胸の前で手を握っている。
千尋はタブレットを閉じていた。
律は唇を結び、両拳を固めている。
只野は。
壁際。
また立っていた。
缶コーヒーまで床へ置いている。
本当に今日はよく立つ。
レフェリーが手を上げた。
「青!」
綾乃の右腕が上がる。
一瞬。
何も聞こえなかった。
「綾乃ぉぉぉ!」
美波の声で音が戻った。
「先輩!」
「勝った!」
律まで両手を上げている。
その横で。
「よっしゃあ!」
誰より太い声が響いた。
只野だった。
両拳まで上げている。
全員が一度、そちらを見る。
只野も自分の両手を見る。
「……何見てんだよ」
先に目を逸らした。
千尋が言った。
「三勝二敗です!」
三勝。
綾乃は息を吐いた。
口元が勝手に緩む。
涙が出たのは、そのあとだった。
◇
リングを降りる。
床へ足をつけた瞬間、ひまりが抱きついてきた。
「綾乃先輩!」
「待って、まだグローブ!」
「勝ちましたぁ……!」
「うん」
「本当に勝ちました!」
「うん。勝った」
美波が横から肩へ腕を回してくる。
「いやあ、地味だった」
「まだ言う?」
「超地味」
「美波」
「でも最高に嫌なジャブだった!」
「褒め方」
律も寄ってくる。
「最後、右まで出しましたね」
「うん」
千尋が横から言った。
「ジャブを起点にしたワンツーです」
美波が振り向く。
「それは全員分かる」
「説明ではなく確認です」
「千尋ちゃん、負けず嫌いだなあ」
「違います」
「はいはい」
ひまりが吹き出す。
綾乃も笑った。
四人の声が重なる。
うるさい。
暑い。
でも、嫌じゃない。
綾乃は四人を見る。
千尋が最初を戦った。
美波が一つ取った。
ひまりが次へつないだ。
律が二勝二敗まで戻した。
最後に、自分が一つ取った。
五人で三つ。
それでよかった。
「先生」
壁際へ声をかける。
只野が嫌そうな顔をした。
「誰が先生だ」
「勝ちました」
「見りゃ分かる」
「一個でよかったです」
「何が」
「……もういいです」
「そうしろ」
只野が鼻の下をこすった。
「まあ、俺の采配だな」
「ほとんど何もしてませんよね」
「名将は黙って座ってるもんだ」
「途中ずっと立ってましたよ」
律が横から言った。
只野が律を見る。
「細けえ女はモテねえぞ」
「セクハラです」
「何でもそれで片づけんな」
「だいたい合ってます」
美波が笑った。
只野は足元の空き缶を拾い、数メートル先のゴミ箱へ投げる。
カラン。
縁に当たって床へ落ちた。
「下手」
律が言う。
「うるせえ、チビ」
「チビじゃありません」
「百五十一はチビだろ」
「数字で言うな!」
ひまりが笑った。
千尋まで口元を緩めている。
綾乃も笑った。
三勝二敗。
これで終わらずに済む。
そう思ったところで。
綾乃は思い出した。
勝てば、女子同好会をそのまま残せる。
そういう話ではなかった。
拳闘部と女子同好会。
二つを一つにする。
その条件で、この五対五を受けた。
向こうを見る。
さっきまで殴り合っていた五人がいる。
こっちも五人。
勝った。
だから次は。
この十人が、同じ部活になる。
「……試合より面倒かも」
「何が?」
美波が聞いた。
綾乃は向こうを指した。
「このあと」
美波も見る。
数秒。
「あー……」
笑顔が消えた。
只野だけが、外した空き缶を拾いながら言った。
「俺、もう帰っていい?」
「駄目です!」
五人の声が、きれいに重なった。




