↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
次は、私が決める。 ~女子大ボクシング部と、居場所をなくした中年コーチ~  作者: 水城 朔
第4章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/48

第42話「シード」

「決勝は、また黒瀬と真田か」


 練習場の長椅子でシューズの紐を結んでいた真田亮介は、顔を上げた。


 声の主は男子の先輩だった。スマートフォンを片手に、もう一人の部員と大会の組み合わせ表を見ている。


「順当にいけば、そうなるやろ。高校の実績からしても」


「今度こそ真田が勝つんちゃう?」


「いや、黒瀬も大学入ってから強くなっとるやろしな」


 真田は結びかけの紐を引いた。


 きつい。


 一度緩めて結び直している間にも、二人の話は続いていた。


「真田は上位シードやし、決勝までは順当ちゃうか」


「そうそう。あとは黒瀬をどうするかやな」


 どうするか。


 まるで、そこまでの試合はもう終わっているみたいだった。


「先輩」


「お、真田。見たか、組み合わせ」


「見ましたけど」


 真田は立ち上がり、スマートフォンの画面を覗いた。


 自分の名前の横に、シードを示す印がある。


 反対側の山には、黒瀬蓮。


 高校時代から何度も見てきた名前だった。


「決勝まで順当って、誰が決めたんですか」


「いや、そりゃお前の実績なら」


「まだ一回戦も終わってへんやろ」


 先輩は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「真面目やなあ。別に初戦の相手をなめてるわけちゃうって」


「分かってます」


「期待しとるんや。お前が勝ち上がるのを」


 それなら、ありがたい。


 自分だって勝つつもりでいる。


 ただ、決勝の話ばかりされると、今から何試合も飛ばされたようで落ち着かなかった。


「まあ、期待しといてください」


「おう。楽しみにしとるで」


「初戦から、ですけどね」


 そう付け足すと、先輩はまた笑った。


 真田はスポーツバッグからグローブを取り出した。


 相手はまだ決まってもいない、なんて言い訳はもうできない。


 組み合わせは出ている。


 自分の最初の相手も、分かっている。


 なのに、周囲の話に出てくるのは黒瀬ばかりだった。


◇


 高校三冠。


 その言葉を聞くと、今でも少し誇らしい。


 実際、勝つために練習してきたし、簡単に手に入ったものでもない。


 けれど、三冠のあとに決まって言われることがある。


 黒瀬がいなければ。


 あいつさえいなければ、もっと勝てた。


 言う方に悪気がないのは分かっている。


 真田を褒めてくれているのだろう。


 それでも、好きな言葉ではなかった。


 黒瀬に負けたのは、黒瀬が大会へ出てきたからじゃない。


 リングで向かい合って、自分が勝てなかったからだ。


 その事実を、相手がいなかったことにしてほしくない。


「真田、そろそろ入れ」


 監督に呼ばれ、真田はリングへ上がった。


 向かいには男子の先輩がいる。今日は強く打ち合う練習ではなく、軽い接触の中で攻防を確かめることになっていた。


 真田はグローブを合わせ、構えた。


「左、多めでお願いします」


「例の右か?」


「はい」


「分かった。ほな、いくで」


 先輩が左ジャブを出した。


 真田は右グローブで受ける。


 拳が触れた瞬間、右肩が動いた。


 自分でも分かった。


 右を返そうとしている。


 先輩はもう左を引いていた。前足を少し外へ運び、正面から身体をずらしている。


 真田の右は空を切った。


「……っ」


 右を戻す間に、先輩の次の左がガードへ触れた。


 強いパンチではない。


 だが、もし試合で同じように動けば、相手に何を狙われるかは分かる。


「もう一回お願いします」


 先輩が頷いた。


 次の左も、真田の右グローブへ触れた。


 今度は返さない。


 右を出したい感覚をこらえ、ガードを保つ。


 すると先輩は、もう一度左を伸ばしてきた。


 真田は受けた。


 さらに左。


 また受ける。


「……ちょっと待ってください」


「どうした?」


「これやと、俺、受けてるだけですやん」


「そら、右を出さんようにしとるからな」


 先輩は笑った。


 その通りだった。


 右を出すな。


 そう考えると、右を使うことそのものが怖くなる。


 だが、自分の右は武器だ。


 速さにも、打ち込んだときの手応えにも自信がある。


 それを封じて、ただ相手の左を受け続けていては意味がない。


「続けてください」


 真田は構え直した。


 先輩の左が伸びる。


 今度は右を返さず、前足を少し外へ動かして、自分の左を出した。


 先輩のグローブに触れる。


 それをきっかけに先輩が一歩引く。


 右を打とうとしたが、距離が遠い。


 真田は出さなかった。


「……今のは?」


 先輩が聞いた。


「届かんと思ったんで」


「そうか」


 特に褒められもしなかった。


 それでよかった。


 大したことをしたわけではない。


 打てないところで打たなかっただけだ。


 けれど、さっきのように勝手に右肩が動くことはなかった。


 次に左を受けたとき、また右が出かかった。


 完全には直っていない。


 真田は奥歯を噛んだ。


 分かっているつもりでも、身体が先に動く。


 黒瀬は、それを知っている。


◇


「お前、また右ばっか気にしてんの?」


 リングを降りたところで、聞き覚えのある声がした。


 只野が壁際の椅子に座っている。


 膝の上には、千尋のものらしいタブレットがあった。画面には女子の試合映像が映っている。


「気にしますよ。直したいんですから」


「ふうん」


 只野は画面へ目を戻した。


「……見てました?」


「何を」


「今の練習です」


「何で俺が男の練習なんか見なきゃいけねえんだよ。こっちは若い女の試合見んのに忙しいんだ」


「はいはい」


「流すなよ。傷つくだろ」


「傷つくんですか、先生」


「先生じゃねえ」


 いつものやり取りだった。


 真田はタオルで汗を拭き、壁にもたれた。


「今日、組み合わせが出たんです」


「聞いた」


「俺、シードなんですよ」


「自慢か?」


「違いますって」


「じゃあ何だよ」


 真田はタオルを首にかけ直した。


「みんな、決勝で黒瀬とやるって言うんです」


「へえ」


「そこまで勝つのが当たり前みたいに」


「嫌なのかよ」


「……嫌というか」


 どう言えばいいのか、自分でもはっきりしない。


 期待されるのは嬉しい。


 黒瀬と再戦したいのも本当だ。


 ただ、初戦の相手の名前を知ったばかりなのに、もう黒瀬との勝敗を聞かれる。


 その順番が、妙に気に入らなかった。


「まだ試合してへんのに、勝ったことになってるのが落ち着かんのです」


「だったら負けとくか?」


「何でそうなるんですか!」


「決勝の心配しなくて済むだろ」


「いや、そういう話ちゃいますやん!」


 只野は鼻で笑った。


 真田は言い返そうとして、やめた。


 この男にまともに相談しようとした自分が悪かった。


「……もうええです」


「そうかよ」


 只野はタブレットの画面を止めた。


「で、お前、さっき何で右打たなかったんだ?」


 真田は顔を上げた。


「見てたんですか」


「見えてただけだよ。うるせえな」


「……距離が遠かったんで」


「その前」


 只野は片手を上げ、真田の方へ向けた。


「左もらったあと。打ちたそうな顔して、結局ずっと受けてたろ」


「右を出さんようにしてたんです」


「へえ」


 それだけだった。


 只野は画面へ視線を戻した。


 真田は少し待ったが、続きはない。


「先生」


「だから先生じゃねえって」


「それ、あかんかったんですか」


「俺に聞くなよ」


「聞くしかないやないですか」


「知るか。お前が打ちたいなら打ちゃいいだろ」


 只野は欠伸をした。


「打つか打たねえか、決めてからな」


 真田は黙った。


 それは、前にも言われたことだった。


 右を捨てろという話ではない。


 相手の左に、自分の右を決めさせるなという話だ。


 頭では分かる。


 だが、その一瞬に間に合わない。


 気づけば拳が出ている。


 あるいは、出さないことばかり考えて、次に何もできなくなる。


「……難しいですね」


「そりゃ、お前がやるんだからな」


 只野は気のない声で返した。


「俺、もう帰っていい?」


「勝手に帰ってください」


「言われなくても帰るわ」


 そう言いながら、只野はまだ椅子を立たなかった。


◇


 練習場を出ると、廊下で千尋に声をかけられた。


「真田さん」


「お疲れさん」


「昨日の組み合わせ表、確認しましたか?」


「見たで。送ってくれてありがとう」


「いえ。シードについて、少し気になったことがあって」


「何?」


 千尋はスマートフォンを手にしていた。


「高校時代の実績が反映されていると思います。ただ、大会での位置づけが、今の実力と完全に一致するとは限りません」


「うん」


「それで、真田さんはどう受け取っているんですか?」


 真田は少し笑った。


「俺、そんな顔してた?」


「何の顔でしょう」


「難しいこと考えてそうな顔」


「それは、していました」


 即答だった。


 真田は思わず笑った。


 千尋は不思議そうに首を傾げた。


「何かおかしいことを言いましたか?」


「いや。ほんま正直やなと思って」


「事実ですから」


 千尋も口元を少し緩めた。


 真田は廊下の窓へ目を向けた。


 外はもう暗い。ガラスには、汗で前髪を濡らした自分の顔が映っている。


「俺な、高校のときも言われてたんよ」


「何をですか?」


「黒瀬さえおらんかったら、もっと勝てたって」


 千尋は黙って聞いていた。


「そう言われるたび、嬉しいような、腹立つような気がしてた。黒瀬に負けたんは俺やのに、あいつがおらんかったことにされても困るやろ」


「……そうですね」


「今回はシードやってさ。ほな、もう決勝まで行ったことになってる」


 真田は笑った。


「期待してくれるのはありがたいんやけど」


「決勝まで、もう一度勝敗を計算されているんですね」


「そういうことやな」


 千尋はスマートフォンを下ろした。


「私も、自分の対戦相手の数字を見て、勝つのが難しいと決めつけかけました」


「そうなん?」


「はい。でも、まだ何も見ていません」


 真田は千尋を見た。


 難しい顔をしているのは、お互いさまらしい。


「じゃあ、試合で確かめなあかんな」


「はい」


 千尋は頷いた。


「失礼します。綾乃先輩が待っているので」


「おう。また明日」


 千尋が廊下の向こうへ歩いていく。


 真田はスマートフォンを取り出し、組み合わせ表を開いた。


 黒瀬の名前は、まだそこにある。


 当然だ。


 相手の名前が消えたわけでも、実績が変わったわけでもない。


 ただ、自分の名前の横についた印だけを見て、誰かが勝利を保証してくれるわけではなかった。


◇


 翌日の練習で、真田は同じ先輩に相手を頼んだ。


「また左、多めか?」


「はい。でも今日は、俺からも打ちます」


「おう」


 監督に確認してから、二人でリングに上がった。


 軽い接触で、強打はしない。


 先輩が左を伸ばす。


 真田は右グローブで受けた。


 いつものように、右肩が動きかける。


 しかし先輩の前足は、すでに外へ向かっていた。


 右を出しても届かない。


 真田は身体を追いかけさせず、自分の左を伸ばした。


 先輩がガードを上げる。


 そこで一歩だけ位置を変えた。


 先輩の足が止まった。


 真田は右を出した。


 グローブが、先輩のガードへ軽く触れる。


「……今の、よかったな」


 先輩が言った。


「ありがとうございます」


「でも、次は同じように受けへんで」


「分かってます」


 真田は笑った。


 今の右が試合で通じるかは分からない。


 さっきだって、先輩が自分の左を受けたから打てただけだ。次は違う動きをしてくるだろう。


 それでも、今回は打つ前に相手を見ていた。


 相手の左に反射して出した右ではない。


 自分で出すと決めた右だった。


 もう一度、先輩が構える。


 真田も拳を上げた。


 この一回ができたからといって、癖が直ったわけではない。


 たぶん、次はまた失敗する。


 それでも練習は続けられる。


 大会で待っているのは、高校時代の真田亮介を知らない相手かもしれない。


 いや、シード選手の名前くらい、向こうも調べてくるだろう。


 なら、なおさらだ。


 高校三冠だった真田がどれだけ強いかではなく、今の自分が何をできるか。


 それをリングで見せなければならない。


「ほな、次いくで」


「お願いします」


 真田は正面の先輩を見た。


 先輩の左肩が動く。


 それに合わせて、足元の距離を確かめる。


 右肩が少しだけ動いた。


 危ない。


 けれど、まだ拳は出ていない。


 先輩の前足は動いている。


 真田は右を待ち、自分の左を先に出した。


 相手がどう返すかを見たかった。


◇


 練習後、真田はベンチに腰を下ろし、ほどいたバンテージを巻き取っていた。


 スポーツバッグの上で、スマートフォンが震える。


 大学の部員同士で使っている連絡用の画面に、新しいメッセージが届いていた。


『真田、決勝まで頼むで!』


 先輩からだった。


 真田はしばらく画面を眺めて、それから返信を打った。


『まず初戦、勝ってきます』


 送信すると、すぐに返事が来た。


『せやな。応援しとる』


 真田は小さく笑った。


 スマートフォンをしまう前に、もう一度だけ組み合わせ表を開く。


 自分の名前の横には、上位シードの印。


 黒瀬の名前も、反対側にある。


 そこへ辿り着きたい気持ちは、何も変わっていない。


 ただ、次の試合で向かい合うのは黒瀬ではない。


 真田は最初に対戦する選手の名前を確かめ、画面を閉じた。


 先輩がリングから声をかけてくる。


「真田、忘れ物ないか?」


「ないです!」


「ほな、鍵閉めるで」


「はい。今行きます」


 真田はバッグを肩にかけた。


 決勝のことは、まだ考えたい。


 黒瀬に勝つ方法だって、考え続けるつもりだ。


 でも今は、先にやることがある。


 シードは、最初のゴングが鳴ったあとまで守ってくれるわけじゃない。


 真田は先輩を追って、練習場の明かりを消した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。