↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/48

第11.5話 向こうの5人

# 第11.5話 向こうの5人


女子同好会が帰ったあとも、真田亮介はリングに残っていた。


練習はもう終わっている。


先輩がロープを雑巾で拭く。


別の部員が床に落ちたテープを拾う。


奥では、サンドバッグを吊っている金具を一人が揺らして確かめていた。


ガチャ。


金具が鳴る。


いつもの片付けだった。


ただ今日は、壁に一枚、いつもはない紙が貼られている。


五対五。


さっき決まった組み合わせ候補。


真田はロープへ腕を乗せた。


「ほんまにやるんすね」


近くにいた上級生が振り返る。


「お前が言い出したんだろ」


「そうっすけど」


「何だよ」


「ここまで話、大きなるとは思ってなかったんで」


上級生が笑った。


「今さら怖くなったか?」


「ちゃいますよ」


怖いわけではない。


女子とやるからでもない。


真田は壁の紙を見る。


負ければ、大学拳闘部は今の形では残らない。


女子側と対等に統合。


名前も、


『大学拳闘部』


から、


『ボクシング部』


へ変わる。


ボクシングができなくなるわけではない。


リングも残る。


サンドバッグも残る。


今いる部員が追い出されるわけでもない。


それでも。


拳闘部という名前は終わる。


真田は顔を上げた。


壁の高いところに、古い大会写真が並んでいる。


自分が生まれる前のものまである。


今とはユニフォームが違う。


グローブも違う。


もちろん、写っている人の大半を真田は知らない。


自分はまだ一年だ。


このリングを買ったわけでもない。


この部屋を作ったわけでもない。


壁の賞状に、自分の名前もない。


それでも。


大学へ入って、この扉を開けた日から、


自分は拳闘部の人間だった。


「あっちも、こんな感じなんやろな」


口に出た。


上級生が雑巾を止める。


「何が?」


「倉庫」


「あれとここを一緒にするなよ」


真田はリングを見る。


ちゃんとした床。


四本のロープ。


コーナー。


その向こうには、並んだサンドバッグ。


「設備の話ちゃいます」


「じゃあ何だよ」


「自分らで使ってきた場所って意味です」


上級生が黙る。


真田は続けた。


「向こうは向こうで、あそこ残したいんやろなって」


昨日、女子側が言っていた。


あの五人で続けたい。


そのために、倉庫もチームも残したい。


自分には最初、少し分からなかった。


リングもない。


道具も古い。


こっちへ来た方が、どう考えても練習はしやすい。


でも。


なくなる側になって、少し分かった。


上級生が雑巾を肩へ掛ける。


「だから譲るのか?」


「いや」


そこはすぐ答えた。


「それとこれとは別です」


女子側が大事にしている。


だからこちらが全部渡す。


それでは違う。


向こうには向こうの理由がある。


こっちにもある。


話しても、どちらも引かない。


だったら。


リングで比べる。


自分で言い出しておいて何だけれど、


ずいぶんボクサーらしい決め方になった。


     ◇


「佐伯」


呼ばれた男が、バッグへグローブを入れる手を止めた。


「はい」


上級生が組み合わせ表を見る。


「お前、鳴瀬な」


「四十八の?」


「そう」


佐伯が紙を受け取った。


真田も横から覗く。


鳴瀬律。


一年。


十八歳。


百五十一センチ。


四十八キロ。


ボクシング経験あり。


佐伯の目が身長で止まった。


「小さいな」


言い方は普通だった。


馬鹿にした感じはない。


数字を見たまま確認しただけ。


「経験はあるみたいやな」


真田が言う。


「なら初心者扱いする必要ないな」


佐伯は紙を下へ送る。


簡単なプロフィール。


体格。


経験。


それくらいしかない。


律がどう動くかまでは書いていない。


近くにいた別の先輩が紙を覗いた。


「鳴瀬って、ボクシング一家の鳴瀬か?」


真田は先輩を見る。


「知ってるんすか?」


「名字だけな。昔から競技やってる家だったと思う」


「へえ」


昨日。


律が名乗ったとき、真田も名字には少し引っかかった。


でも本人の顔が一瞬固くなったから、それ以上は聞かなかった。


佐伯は顔も上げなかった。


「家が打つわけじゃないだろ」


真田がそちらを見る。


「まあ、そらそうですけど」


「リングで殴り合うのは本人の身体だろ」


佐伯が紙を指で弾く。


「だったら本人を見る」


それだけだった。


家が強い。


家族に実績がある。


だから本人も強い。


そういう話にはしないらしい。


真田には、その方がしっくり来た。


佐伯はもう一度、百五十一センチの数字を見る。


「十七センチ差か」


「結構あるな」


「小さい選手なら、入ってくる可能性は考えとく」


佐伯が自分の左手を軽く伸ばした。


ジャブの軌道。


「低く入ってくるなら、下に潜らせない方がいい」


真田が笑う。


「もう考えてるん?」


佐伯は逆に不思議そうな顔をした。


「当たり前だろ」


紙を返す。


「やるんだから」


上級生が二人を見る。


「一応言っとくけど、普通の合同スパーと同じだからな」


「はい」


「勝敗は取る。でも強度は事前に決めた範囲。熱くなって壊しに行くのは論外」


「はい」


「逆に、相手が女子だからって勝たせるのもなし」


佐伯はすぐうなずいた。


近くで聞いていた部員が口を挟む。


「でも、やりにくくない?」


「何が?」


「女子相手に本気でやるの」


佐伯は一度だけ考えた。


「本気って、壊しに行くって意味じゃないですよね」


「そりゃそうだけど」


「だったら、いつもと同じじゃないですか」


言いながら、佐伯はバッグのファスナーを閉める。


「体格見て、強度合わせて、その中で取る」


スパーは喧嘩ではない。


相手を壊した方が勝ちでもない。


男子同士だって、体格も実力も同じとは限らない。


その中で合わせる。


でも、勝負を譲るわけではない。


佐伯はバッグを肩へ掛けた。


「それに」


「ん?」


「向こうも残したいものがあって来るんでしょ」


「らしいな」


「だったら、手を抜く方が失礼でしょ」


真田は少しだけ笑った。


たぶん。


それでいい。


女子だから勝たせる。


女子だから最初から相手として見ない。


そんなことをすれば、


この五対五をやる意味そのものがなくなる。


向こうが負ければ、女子同好会という形が終わる。


こちらが負ければ、拳闘部という形が終わる。


同じものを賭けているわけではない。


それでも。


どちらにも、なくしたくないものがある。


なら。


相手として見るしかない。


     ◇


片付けが終わるころには、練習場も静かになっていた。


真田は最後にロープを押す。


張りを確かめる。


戻る。


いつも通り。


入口へ向かいかけて、もう一度振り返った。


リング。


サンドバッグ。


鏡。


タイマー。


壁の写真。


賞状。


入部した日から、そこにあった。


ありすぎて、


残したいと思ったことすらなかった。


なくなるかもしれない。


いや。


物はなくならない。


リングも残る。


自分たちもボクシングを続けられる。


変わるのは名前と形だ。


それだけ。


昨日までなら、


それだけやろ。


と思ったかもしれない。


今は少し違った。


女子側が言っていたことが、


前より分かる。


ボクシングさえできれば、全部同じ。


そういうわけでもないらしい。


「真田」


後ろから呼ばれた。


さっきの上級生が、組み合わせ表を手にしている。


「女子の方、そんな強いのか?」


真田は少し考えた。


五人の実力は知らない。


ちゃんと動いているところも見ていない。


分からないものを、分かったふうに言う気にはなれなかった。


「分からんです」


「おい」


「ほんまに分からんもんは、しゃあないじゃないですか」


「言い出しっぺだろ」


「五対五やろうって言っただけです」


上級生が呆れた顔をする。


真田は少し笑った。


「でも」


「何だ」


「一人、気になる人はいます」


「鳴瀬?」


「いや」


真田は壁際を見る。


さっきまで、そこにあの中年男がいた。


腹が出ている。


酒臭い。


女子からは先生と呼ばれている。


本人は毎回否定する。


何者なのかは知らない。


昨日、初めて会ったときも変だった。


真田を見るなり、


顔。


肩。


腰。


前足。


視線だけが順番に動いた。


それから、


――お前、やってんな。


そう言った。


高校からやっている。


それだけなら、見れば分かる人もいる。


でも今日。


話し合いが終わって、組み合わせ表が出た瞬間。


あの男の手が、千尋より先に紙へ伸びた。


ずっと、


どうでもいい。


という顔をしていたのに。


紙を見る目だけ変わった。


そして一人目の名前で止まり、


――こいつ、何する奴?


と聞いた。


真田はそこが気になっていた。


「先生って呼ばれてた、おっちゃんです」


「あの酒臭い人?」


「はい」


「何者なんだ?」


「知らんです」


「何だそれ」


真田もそう思う。


本当に何なんだ。


酔っ払い。


日雇い。


コーチではないと言う。


なのに、組み合わせが決まった瞬間には相手を知ろうとする。


真田はリングを見る。


「まあ」


ロープの向こう。


誰もいない中央。


「やれば分かるんちゃいますか」


向こうにも五人。


こっちにも五人。


もう、言葉だけで決める段階ではない。


次に向かい合うときは、


リングの中だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。