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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
蒼風に開く道
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落ちるのではなく、降りる

大風車の丘を下りると、風の音がまた近くなった。


ニルスの工具袋では、白い紙の風車が歩みに合わせて小さく回っている。

管理部責任者を先頭に、三人は水路沿いの低い保守路を進んだ。


右手には白い風車が二基並び、左手には浅くなった水路が続いている。

その先では丘が狭まり、道が一基目の風車の脇を通っていた。


「ここから先は、一人ずつです」


管理部責任者が足を止めた。


風車の支柱には、地上から少し高い位置へ小さな保守足場が張り出している。

足場へ上がる階段は短く、普段は管理人が魔導弁の表示板を読むために使うものだった。


「上へ行く必要はありません。表示板は下から確認します」


責任者はニルスにも念を押した。


「はい」


ニルスは記録板を開き、責任者の横へ並んだ。


表示板は風車の裏側にある。成人技師が長い確認棒で覆いをずらすと、内側から黄白色の札が見えた。


「圧力表示は黄色です。停止中の範囲ですが、通常より高い」


技師が読み上げる。


アトカは風車へ触れない距離から水滴を三つ置いた。

二つは自然の風へ流れ、残る一つだけが支柱の裏へ寄ろうとする。


中継塔へ向かう偏りは、まだ消えていない。


カインは表示板より先に、頭上を見ていた。


止まった羽根。


保守足場。


階段を支える二本の留め具。


そして風車の上空を、白い影が横切った。


「上にいる」


カインの声で、全員が顔を上げた。


雲の下を滑るように、二体の魔獣が旋回している。


細長い翼と、風を取り込む大きな口を持つゲイルイーターだった。

翼の付け根には薄緑の結晶が貼りつき、飛ぶたび枝先のような光を伸ばしている。


二体はすぐには降りてこない。


風車の周囲を回りながら、結晶の光を強めていた。


「全員、支柱から離れてください!」


管理部責任者が笛を鳴らす。


一同が保守路を戻ろうとした瞬間、風車の内部で低い音が響いた。


羽根が逆向きへ半回転する。


支柱の裏から噴き出した風が、地面の砂と枯れ草を巻き上げた。


アトカは水膜を広げ、顔へ飛ぶ砂だけを横へ流す。


その視界の端で、ニルスの紙の風車が強く回った。


ニルスは工具袋を押さえながら一歩下がる。


足元へ、風車の外蓋から外れた金具が落ちてきた。


責任者が腕を伸ばす。


「ニルス、右へ!」


ニルスは避けた。


だが右側には短い階段があった。


背中が手すりへ当たり、反射的に一段上がる。


そこへ二体のゲイルイーターが同時に口を開いた。


薄緑の結晶から、二本の風の刃が放たれる。


一方は地上へ。


もう一方は保守足場の下へ。


アトカが最初の風の刃へ水を重ねた。

外へ放たれた魔力が水へ変わり、青白い刃が崩れる。


もう一方へは間に合わない。


カインも撃てなかった。


風の刃の先に階段があり、その上にニルスがいる。

魔獣を狙えば黒い魔力が風車や少年へ重なる。


刃が階段の外側を通った。


金属音が鳴る。


階段を固定していた留め具の一つが切れ、下半分が支柱から外れた。


ニルスの足元が大きく傾く。


「上へ!」


成人技師が叫んだ。


ニルスは落ちかけた階段を蹴り、保守足場へ身体を投げ出した。

胸から足場へぶつかり、両手で柵を掴む。


直後、階段の下半分が地面へ落ちた。


足場そのものは残っている。


だが地上へ戻る道がなくなった。


安全索を掛ける前に退避が始まったため、ニルスの身体には地上とつながる縄もない。


「動かないで!」


管理部責任者が叫ぶ。


ニルスは返事をしようとしたが、声にならなかった。


足場は地上から五人分ほどの高さにある。飛び降りれば無事では済まない。

柵は残っているが、風車が震えるたび根元から軋んだ。


二体のゲイルイーターが再び旋回する。


狙いはニルスではなかった。


足場のすぐ脇にある魔導弁から漏れる魔力へ、翼の結晶を向けている。


けれど次に風の刃を放てば、結果としてニルスと足場を巻き込む。


アトカは地上へ薄い霧を広げた。


霧が風へ押され、風車の周囲で細かく裂ける。


見えなかった風の筋が白く浮かび上がった。


自然の風は丘の下へ流れている。


魔導弁から漏れる風属性魔力は、支柱に沿って上がり、二体のゲイルイーターへ伸びていた。


「カイン先輩。右の一体は翼の付け根、左は口の下に結晶があります」


「見えてる」


カインは風車の正面から外れ、保守路の端まで移動した。


右の一体は旋回するたび、翼の付け根を地上へ見せる。


左の一体は頭を下げた時だけ、口の下の結晶が支柱から外れる。


撃てる時間は短い。


だが二体とも、結晶を砕けば風の刃を放てなくなる。


カインは右手を上げた。


「右から壊す。落ちる先は水路の外だ」


管理部責任者が人員を確認する。


「許可する!」


右のゲイルイーターが翼を傾けた。


薄緑の結晶が空を向く。


カインの黒い魔力が細い線となって走った。


翼の付け根に貼りついた結晶だけが砕ける。


魔獣の身体は撃ち抜かない。


風を支えていた力を失い、右の一体が大きく傾いた。


地上へ落ちる前に、アトカが水帯で進路を外側へずらす。


ゲイルイーターは人も設備もない草地へ落ちた。


翼を打ちつけながら起き上がろうとする。


カインは風車側へ回り込む前に、首の付け根へ二撃目を通した。


魔獣の身体から力が抜ける。


一体目が動かなくなった。


残る一体が甲高い声を上げる。


口の下の結晶へ風が集まり、白い霧が吸い寄せられた。


「ニルスさん、柵から顔を下げてください!」


アトカの声に、ニルスは身を縮めた。


ゲイルイーターが風の刃を放つ。


アトカは風車と足場の間へ水膜を立てなかった。


正面で止めれば、押し返された圧力がニルスへ届く。


代わりに、足場の外側へ斜めの水膜を置く。


風の刃が曲面へ触れた。


魔力を含む中心が水へ変わり、残った風圧は膜の表面を滑って上空へ逸れる。


水膜が弾け、細かな雨が足場の外へ降った。


その間にゲイルイーターが頭を持ち上げる。


口の下の結晶が、支柱から離れた。


「今だ」


カインの黒い一線が結晶を破断した。


薄緑の光が消える。


魔獣は浮力を失って低く落ちたが、翼を羽ばたかせ、風車の方へ戻ろうとする。


その先にはニルスがいる。


カインは撃つ角度を変えた。


魔獣の奥から支柱が外れるまで半歩移動し、胸の急所へ黒い一線を通す。


ゲイルイーターは空中で身体を折り、人のいない保守路の外へ落ちた。


二体目も仕留めた。


空から魔獣の声が消える。


だが救助は終わっていない。


足場の根元が、風車の震えに合わせて軋んだ。


ニルスは柵へしがみついたまま、動けずにいる。


管理部責任者が支柱を見上げる。


「足場へ縄を投げられるか」


成人技師が首を振った。


「今の風では支柱へ巻きつきます。足場も長くは保ちません」


「階段を掛け直す時間は」


「間に合いません」


短い答えの間にも、足場の片側が少し下がった。


ニルスの手から記録板が滑る。


板は地面へ落ち、角から割れた。


その音に、ニルスの肩が跳ねる。


「嫌だ……」


ようやく出た声は震えていた。


「落ちたくない」


アトカは足場の真下へ走らなかった。


上から部品が落ちる可能性がある。


少し外れた草地へ立ち、ニルスから見える位置で顔を上げる。


「はい。怖いですよね」


大丈夫だとは言わない。


怖くないとも言わない。


ニルスの下には、まだ何もない。


アトカはまず一枚目の水膜を作った。


足場のすぐ下ではない。


柵から手を離した身体が、支柱や残った階段へ触れずに入れる位置へ、広い膜を斜めに置く。


二枚目は一枚目より低く、反対側へ傾ける。


三枚目はさらに厚くし、落ちる速さを受け止めながら草地の中央へ運ぶ曲面にした。


四枚目は地面から少し高い場所。


五枚目は草へ触れるほど低く、浅い器のように広げる。


五枚の水膜が、足場から地上まで一つの曲がった道を作った。


どれも硬い床ではない。


身体が触れれば沈み、速度を削り、次の膜へ渡す。


一枚で落下を止めれば、受けた衝撃がニルスの身体へ戻る。


だから五回に分ける。


アトカは一枚ずつ形を確かめた。


足場から一枚目まで。


一枚目から二枚目へ。


二枚目から三枚目へ。


支柱にも、壊れた階段にも触れない。


最後はカインと管理部責任者がいる草地の前へ降りる。


「ニルスさん。下を見なくてもいいです」


ニルスの顔がゆっくり動いた。


「僕を見てください」


アトカは五枚の水膜の外側に立っている。


落下先へ入らず、ニルスからはっきり見える場所だった。


「一度に地面まで落ちません。水の膜を五枚作りました。一枚ずつ、少しずつ速さを落とします」


「でも……手を離したら……」


「すぐ下に一枚目があります」


アトカは水滴を一つ足場の脇から落とした。


水滴は一枚目へ触れる。


膜が柔らかく沈み、滴を二枚目へ送る。


二枚目。


三枚目。


小さな水滴は曲がった道を通り、最後の膜で静かに止まった。


「落ちるのではなく、降りるだけです」


ニルスの指は柵を強く掴んでいる。


「怖いままでいいです。手を離す時は、ニルスさんが決めてください。離した後は、僕が地面までつなぎます」


足場がまた軋んだ。


左側の留め具が浮き、石の粉が落ちる。


時間は多くない。


それでもアトカは「今すぐ」と叫ばなかった。


カインは足場の上ではなく、その周囲を見ていた。


壊れた階段。


支柱の継ぎ目。


残る足場の留め具。


水膜の道。


新たな魔獣はいない。


風車の下にも人は入っていない。


「ニルス」


低い声が届く。


ニルスがカインを見る。


「下の道は空いてる。俺が見てる」


長い励ましではなかった。


カインは足場を壊して落とそうとも、支柱へ魔力を近づけようともしていない。


ニルスが降りる間、危険が入る道を見張っていた。


管理部責任者もニルスへ呼びかける。


「足場はもう保たない。だが、降りる道はできている。私たちは下で待つ」


ニルスは息を吸った。


うまく入らない。


もう一度吸う。


白い紙の風車が工具袋の外で回っている。


強い風を受けても、留め紐からは外れていない。


ニルスは右手だけを柵から離した。


すぐに戻しかける。


それでも工具袋の紐を握り、紙の風車が身体へ当たらないよう内側へ押し込んだ。


次に、左手の指を一本ずつ開く。


最後の指が柵へ残った。


足場が大きく傾く。


ニルスは目を閉じた。


そして自分から、最後の指を離した。


身体が空へ出る。


一枚目の水膜がニルスの背を受けた。


深く沈み、落下の向きを支柱から外へ変える。


膜がほどけ、二枚目へ渡す。


ニルスの身体は水へ沈まない。


柔らかな面を滑り、次の膜へ降りる。


二枚目が速度を削る。


三枚目が大きくたわみ、草地の中央へ向きを変える。


四枚目へ触れた頃には、落下ではなく短い段差を降りるほどの速さになっていた。


最後の五枚目が身体を包む。


浅い水面がゆっくり下がり、ニルスの背を草へ預けた。


アトカは五枚の水膜を一度に消さない。


上から順に水滴へ戻す。


最後の膜だけを残し、ニルスの呼吸を邪魔しないよう身体の横へ流した。


「ニルス!」


管理部責任者が駆け寄る。


ニルスは目を閉じたまま、胸を大きく上下させていた。


「痛いところはありますか?」


「……分かりません」


「では、動かなくていい。呼吸だけしてください」


責任者は無理に起こさない。


成人連絡員が手足と頭部を確認する。明らかな出血はなく、意識もある。


少しして、ニルスが目を開いた。


最初に見たのは青空だった。


次に、横へ流れた水滴。


最後に、自分を囲むアトカ、カイン、管理部責任者の顔を見る。


「降りられた……」


「はい」


アトカは笑った。


「ニルスさんが、手を離したからです」


ニルスの目から涙がこぼれた。


怖さが消えたわけではない。


手も膝もまだ震えている。


それでも、柵へしがみついたまま足場と一緒に落ちたのではなかった。


下に作られた道を見て、自分で手を離し、地上へ戻ってきた。


頭上で大きな音がした。


誰もいなくなった保守足場の片側が外れ、残った階段と共に垂れ下がる。


カインは音の方向へ身体を向けたが、黒い魔力は出さなかった。


落下範囲に人はいない。


足場は支柱へ片側を残し、地面へは届かず止まっている。


壊す必要はなかった。


ニルスは音に肩を震わせた後、自分がもうその上にいないことを確かめるように草を掴んだ。


工具袋の中で、白い紙の羽根が少し潰れていた。


ニルスは震える手で取り出す。


一枚だけ折れ目がついている。


それでも留め具は外れていない。


息を吹きかけると、小さな風車は一度だけ回った。


カインがその様子を見て言う。


「それも戻ったな」


ニルスは涙の残る顔で頷いた。


「はい」


救助を終えても、中継塔へ向かう偏りは続いている。


二体のゲイルイーターが来た方向には、さらに濃い薄緑の光が丘の向こうで明滅していた。


だが今は進まない。


管理部責任者はニルスを詰所へ戻し、成人の確認を受けさせると決めた。


ニルスは担架を断ろうとしなかった。


横になる前に、アトカとカインへ顔を向ける。


「僕、まだ高いところは怖いです」


「はい」


アトカはその言葉を否定しない。


「でも、降りられました」


「はい。ちゃんと戻ってきました」


ニルスは目を閉じた。


今度は恐怖からではない。


身体の震えを休ませるためだった。


担架が保守路を戻っていく。


白い紙の風車は、ニルスの胸元で風を受けないまま止まっている。


それでも壊れてはいなかった。


カインは担架が青い旗の内側へ入るまで見届けた。


アトカも隣で見送る。


二人が中継塔へ向き直った時、丘の向こうから強い風が吹いた。


五枚の水膜があった空間には、もう何も残っていない。


けれど、そこには確かに一人が地上へ戻る道が通っていた。

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