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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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第13.5話 明日、無くなるかもしれない


五対五の前日。


綾乃たちは、いつもより早く倉庫へ集まっていた。


何をするかは決めていない。


でも、何もしないのも落ち着かなかった。


美波は縄跳びを出している。


千尋はタブレットを開いている。


ひまりはグローブをはめようとしている。


律はもうシューズへ履き替えていた。


綾乃もバンデージを巻き始めていた。


そこへ只野が入ってきた。


五人を見る。


床に広がった道具を見る。


もう一度、五人を見る。


「……は?」


誰も答えない。


只野の眉が寄った。


「お前ら、明日だろ」


「はい」


綾乃が答える。


「で?」


「最終確認を」


「バカか」


即答だった。


美波が顔を上げる。


「いきなりひどくない?」


「前日に何増やす気だよ」


只野はコンビニ袋を床へ置いた。


「今日やって急に強くなんの?」


「最終調整とかあるでしょ」


「疲れることすんな。それで終わり」


「雑」


「じゃあ走り込みでもすっか?」


「しない」


「なら黙ってろ」


美波が口を尖らせた。


只野は壁際の椅子へ座る。


「つーか、何だよその顔」


「何が?」


「全員、葬式みてえ」


ひまりが困ったように笑った。


「明日、負けたら……」


「負けたら何」


ひまりがサンドバッグを見る。


「ここで五人だけでやるの、最後になるかもしれないので」


只野もサンドバッグを見る。


古い。


ところどころ革が擦れている。


「で?」


「で、って」


美波が呆れる。


只野は鼻を鳴らした。


「今からしんみりして勝率上がんの?」


誰も答えない。


「上がんねえだろ」


缶コーヒーを開ける。


プシュッ。


「なら、やめろ」


美波が小さく言った。


「言い方」


「知るか」


綾乃は少しだけ息を吐いた。


乱暴だ。


でも。


朝から胸に溜まっていたものが、少し軽くなった。


     ◇


綾乃は倉庫の中央へ立った。


左足を前。


顎を引く。


肩の力を抜く。


昨日言われたのは、


――いつもの。


それだけ。


六年使ってきた左。


新しいフェイントは入れない。


速くしようともしない。


いつもの距離。


いつもの呼吸。


左肩が出る。


拳が伸びる。


シュッ。


戻す。


もう一度。


シュッ。


只野を見る。


「これでいいですか」


只野が露骨に嫌そうな顔をした。


「知らねえよ」


「昨日、いつものって」


「だから、いつものだろ」


「これが正解か確認を――」


「あのな」


只野が缶を膝へ置く。


「俺のジャブじゃねえだろ」


綾乃が止まった。


「お前が六年打ってきたんだろ」


「はい」


「じゃ、お前が決めろよ」


まただ。


綾乃は口を閉じる。


第4話でも同じだった。


自分で考えているつもりで、


最後の正解だけは誰かに決めてもらおうとする。


綾乃は只野から目を外した。


構える。


左。


シュッ。


戻す。


もう一発。


今度は聞かなかった。


     ◇


美波はひまりと向かい合った。


ひまりが左を伸ばす。


美波の頭が外へずれる。


右。


上体を引く。


ひまりの拳が空を切る。


美波は横へ出る。


その瞬間。


ひまりの顔が、まだ目の前に残っていた。


右を返せる。


美波の拳が少し上がった。


止まる。


そのまま離れた。


只野が言う。


「それ」


美波が振り返る。


「それ?」


「それでいい」


「今、絶対返せたけど」


「だから?」


「もったいなくない?」


「今までやってねえもん、前日に欲しがんな」


「でも当たるよ?」


「じゃあ今まで何で打ってねえんだよ」


美波が黙る。


「……避けたら満足してたから?」


「だろ」


「認めると腹立つなあ」


「俺に言うな」


美波はまた構えた。


「ほんとに明日、逃げるだけ?」


「逃げろ」


「勝てる?」


「知らねえ」


「先生さあ」


「先生じゃねえ」


「もうそこどうでもいい」


「俺はよくねえ」


ひまりの左。


美波が避ける。


右も外す。


横へ出る。


返さない。


今度は迷いが少なかった。


     ◇


綾乃がミットを持つ。


ひまりが正面に立った。


「お願いします!」


「うん」


ひまりの右は重い。


知っている。


問題は。


当たる直前になると、


少しだけ拳が死ぬ。


ひまりが左。


次に右。


パシッ。


ミットへ届く。


重くはない。


でも途中で止まらなかった。


ひまりがすぐ只野を見る。


「先生、今の弱いですか?」


「先生じゃねえ」


「そこじゃなくて!」


只野が面倒そうに頭を掻く。


「当たった?」


「はい」


「ならいいだろ」


「でも、もっと強く――」


「いらねえ」


ひまりが止まる。


「え?」


「強くしようとすっから止まんだろ」


「……はい」


「倒すの明日じゃなくてもできる」


「明日、試合ですけど」


「そういう意味じゃねえよ」


美波が吹き出す。


只野が睨む。


「笑うな」


「今のは先生が悪い」


「先生じゃねえ!」


ひまりも少し笑った。


もう一度構える。


左。


右。


パシッ。


今度も中心へ届いた。


「それでいい」


只野が言った。


「まず当てろ。話はそっからだ」


ひまりは拳を見た。


「はい」


     ◇


千尋は四人を見ていた。


綾乃には、それが分かった。


目が忙しい。


自分の前足。


美波の頭。


ひまりの右肩。


律の足。


また綾乃。


只野が言う。


「お前」


「はい」


「何見てんの」


「全員です」


只野が一秒黙った。


それから。


「アホか」


千尋の眉が動く。


「なぜですか」


「四人見て、一個も見えてねえだろ」


「見えています」


「じゃ、美波今何した」


「右へ移動しました」


「その前」


「ひまり先輩の左を避けて――」


「遅え」


千尋の口が止まった。


只野が鼻を鳴らす。


「試合でそこまで待ってくれんの?」


「待ちません」


「じゃ一個見ろ」


千尋は少し黙る。


昨日の指示。


最初に動くところ。


「綾乃先輩」


「うん」


「美波先輩とお願いします」


綾乃は美波と向き合った。


構える。


美波も構える。


千尋が見ている。


綾乃は左を出す。


その直前。


左肩が先に動く。


千尋の右足が反応した。


拳が出るより早い。


「今」


只野が言う。


千尋もうなずく。


「左肩」


「じゃ、それ見ろ」


「ですが、フェイントの場合――」


只野が頭を抱えた。


「もう増やすなよ」


「でも」


「前日に何個覚えんだよ、お前」


「可能性の整理です」


「その整理して遅れてんだろ」


千尋が止まる。


「一個見て外れたら?」


只野が聞く。


「修正します」


「ならそうしろ」


「でも、誤判定が――」


「殴られてから百点出すよりマシだろ」


千尋は黙った。


少しして。


「もう一度お願いします」


綾乃は構えた。


千尋の目は、


今度は左肩から動かなかった。


     ◇


律は少し離れたところでシャドーをしていた。


低く沈む。


外へ。


潜る。


入る。


左。


戻る。


もう一度。


相手は佐伯。


十七センチ高い。


長いジャブ。


昨日見た限り、何度でも前手を置いてくる。


律が同じ形へ入る。


只野は黙って見ている。


拳ではない。


足。


綾乃にも分かった。


只野の目は、


律が入ったあとの足元に落ちている。


「おい」


律が止まる。


「何ですか」


「今ので行け」


「またそれですか」


「またそれだよ」


「届きますか」


「知らねえ」


「十七センチ差ですよ」


「見りゃ分かる」


「入って届かなかったら?」


只野が缶を持ち上げる。


「そんとき殴られろ」


律の目が細くなった。


「最低ですね」


「で、次考えろ」


「先に考えてくださいよ」


「あァ?」


只野が眉を寄せる。


「今からお前の入り方全部変えろって?」


「全部とは言ってません」


「明日だぞ」


律が黙る。


「今までそれで入ってきたんだろ」


「はい」


「じゃ、それで入れ」


「でも、何か変だと思ってますよね」


只野の目が一瞬、律の足へ落ちる。


「知らねえ」


「絶対知ってる」


「うるせえな」


律が睨む。


只野も面倒そうに見返す。


「明日、考える暇あるなら自分で気づけ」


「無責任」


「コーチじゃねえし」


「先生でもない?」


「分かってんじゃん」


律が舌打ちしそうな顔をした。


それでもまた構える。


沈む。


潜る。


入る。


左。


只野は何も言わなかった。


     ◇


練習は、あっという間に終わった。


終わったというより。


只野に止められた。


「もうやめろ」


美波が時計を見る。


「早くない?」


「明日だっつってんだろ」


「まだ動けるけど」


「知るか。帰れ」


「雑!」


「寝ろ」


綾乃はグローブを外した。


本当に何も増やしていない。


自分は、いつもの左。


美波は、逃げる。


ひまりは、当てる。


千尋は、最初の一つを見る。


律は、今の形で入る。


これだけ。


不安は残る。


むしろ。


残ったままだ。


美波は返さない。


ひまりはまだ怖がる。


千尋は考えすぎる。


律には何か引っかかっている。


自分も。


「真面目すぎる」の答えを全部出したわけではない。


でも。


二週間で全部消える方がおかしい。


只野はそう言った。


準備と改造をごっちゃにするな。


今あるもので三つ拾う。


綾乃はバンデージを外した。


これで行く。


そう決めるしかない。


ひまりがバッグのファスナーを閉めながら、ぽつりと言った。


「ここ……明日負けたら」


誰もすぐに答えなかった。


ひまりが倉庫を見る。


「もう、五人だけでは使わないんですよね」


美波がサンドバッグを見る。


千尋は机。


律は床のテープ。


綾乃も倉庫を見た。


何もなかった場所。


四人で掃除した。


マットを運んだ。


バッグを吊った。


学生課へ何度も行った。


ここで練習した。


ここで只野に会った。


五人目を探した。


律が来た。


赤い、


『あと一人!』


を剥がした。


「私は」


律が言った。


「こっちに入りに来ました」


美波が笑う。


「それ、強いね」


律が少し首を傾げる。


「何がですか」


「最近入ったばっかなのに、一番言い切ってる」


ひまりもうなずく。


「私も残したいです」


千尋も言う。


「同意します」


綾乃は四人を見る。


絶対勝てる。


そんなことは言えない。


相手の方が経験も設備も上だ。


一試合目を落とすかもしれない。


二試合目も分からない。


三つ取れないかもしれない。


でも。


言うことは一つだった。


「勝とう」


「はい!」


ひまりの声が一番大きい。


美波が拳を出した。


「三つ」


ひまりが重ねる。


「取ります!」


千尋。


「三勝です」


律も重ねる。


「はい」


最後に綾乃。


五人。


少しだけ、手の重みが増えた。


そのとき。


後ろから只野の声。


「……何やってんの、お前ら」


五人が振り返る。


只野が本気で呆れた顔をしていた。


「円陣?」


「悪い?」


美波が言う。


只野は時計を指す。


「明日試合なんだろ」


「そうだけど」


「じゃ帰れよ」


「雰囲気!」


「何の雰囲気だよ」


「決戦前の!」


「バカか。寝ろ」


美波が口を開けた。


只野は止まらない。


「つーか、お前ら前日にテンション上げんな。早く帰って飯食って風呂入って寝ろ」


千尋が一度だけうなずく。


「内容は合理的です」


「ほら」


「言い方は最悪です」


「お前まで何なんだよ」


ひまりが笑う。


律も口元だけ少し緩んだ。


只野が律を見る。


「特にお前」


「何ですか」


「入って何日だよ」


「……」


「倉庫にそんな思い入れねえだろ」


律の目が細くなった。


「今それ言います?」


「事実じゃん」


美波が指を差す。


「また、じゃん」


「うるせえ!」


律が冷たく言った。


「最低ですね」


「今日何回目だよ」


「数える価値もないです」


ひまりが吹き出した。


美波も笑う。


千尋まで口元を押さえた。


綾乃も笑った。


明日なくなるかもしれない場所で。


いつもと同じ。


くだらない声が響いた。


     ◇


最後に電気を消したのは綾乃だった。


全員が外へ出た。


只野も、


「鍵閉めろよ」


だけ言って先へ歩いていった。


綾乃は入口に残る。


スイッチへ手を伸ばす。


その前に。


もう一度だけ見る。


サンドバッグ。


机。


棚。


扇風機。


床のテープ。


明日も戻ってくる。


勝っても。


負けても。


倉庫自体は残る。


でも。


五人の場所として戻ってこられるかは、分からない。


電気を消した。


暗くなる。


引き戸へ手を掛ける。


明日。


最初にリングへ上がるのは、


千尋だった。

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