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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
蒼風に開く道
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逆風の塔

石の扉は、三度目の震えを終えても動かなかった。


管理部責任者が取っ手から手を離す。


扉の縁から漏れる薄緑の光が、細くなり、また強くなる。

そのたび、扉全体が外側へ押され、金属の留め具が枠へ食い込む音を立てた。


外へ開く扉だった。


だが中央の留め輪が掛かったまま、内側から強い風圧を受けている。

錠を外せば開く状態ではない。圧力によって留め輪と受け金具が噛み合い、動かなくなっていた。


「無理に引かないでください」


アトカが言った。


「今、また強くなります」


扉の隙間へ置いた小さな水滴が、横へ長く潰れる。


次の瞬間、内側から風が噴き出した。


水滴は細かな飛沫となって弾け、管理部責任者の外套が大きく膨らむ。

カインが半歩前へ出たが、責任者は自分で姿勢を戻した。


「ありがとう。まだ立てます」


責任者は扉へ近づき直さず、同行していた成人連絡員へ目を向ける。


連絡員は腰の工具袋から細い確認棒を出し、扉の正面を避けて枠の横へ立った。

棒の先で、上の蝶番、下の蝶番、中央の留め輪を順に確かめる。


「蝶番は外れていません。枠にも大きな亀裂はない。ただ、中央の留め輪が曲がっています」


「交換できる部品か」


カインが尋ねた。


「留め輪と外側の留め軸は交換できます。扉と蝶番は残さなければなりません」


連絡員は扉の中央を指した。


厚い金属輪が、枠側から伸びた短い軸へ掛かっている。

通常なら輪を持ち上げ、扉を開く。今は輪の片側が圧力で潰れ、軸へ斜めに噛み込んでいた。


カインは正面から見ただけで手を上げなかった。


扉の左へ移る。


枠との隙間。


蝶番の位置。


留め輪から外側へ伸びた亀裂。


次に右へ回り、取っ手の裏側と石敷きを見る。


扉が開いた時、どこまで振れるのか。


留め輪の破片がどちらへ飛ぶのか。


内側の風が誰へ届くのか。


壊す場所だけではなく、その後に残る動きを見ていた。


「輪を全部砕けば、扉が飛ぶ」


カインが言う。


成人連絡員も頷く。


「内側の圧力を受けたまま自由になります。蝶番が耐えても、取っ手側が外壁へ打ちつけられる可能性があります」


「軸は」


「枠へ埋め込まれています。折れば交換はできますが、破片が内側へ入る。今の状態では回収できません」


カインは曲がった留め輪を見る。


輪の上側は軸へ深く食い込み、金属同士が密着している。


下側には僅かな隙間があった。


輪そのものを粉々にする必要はない。


下側の一箇所を切り、輪を開いた形へ変えれば、圧力を受けた扉が輪を軸から外す。


ただし、その瞬間に扉は外へ動く。


「下を切る」


カインは破断位置を指した。


「輪の下側だけ。上は残す」


成人連絡員が位置を確認する。


「上側を残せば、輪はすぐに飛びません。扉へ引かれて開き、軸から外れるはずです」


管理部責任者は扉が開く方向を見る。


正面にはアトカたちがいる。


このまま破断すれば、風も扉も人へ向かう。


「先に開いた後の動きを止める必要があります」


アトカは扉の外側へ水を集めた。


扉を正面から押さえつける壁にはしない。内側から来る風圧と正面衝突させれば、水ごと一行へ戻ってくる。


一枚目の水膜を扉の右側へ置く。


扉が開く方向に沿わせ、途中から外側へ曲げた。


二枚目は一枚目の先。


開いた扉の縁を受ける位置へ、厚く小さな水膜を重ねる。


三枚目は頭上へ広げる。


扉の隙間から噴き出した風を上へ逃がすための曲面だった。


「扉は止めません。勢いだけを水で受けて、開く速さを落とします」


アトカは三枚の位置を見直す。


「風は上へ流します。正面には立たないでください」


管理部責任者と成人連絡員が、扉の左側へ移動した。


アトカは正面から二歩下がり、水膜の外側へ立つ。


カインは留め輪を狙える斜め右へ位置を取った。破断後に開く扉の軌道からは外れている。


誰も扉の正面にはいない。


カインは首元の拘束具へ指を当てた。


熱は上がっている。


だが停止基準には届いていない。


ひびも、魔力の漏れもない。


「一度で切れる」


「圧力が弱まる時を待ってください」


アトカは扉の隙間へ新しい水滴を置いた。


丸かった水滴が潰れる。


扉が震える。


風圧が強くなる。


しばらくして光が薄れ、水滴が丸い形へ戻り始めた。


「まだです」


扉の内側では、低い音が続いている。


水滴が一度だけ正面へ押し出される。


再び戻る。


「次に弱くなったところです」


カインの右手へ黒い魔力が集まった。


大きな魔力弾ではない。


曲がった金属輪の下側だけへ通す、短い破断線だった。


薄緑の光が強まる。


扉が外へ押される。


水滴が大きく潰れた。


やがて光が落ち、扉の震えが止まりかける。


「今です」


黒い一線が走った。


留め輪の下側へ入り、金属を断つ。


輪全体は砕けなかった。


切れた下側だけが開き、上側は扉へ残る。


内側からの圧力が、開いた輪を軸の外へ引いた。


金属音が響く。


扉が勢いよく外へ動いた。


一枚目の水膜が扉の面を受け、深く沈む。


止めるのではなく、開く方向へ一緒に動く。


扉の速度が落ちる。


縁が二枚目の厚い水膜へ触れ、外壁へぶつかる直前で柔らかく止まった。


同時に、塔の内部から風が噴き出した。


薄緑の光を含んだ風圧が石敷きを走る。


アトカの三枚目の水膜が大きく反った。


外へ現れた魔力が、触れた場所から水へ変わる。

残った風は曲面の上を滑り、入口の正面ではなく上空へ抜けた。


水飛沫が塔の壁を越えて舞い上がる。


扉の奥に溜まっていた砂と細かな結晶片も風に運ばれたが、頭上の水膜へ当たり、石敷きの外へ落ちた。


アトカは義手の指を僅かに曲げ、水膜の縁を狭める。


風を完全に塞がない。


一度に外へ出す量だけを抑え、上へ逃がし続ける。


「扉は保っています!」


成人連絡員が蝶番を確認する。


上も下も外れていない。


切断された留め輪は扉側へ残り、破片も飛んでいなかった。


カインは魔力を止める。


破断位置から黒い光が残っていないことを確かめてから、扉の動きを見る。


「枠は」


「無事です。留め軸も残っています」


成人連絡員が答える。


「交換するのは留め輪だけで済みます」


カインは短く息を吐いた。


塔へ入れる。


それだけではない。


扉は残っている。


修繕すれば、再び閉じることができる。


管理部責任者はすぐには中へ入らなかった。


入口から噴き出す風が弱まり、アトカの水膜が大きく揺れなくなるまで待つ。


「内部の床は見えますか」


「入口から三歩先までは見えます」


成人連絡員が答える。


「石床に大きな崩れはありません。ただ、奥は薄緑の光で見えにくい」


アトカは入口へ小さな水滴を三つ送った。


一滴目は床の少し上。


二滴目は頭の高さ。


三滴目は天井近く。


内部へ入った三滴は、どれも同じ方向へ流れなかった。


床近くの一滴は、塔の奥へ引かれる。


中央の一滴は入口へ押し戻される。


上の一滴は壁に沿って上昇し、見えない場所へ消えた。


「中では上下で流れが違います」


アトカが言う。


「床側は奥へ、上側は塔の上へ向かっています。真ん中だけが入口へ戻っています」


「入れますか」


管理部責任者が尋ねる。


「今の入口には、戻ってくる流れがあります。でも、扉の脇なら弱いです」


アトカは水滴を左右へ追加する。


右側の水滴は、開いた扉の裏へ回り込みそうになった。


左側の水滴は壁沿いに内部へ進み、床近くの流れへ合流する。


「左の壁沿いからなら進めます」


管理部責任者が先に入る。


成人連絡員が続く。


アトカは水膜を一枚だけ入口上部へ残し、風と細かな結晶片が外へ飛び出さないよう曲面を維持したまま塔へ入った。


カインは最後に扉を見る。


開いた位置。


残った蝶番。


切った留め輪。


外に残る退路。


それを確かめてから、アトカの後へ続いた。


塔の内部は、外から見たより狭かった。


円形の石壁に沿って階段が上へ続き、中央には太い設備柱が立っている。

床には二本の溝が走り、風車群と水路から来た魔力を塔の上部へ送る構造になっていた。


だが、どちらの溝も薄緑の結晶で半ば覆われている。


枝状の結晶が石の継ぎ目から伸び、壁と設備柱をつないでいた。


風は一方向へ流れていない。


床の溝を奥へ進むもの。


設備柱を上るもの。


壁へぶつかり、入口へ戻るもの。


異なる流れが狭い塔の中で衝突し、低い唸りを生んでいる。


成人連絡員が壁の保守札を確認した。


「一階の導線は二本です。右が風車群、左が水路側。中央柱を通って上部の調整室へ送られます」


「今も、その通りに流れていますか」


アトカが尋ねる。


「図面では、その二本以外に経路はありません」


アトカは床へ霧を薄く広げた。


霧は二本の溝へ沿って進む。


右。


左。


どちらも途中で薄緑の結晶へ触れ、細く乱れた。


その間に、一筋だけ別の動きがあった。


二本の溝のどちらにも入らず、円形の壁へ向かう霧。


壁へぶつかれば戻るはずだった。


だが霧の先端は、石の継ぎ目へ吸い込まれるように消えた。


アトカは足を止める。


同じ場所へ一滴だけ水を送る。


水滴は石壁の手前で止まらない。


縦に並んだ石の隙間へ入り込み、向こう側へ引かれた。


「壁の奥へ流れています」


成人連絡員が図面を開く。


「そこは外壁です。導線も空洞も記載されていません」


カインは壁へ近づかなかった。


目で石の並びを見る。


現在の塔と同じ白い石ではない。


水滴が消えた一帯だけ、少し色の濃い古い石が使われている。表面は平らだが、継ぎ目の幅が周囲と違った。


「壊すのか」


カインが尋ねる。


アトカは首を横へ振った。


「まだです。向こうに何があるか見えません」


水滴が通ったからといって、人が通れる空間とは限らない。


細い亀裂かもしれない。


埋められた古い管かもしれない。


外壁の内側に残った僅かな隙間かもしれない。


分からない場所を、入口を開けた時と同じように壊すことはできなかった。


アトカは水滴を増やさず、最初の一滴が引かれる方向だけを見る。


水滴は壁の向こうで止まっていない。


僅かに上へ。


それから塔の奥へ。


現在の二本の導線とは違う方向へ続いていた。


「先があります」


アトカが言う。


「どこへ出るかは分かりません。でも、壁のすぐ向こうで途切れてはいません」


管理部責任者が図面と壁を見比べる。


図面に線はない。


保守札にも記録はない。


それでもアトカの水滴は、古い石の向こうへ流れ続けている。


その時、塔の上部から強い震動が降りてきた。


中央の設備柱が揺れる。


壁と柱をつなぐ薄緑の結晶が一斉に光った。


一本。


二本。


さらに奥で、複数の細い結晶糸が引かれる音がする。


カインが壁から視線を外し、設備柱の上を見る。


「先に、上だ」


アトカも頷く。


「はい。今の異常を止めないと、この流れも確かめられません」


水滴を壁の隙間から戻そうとする。


だが一滴は引かれたまま、すぐには戻らなかった。


アトカは無理に引き戻さず、その場で水との接続だけを切った。


壁の向こうへ入った水滴は、古い流れに乗って見えなくなる。


現在の図面にはない道。


今はまだ、入口も、行き先も分からない。


塔の上では、結晶糸が張り詰める音が続いていた。

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