第12話 見に行くぞ
五対五の決戦の日まで、あと二週間。
雨宮千尋は倉庫の机にタブレットを置いて覗き込んでいた。
画面には、大学拳闘部の選手名が五人。
その横に、階級、学年、確認できた戦績。
別の画面には試合映像。
さらに机の上には、印刷した大会結果と大学広報の記事。
昨夜から集めたものだった。
後ろから、美波が画面を覗き込む。
「これ、全部あっちの?」
「はい」
「いつ調べたの?」
「昨日からです」
「寝た?」
千尋は少し考えた。
考える必要はなかった。
時刻は記録してある。
「四時間二十八分」
美波の顔が止まった。
「寝てない寄りじゃん」
「睡眠は取っています」
「四時間二十八分で?」
「はい」
「それを寝たって言うの、千尋くらいだよ」
正確には、寝ている。
ただ、美波が言いたいことも分からなくはない。
千尋は画面へ戻った。
対戦候補は五人。
全員に十分な映像があるわけではない。
大会結果だけの選手。
写真だけの選手。
一年近く前の試合しか見つからない選手。
それでも、何もないよりはいい。
過去の記録が三試合あれば、三回とも同じ反応をしているか確認できる。
追われたときにどちらへ回るか。
先に触られたあと何を返すか。
ラウンド後半で足が落ちるか。
同じことが複数回起きていれば、偶然ではない可能性が高くなる。
千尋はそう考えていた。
「先生」
倉庫の奥へ声をかける。
段ボールの上に只野が寝ている。
「先生」
「先生じゃねえ」
目も開けない。
「では只野さん」
「何」
「対戦相手の資料を集めました」
「ふうん」
動かない。
千尋は待った。
五秒。
十秒。
「見ないんですか」
只野が片目を開けた。
「今?」
「今です」
「めんどくせえな」
身体を起こす。
千尋がタブレットを渡す。
只野は一人目を開いた。
数秒。
指を滑らせる。
二人目。
三人目。
四人目。
五人目。
「終わり」
返された。
千尋は受け取らなかった。
「早すぎます」
「見たよ」
「読んでいません」
「読んだ」
「では、三人目の昨年度公式戦における二ラウンド目以降の――」
「知らね」
「読んでいません」
美波が吹き出した。
只野は面倒そうにタブレットをもう一度取った。
一人目の映像を開く。
今度は数秒で送らなかった。
ジャブ。
右。
相手が下がる。
そこで映像を止める。
「これ、いつ?」
「四か月前です」
次の選手。
「これは?」
「八か月前」
「古いのは?」
「約十一か月前です」
只野が千尋を見る。
「じゃ、今と違うかもしんねえじゃん」
「可能性はあります」
「だろ」
「だからといって、過去の記録が無意味になるわけではありません」
千尋はすぐ答えた。
そこは違う。
「複数の試合で同じ動作が出ていれば、行動傾向として使えます。追われると右へ回る。ジャブを先に触られた直後は手数が落ちる。最終ラウンドになると前足の移動量が減る。繰り返していれば――」
「要るよ」
千尋の言葉が止まった。
「……はい?」
只野が画面を見る。
「こういうの」
「要るんですか」
「要らねえとは言ってねえだろ」
予想していた答えではなかった。
もっと簡単に、
そんなもん見るな。
と言われると思っていた。
只野が映像を巻き戻す。
同じ場面をもう一度見る。
「昔こいつがこうだった。それは分かる」
画面を指で叩く。
「で」
千尋を見る。
「今もそうなの?」
答えられなかった。
分からない。
最新の映像がない。
「確認できません」
「だろ」
只野がタブレットを返した。
「昔のこいつ調べて、今のこいつ見ねえの?」
千尋は画面を見る。
過去の資料。
数値。
映像。
どれも間違ってはいない。
ただ。
現在の本人ではない。
「確認する必要があります」
「じゃ行くぞ」
千尋は顔を上げた。
只野が作業着の上着を取っている。
「どこへですか」
「分かんだろ」
美波も顔を上げる。
「先生、自分から?」
「先生じゃねえ」
「敵情視察?」
「散歩」
「目的地どこ?」
「拳闘部」
「それ敵情視察って言うんじゃない?」
「うるせえな」
只野はもう倉庫の出口へ向かっていた。
千尋はタブレットを抱える。
記録する。
過去資料を否定したわけではない。
現在を追加しろと言った。
そして。
自分から立った。
そこは、前までと違った。
◇
大学拳闘部の練習場は、すでに動いていた。
入口へ近づくほど音が分かれる。
パンッ。
ミット。
ドン。
サンドバッグ。
シューズが床を擦る。
短い呼吸。
ロープが揺れる音。
事前に見学の許可は取ってある。
五対五をやる以上、普段の練習まで隠すつもりはないらしい。
真田が入口で気づいた。
「こんにちは」
「こんにちは。見学させてもらいます」
綾乃が頭を下げる。
「どうぞ」
真田の視線が、最後尾の只野で一度止まった。
只野は片手だけ上げた。
挨拶なのかも分からない。
そのまま壁際へ行く。
千尋も横へ移動した。
「誰から見ますか」
「知らね」
「対戦順に確認しますか」
「何で」
「効率がいいので」
「呼んだら、そいつこっち意識すんだろ」
千尋は口を閉じた。
只野はリングを見る。
「普通にやってんの見ろよ」
確かに。
こちらから特定の選手を呼べば、相手は見られていると分かる。
普段の動きを確認したいなら、練習の流れを変えない方がいい。
千尋はタブレットへ一行だけ追加した。
**観察時、対象へ介入しない。**
最初に目へ入った対戦候補は、ミットを打っていた。
千尋は資料を開く。
昨年度の映像。
オーソドックス。
ジャブ。
右ストレート。
そのあと左へ回る。
その形が多かった。
目の前でも、ジャブ。
右。
ただし。
終わらない。
短い左フック。
そこから左へ離れる。
千尋の指が止まった。
もう一度。
ジャブ。
右。
左フック。
離れる。
「一発増えています」
只野が横目を向く。
「何が」
「去年の映像では、ワンツーのあとにそのまま離れる場面が多いです」
千尋は画面と本人を交互に見る。
「今は、その前に左フックを入れています」
只野も見る。
「ふうん」
それだけ。
次。
リングへ別の選手が入った。
資料では、前へ出るタイプ。
過去三試合とも、自分から中央を取っている。
今も同じだった。
相手が下がる。
追う。
でも。
千尋は画面を止めた。
過去の映像を見る。
もう一度、目の前。
違う。
去年は相手の後ろを追っていた。
今は、逃げる方向へ先に足を出している。
右へ逃げれば、右へ。
左なら、左へ。
進路を狭くしてから前へ出る。
「追い方も変わっています」
「どこ」
千尋はリングを指す。
「相手の後ろではなく、逃げる側へ先に足を置いています」
只野は数秒見た。
「そうだな」
過去資料だけなら、
前へ出る選手。
で終わっていた。
今日見たことで、
前へ出る方法が変わった。
と分かった。
千尋は記録する。
過去を見る。
今を見る。
差分を見る。
資料は古いから使えない、ではない。
古いものがあるから、変化が分かる。
そこまで書いて、指を止めた。
少し面白い。
◇
佐伯がリングへ上がった。
律の相手。
千尋はすぐ資料を開く。
一年。
身長百六十八センチ。
律より十七センチ高い。
映像は少ない。
戦績だけを見れば突出してはいない。
それだけでは判断しにくかった。
佐伯が構える。
左足が前。
相手が一歩入る。
左。
ジャブ。
長い。
相手の額の前へグローブが届く。
強く振り抜いてはいない。
すぐ戻る。
相手がもう一度入る。
また左。
肩に触れる。
さらに一歩。
また左。
相手がそれ以上、近づけない。
律が千尋の横で小さく言った。
「長いですね」
「はい」
十七センチ差。
数字では知っていた。
目の前で見ると、意味が変わる。
律が左を打つ距離へ入る前に、佐伯の左は届く。
しかも、一発ではない。
入ろうとするたびに置かれる。
線を一本引いて、
ここから先へ来るな。
そう言っているようなジャブだった。
千尋は画面へ入力する。
**接近前に左で止める。**
その横で。
只野が拳を見ていなかった。
千尋の指が止まった。
只野の視線は下。
足。
佐伯の前足。
ジャブ。
前足が止まる。
後ろ足がついてくる。
距離を戻す。
またジャブ。
千尋も、拳を見るのをやめた。
足を見る。
一回。
二回。
三回。
同じではない。
相手との距離によって、踏む位置は変わる。
当然だ。
ただ。
ジャブで侵入を止める瞬間だけ、前足の置き方が少し似る。
千尋は記録しようとして、やめた。
まだ三回。
意味までは分からない。
弱点とも限らない。
ただの技術動作かもしれない。
もう一度見る。
佐伯の左が出る。
前足。
後ろ足。
距離。
「……」
さっきまでなら、拳だけを記録していた。
今は、足も見ている。
律が只野の方を向いた。
「何見てるんですか」
「別に」
「ずっとこっち見てましたよね」
只野の目が一度、律へ上がった。
足。
腰。
そこで止まらず、胸へ行った。
律の目が細くなる。
「今、違うところ見ましたね」
「見える位置にあんだろ」
「最低ですね」
「昨日も聞いた」
「今日も最低です」
美波が呆れた声を出す。
「先生、試合前くらい真面目にできない?」
「先生じゃねえ」
そう返しながら。
佐伯が次のジャブを出した瞬間。
只野の視線は、もう前足へ戻っていた。
千尋も戻す。
足。
距離。
肩。
今はまだ、結論を出さない。
見る。
◇
拳闘部を出るころには、外の光が少し弱くなっていた。
ひまりが、ずっと我慢していたらしい。
「先生」
「先生じゃねえ」
「勝てそうですか?」
只野は歩いたまま答えなかった。
美波が横から言う。
「無視?」
「考えてねえよ」
「ほんとに?」
「うるせえな」
千尋はタブレットを見る。
五人。
対戦相手のデータ。
今日見た変化。
全部並べる。
数字だけなら、拳闘部側の方が上だった。
設備。
練習環境。
公式戦経験。
所属人数。
五人全員が相手より上だと判断できる材料はない。
むしろ逆だった。
でも。
「五試合です」
只野が横を見る。
「知ってる」
「三勝すれば勝ちです」
「それも知ってる」
千尋は画面を見る。
五人全員が勝つ必要はない。
五つのうち。
三つ。
「全員を相手より強くする必要はありません」
只野の足が止まった。
「だから?」
千尋も止まる。
美波たちも振り返った。
千尋は五人を見る。
綾乃。
美波。
ひまり。
自分。
律。
「三つ取れればいい」
只野は何も言わなかった。
一人ずつ見る。
綾乃。
美波。
ひまり。
千尋。
律。
順番には見ていない。
一度律まで行って、また美波へ戻る。
次にひまり。
最後に綾乃。
何を見ているのか。
千尋にはまだ分からない。
ただ。
人数を数えているようには見えなかった。
只野が前へ向き直る。
「三つ取れりゃいいんだよな」
「はい」
「じゃあ」
少し間があった。
「まだあるな」
ひまりがすぐ聞く。
「何がですか?」
只野が歩き出す。
「勝ち目」
「どこにですか?」
「知らね」
「今あるって言いましたよね!」
「うるせえな」
ひまりが追いかける。
美波も笑いながら続いた。
千尋はその場に一秒だけ残った。
タブレットを見る。
昨日までなら、
相手の弱点。
自分たちの不足。
追加すべき技術。
そこから計算を始めていた。
今は違う。
五試合。
必要なのは三つ。
千尋は新しいメモを開いた。
まだ何も書かない。
先に。
自分たち五人を、もう一度見る必要がある。




