大風車の下で
白い風車を離れる頃には、丘を渡る風が少し弱まっていた。
成人技師たちは残った結晶と魔導弁の点検を続け、管理部責任者は周辺の風車へ新しい警戒杭を立てるよう指示している。
討伐したホーンウルフの回収班も到着し、角に付着した結晶へ布をかぶせて運び出す準備を始めていた。
異常は終わっていない。
それでも、アトカとカインがその場へ残って見張り続ける必要はなくなった。
二人はニルスに案内され、最も大きな風車が立つ丘へ向かった。
大風車は、近づくほどほかの風車と違って見えた。
支柱は太く、白い石の表面には長い年月を風に削られた跡が残っている。
四枚の羽根はどれもアトカの背丈より遥かに長く、止まったままでも空の一部を切り分けていた。
丘の北側へ回ると、風が急に静かになった。
大風車の支柱が風を受け止め、背後に細長い風陰を作っている。
草は大きく伏せず、穂先だけがかすかに揺れていた。
「ここなら包みを開けても飛びません」
ニルスはそう言って草の上へ腰を下ろした。
管理部責任者は少し離れた場所に立ち、詰所から届く手旗を確認している。
休憩中も周囲の判断は成人側が引き受けていたが、同じ説明を繰り返す者はいなかった。
アトカも草へ座る。
義手を膝の上へ置き、左袖が土へ触れないよう身体の横へ整えた。
カインは最初、大風車の支柱から少し離れた場所に立っていた。
頭上の羽根、丘の傾き、水路までの距離を確かめてから、アトカたちと半歩ほど間を空けて腰を下ろす。
ニルスが布包みを開いた。
中には薄く切った黒パンと、干した果実、小さなチーズが入っていた。
「詰所で食べる予定だったんですけど、ずっと持ったままでした」
「走っても崩れなかったんですね」
アトカが黒パンを見る。
「上に記録板を載せていたので、少し平たくなりました」
ニルスが一枚を持ち上げると、本当に中央が潰れていた。
アトカは笑いをこぼした。
「食べやすくなったかもしれません」
「味は変わらないと思います」
ニルスも笑い、パンを二人へ差し出した。
カインは一番端の小さなものを取った。
力を入れすぎることも、必要以上に慎重になることもない。普通に持ち、ひと口かじる。
ニルスはその手元を一瞬見たが、何も言わなかった。
三人は風車の陰で食事をした。
丘の向こうでは、管理人たちが行き交っている。
白い旗が上がる。
少し遅れて青い旗が返る。
遠くの声は風にちぎられ、言葉までは聞こえない。
それでも、誰かが動くたびに次の者が応え、高原全体が少しずつ仕事を取り戻していることは分かった。
アトカは水筒から水を飲み、正面に広がる風車群を見た。
動いているものはまだ少ない。
一基が風を受けて半回転し、止まる。
別の一基は羽根を固定されたまま、成人技師の点検を受けている。
「いつもは、全部回っているのですか?」
「全部ではないです」
ニルスは口の中のパンを飲み込んでから答えた。
「風の向きで休ませる風車もあります。でも、こんなに止まることはありません。朝は羽根の音で目が覚めます」
「うるさくないですか?」
「慣れると、止まっている方が気になります」
ニルスは大風車の支柱へ背を預けた。
「昨日の夜は、静かすぎて眠れませんでした」
灰庭救護院で、痛みが戻って眠れない子供たちがいた。
アトカはそのことを思い出したが、目の前のニルスへ重ねて話すことはしなかった。
眠れない理由は同じではない。
ただ、聞こえていたものが急になくなれば、静かさまで不安になることは分かった。
「今夜は、少しでも音が戻るといいですね」
アトカが言う。
「はい。でも、壊れたまま無理に回すくらいなら、静かな方がいいです」
ニルスは先ほど救われた風車の方角を見る。
丘に隠れ、ここから本体は見えない。
「直せるって分かったので、待てます」
カインはパンを持ったまま、その言葉を聞いていた。
急いで動かすことより、残ったものを直せる状態にする。
結晶を根元から砕かなかった判断が、ニルスの「待てる」につながっていた。
カインは何も答えなかったが、肩からわずかに力が抜けた。
食事を終えたニルスは、包みの中へ残っていた薄い紙を畳み始めた。
チーズを包んでいた白い紙だった。
油が染みた部分を避け、乾いた四角だけを切り取る。
腰の工具袋から小さなはさみを出し、四隅から中央へ向かって短い切れ目を入れた。
「何を作っているのですか?」
アトカが覗き込む。
「小さい風車です」
ニルスは四つの角を一つずつ中央へ折った。
道具の扱いには慣れているらしく、指の動きに迷いがない。
だが中央を留めようとして、手が止まった。
細い留め針を紙へ通し、乾いた草の茎へ差し込むには、紙が動かないよう押さえる者が必要だった。
地面へ置けば草の先に引っかかる。
膝の上では、風が戻った時に飛ばされる。
ニルスは管理部責任者を見たが、責任者は遠くの手旗を確認している。
アトカは義手を上げようとした。
その前に、カインが手を差し出した。
「貸せ」
ニルスが目を瞬いた。
「紙の方ですか?」
「茎を持つ。お前が留めろ」
カインは乾いた草の茎を受け取った。
細く、軽い。
少し強くつまめば潰れる。
指を緩めれば風に持っていかれる。
カインは茎の端ではなく、ニルスが針を通す場所から指二本分ほど下を持った。
親指と人差し指の腹で支え、中指を後ろへ添える。
握り込まない。
それでも茎は揺れなかった。
ニルスは折り畳んだ紙を茎の先へ重ねた。
「少し、上を向けてもらえますか」
カインが手首を僅かに傾ける。
「これくらいか」
「はい。そのままで」
留め針が紙の中央を通る。
ニルスが茎へ差し込み、小さな留め具を裏側へ付けた。
紙の羽根が一度傾く。
「まだ持っていてください」
ニルスは四枚の羽根を指先で広げ、重なっていた一枚を直した。
カインは動かなかった。
首元の拘束具も、手首の黒い装具も見えている。
その手の中で、細い草の茎は一本も裂けていなかった。
やがて大風車の陰へ、横から細い風が入り込んだ。
白い紙の羽根が震える。
一枚が前へ出る。
次の瞬間、小さな風車がくるりと回った。
一回。
二回。
風が弱まると止まり、また吹けば回る。
カインは茎を持つ位置を変えなかった。
紙の羽根を追って指へ力を加えることもない。
回るものを止めず、飛んでいく茎だけを支えていた。
「回りました」
ニルスの声が明るくなる。
「ちゃんと真っすぐです」
「お前が作ったんだろ」
「でも、途中で動いたら針がずれていました。持っていてくれたからです」
カインは小さな風車を見た。
自分は壊していない。
それだけではなかった。
持っていたから、形になった。
アトカはその横で嬉しそうに笑ったが、すぐに言葉を重ねなかった。
カインへ「優しく持てましたね」と言えば、今までできなかったことを採点するように聞こえるかもしれない。
代わりに、回る羽根へ顔を近づける。
「大きな風車と同じ向きです」
ニルスも高原の風車群を見る。
ちょうど遠くの一基が、ゆっくり羽根を動かしていた。
カインの手元では、白い紙の風車がそれよりずっと速く回っている。
「こっちは軽いので、少しの風でも回ります」
ニルスが言う。
「大きい方は?」
カインが尋ねた。
「重いです。でも、回り始めたら水を送れます。小さい方は見て分かるだけです」
「風があることをですか?」
アトカが聞く。
「はい。風は見えないので」
アトカは高原を走らせた水滴を思い出す。
自分は水の形を変え、見えない流れを追った。
ニルスは紙の羽根を回し、日々の風を見ている。
同じものではない。
それでも、見えないものを見える形へするところは少し似ていた。
「カインさん。持ってみますか?」
ニルスが尋ねた。
すでに持っている。
だが今は作業を助けるために茎を支えているだけだった。
ニルスは留め具が外れないことを確かめてから、紙の風車をカインへ渡す形に持ち直す。
「完成したので。風が来るところへ出すと、もっと回ります」
カインはすぐには答えなかった。
小さな紙の羽根。
細い草の茎。
魔力を使う必要はない。
壊す場所を探す必要もない。
ただ持ち、風が来る場所へ出せばいい。
「……借りる」
カインは茎を受け取った。
大風車の陰から、腕だけを少し外へ出す。
強い風が紙へ当たった。
小さな羽根が勢いよく回る。
白い輪のように見えるほど速くなり、茎が指の間で細かく震えた。
カインの眉が僅かに動く。
風に引かれる力は弱い。
けれど、押さえすぎれば茎が潰れる。緩めすぎれば飛んでいく。
カインは手首を固めず、振動に合わせて少しだけ動かした。
茎を握り締めて止めるのではなく、揺れる分だけ逃がす。
紙の風車は回り続けた。
突然、丘を越えた強い風が大風車の支柱へぶつかった。
低い音が響き、カインの外套が大きく翻る。
ニルスが紙の風車へ手を伸ばしかけた。
だが飛ばなかった。
カインは茎を折らないまま、腕を風陰へ引き戻していた。
羽根の回転がゆっくり落ちる。
最後に一度だけ回り、止まった。
四枚の紙はどれも残っている。
茎にも折れ目はなかった。
カインは手の中を確かめ、ニルスへ差し出す。
「壊れてない」
ニルスは受け取りながら笑った。
「はい。よく回りました」
カインは一度だけ頷いた。
壊れなかったことを、偶然として見なかった。
力を使わなかったからでもない。
風を読み、持つ場所を選び、強くなった時には陰へ戻した。
自分で残した結果だった。
ニルスは紙の風車を大風車の支柱にある細い窪みへ差した。
石を傷つけない浅い隙間で、草の茎がちょうど支えられる。
横から入った風を受け、小さな羽根が再び回り始めた。
その上には、本物の四枚羽根が止まっている。
「大きい方が動くまで、代わりです」
ニルスが言った。
アトカは見上げた。
白い支柱の遥か上。
羽根の軸から少し外れた場所に、小さな平場が張り出している。
柵は低く、人が立つための見張り台には見えない。
「上の場所は、本当に使わないのですか?」
ニルスも見上げる。
「今の点検路からは行きません。古い設計のまま残っているだけだそうです」
「物を置く場所でもない?」
カインが聞く。
「置いたら風で飛ぶと思います」
ニルスは少し考えた後、首を傾げた。
「でも、横になれるくらいは広いんですよね。なんのために作ったんだろう」
管理部責任者が戻ってきた。
「その部分は現在の管理対象ではあるが、用途は記録に残っていない。安全確認もしていないから、誰も登らないこと」
「はい」
ニルスは素直に答えた。
アトカもそれ以上は尋ねなかった。
分からないものを、想像だけで決める必要はない。
大風車の頂上を風が通り抜ける。
平場の縁で一度だけ音が鳴り、空へ消えた。
しばらくして、丘の向こうから青い手旗が上がった。
枝状結晶を除いた風車の圧力が安定し、周辺の点検も終わった合図だった。
管理部責任者が三人へ告げる。
「休憩を終えます。次は低い保守路を通り、水路側から中継塔へ近づきます。途中にある二基は外から状態を見るだけです」
ニルスは包みを片づけ、紙の風車を窪みから抜いた。
「これは持っていってもいいですか?」
「お前のだろ」
カインが答える。
「はい。でも、ここに置いた方が風車みたいだったので」
ニルスは少し迷い、結局、紙の風車を工具袋の外側へ差した。
歩けば壊れそうな場所ではなく、留め紐の内側に茎を通す。
白い羽根だけが袋の上へ出た。
「帰ったら、詰所の窓に置きます」
三人は立ち上がった。
アトカは膝の土を払い、義手の指を一度開閉する。異常はない。
カインも拘束具の熱が下がっていることを確認した。
大風車の陰から出ると、強い風が再び身体へ当たった。
ニルスの工具袋で、小さな白い羽根が回る。
カインはその音に気づき、歩きながら一度だけ振り返った。
丘の上には、巨大な白い風車が立っている。
壊さず残した風車は遠くにある。
手の中で壊さなかった小さな風車は、すぐ近くで回っている。
どちらも、次の風を受けていた。




