風より先に
アトカとカインは同時に丘を蹴った。
三頭のホーンウルフは、白い風車の間を縫う管理路へ飛び込んでいる。
灰色の背が長い草へ隠れても、角に付着した薄緑の結晶だけは陽光を反し、走るたび鋭く瞬いた。
丘の下では、警報を聞いた管理人たちが工具箱を捨て、風車から離れようとしていた。
だが全員が同じ速さでは動けない。
水路脇にいた一人が、巻き取る途中だった点検縄へ足を取られた。
隣の管理人が引き起こそうと立ち止まる。
そのさらに奥では、別の二人が手押し車を道の外へ押し出そうとしていた。
魔獣は人だけを目指しているようには見えなかった。
三頭とも、薄緑の角を北西へ向けている。
中継塔付近へ集まる魔力の流れと、風車の間を通る管理路が重なっていた。
その先に人がいる。魔獣が何へ引かれているとしても、追いつかれれば管理人たちは襲われる。
「ニルスはその場で待機!」
後ろから管理部責任者の声が飛ぶ。
「分かりました!」
ニルスの返事を聞き、アトカは前へ向き直った。
三頭のうち一頭が群れから左へ外れた。
点検縄へ足を取られた管理人へ最も近い。
斜面を下る勢いのまま水帯を正面からぶつければ、魔獣を人のいる場所へ押し込んでしまう。
高く持ち上げれば、角の結晶が風圧を放った時の落下先が読めない。
アトカは義手を低く振った。
走るホーンウルフの前方で、草が陽光を返した。
自分の魔力から生み出した薄い水膜が、管理路の土を覆っている。
広い範囲を濡らしたのではない。
次に右前脚を置く場所から、斜面の外側へ向かって細い帯を引いていた。
前脚が水膜へ触れる。
爪が土を捉えられない。
ホーンウルフの身体が横へ流れた。
魔獣は後ろ脚で地面を蹴り、強引に体勢を立て直そうとする。だが水膜は、その力まで斜面の外側へ滑らせた。
灰色の身体が管理路を外れ、長い草の中へ転がる。
「一頭、左へ外れました!」
アトカが叫ぶ。
管理部責任者の笛が一度鳴り、下にいる管理人へ進路が変わったことを伝えた。
転がったホーンウルフはすぐに起き上がろうとする。
アトカは水膜を広げなかった。
二本の水帯だけを伸ばす。
一方を前脚へ。
もう一方を後ろ脚へ。
互いに異なる方向へ引き、立ち上がるための足場を失わせる。
魔獣の腹が草へ落ちた。
角が地面を削る。
牙を剥き、首を振って水帯へ噛みつこうとする。
動きを止めたまま長く拘束しておく理由はない。
この魔獣は管理人へ向かって走り、人命を脅かしている。拘束が外れれば再び襲いかかる。
「カイン先輩。左の斜面、人はいません」
アトカは魔獣の奥まで確認して伝えた。
カインも自分の目で見る。
斜面の先に管理人はいない。
風車も水路も射線から外れている。
ホーンウルフの胸郭が呼吸に合わせて上下している。前脚の付け根、その奥が急所だった。
カインは右手を向ける。
黒い魔力が細く集まった。
広げない。
魔獣の身体を大きく吹き飛ばさない。
一線だけが草の上を走り、前脚の後ろへ入った。
ホーンウルフの身体が一度強く震える。
牙を剥いていた口から力が抜けた。
呼吸が止まる。
アトカは水帯を解いた。
一頭目を仕留めたことを確認した時には、残る二頭はさらに管理人へ近づいていた。
右側を走る一頭の角が強く光る。
薄緑の結晶の間へ風が集まり、灰色の毛が逆立った。
「風圧が来ます!」
アトカは水の輪を一つ作った。
点検縄へ足を取られた管理人と、ホーンウルフの間へ斜めに置く。
次の瞬間、角から風圧が放たれた。
草が地面へ伏し、土と小石が一直線に舞い上がる。
円形の水壁で正面から受ければ、圧力は中心へ集まり、管理人へ押し込まれる。
アトカは水の輪の上側を広げ、下側を細くした。
斜めの曲面へ、魔力を含む風圧が触れる。
外へ放たれた魔力が、接触した場所から水へ変わった。
すべての風を奪おうとはしない。
管理人へ届く中心部分だけを水へ変え、残る風圧を曲面に沿わせる。
水面が大きく反る。
風と水飛沫が空へ駆け上がった。
巻き上げられた土と小石も頭上へ抜け、倒れた管理人には届かない。
「今です。離れてください!」
管理人が点検縄から足を引き抜く。
隣の者が身体を支え、二人で管理路の外へ走った。
風圧を放ったホーンウルフは勢いを緩めない。
角を下げ、空いた道へ突っ込んでくる。
アトカは役目を終えた水の輪を崩した。
落ちる水を二本の帯へ分ける。
一方を左の角へ。
もう一方を右の前脚へ。
角を外へ引き、前脚を内側へ滑らせる。
走っていた力が身体を半回転させた。
ホーンウルフの肩が地面へ落ちる。
土を削りながら横向きに滑り、空になった点検縄の手前で止まった。
魔獣は首を振り、もう一度角を持ち上げようとする。
薄緑の結晶へ新たな風が集まる。
次の風圧が放たれる前に、アトカは先ほど水へ変えた魔力を一本へまとめた。
細く、硬い水の杭。
身体を大きく貫いて周囲へ飛沫を散らす形にはしない。
倒れたホーンウルフの胸と前脚の間へ、最短の角度で通す。
水の杭が急所へ入った。
ホーンウルフの角から光が消える。
持ち上がりかけていた頭が地面へ落ちた。
アトカは水の杭を抜かず、そのまま細かな水滴へほどいた。
二頭目も動かなくなる。
残る一頭だけが、二頭の死を振り返らず走っていた。
最初からほかの二頭より一回り小さい。
身体が軽く、風車の間を迷わず抜ける。
人を狙っているというより、角に付いた結晶が示す先へ最短距離で向かっていた。
その進路上に、手押し車を道の外へ押し出していた二人の管理人がいる。
一人はすでに管理路の右側へ逃れた。
もう一人は風車の支柱側へ回り込もうとしている。
二人の動きが分かれた。
「同じ側へ下がってください!」
アトカが叫ぶ。
だが風車の羽根から剥がれた白い塗装片が風に舞い、視界と声を一瞬だけ遮った。
ホーンウルフは管理路の端にある低い石を踏み台にしようとしている。
そこから跳べば、二人の管理人の間へ届く。
アトカは水帯を伸ばしかけた。
魔獣の胴へ巻けば距離は足りる。
しかし跳躍の勢いを正面から止めれば、身体が管理人の側へ落ちる。上へ逸らせば、風圧を放たれた時の行き先が読めない。
その迷いを、カインは見ていた。
カインはホーンウルフへ右手を向けなかった。
魔獣の奥には管理人がいる。
身体を直接狙えば、黒い魔力が急所を抜けた後、どこへ届くか分からない。
角も走るたび上下している。
今は撃てない。
カインは魔獣ではなく、足元を見た。
踏み切りに使おうとしている石。
表面には乾いた土が薄く重なり、その下には斜面へ続く浅い岩の層がある。
水路は反対側。
風車の基礎からも離れている。
表面だけを外側へ崩せば、跳躍の力は人のいない草地へ逃げる。
「踏み切る石を壊す!」
カインの声が響く。
管理部責任者も人と設備の位置を確認する。
「許可する!」
カインの右手から、短い黒い線が走った。
大きな爆発は起きない。
石の表面へ亀裂が入り、外側の角だけが拳ほど沈んだ。
ホーンウルフの前脚が石へ乗る。
地面を蹴るはずだった力が、崩れた土と一緒に斜面の外へ逃げた。
魔獣の身体が傾く。
正面へ伸びるはずだった跳躍が、管理人から外れた草地へ向かう。
「アトカ!」
「はい!」
待っていた水帯が、空中のホーンウルフを捉えた。
止めるのではない。
円を描かせる。
残った勢いを水帯の内側へ沿わせ、身体を人のいない方向へ半回転させる。
草地へ落ちる直前、水帯が厚い膜へ変わった。
衝撃を受けて沈み、その力を左右へ散らす。
ホーンウルフは地面を短く滑った。
まだ死んでいない。
前脚を突き、立ち上がろうとする。
カインは撃たなかった。
逃げ遅れていた管理人が魔獣の後方を横切っている。
「人が射線にいる」
カインが告げる。
アトカは水帯でホーンウルフの身体を引き、向きを変えた。
魔獣の背後が管理人から外れる。
胸側も風車や水路へ重ならない。
「射線、空きました」
カインが見る。
魔獣。
その奥の草地。
さらに先の斜面。
人はいない。
建物もない。
カインはホーンウルフの首と頭の境目へ照準を絞った。
黒い魔力が細い破断線となって走る。
首の付け根へ入り、それ以上奥へ抜ける前に地面へ落ちた。
ホーンウルフの身体から力が失われる。
起き上がりかけていた前脚が折れ、草の上へ倒れた。
三頭目も呼吸を止めた。
管理部責任者の笛が二度鳴る。
低地にいた全員が退避位置へ着いたことを示す合図だった。
アトカは残していた水をすべて水滴へ戻した。
一頭目は斜面の草の中。
二頭目は空になった管理路。
三頭目は風車から離れた草地。
三頭とも確実に仕留められている。
管理人へ届いた攻撃はない。
水路も塞がれていない。
白い風車の支柱にも、新しい傷はなかった。
アトカは呼吸を整えながら三頭を見た。
倒したことへ喜びはない。
だが人を襲った魔獣を生かしておけば、拘束が外れた時に再び誰かが危険になる。
必要な時に仕留めることまでが、この場を守るための役割だった。
「負傷者を確認します!」
管理部責任者が管理人たちへ指示を出す。
点検縄へ足を取られた者は、自分で立てていた。
足首に浅い擦り傷があるだけで、風圧や魔獣の牙は届いていない。
カインは自分が破断した石へ歩み寄った。
浅い岩の縁だけが欠け、その下の土が手のひらほど崩れている。
亀裂は風車側へ伸びていない。
水路側にも届いていない。
首元と手首の拘束具を確かめる。
熱は基準内。
ひびもない。
黒い魔力も漏れていない。
空の広い場所でも、撃った力が終わる場所を自分で選べた。
「カイン先輩」
呼ばれて顔を上げる。
アトカは三頭目が倒れた場所から戻ってきた。
少し息を弾ませているが、義手の動きにも呼吸にも異常はない。
「助かりました。石がそのままだったら、二人の間へ跳ばれていました」
「お前が向きを変えた」
「カイン先輩が、跳ぶ方向を先に変えてくれたからです」
カインは欠けた石へ視線を戻した。
自分が倒した魔獣より先に、壊した場所と残った場所を確かめている。
「浅い層だけだ。基礎も水路も壊してない」
「はい。見えています」
アトカの返事は明るかったが、大げさに褒めはしなかった。
カインが確認しているものを、一緒に確かめた。
管理部責任者が近づいてくる。
「三頭の討伐を確認しました。管理人に大きな負傷はありません」
責任者は先に人の安全を伝え、その後でカインが壊した石を見る。
「破断位置は、この縁だけで間違いありませんか」
「ああ。表面から指二本分くらい。亀裂は斜面の外へ抜けた」
「このまま通路として使えますか?」
カインは足元へ体重を掛けず、崩れた部分の周囲を見る。
「印を付けた方がいい。端へ乗れば滑る」
責任者は赤い杭を立て、通常の補修班へ引き継ぐよう記録した。
カインは自分で石を直そうとはしない。
どこを、どの深さまで壊したかを伝えた。
その先は高原を管理する者の仕事だった。
管理人たちは三頭の死骸をすぐには動かさなかった。
角の結晶が何へ反応するか分からないため、周囲へ黄色い杭を立て、回収班が来るまで誰も触れないようにする。
その時、一頭目の角から小さな音がした。
薄緑の結晶の先端へ、戦闘中に入っていた亀裂が広がる。
枝先ほどの欠片が外れ、草の上へ落ちた。
風は低地へ向かって吹いている。
草の穂も、アトカの左袖も同じ方向へ流れていた。
それなのに薄緑の欠片は風下へ転がらない。
一度震え、風に逆らって草の上を滑り始めた。
「触らないでください」
アトカが管理人たちを止める。
欠片は管理路を横切った。
近くに立つ白い風車へ近づいていく。
支柱へぶつかる直前で向きを変え、その裏側へ回り込んだ。
そこには石枠に収められた魔導弁がある。
薄緑の欠片は魔導弁と支柱の隙間へ入り込み、吸い寄せられるように止まった。
風車の内部から低い唸りが響く。
白い羽根が僅かに動いた。
風の向きとは反対へ。
一度だけ軸が回り、途中で止まる。
「魔獣が、結晶を運んできたのですか?」
管理人の一人が尋ねた。
アトカは首を振らなかったが、頷きもしなかった。
「角に付いていたことは確かです。でも、魔獣が作ったのか、別の場所で付いたのかは分かりません」
アトカは小さな水滴を一つだけ風車の近くへ置いた。
水滴は結晶片へ触れない。
支柱から離れた場所で表面を細かく震わせる。
風に押されれば低地へ動くはずだった。
だが水滴は風下へ流れず、薄く引き伸ばされながら支柱の裏側へ滑った。
そこからさらに、北西の丘へ向かおうとする。
水滴を引く向きは、丘を越えるまで各所に現れていた偏りと重なっている。
風車の内部に異常がある。
その異常もまた、北西へ向かう大きな流れの一部になっていた。
三頭を仕留めても、高原を引く力は止まっていない。
管理部責任者は中継塔へ続く丘と、目の前の風車を見比べた。
「塔へ進む前に、この風車を確認します。結晶が魔導弁へ入り込んでいる可能性があります」
カインは白い支柱を見上げた。
羽根。
軸。
魔導弁。
薄緑の結晶が消えた隙間。
風車全体を壊せば、内部の異常を止められるかもしれない。
だが風車の向こうには水路がある。
丘の下には管理人たちがいる。
何を壊せばよいかより先に、何を残さなければならないかを見なければならない。
風車の内部から、もう一度低い唸りが響いた。
今度は羽根が動かなかった。
代わりに支柱と魔導弁の隙間から、薄緑の結晶が枝のように伸び始めた。




