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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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19/46

第16話 当てろ


美波の腕が上がった。


「よっしゃあ!」


リングを降りてきた美波が、汗で額に張りついた髪をかき上げる。


一勝一敗。


戻った。


ひまりは胸の前で、グローブを叩き合わせた。


「美波先輩!」


「戻したよ!」


「はい!」


声は出た。


ちゃんと大きかった。


なのに。


「次、大熊ァ!」


只野の声が飛んできた瞬間。


ひまりの両手が止まった。


心臓だけが、一つ大きく鳴る。


「……はい」


「ちっせえ!」


「はいっ!」


「返事じゃねえ! さっさと準備しろ!」


「してます!」


「じゃあ行け!」


まだ試合は始まっていないのに、もう怒鳴っている。


美波がひまりの顔を覗き込んだ。


「ひまり」


「何ですか」


「顔」


「顔?」


「固い」


「固くないです」


美波のグローブが頬をむにっと押した。


「固いって」


「やめてください!」


「ほぐしてんの」


「そこほぐしても意味ないですよ!」


美波が笑う。


つられて少し笑った。


でも。


リングを見る。


すぐに消えた。


次の相手は、男子拳闘部の選手だった。


自分より少し細い。


でも肩は締まっている。


腕にもちゃんと筋肉がある。


男子。


ボクサー。


殴られることも分かったうえで、リングへ上がっている。


頭では分かる。


それでも。


グローブを見る。


この拳が、顔に当たる。


鼻。


頬。


顎。


身体なら、腹。


そこに自分の体重が乗る。


痛い。


絶対に痛い。


昨日言われた言葉が頭へ戻ってくる。


――当てろ。


三文字だけ。


倒せ、ではない。


強く打て、でもない。


ただ。


当てろ。


それが一番難しい。


     ◇


ロープをくぐった。


キャンバスへ足を置く。


相手も中央へ出る。


近くで見ると、思っていたより普通だった。


怖い顔でもない。


大きすぎるわけでもない。


ただの大学生。


だから余計に困る。


殴ったら痛い顔をする人だ。


「ひまり」


下から綾乃の声。


「息」


「あ」


吸っていた。


ずっと。


ひまりは口から吐いた。


ふうっ。


もう一度。


肩が少し落ちる。


リング下を見る。


只野は立っていた。


美波の試合から、そのままだ。


「先生」


「先生じゃねえ!」


「試合前に何かないんですか!」


「ある!」


ひまりは少し安心した。


「何ですか!」


只野が怒鳴った。


「当てろォ!!」


「やっぱりそれだけですか!」


「それだけできてねえから言ってんだろうが!」


「もう少し何か!」


「増やすな! お前まで千尋みてえになるぞ!」


横で千尋が、


「聞こえています」


と言った。


只野は無視した。


「大熊!」


「はい!」


「強く打とうとすんな!」


ひまりが瞬く。


「え?」


「倒そうとすんな! まず最後まで拳出せ!」


只野がリングを指差す。


「怖えなら怖えまま行け! 止めんな!」


ゴング。


「ほら行けェ!!」


     ◇


最初に来たのは左だった。


速い。


ひまりは両手を上げる。


パシッ。


グローブの上。


重くない。


すぐ二発目。


今度は頭を横へ。


拳が耳の近くを抜ける。


相手はそのまま下がった。


速い。


ひまりも一歩出る。


左。


届かない。


もう半歩。


左。


今度は届く。


相手の顔が拳の先へ入ってくる。


あと少し。


当たる。


その瞬間。


腕が鈍った。


自分でも分かる。


肩が止まる。


肘が伸び切らない。


相手は少し頭を引いただけだった。


拳が空を切る。


すぐ右が返ってくる。


ドッ。


ガードの上。


腕が押される。


「っ」


痛い。


でも。


大丈夫。


また前へ。


相手の左。


ひまりも左。


相手の拳が先に額へ触れた。


自分の左は。


また。


鼻の前で遅くなる。


「大熊ァ!!」


只野の声。


ひまりの背中が伸びる。


「撫でんな! 最後まで出せ!」


「出してます!」


「出てねえから当たってねえんだろ!」


分かってる。


それが一番悔しい。


右。


足で床を押す。


腰が回る。


肩が出る。


今度こそ。


相手の顔。


目が合った。


怖い。


また腕から力が抜けた。


右が相手のガードへ、


ぱふっ。


自分でも嫌になるくらい軽い音。


「何だそれェ!!」


只野の怒鳴り声。


「それパンチか!? 肩叩いてんのか!」


「分かってます!」


「分かってんなら止めんなァ!!」


相手が来る。


左。


ガード。


右。


外す。


返す。


また止まる。


あと少し。


なのに。


当てられない。


カン。


第一ラウンド終了。


     ◇


コーナーへ戻る。


綾乃からボトルを受け取った。


マウスピースを外す。


「分かってるんです……」


「うん」


「当たるところまで行くと、勝手に止まるんです」


「うん」


「止めたくないのに」


綾乃は首筋へ冷たいタオルを当てた。


「呼吸して」


ひまりは息を吐く。


それから只野を見る。


「先生!」


「先生じゃねえ!」


「どうしたら怖くなくなりますか!」


只野が本気で呆れた顔をした。


「は?」


「怖いんです!」


「見りゃ分かる!」


「だったら!」


「何で怖くなくそうとしてんだ!」


ひまりが止まる。


「え?」


只野の声がさらに上がった。


「今一ラウンド終わったんだぞ!」


「はい!」


「あと二ラウンドしかねえ!」


「はい!」


「いつ怖くなくなんだよ! 次のゴングまでか!?」


「分かりません!」


「じゃあ待ってんな!!」


ひまりの身体が固まった。


只野がロープを叩く。


バンッ。


「怖えんだろ!」


「はい!」


「殴ったら痛えと思ってんだろ!」


「はい!」


「ならそのまま行け!」


「そのまま!?」


「怖えの消してる時間なんかねえんだよ!」


只野がひまりを指差す。


「誰が十割でぶっ倒せっつった!」


「……言ってません」


「誰が壊せっつった!」


「言ってません!」


「だったら当てろ!」


声が壁へ返る。


「怖えまま! 最後まで拳出せ!」


拍子木。


ひまりはマウスピースを噛む。


まだ怖い。


何も消えていない。


只野が怒鳴った。


「ほら立てェ!!」


ひまりは立った。


「行ってこい! 怖えなら怖えまま殴ってこい!」


ゴング。


     ◇


第二ラウンド。


相手の左。


ガード。


もう一発。


頭をずらす。


ひまりは左を返した。


相手の顔が近づく。


怖い。


止めたい。


でも。


止めない。


パシッ。


当たった。


相手の頬。


グローブ越しに、感触が返ってくる。


ひまりの足が止まりそうになった。


当たった。


人の顔に。


ちゃんと。


でも。


相手は倒れない。


すぐ構え直した。


左を返してくる。


パシッ。


今度は自分の額。


「っ」


痛い。


そして。


少しだけ安心した。


相手は立っている。


怒った顔でもない。


普通に。


まだ自分を殴ろうとしている。


「止まんな大熊ァ!!」


只野の声。


そうだ。


まだ終わっていない。


ひまりは前へ出た。


右。


相手が両手を上げる。


ガードへ当たる。


ドッ。


今度は。


途中で抜けなかった。


相手の身体が半歩下がる。


「……!」


下がった。


自分の拳で。


でも倒れていない。


大丈夫。


相手が顔を固める。


ひまりは左。


ガード。


右。


またガード。


顔は固い。


なら。


下。


左を身体へ。


ドッ。


グローブが脇腹へ入った。


相手の息が、


「ぐっ」


と短く漏れた。


ひまりの背中が冷たくなる。


痛かった。


絶対に。


拳が止まりかける。


「前見ろォ!!」


只野。


ひまりは顔を上げた。


相手は少し身体を丸めた。


でも。


まだ構えている。


まだこちらを見ている。


「相手立ってんだろ! 勝手に終わらすな!」


「はいっ!」


相手が離れる。


ひまりは追う。


左。


外れる。


右。


ガード。


でも。


もう拳が顔の前で死ぬことはなかった。


怖い。


ずっと怖い。


それでも届く。


カン。


第二ラウンド終了。


     ◇


「先生!」


戻った瞬間、ひまりは叫んだ。


「うるせえ!」


「当たりました!」


「見てたよ!」


「最後まで打てました!」


「知ってる!」


「もっと何かありませんか!」


「試合中だぞ!」


「だからです!」


美波が横で笑った。


千尋はタブレットを見ながら言う。


「第二ラウンドは第一ラウンドより明確な有効打が増えています」


ひまりが振り向く。


「取れました?」


「取った可能性は高いです」


「可能性じゃなくて!」


「判定前なので断定できません」


「千尋ちゃん!」


只野がロープを叩いた。


「浮かれんなァ!!」


全員の顔が戻る。


「まだ終わってねえ!」


ひまりが只野を見る。


「あと一個!」


「はい!」


「何すんだ!」


「当てます!」


「そうだ!」


只野がリングを指す。


「でも振り回すな! 当てろっつっただけだ!」


「はい!」


「追っかけっこすんな! 自分の距離まで来たら打て!」


拍子木。


「行けェ!!」


     ◇


最終ラウンド。


相手が変わった。


正面にいない。


ひまりが近づくと、横へ動く。


左を出す。


空振り。


一歩。


相手はまた横。


右。


届かない。


逃げてる。


自分の拳を嫌がっている。


そう思ったら。


嬉しかった。


少しだけ。


だから。


追った。


一歩。


もう一歩。


相手が左へ回る。


さらに追う。


左。


空振り。


右。


届かない。


相手のジャブが鼻先へ。


パシッ。


「っ」


でも前。


当てたい。


さっきみたいに。


最後まで。


右。


大きく振る。


外れる。


左。


また遠い。


焦る。


せっかく打てるようになった。


ここで止まったら。


また怖がっているみたいで嫌だった。


もっと。


前。


相手の左を頭で外す。


そのまま右を振る。


空。


勢いだけが前へ行く。


前足へ重心が乗りすぎる。


身体が流れた。


相手の左フック。


パシッ。


横から入る。


続けて右。


ひまりは両腕を上げた。


ドッ。


身体が下がる。


相手が今度は前へ来る。


左。


右。


ひまりが後退する。


違う。


さっきと違う。


自分が追いすぎてる。


でも。


当てろって。


先生が。


だから前へ――。


「大熊ァァ!!」


びくっと身体が跳ねた。


只野がリングの外で腕を振っている。


「誰が追っかけろっつったァ!!」


ひまりの足が止まる。


「でも、当てろって!」


「追い回せなんて一言も言ってねえだろうが!!」


相手の左。


ガード。


「振り回すな! 足そろえろ! 腰戻せ!」


ひまりは一度下がった。


右足。


左足。


身体の真下へ重心を戻す。


呼吸。


「当てるってのはデカく振ることじゃねえ!!」


只野の声。


相手が距離を詰めてくる。


「来たとこ打て!」


ひまりは待った。


追わない。


相手が左。


頭を少し外す。


その踏み込みで距離が縮む。


今。


右。


まっすぐ。


バシッ。


相手の顔へ入った。


顎が少し上がる。


足が一歩下がった。


「そこだァ!!」


ひまりも出る。


もう一発――。


カン、カン、カン。


ゴング。


終わった。


「……あ」


届かなかった。


最後の右は出る前だった。


ひまりはその場で息を吐いた。


胸が大きく上下する。


怖かった。


最初から最後まで。


でも。


当てた。


     ◇


判定を待つ。


ひまりは下を向かなかった。


最初のラウンド。


取られた。


二つ目。


たぶん取った。


最後。


途中で追いすぎた。


外した。


崩れた。


打たれた。


最後は当てた。


でも。


遅かった。


判定。


相手の腕が上がった。


一勝二敗。


ひまりの奥歯に力が入った。


負けた。


     ◇


リングを降りる。


美波がすぐ来た。


「ひまり」


「……はい」


「大丈夫?」


「はい」


答えたら。


喉の奥が痛くなった。


勝ちたかった。


美波先輩が一勝一敗へ戻してくれた。


なのに。


また負け越した。


「すみません……」


綾乃が隣へ来る。


「ひまり」


「私が負けたから……」


「まだ終わってないよ」


分かっている。


でも。


悔しい。


ひまりは只野を見る。


「先生……」


只野はもう、さっきまでみたいにリングへ身を乗り出していなかった。


声も少し戻っている。


「何」


「……ごめんなさい」


「何で俺に謝んの」


「負けました」


「見りゃ分かる」


「二敗目に……」


只野が大きく息を吐いた。


「お前さ」


「はい」


「一人で五試合やってんの?」


ひまりが瞬く。


「……やってません」


「だろ」


只野がリングを顎で示す。


「じゃ下向いてる暇あんの?」


ひまりはそちらを見る。


律がもうヘッドギアをつけていた。


小さな身体。


グローブ。


シューズ。


リングの反対側には、佐伯。


高い。


律よりずっと。


「まだ二人いるだろ」


只野が言う。


「お前で全部終わったみてえな顔すんな」


ひまりは唇を噛んだ。


グローブで目元を拭く。


「……はい」


「声ちっせえ」


「はいっ!」


只野が顔をしかめる。


「うるせえよ」


「どっちなんですか!」


美波が吹き出した。


少しだけ。


ひまりも笑った。


只野はもう律を見ていた。


試合が終わったひまりではない。


次。


律。


リングへ上がる律の前に、佐伯が立つ。


身長差。


十七センチ。


長い左腕。


一勝二敗。


残り二試合。


もう一つも落とせない。


律がロープをくぐった。


佐伯を見上げる。


それでも。


目は切らなかった。

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