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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第14話 正しいまま


開始のゴングが鳴った。


相手の左肩が動く。


千尋は、それだけを見た。


考えない。


右へ半歩。


頭をジャブの線から外す。


直後。


シュッ。


左拳が頬の横を抜けた。


当たらない。


相手の拳が戻る。


千尋も構えを戻した。


できた。


昨日までなら、もっと見ていた。


左肩。


前足。


腰。


肘。


拳。


本当にジャブなのか。


フェイントではないのか。


全部そろえてから判断する。


そのころには遅い。


今日は一つ。


――最初に動いたところを見る。


それだけ。


相手がもう一度距離へ入った。


左肩。


動く。


千尋は右へ。


ジャブが空を切る。


すぐに自分の左を返す。


パシッ。


相手の額へ浅く触れた。


大きな一発ではない。


でも。


先に動けた。


「いいよ、千尋!」


リングの外から美波の声が飛ぶ。


千尋は見ない。


今は相手だけ。


距離。


一歩半。


相手の前足が出る。


左肩。


千尋は先に右へずれる。


またジャブが外れた。


三回。


三回とも避けた。


胸の中に、小さな手応えが積み上がる。


見えている。


いや。


今までも見えていた。


見えすぎていた。


肩。


腰。


足。


呼吸。


拳。


全部を見て。


比較して。


決めて。


動く。


今日は違う。


肩。


動く。


身体。


動く。


それで間に合う。


相手の左肩がまた揺れた。


千尋は先に右へ出る。


――拳が来ない。


「……」


相手はその場にいる。


肩を少し動かしただけ。


フェイント。


千尋だけが位置を変えた。


相手の口元が少し上がる。


見られた。


こちらが左肩へ反応している。


気づかれた。


次。


また左肩。


千尋の右足が動きかける。


待つ。


本物か。


フェイントか。


ほんの一瞬。


パシッ。


左ジャブが額へ当たった。


「っ」


痛くはない。


でも。


完全に遅れた。


千尋が構え直す。


左肩だけでは足りない。


なら。


前足も――。


カン。


ゴング。


第一ラウンドが終わった。


     ◇


コーナーへ戻る。


綾乃が水を差し出した。


「どう?」


「見えています」


「うん」


それ以上は聞かない。


千尋は水を含んだ。


鼻から吸う。


口から吐く。


向こうのコーナーを見る。


相手の呼吸はまだ落ち着いている。


セコンドと話しながら、一度こちらを見た。


最初の三回。


肩に反応した。


全部避けた。


だから相手は肩だけ動かした。


自分だけが反応した。


そのあと本物。


自分は迷った。


偶然ではない。


なら次は。


肩だけでは不足する。


前足も見る。


踏み込みがあれば――。


「只野さん」


リング下へ声をかけた。


「何だ!」


返事だけで、いつもより声が大きい。


只野はもう座っていなかった。


ロープの外。


両足を開いて立っている。


目だけがリングへ向いていた。


「相手が変えました」


「見りゃ分かる!」


「左肩だけでは判別できません」


「だから何だ!」


「次は前足も――」


「増やすなァ!!」


倉庫では聞いたことのない声だった。


練習場の壁まで響く。


千尋の肩が、反射でわずかに跳ねた。


拳闘部側まで一瞬こちらを見る。


只野は気にもしていない。


「さっき一個見ろっつっただろうが! 一発フェイント食らっただけで何でまた足すんだよ!」


「ですが、肩だけでは誤判定します」


「間違えろ!!」


千尋は言葉を失った。


「……はい?」


「一回間違えたら死ぬのか!?」


「死にはしません」


「だったら先に動け!」


只野がリングを指差す。


「フェイントに引っ掛かった? だから何だ! 戻りゃいいだろ!」


「無駄な反応が増えます」


「もう殴られてんだろうが!!」


千尋の口が止まった。


「肩見て! 足見て! 腰見て! 全部そろえて! はい正解ですって分かった頃には拳食らってんじゃねえか!」


「でも――」


「でもじゃねえ!」


拍子木が鳴る。


残り時間がない。


「百点出るまで待つな! 外したら次直せ!」


千尋は立ち上がった。


「どの程度の確率なら――」


「数字にすんなァ!!」


只野が吠えた。


「お前は数字決めたら、そこまで待つだろうが!」


ゴングが鳴る。


只野が大きく腕を振った。


「ほら行けェ!!」


押し出されるように。


千尋はリング中央へ戻った。


     ◇


第二ラウンド。


左肩。


千尋は右へ出る。


何も来ない。


フェイント。


相手がすぐに踏み込む。


今度は本物の左。


ガード。


一拍遅い。


続けて右。


頬の横を擦る。


千尋は後ろ足を引き、距離を戻した。


左肩。


今度は前足も出る。


ジャブ。


頭を外す。


読めた。


すぐ右を返す。


――遅い。


相手の頭はもう遠い。


判断は合った。


なのに届かない。


次。


左肩。


前足は動いていない。


ならフェイント。


千尋はその場に残った。


パシッ。


ジャブ。


鼻先を叩かれる。


前足を大きく出さずに打った。


条件が崩れる。


なら。


後ろ足。


腰。


肘。


千尋の視線が増える。


左肩。


前足。


腰。


拳。


来る。


いや。


右かもしれない。


相手の左が途中で止まる。


フェイント。


そこから右。


千尋が身体を引く。


遅い。


グローブが頬をかすめる。


「千尋! 増やすなァ!!」


只野の声がリングへ飛び込んできた。


聞こえている。


でも。


減らせない。


間違えたくない。


左肩。


前足。


腰。


拳。


どれだ。


本物か。


違うか。


判断してから――。


パシッ。


また額。


「だから遅えっつってんだろ!!」


只野の怒鳴り声。


千尋は奥歯を噛んだ。


分かっている。


相手の動きが速くなったわけではない。


自分が遅くなっている。


情報を増やした分だけ。


判断までが長くなっている。


それも分かっている。


なのに。


次の一発を間違えたくない。


左肩。


腰。


前足。


拳。


確認。


ジャブ。


当たる。


「考えてから動くなァ!!」


左。


ガード。


右。


外す。


返そうとする。


遅い。


「先に身体出せ!!」


また相手の左肩。


千尋の頭に候補が並ぶ。


本物。


フェイント。


右への布石。


一つずつ確認する。


そのあいだに。


パシッ。


また一発。


カン。


第二ラウンド終了。


     ◇


コーナーまでの足が重い。


脚の疲労ではない。


頭が重い。


考え続けた。


ずっと。


綾乃が水を差し出す。


「千尋」


「分かっています」


「何が?」


千尋は口を開く。


止まる。


分かっていることが多すぎる。


肩だけではフェイントに引っ掛かる。


前足は決定条件にならない。


右へのつなぎもある。


こちらの反応も読まれている。


情報を増やしたぶん、自分が遅くなった。


全部。


分かっている。


「……分かっているのに、遅いです」


口から出た。


綾乃は何も言わなかった。


千尋はリング下を見る。


只野は立ったままだ。


さっきまで酒臭い中年だったはずなのに。


今はロープの向こうしか見ていない。


「只野さん」


「何だ!」


「私の読みは間違っていますか」


只野が一瞬、固まった。


次の瞬間。


「だからそこじゃねえっつってんだろォ!!」


千尋の身体がまた少し跳ねた。


「ジャブも! フェイントも! 右も! だいたい合ってんだよ!」


「なら――」


「遅えんだよ!!」


練習場に声が響く。


「お前、ずーっと正しいんだよ!」


千尋は止まった。


「正しいって確認して! よし合ってましたって顔して! それから動いて! 何がしたいんだ!」


「確認は必要です」


「殴られてから『やっぱジャブでした』って分かってどうすんだよ!!」


答えられない。


只野がリングを叩く。


バンッ。


「相手はクイズの採点待ってくれねえぞ!」


「……」


「間違えろ! 外せ! 食らえ!」


千尋が顔を上げる。


「ただし止まんな!」


拍子木が鳴る。


最終ラウンド。


只野の声がさらに上がった。


「外したら次だ! 食らったら次! 百点探して止まるな!」


綾乃がマウスピースを差し出す。


千尋は受け取った。


立つ。


まだ聞きたい。


「何割なら――」


「だから数字にすんなっつってんだろォ!!」


「……はい」


「行け!」


千尋がロープへ向かう。


背中から。


「間違えてこい!!」


     ◇


最終ラウンド。


左肩。


千尋は右へ動きかける。


止まる。


フェイントかもしれない。


本物かもしれない。


迷う。


パシッ。


ジャブ。


また遅れた。


「止まんなァ!!」


只野の声。


相手が追う。


右。


ガード。


左。


外す。


返す。


相手はもう離れている。


半歩遅い。


また。


このままなら負ける。


それも分かる。


分かってからでは。


遅い。


相手の左肩が動いた。


ジャブ。


フェイント。


右への布石。


前足は。


腰は。


――違う。


千尋は途中で切った。


肩が動いた。


それだけ。


左を出す。


相手の左も同時に伸びる。


パシッ。


互いの拳が顔へ触れた。


千尋の頭が少し揺れる。


自分の左も、相手の頬へ入った。


「……当たった」


相打ち。


完璧ではない。


正解でもない。


でも。


相手が動き終わる前に、自分も動いた。


「それでいい! 次ィ!!」


只野の声。


次。


左肩。


千尋は左を出す。


今度は相手の拳が途中で止まった。


フェイント。


自分の左だけが空を切る。


失敗。


右が来る。


ガード。


少し遅れる。


側頭部へ触れる。


間違えた。


でも。


「止まんな!!」


千尋はもう考え込まなかった。


相手の右が戻る。


左肩。


半歩外へ。


左。


外れる。


次。


相手が踏み込む。


肩。


千尋も踏み込む。


左。


相手が頭を外す。


空振り。


次。


正しいかどうか。


確認しない。


見る。


決める。


動く。


外れる。


修正。


また見る。


相手のジャブが頬へ触れる。


自分も返す。


浅く額へ。


「そうだ! 先に出せ!!」


只野が怒鳴る。


急に強くなったわけではない。


相手の方がまだ上手い。


フェイントも読まれる。


こちらの反応も外される。


でも。


第二ラウンドとは違う。


相手が全部終わってから、自分が答えを出しているわけではない。


同じ瞬間に動いている。


外す。


食らう。


返す。


また外す。


次。


残り数秒。


相手が踏み込んだ。


左肩。


千尋も前へ出る。


互いのジャブ。


パシッ。


同時に当たった。


「最後ォ!!」


もう一発。


千尋が左を出す。


相手も返す。


カン、カン、カン。


終了。


千尋は拳を戻した。


息が荒い。


額が熱い。


肩も重い。


勝った感触はなかった。


ポイントも足りていないと思う。


それでも。


最後の数十秒だけは。


相手が動いたあとではない。


相手と同じ時間の中にいた。


     ◇


判定。


上がったのは相手の腕だった。


0勝1敗。


最初の一つを落とした。


千尋は一度だけ目を閉じた。


開く。


リングを降りる。


ひまりがすぐ近くまで来た。


「千尋ちゃん……」


「負けました」


「うん……」


「すみません」


「謝らなくていいですよ」


グローブを外す。


紐を引く指が一度止まる。


悔しい。


勝ちたかった。


最初の一勝を持ってくるつもりだった。


三つ必要。


その一つを。


自分が取るつもりだった。


でも。


負けた理由は分かる。


千尋は只野を見る。


「只野さん」


さっきまでリングへ身を乗り出していた男が、


「何」


もう少しだけ元の声に戻っていた。


「確認したいことがあります」


只野が顔をしかめる。


「まだやんの?」


「重要です」


「めんどくせえな」


「私の読みは、間違っていましたか」


只野が目を閉じた。


深く息を吐く。


そして。


また声が跳ね上がった。


「だからァ!!」


千尋の背筋が伸びる。


「試合終わってまで正解聞くな!」


「ですが――」


「合ってるっつってんだろ!」


「では、何が駄目だったんですか」


「遅え!!」


即答。


千尋の指が止まった。


只野が千尋を指差す。


「お前、ずーっと正しいんだよ!」


「……」


「肩も見えてる! フェイントも分かってる! 右も読めてる!」


声が練習場へ響く。


「なのに遅え!!」


千尋は動けなかった。


「正しいまま遅えんだよ!」


只野が吐き捨てる。


「だから負けんだよ!」


短い。


乱暴。


でも。


否定できない。


千尋は間違っていなかった。


だから確定まで待った。


間違えないように。


正しい答えを出してから動いた。


その結果。


全部、一瞬ずつ遅れた。


正しいまま。


負けた。


千尋はタブレットを取った。


試合記録を開く。


左肩。


前足。


フェイント。


右。


入力しようとする。


「おい!」


只野の声。


千尋が顔を上げる。


「はい」


「また全部書く気か!」


指が止まる。


「記録は必要です」


「あとでやれ!」


只野がリングを指差した。


「次見ろ!!」


リングでは。


美波がグローブをつけている。


0勝1敗。


自分の試合は終わった。


次。


千尋はタブレットを閉じた。


「……はい」


リングを見る。


全部ではない。


まず。


最初に動いたところから。

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