第42話「シード」
「決勝は、また黒瀬と真田か」
練習場の長椅子でシューズの紐を結んでいた真田亮介は、顔を上げた。
声の主は男子の先輩だった。スマートフォンを片手に、もう一人の部員と大会の組み合わせ表を見ている。
「順当にいけば、そうなるやろ。高校の実績からしても」
「今度こそ真田が勝つんちゃう?」
「いや、黒瀬も大学入ってから強くなっとるやろしな」
真田は結びかけの紐を引いた。
きつい。
一度緩めて結び直している間にも、二人の話は続いていた。
「真田は上位シードやし、決勝までは順当ちゃうか」
「そうそう。あとは黒瀬をどうするかやな」
どうするか。
まるで、そこまでの試合はもう終わっているみたいだった。
「先輩」
「お、真田。見たか、組み合わせ」
「見ましたけど」
真田は立ち上がり、スマートフォンの画面を覗いた。
自分の名前の横に、シードを示す印がある。
反対側の山には、黒瀬蓮。
高校時代から何度も見てきた名前だった。
「決勝まで順当って、誰が決めたんですか」
「いや、そりゃお前の実績なら」
「まだ一回戦も終わってへんやろ」
先輩は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「真面目やなあ。別に初戦の相手をなめてるわけちゃうって」
「分かってます」
「期待しとるんや。お前が勝ち上がるのを」
それなら、ありがたい。
自分だって勝つつもりでいる。
ただ、決勝の話ばかりされると、今から何試合も飛ばされたようで落ち着かなかった。
「まあ、期待しといてください」
「おう。楽しみにしとるで」
「初戦から、ですけどね」
そう付け足すと、先輩はまた笑った。
真田はスポーツバッグからグローブを取り出した。
相手はまだ決まってもいない、なんて言い訳はもうできない。
組み合わせは出ている。
自分の最初の相手も、分かっている。
なのに、周囲の話に出てくるのは黒瀬ばかりだった。
◇
高校三冠。
その言葉を聞くと、今でも少し誇らしい。
実際、勝つために練習してきたし、簡単に手に入ったものでもない。
けれど、三冠のあとに決まって言われることがある。
黒瀬がいなければ。
あいつさえいなければ、もっと勝てた。
言う方に悪気がないのは分かっている。
真田を褒めてくれているのだろう。
それでも、好きな言葉ではなかった。
黒瀬に負けたのは、黒瀬が大会へ出てきたからじゃない。
リングで向かい合って、自分が勝てなかったからだ。
その事実を、相手がいなかったことにしてほしくない。
「真田、そろそろ入れ」
監督に呼ばれ、真田はリングへ上がった。
向かいには男子の先輩がいる。今日は強く打ち合う練習ではなく、軽い接触の中で攻防を確かめることになっていた。
真田はグローブを合わせ、構えた。
「左、多めでお願いします」
「例の右か?」
「はい」
「分かった。ほな、いくで」
先輩が左ジャブを出した。
真田は右グローブで受ける。
拳が触れた瞬間、右肩が動いた。
自分でも分かった。
右を返そうとしている。
先輩はもう左を引いていた。前足を少し外へ運び、正面から身体をずらしている。
真田の右は空を切った。
「……っ」
右を戻す間に、先輩の次の左がガードへ触れた。
強いパンチではない。
だが、もし試合で同じように動けば、相手に何を狙われるかは分かる。
「もう一回お願いします」
先輩が頷いた。
次の左も、真田の右グローブへ触れた。
今度は返さない。
右を出したい感覚をこらえ、ガードを保つ。
すると先輩は、もう一度左を伸ばしてきた。
真田は受けた。
さらに左。
また受ける。
「……ちょっと待ってください」
「どうした?」
「これやと、俺、受けてるだけですやん」
「そら、右を出さんようにしとるからな」
先輩は笑った。
その通りだった。
右を出すな。
そう考えると、右を使うことそのものが怖くなる。
だが、自分の右は武器だ。
速さにも、打ち込んだときの手応えにも自信がある。
それを封じて、ただ相手の左を受け続けていては意味がない。
「続けてください」
真田は構え直した。
先輩の左が伸びる。
今度は右を返さず、前足を少し外へ動かして、自分の左を出した。
先輩のグローブに触れる。
それをきっかけに先輩が一歩引く。
右を打とうとしたが、距離が遠い。
真田は出さなかった。
「……今のは?」
先輩が聞いた。
「届かんと思ったんで」
「そうか」
特に褒められもしなかった。
それでよかった。
大したことをしたわけではない。
打てないところで打たなかっただけだ。
けれど、さっきのように勝手に右肩が動くことはなかった。
次に左を受けたとき、また右が出かかった。
完全には直っていない。
真田は奥歯を噛んだ。
分かっているつもりでも、身体が先に動く。
黒瀬は、それを知っている。
◇
「お前、また右ばっか気にしてんの?」
リングを降りたところで、聞き覚えのある声がした。
只野が壁際の椅子に座っている。
膝の上には、千尋のものらしいタブレットがあった。画面には女子の試合映像が映っている。
「気にしますよ。直したいんですから」
「ふうん」
只野は画面へ目を戻した。
「……見てました?」
「何を」
「今の練習です」
「何で俺が男の練習なんか見なきゃいけねえんだよ。こっちは若い女の試合見んのに忙しいんだ」
「はいはい」
「流すなよ。傷つくだろ」
「傷つくんですか、先生」
「先生じゃねえ」
いつものやり取りだった。
真田はタオルで汗を拭き、壁にもたれた。
「今日、組み合わせが出たんです」
「聞いた」
「俺、シードなんですよ」
「自慢か?」
「違いますって」
「じゃあ何だよ」
真田はタオルを首にかけ直した。
「みんな、決勝で黒瀬とやるって言うんです」
「へえ」
「そこまで勝つのが当たり前みたいに」
「嫌なのかよ」
「……嫌というか」
どう言えばいいのか、自分でもはっきりしない。
期待されるのは嬉しい。
黒瀬と再戦したいのも本当だ。
ただ、初戦の相手の名前を知ったばかりなのに、もう黒瀬との勝敗を聞かれる。
その順番が、妙に気に入らなかった。
「まだ試合してへんのに、勝ったことになってるのが落ち着かんのです」
「だったら負けとくか?」
「何でそうなるんですか!」
「決勝の心配しなくて済むだろ」
「いや、そういう話ちゃいますやん!」
只野は鼻で笑った。
真田は言い返そうとして、やめた。
この男にまともに相談しようとした自分が悪かった。
「……もうええです」
「そうかよ」
只野はタブレットの画面を止めた。
「で、お前、さっき何で右打たなかったんだ?」
真田は顔を上げた。
「見てたんですか」
「見えてただけだよ。うるせえな」
「……距離が遠かったんで」
「その前」
只野は片手を上げ、真田の方へ向けた。
「左もらったあと。打ちたそうな顔して、結局ずっと受けてたろ」
「右を出さんようにしてたんです」
「へえ」
それだけだった。
只野は画面へ視線を戻した。
真田は少し待ったが、続きはない。
「先生」
「だから先生じゃねえって」
「それ、あかんかったんですか」
「俺に聞くなよ」
「聞くしかないやないですか」
「知るか。お前が打ちたいなら打ちゃいいだろ」
只野は欠伸をした。
「打つか打たねえか、決めてからな」
真田は黙った。
それは、前にも言われたことだった。
右を捨てろという話ではない。
相手の左に、自分の右を決めさせるなという話だ。
頭では分かる。
だが、その一瞬に間に合わない。
気づけば拳が出ている。
あるいは、出さないことばかり考えて、次に何もできなくなる。
「……難しいですね」
「そりゃ、お前がやるんだからな」
只野は気のない声で返した。
「俺、もう帰っていい?」
「勝手に帰ってください」
「言われなくても帰るわ」
そう言いながら、只野はまだ椅子を立たなかった。
◇
練習場を出ると、廊下で千尋に声をかけられた。
「真田さん」
「お疲れさん」
「昨日の組み合わせ表、確認しましたか?」
「見たで。送ってくれてありがとう」
「いえ。シードについて、少し気になったことがあって」
「何?」
千尋はスマートフォンを手にしていた。
「高校時代の実績が反映されていると思います。ただ、大会での位置づけが、今の実力と完全に一致するとは限りません」
「うん」
「それで、真田さんはどう受け取っているんですか?」
真田は少し笑った。
「俺、そんな顔してた?」
「何の顔でしょう」
「難しいこと考えてそうな顔」
「それは、していました」
即答だった。
真田は思わず笑った。
千尋は不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしいことを言いましたか?」
「いや。ほんま正直やなと思って」
「事実ですから」
千尋も口元を少し緩めた。
真田は廊下の窓へ目を向けた。
外はもう暗い。ガラスには、汗で前髪を濡らした自分の顔が映っている。
「俺な、高校のときも言われてたんよ」
「何をですか?」
「黒瀬さえおらんかったら、もっと勝てたって」
千尋は黙って聞いていた。
「そう言われるたび、嬉しいような、腹立つような気がしてた。黒瀬に負けたんは俺やのに、あいつがおらんかったことにされても困るやろ」
「……そうですね」
「今回はシードやってさ。ほな、もう決勝まで行ったことになってる」
真田は笑った。
「期待してくれるのはありがたいんやけど」
「決勝まで、もう一度勝敗を計算されているんですね」
「そういうことやな」
千尋はスマートフォンを下ろした。
「私も、自分の対戦相手の数字を見て、勝つのが難しいと決めつけかけました」
「そうなん?」
「はい。でも、まだ何も見ていません」
真田は千尋を見た。
難しい顔をしているのは、お互いさまらしい。
「じゃあ、試合で確かめなあかんな」
「はい」
千尋は頷いた。
「失礼します。綾乃先輩が待っているので」
「おう。また明日」
千尋が廊下の向こうへ歩いていく。
真田はスマートフォンを取り出し、組み合わせ表を開いた。
黒瀬の名前は、まだそこにある。
当然だ。
相手の名前が消えたわけでも、実績が変わったわけでもない。
ただ、自分の名前の横についた印だけを見て、誰かが勝利を保証してくれるわけではなかった。
◇
翌日の練習で、真田は同じ先輩に相手を頼んだ。
「また左、多めか?」
「はい。でも今日は、俺からも打ちます」
「おう」
監督に確認してから、二人でリングに上がった。
軽い接触で、強打はしない。
先輩が左を伸ばす。
真田は右グローブで受けた。
いつものように、右肩が動きかける。
しかし先輩の前足は、すでに外へ向かっていた。
右を出しても届かない。
真田は身体を追いかけさせず、自分の左を伸ばした。
先輩がガードを上げる。
そこで一歩だけ位置を変えた。
先輩の足が止まった。
真田は右を出した。
グローブが、先輩のガードへ軽く触れる。
「……今の、よかったな」
先輩が言った。
「ありがとうございます」
「でも、次は同じように受けへんで」
「分かってます」
真田は笑った。
今の右が試合で通じるかは分からない。
さっきだって、先輩が自分の左を受けたから打てただけだ。次は違う動きをしてくるだろう。
それでも、今回は打つ前に相手を見ていた。
相手の左に反射して出した右ではない。
自分で出すと決めた右だった。
もう一度、先輩が構える。
真田も拳を上げた。
この一回ができたからといって、癖が直ったわけではない。
たぶん、次はまた失敗する。
それでも練習は続けられる。
大会で待っているのは、高校時代の真田亮介を知らない相手かもしれない。
いや、シード選手の名前くらい、向こうも調べてくるだろう。
なら、なおさらだ。
高校三冠だった真田がどれだけ強いかではなく、今の自分が何をできるか。
それをリングで見せなければならない。
「ほな、次いくで」
「お願いします」
真田は正面の先輩を見た。
先輩の左肩が動く。
それに合わせて、足元の距離を確かめる。
右肩が少しだけ動いた。
危ない。
けれど、まだ拳は出ていない。
先輩の前足は動いている。
真田は右を待ち、自分の左を先に出した。
相手がどう返すかを見たかった。
◇
練習後、真田はベンチに腰を下ろし、ほどいたバンテージを巻き取っていた。
スポーツバッグの上で、スマートフォンが震える。
大学の部員同士で使っている連絡用の画面に、新しいメッセージが届いていた。
『真田、決勝まで頼むで!』
先輩からだった。
真田はしばらく画面を眺めて、それから返信を打った。
『まず初戦、勝ってきます』
送信すると、すぐに返事が来た。
『せやな。応援しとる』
真田は小さく笑った。
スマートフォンをしまう前に、もう一度だけ組み合わせ表を開く。
自分の名前の横には、上位シードの印。
黒瀬の名前も、反対側にある。
そこへ辿り着きたい気持ちは、何も変わっていない。
ただ、次の試合で向かい合うのは黒瀬ではない。
真田は最初に対戦する選手の名前を確かめ、画面を閉じた。
先輩がリングから声をかけてくる。
「真田、忘れ物ないか?」
「ないです!」
「ほな、鍵閉めるで」
「はい。今行きます」
真田はバッグを肩にかけた。
決勝のことは、まだ考えたい。
黒瀬に勝つ方法だって、考え続けるつもりだ。
でも今は、先にやることがある。
シードは、最初のゴングが鳴ったあとまで守ってくれるわけじゃない。
真田は先輩を追って、練習場の明かりを消した。




