風の群れを抜けて
ニルスを乗せた担架が、青い旗の内側へ消えていった。
白い紙の風車は胸元で止まったままだったが、少年の手はしっかりとその茎を握っている。
付き添う管理人が一度振り返り、ニルスに大きな負傷がないことを示す合図を送った。
アトカはそれを見届けてから、中継塔へ向き直った。
丘の向こうに立つ石造りの塔は、先ほどより近い。
外壁に崩れた箇所は見えないが、上部の排風口から薄緑の光が脈を打つように漏れていた。
そのたびに周囲の草が、自然の風とは違う向きへ低く伏せる。
管理部責任者のもとへ、外周を確認していた管理人から手旗が届いた。東の斜面。南の水路。北側の風車列。三方向で魔獣が塔へ向かっている。
「ニルスの搬送路は確保できています。私たちは塔の手前まで進みます」
責任者は短く告げ、同行する成人連絡員へ後方の青旗を任せた。
二人の管理人が退路を保ち、残る一人が責任者と共に先導する。
説明はそれだけだった。
今は誰が何を引き受けるか、全員が分かっている。
カインが首元の拘束具へ触れる。
「熱は上がってない。亀裂もない」
「僕も動きに遅れはありません」
アトカは義手の指を一度開き、すぐに前を見る。
責任者が進行の合図を出した。
中継塔へ続く道は、二本の水路に挟まれた細い管理路だった。
途中には白い風車が三基並び、いずれも羽根を止めている。
塔まで走れば遠くない。だが道の左右には腰まで届く草が茂り、上空には雲の影が流れていた。
アトカは前方へ水滴を散らした。
地面すれすれに五滴。頭上へ五滴。水路の上に細い霧を一筋。
見えるのは、外へ現れた流れだけだ。
それでも十分だった。
水路の霧が、上流側へ引かれる。頭上の水滴が北西へ細く伸びる。
地面近くの五滴のうち二滴が、草の奥で何かに弾かれた。
「正面、水路から来ます」
言葉が終わる前に、水面が割れた。
緑褐色のグラスリザードが三体、濡れた石へ這い上がる。
背に付着した薄緑の結晶が水を弾き、塔の光へ応えるように明滅していた。
先頭の一体が管理路へ跳ぶ。
アトカは正面へ水壁を立てなかった。押し返せば後ろの二体へ重なり、どこへ飛ぶか分からない。
代わりに、足元の水を薄く広げた。
前脚が濡れた石へ触れた瞬間、水面が横へ走る。
グラスリザードの身体は管理路の外へ滑り、乾いた土の窪みへ落ちた。
転倒した魔獣が頭を上げるより早く、水の刃が首の付け根へ入る。
一体目が動かなくなる。
残る二体は別々に動いた。
一体は水路へ戻り、下からアトカたちの足場を崩そうとする。
もう一体は支柱を蹴り、責任者の頭上へ飛んだ。
アトカは水路へ細い水杭を落とした。
自然の水を操るのではない。自分の魔力から生んだ水を、石の隙間へ潜ろうとした魔獣の胸へ通す。
水面が赤く染まる前に魔獣の動きが止まり、流れへ沈んだ。
頭上の一体には、成人連絡員の投げた短槍が先に届いた。
槍はグラスリザードの腹を貫き、管理路の外へ落とす。
責任者がすぐに喉元へ刃を入れ、息の根を止めた。
三体を倒しても、足を止めない。
責任者が短槍を回収する間に、アトカとカインは次の風車まで進んだ。
上空で羽音が響く。
二体のゲイルイーターが、止まった羽根の間を抜けてくる。
翼の結晶が光り、風の刃を左右から交差させた。
アトカは走りながら二枚の水膜を傾ける。
右から来た刃へ一枚目を重ね、外へ放たれた魔力を水へ変える。
左から来た刃はすべてを変えきらず、曲面の上を滑らせて空へ逃がした。
二枚の膜が水飛沫へほどける。
その向こうで、ゲイルイーターが次の旋回へ入った。
「上の右、翼の根元が開きます」
「見えてる」
カインは走る速度を落とさない。
右の一体が身体を傾け、翼の付け根にある結晶を空へ向けた。
黒い一線が薄緑の結晶を砕く。
飛行を失った魔獣が管理路の外へ落ち、カインは着地した瞬間の首へ二撃目を通した。
左の一体は低く降り、アトカの正面へ大きな口を開く。
風を吸い込む力がローブと草を前へ引いた。
アトカは吸い寄せられる水飛沫を一つへ集めた。
魔獣の口へ押し込むのではない。喉の奥で外へ現れた風属性魔力へ触れ、細い水の杭へ変える。
青白い光が水へ崩れた。
そのまま水杭が急所を貫く。
ゲイルイーターは声を上げる間もなく地面へ落ちた。
塔までの道が一つ開く。
だが、丘の左右から草を踏む音が増えていた。
魔獣たちはアトカたちを包囲しようとしているわけではない。
中継塔へ引かれ、それぞれが最短の道を走っている。その途中に、管理路と人間がある。
北側の斜面からホーンウルフが二頭。
南の水路から小型のグラスリザードが四体。
さらに上空では、新たなゲイルイーターの影が三つ回っている。
責任者が中継塔前の石敷きを指した。
「あそこまで抜けます。止まって全方位を相手にしないでください!」
アトカは管理路の前方へ二本の水帯を走らせた。
一方は水路側から這い上がるグラスリザードの進路を狭める。
もう一方は頭上へ広がり、ゲイルイーターの風圧が責任者たちへ届く角度を外す。
左の斜面には水滴を残した。
ホーンウルフの位置を見るためのものだった。
前方。
頭上。
水路。
左の斜面。
退路。
五つの方向へ意識を分ける。
できない数ではない。
けれど、どれも同じ強さで守ろうとすれば、進むための水が薄くなる。
先頭のグラスリザードが水帯へ噛みついた。
アトカは帯を固めず、口の動きに合わせてほどく。
魔獣が前へ体重を掛けた瞬間、別の水帯で脚を払った。
倒れた身体へ水の刃を入れ、すぐに仕留める。
二体目は水路へ跳び、反対岸から回ろうとした。
成人連絡員が槍を投げ、背の結晶ごと胸を貫く。
三体目と四体目は並んで管理路へ上がる。
アトカがその前へ水を集めた時、頭上の水滴が一斉に砕けた。
ゲイルイーターの風圧が来る。
同時に、左側の水滴が二つ消えた。
ホーンウルフが斜面を跳び越えたのだ。
アトカは視線を上へ向けたまま、左へ水膜を作ろうとした。
その瞬間、カインが半歩だけ位置を変えた。
アトカの左側。
近づきすぎず、けれど斜面から来るものがアトカへ届く前に、自分の視界へ入る場所。
「今の左は、俺が見る」
アトカの義手が一瞬止まる。
止められたからではない。
左へ伸ばそうとしていた水を、どこへ戻すか選んだ。
「お願いします、カイン先輩」
それは、アトカが見落としていた場所をカインが勝手に埋めるという意味ではなかった。
左側は、アトカが長い時間をかけて身につけてきた間合いの一部だ。
腕がないから分からない場所ではない。
水滴を置けば自分でも見られるし、これまでもそうして戦ってきた。
けれど今は、正面の道を開き、頭上の風圧を外し、水路から来る魔獣を止めなければならない。
すべてを自分で見続けることもできる。
できるからこそ、どれか一つへ力を渡さなければ、どの水も薄くなる。
アトカは一瞬だけカインの位置を見た。
斜面から来る魔獣。その奥の風車。崩せる地面。
カインはアトカのすぐ隣へ寄るのではなく、左から来る危険だけが先に自分へ届く距離へ立っていた。
任せても、戻せる。
変化があれば声が届く。
だからアトカは、自分の水を前へ向けた。
左側の水膜を作らない。
そこへ使うはずだった水を頭上へ上げる。
三枚の薄い曲面がゲイルイーターの風圧を受け、外へ現れた魔力を水へ変えながら塔の上へ逃がした。
アトカは前だけを見る。
二体のグラスリザードが並ぶ管理路へ、水の線を一本通す。
右の一体の足場だけを滑らせ、左の一体と重ならない方向へ倒す。
水杭を急所へ入れて仕留め、残る一体には責任者が刃を突き立てた。
その間に、左から来たホーンウルフが地面を蹴った。
狙いはカインではない。
角の結晶を塔へ向けたまま、管理路を横切ろうとしている。その跳躍先にアトカがいた。
カインは魔獣へ撃たなかった。
身体の奥には白い風車がある。角も頭も上下し、射線は安定しない。
代わりに、前脚が踏み切る斜面を見た。
薄い岩の層。
草の根。
その下の乾いた土。
水路にも風車にもつながっていない。
カインの黒い魔力が、斜面へ短く入った。
踏み切りの直前、地面の表面だけが外側へ崩れる。
ホーンウルフの前脚が沈んだ。
跳躍は上へ伸びず、身体が斜面へ横倒しになる。
カインは一歩前へ出る。
魔獣の奥から風車が外れた。
首の付け根へ黒い一線を通す。
一頭目が動かなくなる。
二頭目は倒れた仲間を飛び越え、低い姿勢で走ってきた。
角の結晶へ風が集まり、至近距離から風圧を放とうとする。
カインは後ろへ下がらない。
魔獣の口元ではなく、左前脚の先にある石を見る。
石の端だけを破断する。
前脚の支えを失ったホーンウルフは頭から地面へ落ち、角が土へ突き刺さった。
動きが止まった直後、カインの黒い刃が首の急所へ入る。
二頭目も息を止めた。
「左、終わった」
カインの声が届く。
アトカは振り返らなかった。
信じて前を任せている。
「こちらも、道が開きます」
頭上のゲイルイーター三体が、次々に塔へ降りようとしていた。
アトカは三体すべてを追わない。
最も低い一体だけを選ぶ。
風車と責任者に重なる一体。
その翼から放たれた風の刃へ水を重ね、長い水槍へ変える。
槍は風の経路を逆に辿り、翼の付け根から胸へ入った。
魔獣が管理路へ落ちる前に、水帯で外へ引く。
地面へ着いた時には、すでに動いていなかった。
残る二体は塔へ向かい続ける。
追撃しようとしたアトカへ、責任者が声を掛けた。
「今は道を優先します!」
「はい!」
アトカは水槍を新たに作らない。
代わりに管理路の前へ霧を広げ、塔から吹き返す風の筋を浮かび上がらせる。
石敷きまで、あと数歩。
自然の風は背中から押している。
塔から漏れる風圧は正面から来る。
二つがぶつかる場所で、霧が激しく渦を巻いた。
責任者が先に入ろうとする。
「待ってください」
アトカは石敷きの端へ水滴を落とした。
滴は地面へ届かず、正面から押し戻される。
塔の扉の隙間から、風が外へ噴き出していた。
一定ではない。
弱まり、次に強くなる。
アトカは拍を三度見た。
「今です。次に強くなる前に渡れます」
責任者が合図する。
成人連絡員が先に石敷きへ入り、右側の壁際へ移る。責任者が続き、アトカとカインも同時に走った。
背後から、ゲイルイーターの声が近づく。
カインは左を見た。
一体が低く降り、アトカの左側へ風の刃を放とうとしている。
今度は足場を崩す場所がない。
だが魔獣の翼は開き、結晶がはっきり見えていた。奥には人も設備もない空だけがある。
カインが黒い一線を放つ。
翼の結晶が砕ける。
落下する魔獣の胸へ二撃目を通し、石敷きへ入る前に仕留めた。
最後の一体は高く旋回し、そのまま塔の上部へ向かった。
アトカは進路を変えず、頭上に残していた水を一本の槍へまとめる。
魔獣が塔の外壁から離れた瞬間に放ち、胸の急所を貫いた。
落下する身体は水帯で草地へ外し、石敷きには入れない。
四人は扉の前へ到達した。
後方では、成人連絡員たちもただ待ってはいなかった。
管理路へ入りかけた小型のグラスリザードを槍で仕留め、倒れた魔獣が退路を塞がないよう草地へ引く。
学生二人が塔へ進む間、戻る道を残す仕事を引き受けている。
カインはその青い旗を一度だけ見た。
前へ進んでも、背後が消えたわけではない。
背後では管理路を守る成人たちが青い旗を上げ、残る魔獣が塔の周囲へ入らないよう位置を変えている。
アトカはここまで維持していた水帯を整理した。
水路側。
頭上。
前方。
退路。
左側へ置いていた水はない。
それでも何も届かなかった。
カインが見ていたからだ。
「カイン先輩。左側、ありがとうございました」
「まだ終わってない」
カインは塔の扉を見る。
「中でも、見える方を取る」
アトカは頷いた。
「では僕は、流れを見ます」
責任者が扉の取っ手へ手を掛けた。
動かない。
錠が掛かっているのではない。
扉の向こうから強い風圧が押し続け、外側へ開くはずの扉を枠へ食い込ませていた。
隙間から薄緑の光が漏れる。
塔の内部で、何かが低く脈打つ。
一度。
二度。
三度目の拍と共に、石の扉が内側から大きく震えた。
中継塔までの道は抜けた。
だが、塔へ入る道は風に塞がれていた。




