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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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20/47

第17話 正面から行くな



 佐伯は、遠かった。


 リングの外から見ていたときより、同じキャンバスに立った今の方が遠い。


 律は青いロープをまたぎ、靴底で床を一度こすった。


 身長差、17cm。


 数字だけなら知っている。千尋の資料にも書いてあった。家のジムでも、自分よりずっと背の高い相手とは何度もやってきた。


 だから、大きいだけなら怖くない。


 嫌なのは、佐伯がそのリーチの差をちゃんと使えることだった。


 顔が高い。


 肩が高い。


 そして、前に置かれたグローブが遠い。


 あそこを越えなければ、自分の拳は何も届かない。


 中央へ出る。


 グローブを合わせた。


 佐伯は律をまっすぐ見ていた。


 小さいから。


 女子だから。


 そんな顔ではない。


 普通に殴り合う相手を見る目だった。


 それでいい。


 律は自分のコーナーへ戻った。


 綾乃、美波、ひまり、千尋。


 その後ろで、只野はパイプ椅子へ深く座っていた。脚を開いて、片手に缶コーヒーを持っている。


 どう見てもセコンドではない。


「何かありますか」


 律が聞いた。


「何で俺に聞くんだよ」


「ずっと見てたでしょう」


「胸はな」


「試合前ですよ」


「だから?」


「最低ですね」


「知ってる」


 只野は缶を傾けた。


 律は待った。


 何も言わない。


「本当にないんですか」


「ない」


「即答ですか」


「じゃあ、何て言えば満足なんだよ」


「佐伯さんのジャブとか」


「来るだろ」


「それは分かります」


「じゃあ問題ねえじゃん」


「あります」


 開始を促す声がかかった。


 律はマウスピースを口へ入れる。


 只野がぼそっと言った。


「正面から行くと、一生届かねえんじゃね」


 律は振り向いた。


「……それ、作戦ですか」


「知らね」


 ゴングが鳴った。


     ◇


 最初の左で、意味が分かった。


 佐伯のジャブが額へ触れた。


 強くはない。


 でも、一歩目が止まった。


 律が踏み込み直す。


 また左。


 今度は鼻先。


 さらに出ようとすると、前の肩を小さく叩かれた。


 倒すための拳ではない。


 ここから先へ入るな。


 目の前に棒を置かれている。


 律は一度離れた。


 遠い。


 佐伯の左肩が動く。


 律は腰を落とした。


 ジャブの外へ頭をずらしながら、一気に踏み込む。


 一歩。


 もう一歩。


 入った。


 左を胴へ――。


 振れない。


「っ」


 近すぎた。


 佐伯の胸が目の前にある。


 左腕を走らせる隙間がない。


 佐伯が上から身体をかぶせてきた。肩がぶつかり、律の頭が胸元へ押し込まれる。


 ここまで入れば、大きなパンチは飛んでこない。


 安全だ。


 その代わり、自分も打てない。


 レフェリーが間へ入る。


 二人が離された。


 また遠くなる。


 佐伯のジャブ。


 律は外へ潜る。


 佐伯が下がった。


 律は追った。


 もう一歩。


 近い。


 また左が詰まった。


 ――入りすぎ。


 この倉庫へ初めて来た日に、只野に言われた言葉が浮かぶ。


 何が入りすぎなのか。


 どこまでならいいのか。


 まだ分からない。


 分からないから、相手へくっつくところまで行ってしまう。


 佐伯が離れる。


 律はまた追う。


 左。


 外す。


 踏み込む。


 佐伯が下がる。


 さらに追う。


「追うな!」


 怒鳴り声が飛んできた。


 律の足が止まった。


 横を見る。


 只野が立っていた。


 パイプ椅子を蹴ったのか、少し後ろへずれている。


「前見ろ、バカ!」


「今そっちが呼んだんでしょう!」


 佐伯のジャブが額へ当たった。


「ほら見ろ!」


「誰のせいですか!」


 リングの外で美波が吹き出した。


「律ちゃん、試合中!」


「分かってます!」


 律は構え直した。


 腹が立つ。


 でも。


 追うな。


 その一言だけは残った。


 佐伯が左を伸ばす。


 律は潜る。


 佐伯が下がった。


 今度は追わない。


 拳は届かない。


 でも、自分から胸元へ飛び込むこともない。


 佐伯が構え直す。


 律も構え直した。


 ゴングが鳴った。


     ◇


「届きません」


 コーナーへ戻るなり、律は言った。


 綾乃が首へ冷たいタオルを当てた。


「水」


「ありがとうございます」


 一口含む。


 吐く。


 呼吸はまだ平気だった。


 頭の方が忙しい。


「追わなかったら、何もできません」


 千尋がタブレットを持ったまま言った。


「でも、追ったときより距離は崩れてません」


「それじゃ打てない」


「はい」


「はい、じゃなくて」


「事実です」


 美波が横から笑った。


「千尋ちゃん、そういうとこ強いよね」


「何がですか」


「今それ聞く?」


 律は二人を無視して、後ろを見た。


 只野はもう座っていた。


「さっき追うなって言いましたよね」


「言ってねえ」


「言いました」


「幻聴だろ」


「立ってまで言ってました」


「腰痛かったんだよ」


「パイプ椅子ずれてますけど」


「細けえな、お前」


「どうして追ったら駄目なんですか」


「知らね」


「知らないのに叫んだんですか」


「うるせえな」


 只野は缶コーヒーに口をつけた。


 もうこっちを見ない。


 腹が立つ。


 聞いても無駄だ。


 律は千尋へ向き直った。


「佐伯さん、下がるとき何かあります?」


「見学のときにも言いましたが、強く迎えるジャブのときだけ前足が一瞬止まります」


 覚えている。


 あの日、千尋が見つけた。


 自分も横で聞いていた。


 ただ、それが何になるのか分からなかった。


「止まったあと、すぐ下がるんですよね」


「はい」


「だったら結局追うことになる」


 拍子木が鳴った。


 律は立ち上がった。


 追わない。


 なら。


 追わずに届くところを探すしかない。


     ◇


 第2ラウンド。


 佐伯の左が来る。


 律は入らなかった。


 もう一度。


 短いジャブ。


 これも待つ。


 佐伯の眉がわずかに動いた。


 最初から飛び込んでくると思っていたらしい。


 律は重心を落とした。


 入るふり。


 佐伯の左が反応した。


 前足が止まる。


 律はジャブの線から頭を外し、斜めへ踏み込んだ。


 佐伯が下がる。


 追わない。


 一歩で止まる。


 届かない。


 でも、さっきとは違った。


 真正面に佐伯はいない。


 少し横へずれて見える。


 佐伯が身体の向きを直す。


 律も横へ抜けた。


 殴れてはいない。


 でも。


 入れた。


 佐伯の左の向こうへ。


 佐伯が構え直す。


 今度のジャブは短かった。


 さっきの侵入を警戒している。


 律は右へ小さく身体を揺らす。


 戻る。


 もう一度、沈む。


 佐伯の左。


 外す。


 佐伯が下がる。


 追わない。


 律の身体が前へ行きたがった。


 逃がしたくない。


 ここでもう一歩行けば、相手の胸まで入れる。


 安全な場所まで。


 律は足を残した。


 佐伯が右を振った。


 律は頭を低くする。


 グローブが頭上を抜けた。


 身体の横に、一瞬だけ隙間ができた。


 左。


 律は短く返した。


 パシッ。


 浅い。


 でも、胴へ当たった。


 律はすぐ離れる。


 佐伯が追ってきた。


 初めてだった。


 自分が佐伯を追うんじゃない。


 佐伯の方から距離を詰めてくる。


「そうそう!」


 声が飛んだ。


 律の目が一瞬だけ動く。


 只野だった。


 また立っている。


 しかも。


 言った本人が、一番嫌そうな顔をしていた。


 何で俺が声出してんだ。


 そう言いたそうな顔。


「……何なんですか、あの人」


 律は小さく吐いた。


 佐伯の左が来る。


 今度は見た。


 外す。


 入る。


 下がられる。


 追わない。


 佐伯が向きを変える。


 律も横へ抜ける。


 第1ラウンドより、佐伯が近く見えた。


 実際の距離が縮まったわけじゃない。


 正面に立ち続けなくなっただけだ。


 また左。


 律は肩へ受けた。


 右。


 頭を下げる。


 横へ。


 打てる場所はまだ分からない。


 入れば近すぎる。


 止まれば遠い。


 その間が見つからない。


 それでも。


 一方的に棒で追い返されてはいなかった。


 ゴングが鳴った。


     ◇


「今の、当たりましたよね」


 コーナーへ戻る。


 綾乃が水を渡した。


「当たってたよ」


「浅かったけどね」


 美波が横から言う。


「分かってます」


「律ちゃん今、褒めづらい」


「普通に褒めてください」


 ひまりが拳を握った。


「でも、ちゃんと入ってた!」


「ありがとう」


 律は只野を見た。


 只野は座っていた。


 さっきの「そうそう」など最初からなかったみたいな顔で、缶の残りを飲んでいる。


「今、そうそうって言いましたよね」


「知らん」


「言いました」


「他人じゃね」


「声で分かります」


「俺の声好きすぎだろ」


「嫌いです」


「傷つくわ」


「嘘つけ」


 拍子木が鳴った。


 律は立った。


 聞いても、もう何も出てこない。


 なら、自分でやる。


     ◇


 最終ラウンド。


 佐伯は変えてきた。


 左が短い。


 前足も残さない。


 律が外へ動いても、すぐ正面を向き直せる。


 さっきの入り方は、もう警戒されている。


 当たり前だ。


 一回見せれば、相手だって考える。


 律はすぐには飛び込まなかった。


 身体を右へ揺らす。


 戻る。


 佐伯の左が動く。


 フェイント。


 動かない。


 もう一度。


 短いジャブ。


 頭だけ外す。


 佐伯が半歩前へ出た。


 律も半歩下がる。


 また佐伯が来る。


 今度は向こうが追っている。


 左。


 長い。


 律は外へ潜った。


 佐伯も読んでいる。


 肘を畳み、上から身体をかぶせようとしてくる。


 律はさらに低くなった。


 腕の下へ頭を滑らせる。


 胴が見えた。


 もう一歩。


 身体が勝手にそう言う。


 そこまで入れば安全だ。


 胸へくっついてしまえば、強い拳は飛んでこない。


 いつもの場所。


 律の前足が出る。


 一歩。


 そこで、止めようとした。


 少しだけ身体が流れた。


 でも、左腕を動かす隙間は残っている。


 打った。


 左。


 佐伯の胴へ。


 ドッ。


 さっきより深い。


 拳から肩へ、重さが返ってきた。


 佐伯がすぐ身体を寄せる。


 律は押し潰される前に横へ抜けた。


 振り返る。


 佐伯は構えている。


 効いてない。


 そう思った直後、息が一度だけ詰まった。


 肘が脇腹へ寄る。


 踏み出す足が、半拍だけ遅れた。


 それだけ。


 膝をつくわけでもない。


 顔を歪めるわけでもない。


 でも分かった。


 入った。


「律!」


 声が聞こえた。


 ひまりだ。


 その後ろで美波も何か叫んでいる。


 千尋の声もする。


 一瞬だけ。


 父なら、ここでどうする。


 そんな考えが浮かんだ。


 消した。


「律、離れて!」


 綾乃の声。


 今、聞こえているのは家のジムの声じゃない。


 律は佐伯を見る。


 佐伯が来る。


 左。


 外す。


 右。


 潜る。


 肩がぶつかる。


 大きい。


 押される。


 律は足で踏ん張り、横へずれた。


 佐伯が向きを変える。


 律も離れる。


 息が荒い。


 ふくらはぎが張っている。


 喉が乾く。


 でも、最初のラウンドとは違う。


 遠い相手を一人で追いかけている感じがしない。


 向こうも自分を追っている。


 残り時間は少ない。


 佐伯が左を伸ばした。


 律は外へ潜る。


 ここ。


 もう一発。


 身体が前へ出た。


 一歩。


 もう半歩。


 佐伯の胸が目の前に来た。


「あ」


 近い。


 左が振れない。


 まただ。


 分かっていたのに。


「くそっ……!」


 佐伯が身体をかぶせてくる。


 律は横へ抜けようともがいた。


 二人が離れる。


 佐伯のジャブ。


 律は首を引いた。


 カン、カン、カン!


 終了のゴングが鳴った。


 律はその場で止まった。


 胸が上下する。


 最後の最後。


 また入りすぎた。


 直っていない。


     ◇


 判定を待つ間、律は自分の左グローブを見ていた。


 第1ラウンドは取られたと思う。


 第2ラウンドは分からない。


 第3ラウンド。


 ボディは入った。


 でも、一発当てれば勝ちではない。


 レフェリーに手首を取られる。


 リングサイドを見る。


 ひまりが両手を胸の前で握っている。


 美波はロープ際まで出て、綾乃に肩を引かれていた。


 千尋はタブレットを持ったまま、珍しく画面を見ていない。


 只野は。


 立っていた。


 まただ。


 椅子は後ろに空いている。


 判定が告げられた。


「青!」


 右腕が上がった。


 一瞬、意味が追いつかなかった。


「……え?」


「律ちゃん!」


 ひまりの声が弾ける。


「よっしゃあ!」


 美波が両手を上げた。


 綾乃が大きく息を吐く。


 千尋が言った。


「2勝2敗です」


 その言葉で、ようやく胸まで来た。


 勝った。


 綾乃まで繋いだ。


 律は肺に残っていた空気を全部吐いた。


     ◇


 ロープをくぐろうとしたところで、後ろから呼ばれた。


「鳴瀬」


 佐伯だった。


「はい」


「さっきのボディ」


 佐伯が脇腹を軽く押さえる。


「効いた」


「……すみません」


「何で謝るんだよ」


 佐伯が笑った。


「試合だろ」


「そうですけど」


「あとから来た。あれ嫌だな」


 律は少しだけ口元を緩めた。


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「じゃあ、勝手に褒められたことにします」


「強引だな」


 佐伯は苦笑して、自分のコーナーへ戻っていった。


 最後まで普通だった。


 女子だからでもない。


 小さいからでもない。


 鳴瀬家だからでもない。


 ただ、リングにいた自分と殴り合ってくれた。


 律はロープをくぐった。


「おい」


 只野がすぐ横にいた。


「勝ったな」


「はい」


「よかったじゃん」


 それだけ言って、リングの方へ顔を向ける。


 律は逃がさなかった。


「まだ入りすぎてましたよね」


 只野の目だけが戻った。


「何が」


「分かってるでしょう」


「知らね」


「最後も近すぎました」


 只野は面倒そうに頭を掻いた。


 リングでは次の試合の準備が始まっている。


 律は待った。


「……近えよ」


 小さく言った。


 やっぱり。


「どう直せばいいんですか」


 只野は答えなかった。


「只野さん」


 まだ答えない。


 視線はもう律ではなく、リングへ向いていた。


 白石綾乃がグローブを締めている。


 2勝2敗。


 最後の一人。


「聞いてます?」


「聞いてる」


「じゃあ」


「今それどころじゃねえだろ」


 只野はそれだけ言った。


 綾乃がロープをくぐる。


 律もリングへ目を戻した。


 答えは、まだない。


 正面から追わなければ、佐伯の左の向こうへ行けた。


 でも。


 どこで止まればいいのかは、最後まで分からなかった。


 隣で只野が腕を組む。


 パイプ椅子は空いたままだった。


 律は一度だけ、それを見る。


 この人。


 いつから立っていたんだろう。


 開始を告げる声が響いた。


 律はもう考えるのをやめた。


 今は、自分の答えより先に。


 この5人の答えを決める試合が始まる。

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