第17話 正面から行くな
佐伯は、遠かった。
リングの外から見ていたときより、同じキャンバスに立った今の方が遠い。
律は青いロープをまたぎ、靴底で床を一度こすった。
身長差、17cm。
数字だけなら知っている。千尋の資料にも書いてあった。家のジムでも、自分よりずっと背の高い相手とは何度もやってきた。
だから、大きいだけなら怖くない。
嫌なのは、佐伯がそのリーチの差をちゃんと使えることだった。
顔が高い。
肩が高い。
そして、前に置かれたグローブが遠い。
あそこを越えなければ、自分の拳は何も届かない。
中央へ出る。
グローブを合わせた。
佐伯は律をまっすぐ見ていた。
小さいから。
女子だから。
そんな顔ではない。
普通に殴り合う相手を見る目だった。
それでいい。
律は自分のコーナーへ戻った。
綾乃、美波、ひまり、千尋。
その後ろで、只野はパイプ椅子へ深く座っていた。脚を開いて、片手に缶コーヒーを持っている。
どう見てもセコンドではない。
「何かありますか」
律が聞いた。
「何で俺に聞くんだよ」
「ずっと見てたでしょう」
「胸はな」
「試合前ですよ」
「だから?」
「最低ですね」
「知ってる」
只野は缶を傾けた。
律は待った。
何も言わない。
「本当にないんですか」
「ない」
「即答ですか」
「じゃあ、何て言えば満足なんだよ」
「佐伯さんのジャブとか」
「来るだろ」
「それは分かります」
「じゃあ問題ねえじゃん」
「あります」
開始を促す声がかかった。
律はマウスピースを口へ入れる。
只野がぼそっと言った。
「正面から行くと、一生届かねえんじゃね」
律は振り向いた。
「……それ、作戦ですか」
「知らね」
ゴングが鳴った。
◇
最初の左で、意味が分かった。
佐伯のジャブが額へ触れた。
強くはない。
でも、一歩目が止まった。
律が踏み込み直す。
また左。
今度は鼻先。
さらに出ようとすると、前の肩を小さく叩かれた。
倒すための拳ではない。
ここから先へ入るな。
目の前に棒を置かれている。
律は一度離れた。
遠い。
佐伯の左肩が動く。
律は腰を落とした。
ジャブの外へ頭をずらしながら、一気に踏み込む。
一歩。
もう一歩。
入った。
左を胴へ――。
振れない。
「っ」
近すぎた。
佐伯の胸が目の前にある。
左腕を走らせる隙間がない。
佐伯が上から身体をかぶせてきた。肩がぶつかり、律の頭が胸元へ押し込まれる。
ここまで入れば、大きなパンチは飛んでこない。
安全だ。
その代わり、自分も打てない。
レフェリーが間へ入る。
二人が離された。
また遠くなる。
佐伯のジャブ。
律は外へ潜る。
佐伯が下がった。
律は追った。
もう一歩。
近い。
また左が詰まった。
――入りすぎ。
この倉庫へ初めて来た日に、只野に言われた言葉が浮かぶ。
何が入りすぎなのか。
どこまでならいいのか。
まだ分からない。
分からないから、相手へくっつくところまで行ってしまう。
佐伯が離れる。
律はまた追う。
左。
外す。
踏み込む。
佐伯が下がる。
さらに追う。
「追うな!」
怒鳴り声が飛んできた。
律の足が止まった。
横を見る。
只野が立っていた。
パイプ椅子を蹴ったのか、少し後ろへずれている。
「前見ろ、バカ!」
「今そっちが呼んだんでしょう!」
佐伯のジャブが額へ当たった。
「ほら見ろ!」
「誰のせいですか!」
リングの外で美波が吹き出した。
「律ちゃん、試合中!」
「分かってます!」
律は構え直した。
腹が立つ。
でも。
追うな。
その一言だけは残った。
佐伯が左を伸ばす。
律は潜る。
佐伯が下がった。
今度は追わない。
拳は届かない。
でも、自分から胸元へ飛び込むこともない。
佐伯が構え直す。
律も構え直した。
ゴングが鳴った。
◇
「届きません」
コーナーへ戻るなり、律は言った。
綾乃が首へ冷たいタオルを当てた。
「水」
「ありがとうございます」
一口含む。
吐く。
呼吸はまだ平気だった。
頭の方が忙しい。
「追わなかったら、何もできません」
千尋がタブレットを持ったまま言った。
「でも、追ったときより距離は崩れてません」
「それじゃ打てない」
「はい」
「はい、じゃなくて」
「事実です」
美波が横から笑った。
「千尋ちゃん、そういうとこ強いよね」
「何がですか」
「今それ聞く?」
律は二人を無視して、後ろを見た。
只野はもう座っていた。
「さっき追うなって言いましたよね」
「言ってねえ」
「言いました」
「幻聴だろ」
「立ってまで言ってました」
「腰痛かったんだよ」
「パイプ椅子ずれてますけど」
「細けえな、お前」
「どうして追ったら駄目なんですか」
「知らね」
「知らないのに叫んだんですか」
「うるせえな」
只野は缶コーヒーに口をつけた。
もうこっちを見ない。
腹が立つ。
聞いても無駄だ。
律は千尋へ向き直った。
「佐伯さん、下がるとき何かあります?」
「見学のときにも言いましたが、強く迎えるジャブのときだけ前足が一瞬止まります」
覚えている。
あの日、千尋が見つけた。
自分も横で聞いていた。
ただ、それが何になるのか分からなかった。
「止まったあと、すぐ下がるんですよね」
「はい」
「だったら結局追うことになる」
拍子木が鳴った。
律は立ち上がった。
追わない。
なら。
追わずに届くところを探すしかない。
◇
第2ラウンド。
佐伯の左が来る。
律は入らなかった。
もう一度。
短いジャブ。
これも待つ。
佐伯の眉がわずかに動いた。
最初から飛び込んでくると思っていたらしい。
律は重心を落とした。
入るふり。
佐伯の左が反応した。
前足が止まる。
律はジャブの線から頭を外し、斜めへ踏み込んだ。
佐伯が下がる。
追わない。
一歩で止まる。
届かない。
でも、さっきとは違った。
真正面に佐伯はいない。
少し横へずれて見える。
佐伯が身体の向きを直す。
律も横へ抜けた。
殴れてはいない。
でも。
入れた。
佐伯の左の向こうへ。
佐伯が構え直す。
今度のジャブは短かった。
さっきの侵入を警戒している。
律は右へ小さく身体を揺らす。
戻る。
もう一度、沈む。
佐伯の左。
外す。
佐伯が下がる。
追わない。
律の身体が前へ行きたがった。
逃がしたくない。
ここでもう一歩行けば、相手の胸まで入れる。
安全な場所まで。
律は足を残した。
佐伯が右を振った。
律は頭を低くする。
グローブが頭上を抜けた。
身体の横に、一瞬だけ隙間ができた。
左。
律は短く返した。
パシッ。
浅い。
でも、胴へ当たった。
律はすぐ離れる。
佐伯が追ってきた。
初めてだった。
自分が佐伯を追うんじゃない。
佐伯の方から距離を詰めてくる。
「そうそう!」
声が飛んだ。
律の目が一瞬だけ動く。
只野だった。
また立っている。
しかも。
言った本人が、一番嫌そうな顔をしていた。
何で俺が声出してんだ。
そう言いたそうな顔。
「……何なんですか、あの人」
律は小さく吐いた。
佐伯の左が来る。
今度は見た。
外す。
入る。
下がられる。
追わない。
佐伯が向きを変える。
律も横へ抜ける。
第1ラウンドより、佐伯が近く見えた。
実際の距離が縮まったわけじゃない。
正面に立ち続けなくなっただけだ。
また左。
律は肩へ受けた。
右。
頭を下げる。
横へ。
打てる場所はまだ分からない。
入れば近すぎる。
止まれば遠い。
その間が見つからない。
それでも。
一方的に棒で追い返されてはいなかった。
ゴングが鳴った。
◇
「今の、当たりましたよね」
コーナーへ戻る。
綾乃が水を渡した。
「当たってたよ」
「浅かったけどね」
美波が横から言う。
「分かってます」
「律ちゃん今、褒めづらい」
「普通に褒めてください」
ひまりが拳を握った。
「でも、ちゃんと入ってた!」
「ありがとう」
律は只野を見た。
只野は座っていた。
さっきの「そうそう」など最初からなかったみたいな顔で、缶の残りを飲んでいる。
「今、そうそうって言いましたよね」
「知らん」
「言いました」
「他人じゃね」
「声で分かります」
「俺の声好きすぎだろ」
「嫌いです」
「傷つくわ」
「嘘つけ」
拍子木が鳴った。
律は立った。
聞いても、もう何も出てこない。
なら、自分でやる。
◇
最終ラウンド。
佐伯は変えてきた。
左が短い。
前足も残さない。
律が外へ動いても、すぐ正面を向き直せる。
さっきの入り方は、もう警戒されている。
当たり前だ。
一回見せれば、相手だって考える。
律はすぐには飛び込まなかった。
身体を右へ揺らす。
戻る。
佐伯の左が動く。
フェイント。
動かない。
もう一度。
短いジャブ。
頭だけ外す。
佐伯が半歩前へ出た。
律も半歩下がる。
また佐伯が来る。
今度は向こうが追っている。
左。
長い。
律は外へ潜った。
佐伯も読んでいる。
肘を畳み、上から身体をかぶせようとしてくる。
律はさらに低くなった。
腕の下へ頭を滑らせる。
胴が見えた。
もう一歩。
身体が勝手にそう言う。
そこまで入れば安全だ。
胸へくっついてしまえば、強い拳は飛んでこない。
いつもの場所。
律の前足が出る。
一歩。
そこで、止めようとした。
少しだけ身体が流れた。
でも、左腕を動かす隙間は残っている。
打った。
左。
佐伯の胴へ。
ドッ。
さっきより深い。
拳から肩へ、重さが返ってきた。
佐伯がすぐ身体を寄せる。
律は押し潰される前に横へ抜けた。
振り返る。
佐伯は構えている。
効いてない。
そう思った直後、息が一度だけ詰まった。
肘が脇腹へ寄る。
踏み出す足が、半拍だけ遅れた。
それだけ。
膝をつくわけでもない。
顔を歪めるわけでもない。
でも分かった。
入った。
「律!」
声が聞こえた。
ひまりだ。
その後ろで美波も何か叫んでいる。
千尋の声もする。
一瞬だけ。
父なら、ここでどうする。
そんな考えが浮かんだ。
消した。
「律、離れて!」
綾乃の声。
今、聞こえているのは家のジムの声じゃない。
律は佐伯を見る。
佐伯が来る。
左。
外す。
右。
潜る。
肩がぶつかる。
大きい。
押される。
律は足で踏ん張り、横へずれた。
佐伯が向きを変える。
律も離れる。
息が荒い。
ふくらはぎが張っている。
喉が乾く。
でも、最初のラウンドとは違う。
遠い相手を一人で追いかけている感じがしない。
向こうも自分を追っている。
残り時間は少ない。
佐伯が左を伸ばした。
律は外へ潜る。
ここ。
もう一発。
身体が前へ出た。
一歩。
もう半歩。
佐伯の胸が目の前に来た。
「あ」
近い。
左が振れない。
まただ。
分かっていたのに。
「くそっ……!」
佐伯が身体をかぶせてくる。
律は横へ抜けようともがいた。
二人が離れる。
佐伯のジャブ。
律は首を引いた。
カン、カン、カン!
終了のゴングが鳴った。
律はその場で止まった。
胸が上下する。
最後の最後。
また入りすぎた。
直っていない。
◇
判定を待つ間、律は自分の左グローブを見ていた。
第1ラウンドは取られたと思う。
第2ラウンドは分からない。
第3ラウンド。
ボディは入った。
でも、一発当てれば勝ちではない。
レフェリーに手首を取られる。
リングサイドを見る。
ひまりが両手を胸の前で握っている。
美波はロープ際まで出て、綾乃に肩を引かれていた。
千尋はタブレットを持ったまま、珍しく画面を見ていない。
只野は。
立っていた。
まただ。
椅子は後ろに空いている。
判定が告げられた。
「青!」
右腕が上がった。
一瞬、意味が追いつかなかった。
「……え?」
「律ちゃん!」
ひまりの声が弾ける。
「よっしゃあ!」
美波が両手を上げた。
綾乃が大きく息を吐く。
千尋が言った。
「2勝2敗です」
その言葉で、ようやく胸まで来た。
勝った。
綾乃まで繋いだ。
律は肺に残っていた空気を全部吐いた。
◇
ロープをくぐろうとしたところで、後ろから呼ばれた。
「鳴瀬」
佐伯だった。
「はい」
「さっきのボディ」
佐伯が脇腹を軽く押さえる。
「効いた」
「……すみません」
「何で謝るんだよ」
佐伯が笑った。
「試合だろ」
「そうですけど」
「あとから来た。あれ嫌だな」
律は少しだけ口元を緩めた。
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「じゃあ、勝手に褒められたことにします」
「強引だな」
佐伯は苦笑して、自分のコーナーへ戻っていった。
最後まで普通だった。
女子だからでもない。
小さいからでもない。
鳴瀬家だからでもない。
ただ、リングにいた自分と殴り合ってくれた。
律はロープをくぐった。
「おい」
只野がすぐ横にいた。
「勝ったな」
「はい」
「よかったじゃん」
それだけ言って、リングの方へ顔を向ける。
律は逃がさなかった。
「まだ入りすぎてましたよね」
只野の目だけが戻った。
「何が」
「分かってるでしょう」
「知らね」
「最後も近すぎました」
只野は面倒そうに頭を掻いた。
リングでは次の試合の準備が始まっている。
律は待った。
「……近えよ」
小さく言った。
やっぱり。
「どう直せばいいんですか」
只野は答えなかった。
「只野さん」
まだ答えない。
視線はもう律ではなく、リングへ向いていた。
白石綾乃がグローブを締めている。
2勝2敗。
最後の一人。
「聞いてます?」
「聞いてる」
「じゃあ」
「今それどころじゃねえだろ」
只野はそれだけ言った。
綾乃がロープをくぐる。
律もリングへ目を戻した。
答えは、まだない。
正面から追わなければ、佐伯の左の向こうへ行けた。
でも。
どこで止まればいいのかは、最後まで分からなかった。
隣で只野が腕を組む。
パイプ椅子は空いたままだった。
律は一度だけ、それを見る。
この人。
いつから立っていたんだろう。
開始を告げる声が響いた。
律はもう考えるのをやめた。
今は、自分の答えより先に。
この5人の答えを決める試合が始まる。




