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次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

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15/50

第13話 3つでいい


千尋は、前日の睡眠時間を五時間十二分まで伸ばした。


前回は四時間二十八分。


四十四分の改善である。


倉庫の机へタブレットと印刷した資料を並べながら報告すると、美波が縄跳びを束ねる手を止めた。


「改善の方向がおかしい」


「四十四分増えています」


「そこじゃない」


「直近の記録と比較すれば、増加率は――」


「基準を四時間二十八分に置くのやめようよ」


千尋は口を閉じた。


睡眠時間が短い、という指摘なら理解できる。


ただし前回より増えているのも事実だ。


「でも、増えています」


「もういい。千尋が寝不足なのだけ分かった」


美波が片手を振る。


その直後。


小さなあくびが出た。


美波が黙ってこちらを見る。


「偶然です」


「はいはい」


千尋は資料へ視線を戻した。


机いっぱいに紙が広がっている。


対戦表。


昨日の拳闘部で取った観察記録。


過去映像との差分。


五人の現在地。


そこから逆算した、残り二週間の練習計画。


第十二話で分かった。


過去のデータだけでは足りない。


今の相手を見る必要がある。


だから昨日は見た。


なら次は。


自分たちの現在地も見なければならない。


千尋は五人を、一人ずつ整理した。


綾乃先輩。


基本は安定している。


ただ、安定している分、相手から見ても選択肢が読みやすい。


ならフェイントを増やす。


入り方も増やす。


タイミングも変える。


美波先輩。


回避能力は高い。


ただ、避けたあとに攻撃が続かない。


ならカウンターを作る。


ひまり先輩。


拳は重い。


ただし、当たる直前に自分で出力を落とす。


なら、力を落とさず制御する打ち方を身につける。


自分。


見える。


でも遅い。


観察。


比較。


判断。


行動。


この四段階を短くする。


律。


潜る速度と角度はある。


ただ、入ったあとの距離が噛み合っていない。


なら、侵入距離と足の位置を作り直す。


さらに。


共通のパターンスパー。


対戦相手別の練習。


試合形式。


休養日。


日ごとの負荷。


本当は、もっと入れたかった。


体幹。


フットワーク。


映像確認。


ラウンドごとの心拍。


全部入れれば時間が足りない。


だから削った。


千尋としては、かなり削ったつもりだった。


「できました」


声をかける。


五人が机の周りへ集まった。


綾乃は最初から黙って読む。


美波は一枚目の途中で眉を上げた。


「多くない?」


「削っています」


「これで?」


「はい」


ひまりは二枚目から、目だけが左右へ忙しく動いている。


律は自分の欄をじっと見ていた。


最後に只野が来た。


「何これ」


「残り二週間の練習計画です」


「ふうん」


返事が軽い。


嫌な予感がした。


只野は椅子にも座らず、机の横から一枚目を取った。


めくる。


二枚目。


三枚目。


速い。


「ちゃんと読んでいますか」


「読んでる」


「まだ十二秒です」


「数えてんの?」


「はい」


「読めるだろ、こんくらい」


読める量ではない。


只野の手が、机の端へ伸びた。


千尋が使っていた赤ペンを取る。


キャップが外れた。


カチッ。


千尋はその音を聞いた。


嫌な予感が、ほぼ確定に変わった。


只野が一本、線を引いた。


綾乃の欄。


上から下まで。


赤。


「え?」


綾乃の声。


二本目。


美波。


「ちょっと」


三本目。


ひまり。


「先生!」


「先生じゃねえ」


四本目。


千尋。


自分の欄を、赤い線が横切る。


五本目。


律。


終わらない。


パターンスパー。


対戦相手別メニュー。


追加練習。


赤。


赤。


赤。


最後に残ったのは、休養日の配置くらいだった。


只野がペン先を紙から離す。


扇風機が首を振った。


ぶうん。


紙の端が浮く。


千尋は赤くなった計画を見る。


「全部消しました」


「うん」


「ほぼ全部です」


「見りゃ分かる」


「重大なので確認しました」


美波が吹き出す。


「千尋、怒ってる?」


「怒っていません」


「ちょっと怒ってるじゃん」


「怒っていません」


二回言った。


自分でも気づいた。


感情の分析は後回しでいい。


必要なのは理由。


「説明してください」


只野を見る。


「何を」


「消した理由です」


「無理」


「何がですか」


只野が赤線だらけの紙を指先で叩いた。


ぱさ。


「これ」


「二週間あります」


「しかねえんだろ」


「一日ごとの負荷と回復時間まで考慮しています」


「だから?」


「実行可能です」


只野が鼻を鳴らした。


「準備と改造をごっちゃにすんなって言ってんだよ」


千尋の口が止まる。


只野は赤ペンを置いた。


「二週間で、こいつら別人にすんの?」


「別人にはしません」


「書いてんの、だいたいそれだろ」


「違います」


即答した。


只野は何も言わない。


千尋は自分の紙を見る。


綾乃に、新しいフェイント。


美波に、今までなかったカウンター。


ひまりに、新しい出力制御。


自分に、判断速度の短縮。


律に、新しい距離。


どれも欠点を直すためのものだ。


そう思って書いた。


でも。


共通している。


今ないものを、二週間で足そうとしている。


「不足している部分を補います」


千尋は言った。


「弱点が分かっているなら、修正するのが合理的です」


「時間あんならな」


「二週間――」


「だから」


只野が紙を指で弾く。


「今持ってねえもん探してる暇なんざねえんだよ」


倉庫が静かになった。


扇風機。


外から聞こえる蝉。


サンドバッグの鎖が、風でかすかに鳴る。


綾乃が最初に口を開いた。


「じゃあ、何をすればいいんですか」


只野が綾乃を見る。


顔。


次に胸。


腰。


さらに下。


綾乃の目が細くなった。


「先生」


「先生じゃねえ」


「今、どこ見ました?」


「見てねえよ」


「見てました」


「見える位置にあんだろ」


「最低です」


「知ってる」


只野は悪びれない。


だが。


次に視線が動いたとき、見る場所が変わった。


左肩。


肘。


前手。


前足。


綾乃の身体を上から下へ追う。


同じ身体を見ている。


でも、さっきとは違う。


千尋には、その区別が分かった。


「いつもの」


只野が言った。


綾乃が眉を寄せる。


「……いつもの?」


「お前が一番信用してるやつ」


綾乃は自分の左拳を見る。


構える。


一発だけ。


シュッ。


ジャブ。


速さを見せるためでもない。


変化をつけてもいない。


六年、何度も出してきた左。


「これですか」


「知らね」


「そこまで言っておいて?」


「俺が決めんの?」


綾乃は少し黙った。


「……分かりました」


次。


只野が美波を見る。


「お前、逃げろ」


「え?」


「逃げろ」


「二回言った」


「聞こえてんなら聞き返すな」


美波が腰へ手を置く。


「ボクシングなんだけど」


「知ってる」


「避けたあと、返す練習は?」


「いらね」


「えー」


「お前、それ今ねえだろ」


美波が止まった。


「ないけど」


「じゃ今作んな」


「逃げるだけ?」


「今はな」


美波は不満そうに口を尖らせる。


「すごい情けない作戦なんだけど」


「一番できんだろ」


今度は美波が黙った。


「……まあ」


爪先が床を軽く擦る。


「避けるだけなら」


「じゃ、それやれ」


次。


ひまり。


只野が一言。


「当てろ」


ひまりが自分の右拳を見る。


「強く、じゃなくてですか?」


「当てろ」


「倒さなくていいんですか?」


「まず当てろ」


ひまりの指がグローブの中で動いた。


握る。


少し緩める。


また握る。


「……はい」


いつもより小さい返事だった。


次。


千尋。


只野の目がこちらへ来る。


「見ろ」


「何をですか」


「相手」


「どこを?」


「最初に動くとこ」


千尋は一秒考える。


「肩ですか」


「知らね」


「足」


「知らね」


「腰」


「だから」


只野が面倒そうに眉を寄せる。


「先に決めんな」


「では、何を――」


「最初に動いたとこだよ」


千尋は止まった。


「毎回違う可能性があります」


「じゃ、違ったら次見ろ」


「確定する前に判断する?」


「好きにしろ」


「それでは誤認する可能性が」


「今も全部見て遅れてんじゃん」


千尋の口が止まった。


肩。


腰。


前足。


後ろ足。


拳。


視線。


呼吸。


見るものを増やせば、情報は増える。


情報が増えれば、判断材料も増える。


そして。


判断するまでの時間も増える。


「つまり、情報を――」


「ほら」


只野が遮る。


「もう説明増やしてんじゃねえか」


千尋は黙った。


只野が鼻を鳴らす。


「長え説明したら、お前また全部見るだろ」


言い返せなかった。


最後。


律。


只野は四人より少し長く見た。


律も気づく。


「何ですか」


「やってみ」


律が机から離れた。


倉庫の中央。


足を前後に置く。


低い。


沈む。


頭を外へ。


潜る。


一歩。


左。


戻る。


もう一度。


低く。


外。


潜る。


入る。


左。


只野の視線は拳ではなく、足元に落ちていた。


千尋も見る。


前足。


後ろ足。


距離。


第十二話で佐伯を見たときと同じだった。


只野の眉が、ほんの少し動いた。


口が開く。


閉じる。


「今ので行け」


律が構えを解いた。


「今ので?」


「うん」


「直さなくていいんですか」


「今いじんな」


「でも」


律が只野を見る。


「何か変だと思ってますよね」


「さあな」


「またそれですか」


「今ので行け」


それ以上は言わなかった。


律は納得していない。


それでも構え直す。


沈む。


潜る。


入る。


左。


只野は黙って見た。


千尋は机を見る。


赤線。


昨夜、自分が必要だと思ったものはほとんど消えた。


代わりに残ったのは、


いつもの。


逃げろ。


当てろ。


見ろ。


今ので行け。


五人合わせても短い。


数値がない。


回数指定もない。


達成基準もない。


計画書として提出されたら、差し戻す。


それでも。


自分が書いた三枚より、


明日から五人が何をするかは分かる。


美波が只野を見る。


「先生」


「先生じゃねえ」


「それで勝てると思ってんの?」


「知らね」


「無責任」


「今から急に強くする方が無責任だろ」


「じゃあ何するの?」


只野が赤線だらけの紙を取った。


裏返す。


白い面が上になる。


千尋が昨夜埋めた文字が見えなくなった。


「準備」


只野は白い紙を指で叩く。


「今持ってるもんで、3つ拾う」


三つ。


千尋は白い紙を見る。


五人いる。


必要なのは三勝。


全員を完成させる必要はない。


綾乃先輩に、新しい選択肢を何個も増やさなくていい。


美波先輩に、二週間で新しいカウンターを作らなくていい。


ひまり先輩の怖さを、消さなくていい。


自分が、別人みたいに速く判断できるようになる必要もない。


律のボクシングを、今から作り直さなくていい。


今あるもの。


それで。


三つ。


千尋はタブレットを開いた。


新しいページ。


いつもなら最初に、


**不足**


と書く。


指が止まる。


一度消した。


代わりに書く。


**現在使えるもの**


その下。


白石綾乃。


六年間繰り返した基本。


橘美波。


反応と回避。


大熊ひまり。


当たれば重い拳。


雨宮千尋。


見ること。比較すること。


鳴瀬律。


低く潜って懐へ入る今の形。


五人分。


書き終える。


前のページには、赤線だらけの計画が残っている。


削除はしなかった。


間違いだったわけではない。


時間が違った。


今は、二週間。


千尋は新しいページを一番上へ移動した。


欠けているものからではなく。


今あるものから。


初めて、計画を作り直した。

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