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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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18/47

第15話 今日は逃げていい


千尋の腕ではなく、相手の腕が上がった。


美波はリング下で、一度だけ唇を噛んだ。


一敗。


まだ最初の一試合。


あと四つある。


三つ取ればいい。


頭では分かっている。


でも。


さっきまでの、


五試合で三勝。


と、


残り四試合で三勝。


は、同じ三勝なのに全然違って聞こえた。


急に狭い。


「負けました」


リングを降りてきた千尋が言った。


いつもの声。


でも、グローブの紐へ伸ばした指が一度だけ止まった。


美波はそこを見なかったことにした。


「千尋」


「はい」


「次、私だから」


千尋が顔を上げる。


「戻してくる」


「何をですか」


「一勝一敗」


「厳密には元の状態には戻りません」


「今それ言う?」


「事実なので」


美波は吹き出した。


「うん。千尋はそれでいいわ」


少しだけ肩が軽くなる。


綾乃が後ろから、美波のグローブを引いた。


手首。


紐。


左右。


確かめる。


「美波」


「ん?」


「大丈夫?」


「顔?」


「そう」


「かわいい?」


「そこは大丈夫そう」


「そこは、って何」


綾乃が少し笑う。


リングでは、次の相手が軽く足を動かしていた。


見学したときにも見た。


前へ出る。


手数が多い。


距離が近くなるほど、さらに手が増える。


美波はロープをくぐった。


シューズの裏へキャンバスの弾力が返る。


倉庫のコンクリートより足が滑る。


横にも出やすい。


逃げるなら、こっちの方がいい。


リング下を見る。


只野はもう立っていた。


さっき千尋の試合で怒鳴りすぎたくせに、顔だけは面倒そうだ。


「先生」


「先生じゃねえ!」


声がでかい。


もうスイッチが入っている。


「今日、本当に逃げるだけ?」


「昨日言っただろ!」


「ボクシングだよ?」


「知ってるよ!」


「殴んなくていいの?」


只野が本気で呆れた顔をした。


「お前、何しに上がったんだ!」


「勝ちに」


「じゃあ勝て!」


「だから方法!」


「逃げろ!」


「雑!」


「テメエが一番できんだろうが!」


褒められている感じがまったくしない。


「入ってきたら左だけ置け!」


只野が自分の左拳を前へ出す。


「追っかけんな! 打ち合うな! 避けて、離れろ!」


「それだけ?」


「欲張んなァ!!」


練習場に声が響いた。


美波の肩が跳ねる。


「今まで返してねえ奴が今日いきなり殴り合おうとすんな! 逃げんの忘れるくらいなら打つな!」


美波は口を閉じた。


そこだけは分かった。


今あるもの。


自分にあるのは、


避けること。


離れること。


距離を消させないこと。


「……分かった」


「なら行けェ!!」


ゴングが鳴った。


     ◇


予想通り。


相手は最初から来た。


左。


美波は頭を外す。


右。


一歩下がる。


もう一発。


今度は右足を横へ送り、正面から外れた。


拳が鼻先の空気だけを切る。


近い。


でも、いない。


相手が向きを変える。


追ってくる。


また左。


見える。


美波の頭はもうそこにない。


右。


上体を引く。


前足を横へ。


離れる。


「止まんな! そのまま回れ!」


只野の怒鳴り声。


美波はリング中央へ戻った。


また相手が来る。


左。


入ってきたところへ、美波も左を伸ばす。


パシッ。


相手の額。


すぐ戻す。


離れる。


追ってくる。


もう一度。


左。


今度は外れた。


いい。


当てるために追わない。


相手が強引に右を振った。


美波は上体を引く。


拳が目の前を通り過ぎた。


相手の右肩が流れる。


顎が空く。


――打てる。


身体が先に分かった。


右。


今なら入る。


美波の右肩が動いた。


「打つなァ!!」


只野の声が飛んだ。


「えぇっ!?」


右を引っ込める。


そのまま横へ抜けた。


相手が振り返ったときには、もう一歩半離れている。


もったいない。


絶対入った。


美波ならそう思う。


でも。


次の左が来る。


避ける。


右。


潜る。


外へ。


また左を置く。


パシッ。


当たる。


「それでいい! 離れろ!」


言われなくても離れている。


相手がまた追う。


打つ。


空振る。


追う。


美波はそこにいない。


少しずつ。


相手の拳が大きくなってきた。


呼吸も聞こえるようになった。


美波なら嫌だ。


殴りたいのに。


ずっと一歩先に逃げられる。


しかも入った瞬間だけ左が来る。


相手がもう一度右を振った。


大きい。


美波は半歩外す。


また顎が見えた。


右手が上がる。


「橘ェ!!」


びくっとした。


「何回言わせんだ! 欲張んな! 逃げろォ!!」


「分かってるって!」


思わず返す。


相手が一瞬だけ変な顔をした。


その顔へ左。


パシッ。


「そっちじゃないから!」


言いながら、美波は離れた。


カン。


第一ラウンド終了。


     ◇


「私、何発打った?」


コーナーへ戻るなり、美波は聞いた。


千尋がタブレットを見る。


「明確な攻撃は六発です」


「少なっ」


「明確に当たったのは三発」


「もっと少なっ」


ひまりが不安そうにリングを見る。


「それで勝てるんですか?」


「私も聞きたい」


美波は只野を見る。


「先生」


「先生じゃねえ!」


「これでいいの?」


只野が身を乗り出した。


「お前、まともに何発食らった!」


「……ほぼゼロ」


「じゃあそのままやれ!」


「私も三発しか当ててないよ?」


「三発当ててんだろうが!」


「でも向こう、めっちゃ打ってるし」


「空気に点入んのか!?」


美波が止まった。


「……入らない」


「じゃあ関係ねえ!」


千尋が横から補足する。


「相手の手数は多いですが、明確な有効打はほぼありません。美波先輩の左の方がはっきり接触しています」


ひまりがうなずく。


「つまり?」


「いっぱい殴ってるけど、ほとんど当たってない」


美波が答えた。


「なるほど!」


只野が指を差す。


「お前は相手が入ってきたときだけ触れ! 自分から取りに行くな!」


「まだ逃げる?」


「逃げろ!」


「徹底するなあ」


「さっき二回右出そうとしたろ!」


美波の口が止まった。


「……見えてた?」


「見てるに決まってんだろ!」


「私のこと好きすぎない?」


只野の視線が一瞬。


顔から胸へ。


腰へ。


「その身体で言われると――」


「先生」


綾乃の声が低くなる。


只野の視線がリングへ戻った。


「先生じゃねえ!」


「今それじゃありません」


「まだ何も言ってねえだろ!」


「言う前の顔でした」


美波は吹き出した。


さっきまで速かった呼吸が少し戻る。


ボクシングを見ているときだけは怖いくらいなのに。


一秒空くとこれだ。


「あと二つ!」


只野がリングを叩く。


「余計なことすんな! 行け!」


美波はマウスピースを噛んだ。


     ◇


第二ラウンド。


相手が来なかった。


「……あれ?」


リング中央。


相手は構えたまま。


美波が右へ動く。


身体の向きだけ変える。


左へ。


やっぱり来ない。


逃げろと言われても。


追ってこなければ逃げられない。


美波は一度、その場で小さく跳ねた。


相手も待つ。


キャンバスを擦るシューズの音だけが続く。


何これ。


私から行くの?


嫌なんだけど。


相手が来る。


避ける。


また来る。


逃げる。


その順番なら分かる。


自分から相手へ入るとなると、急に何をすればいいか分からない。


向こうも分かったらしい。


来ない。


美波が来るのを待っている。


少し腹が立った。


「ずるくない?」


相手の眉が寄る。


言ってから思う。


いや。


別にずるくない。


向こうも勝ちたいだけだ。


「何しゃべってんだ橘ェ!!」


只野の声が飛ぶ。


「暇なんだもん!」


「だったら左出せ!」


「行くなって言ったじゃん!」


「追っかけんなっつったんだ! 一発出したら戻れ!」


なるほど。


そこは違うらしい。


美波は半歩入る。


左。


届かない。


すぐ戻る。


もう一度。


今度は相手が頭を外した。


そのまま左を返してくる。


美波は避ける。


右。


下がる。


相手が一歩だけ追ってきた。


来た。


身体が勝手に軽くなる。


右。


左。


相手の拳が空を切る。


こっちの方が分かる。


追ってくる。


逃げる。


入ってきたところへ左。


パシッ。


すぐ離れる。


また追ってくる。


右を外す。


その瞬間。


相手の左脇が開いた。


また見えた。


右。


打てる。


美波の肩が動く。


「打つなァ!!」


練習場を只野の声が割った。


「もったいなァい!」


叫び返しながら横へ抜ける。


拳闘部側から笑い声が聞こえた気がした。


「笑うな、今忙しい!」


誰に言ったのか自分でも分からない。


次の左が飛んでくる。


「うわっ」


首を引く。


鼻先を抜けた。


危ない。


只野が怒鳴る。


「しゃべってる暇あんなら足動かせェ!!」


「先生が叫ぶからでしょ!」


「俺のせいにすんな!」


でも。


足は止まらない。


相手が来る。


避ける。


横へ。


追う。


逃げる。


左を置く。


離れる。


相手の息がまた乱れてくる。


美波の脚も軽くはない。


ふくらはぎが熱い。


それでも。


まだ相手より動ける。


カン。


第二ラウンド終了。


     ◇


「つまんない!」


戻るなり美波は言った。


綾乃が笑った。


「自分で言う?」


「だって、ずっと逃げてるだけじゃん」


「左は当ててるよ」


「慰めみたいに言わないで」


千尋がタブレットを見る。


「機能しています」


「勝ってる?」


「第一ラウンドは美波先輩。第二ラウンドは近いです」


「怖いこと言わないでよ」


只野が鼻を鳴らした。


「つまんなくていい!」


美波が振り返る。


「先生がそれ言う?」


「勝ちゃいいんだよ!」


「雑!」


「あと一個だろ!」


「まだ逃げるの?」


只野が両手を広げた。


「何で今さら変えんだよ!」


その声が、さっきよりさらに大きくなる。


「ここまで逃げて! 相手イラつかせて! 最後だけ急に殴り合いますって、バカか!」


「そこまで言わなくても」


「今あるもんで勝つんだろうが!」


美波の笑いが止まった。


第13話。


今持っているもので、三つ拾う。


自分にあるもの。


避ける反応。


離れる足。


距離。


なら。


今日はそれでいい。


「じゃ、最後まで逃げますか」


「最初からそうしろっつってんだろォ!!」


美波は笑った。


     ◇


最終ラウンド。


相手は最初から来た。


待たない。


ゴング直後から前へ。


左。


美波は外す。


右。


下がる。


もう一歩。


横へ。


出ようとした。


相手の前足が先に動いた。


美波が逃げたい方向へ。


身体が置かれる。


「あ」


右。


頭を振る。


避け切れない。


グローブが頬を浅く擦った。


「痛っ」


今日初めて。


はっきり触られた。


相手の顔が変わる。


行ける。


そう思った。


分かる。


また来る。


美波は左へ出たい。


そこに相手がいる。


右へ。


間に合わない。


背中にロープが触れた。


まずい。


近い。


相手の呼吸まで聞こえる。


左肩。


次が来る。


「橘ィ!!」


只野の怒声。


美波が一瞬そちらを見る。


「ロープ背負ってんじゃねえ!!」


分かってる!


出たい。


でも出られない。


相手が左。


美波は頭を外す。


右。


もう逃げ道がない。


「手ぇ出せェ!!」


え。


昨日と言ってること違う。


そう思った瞬間。


相手がもう一歩入る。


只野がリングの外で腕を振った。


「逃げるために殴れェ!!」


美波の左が出た。


考えていない。


相手の顔へ。


まっすぐ。


パシッ。


強くない。


でも、相手の顎が少し上がった。


前進が止まる。


半歩。


身体と身体の間が開く。


空いた。


美波はすぐ横へ滑った。


相手の肩の外。


ロープが背中から離れる。


中央へ。


距離が戻った。


自分でも驚いた。


今の左。


倒そうと思っていない。


ポイントを取ろうとも思っていない。


ただ。


逃げたかった。


だから打った。


「それだァ!!」


只野の声。


美波が振り返りそうになる。


「こっち見んな! 前見ろ!」


「どっち!」


「相手だアホ!!」


相手が追ってくる。


美波は笑いそうになる。


でも。


足は動く。


左。


避ける。


右。


外す。


横へ。


相手がまた逃げ道を切ろうとする。


今度は早めに左を置いた。


パシッ。


前進が一瞬止まる。


そのあいだに外へ。


そういうことか。


殴ってから逃げる。


じゃない。


逃げるために殴る。


相手が最後に踏み込む。


美波は正面へ左。


パシッ。


額へ当たる。


すぐ横へ。


「止まんな! 最後まで動けェ!!」


残り数秒。


足が重い。


でも止めない。


相手が追う。


美波は逃げる。


カン、カン、カン。


終了。


「はぁぁぁ……」


美波は両手を膝へ置いた。


脚が熱い。


肺も痛い。


汗が顎からキャンバスへ落ちる。


それでも。


口が勝手に笑った。


「逃げ切った……」


     ◇


判定を待つ。


美波は自分のグローブを見る。


ほとんど打っていない。


でも。


何もしていなかったわけではない。


相手が入ったときだけ、左を置いた。


何発かは、はっきり当たった。


相手の手数は多い。


でも、有効打は少ない。


大きな一発ももらっていない。


避ける。


離れる。


必要なところだけ触る。


また離れる。


最後まで。


それを続けた。


判定が告げられる。


美波の腕が上がった。


「よっしゃあ!」


声が勝手に出た。


「美波先輩!」


ひまりの声。


綾乃も拍手する。


千尋がすぐに言った。


「一勝一敗です」


美波はリングを降りる。


只野のところまで行く。


さっきまであれだけ怒鳴っていた男は、


もう少しだけ声が落ちていた。


「先生!」


「うるせえ」


「勝った!」


「見りゃ分かる」


「褒めて」


「やだ」


「なんで!」


「逃げただけじゃん」


美波が止まった。


只野も止まった。


二秒。


「……今」


「言ってねえ」


「言った!」


「言ってねえ!」


「じゃんって言った!」


「試合終わって最初に拾うとこそこかよ!」


美波は吹き出した。


腹が痛い。


息も苦しい。


「先生、若者ぶってる!」


「ぶっ飛ばすぞ」


「はいはい、暴力反対」


ひまりまで笑っている。


千尋だけは真顔だった。


「一勝一敗です」


美波は笑いを止める。


千尋を見る。


まだ悔しそうだ。


でも。


もう自分の負けだけを見てはいない。


美波は拳を軽く上げた。


「戻したよ」


千尋が一度だけうなずく。


「はい」


一勝一敗。


あと三試合。


必要なのは。


あと二つ。


     ◇


美波がベンチでグローブを外していると、只野が横を通った。


「おい、美波」


「何?」


「あれ」


「どれ?」


「最後。ロープ詰まったとこ」


美波は左手を見る。


「打ったね」


「うん」


「先生が打てって叫んだから」


「先生じゃねえ」


声はもう普段に近い。


さっきまで、


逃げろォ!!


と叫んでいた人間と同じとは思えない。


「ダメだった?」


「別に」


「じゃあ何」


只野は美波の左グローブを見る。


「お前さ」


「うん」


「避けたら終わりだと思ってたけど」


「うん」


「逃げるためなら打てんじゃん」


美波の指が止まった。


「……また言った」


「そこじゃねえよ!」


一瞬だけ声が戻った。


美波は笑う。


でも。


言葉の方は残った。


逃げるためなら。


打てる。


いつもは、


避ける。


離れる。


そこで終わり。


さっきは違った。


左を出したから。


逃げ道ができた。


拳を出したあとに逃げたんじゃない。


逃げるために拳が出た。


まだ。


何かあるのかもしれない。


避けた。


そのあとに。


「美波先輩!」


ひまりの声。


美波が顔を上げる。


ひまりはもうヘッドギアをつけていた。


グローブの紐を綾乃に締めてもらっている。


さっきまで笑っていた顔が、


少し硬い。


美波は立った。


一勝一敗。


次は。


ひまりだった。

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