↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
蒼風に開く道
PR
92/133

水滴と風の競争

風のない場所で、白い羽根だけが逆向きに回っていた。


一度。


二度。


軸の奥から響く低い唸りに合わせ、長い羽根が本来とは反対へ空を切る。


丘を覆う草はほとんど動いていない。


アトカの左袖も、カインの外套も垂れたままだった。


それなのに風車の羽根だけが、内側から押されているように速度を増側から押していく。


管理部責任者はすぐに腰の笛を鳴らした。


短い音が二度、高原へ響く。


離れた風車の下にいた管理人たちが作業を止め、青い旗の内側へ下がっていく。

丘の下では別の管理人が腕を上げ、退避を確認した合図を返した。


「この風車の周囲を黄色区域へ変更します」


責任者は風車から距離を取り、地面へ黄色い標識杭を差した。


「ニルス、羽根の下へ入らないこと。アッシュフォード君とデイスター君も、支柱へ近づく前に状態を確認してください」


「はい」


アトカは答えたが、すぐに魔術を使わなかった。


逆回転している羽根を見る。


支柱の継ぎ目。


羽根の軸。


風車の下を通る細い水路。


白い支柱の周囲へ残る草の向き。


風が止まってから羽根が動き始めたのであれば、外から押されたのではない。


けれど、それだけで内部に何があるかまでは分からなかった。


「音は、いつもどこから聞こえますか?」


アトカが尋ねる。


ニルスは風車の下側を指した。


「普通は上です。羽根が回ると、軸のところが鳴ります。でも今の音は……もっと下から聞こえます」


「支柱の中ですか?」


「たぶん。でも、ここでこんな音がしたのは初めてです」


ニルスは耳を澄ませた。


唸りは一定ではない。


低く長く続いた後、途切れる。


少し間を置いて、再び響く。


そのたびに羽根の回転が速くなった。


管理部責任者は携行記録板へ時間と回転方向を書き込む。


「内部点検口は風車の反対側です。ただし、今は開けません。

羽根の回転が止まるまでは、近づかないでください」


カインは支柱から十分に離れた場所で、羽根が外れた場合の落下範囲を見ていた。


羽根は長い。


軸から外れれば、丘の斜面だけでなく、その下の水路まで届く。


「低地側に人は」


「全員退避させました」


「風車の裏は」


「確認します」


責任者は手旗を上げた。


丘の反対側にいた管理人が、誰も残っていないことを示す白旗を返す。


カインはそれを見てから、風車の横にある岩と水路の位置を覚えるように視線を動かした。


まだ壊すものは決まっていない。


だから黒い魔力も出さない。


アトカは義手を胸の前まで上げた。


「水滴を飛ばしてもいいですか。風車には触れさせません」


責任者は目的を確認する。


「何が分かりますか?」


「風が外から押しているのか、風車の近くへ引かれているのかを見ます。水滴の動きだけなので、内部の構造や原因までは分かりません」


「支柱から五歩以内へ入れないこと。羽根の回転が変わったら止めてください」


「分かりました」


アトカの周囲に、十数個の水滴が浮かんだ。


指先ほどの小さな水滴。


木の実ほどの水滴。


薄く広がった水の膜に近いもの。


すべて同じ形にはしない。


丸い水滴は風の向きを追いやすい。


大きな水滴は、押す力の強弱が形に出る。


薄いものは、流れが分かれる場所で裂け方が変わる。


アトカは水滴を風車の周囲へ並べた。


丘の上側。


水路側。


支柱の左右。


羽根の正面から離れた位置。


水滴を飛ばしたのではない。


それぞれをその場へ留め、周囲の風を受けさせる。


最初はどれも動かなかった。


逆回転する羽根だけが、低い音を立てている。


やがて丘の上から風が戻ってきた。


草が一斉に伏せる。


アトカのローブが後ろへ流れ、水滴も低地側へ押された。


ほとんどの水滴は、風と同じ方向へ進んだ。


しかし支柱の左側へ置いた三滴だけが途中で止まった。


水滴の表面が震える。


低地側へ押されながら、別の力に横から引かれている。


一滴が細長く伸びた。


次の瞬間、風向きに逆らって支柱の裏側へ滑った。


「アトカ」


カインの声が飛ぶ。


「近づけすぎるな」


「はい」


アトカは水滴を支柱へ触れさせず、その場で維持する。


残る二滴も同じ方向へ引かれた。


風は丘の上から低地へ吹いている。


水滴は横へ曲がり、支柱の裏側へ回り込もうとしている。


「風車の裏へ、流れがあります」


アトカは見えたことだけを伝えた。


「普通の風とは違うのですか?」


ニルスが尋ねる。


「丘を下りている風は、こちらです」


アトカは低地側へ進む丸い水滴を示す。


「でも、薄い水滴には別の魔力が触れています。風車の裏へ引かれています」


風属性魔力を風のまま動かしているわけではない。


外へ現れ、水滴へ触れている流れが、どちらへ向かっているかを読んでいる。


アトカは支柱の裏へ回り込もうとする三滴を、その場で小さな霧へほどいた。


霧はすぐには散らなかった。


白い支柱の後ろで渦を巻き、一度上へ昇る。


その後、風車から離れるように北側へ流れた。


「裏で回ってから、向こうへ出ています」


アトカが北の丘を指す。


ニルスが記録板を抱え直した。


「あっちは次の風車があります。その先は水路の分岐です」


管理部責任者は周辺の旗と退避状況を確かめる。


「現在の青区域内です。移動観測を許可します。ただし、次の青旗で一度停止。ニルスは道の案内だけをしてください。設備へ触れる判断はしないこと」


「はい」


「私も外側の管理路を通って追います。笛が三度鳴ったら、理由を確認する前にその場で停止してください」


アトカとカインも頷いた。


アトカは北へ流れた霧を消さず、少し先へ進ませた。


霧の先に、新しい水滴を三つ作る。


水滴は風に乗って軽く跳ねた。


一滴目が丘を越える。


二滴目が草の間を抜ける。


三滴目は途中で横へ引かれ、白い風車の列へ向かう。


「行きます」


ニルスが先に道を示した。


アトカとカインが続く。


三人は逆回転する風車を離れ、白い羽根の並ぶ高原を走り始めた。


風が戻ってきた。


今度は正面からではない。


丘の斜面を斜めに駆け上がり、三人の横を抜けていく。


アトカの水滴が風を受け、陽光の中で細かく光った。


水滴は一直線には進まない。


草の上で一度沈み、別の風を受けて高く上がる。


風車の支柱へ近づくと、その周囲を半周してから次の丘へ向かう。


アトカは一滴だけを追うのではなく、離れた水滴を次々と作り、動きの違いを見ていた。


丘の上を進む水滴は、自然の風に押されて低地へ流れる。


風車の近くへ入った水滴は、途中で向きを変える。


水路の上では、表面が細かく揺れながら上流側へ引かれるものもある。


同じ風が、すべてを同じ方向へ動かしているのではない。


「右です!」


ニルスが声を上げた。


前方の草が深くなり、まっすぐ進めなくなっている。


三人は白い風車の下を回り込んだ。


頭上では止まった羽根が大きな影を落としている。


カインは走りながらも、羽根の真下へ入らないよう外側を選ぶ。


アトカもその進路へ合わせた。


ニルスだけが先へ出そうになり、カインが声で止める。


「近い」


ニルスは頭上を見た。


自分が止まった羽根の下へ入りかけていたことに気づき、二歩戻る。


「すみません」


「謝るより、外を通れ」


「はい」


カインはニルスを自分の後ろへ置き、羽根から離れた側を走った。


水滴は先へ進んでいる。


けれど、追いつくために危険な場所を突っ切ることはしない。


白い支柱を大きく回り、再び水滴の列へ戻る。


丘を下ると、細い水路が横切っていた。


石の段を流れる水は少なく、底が何箇所も露出している。


ニルスはいつも使っている飛び石を指した。


「ここを渡れます。でも二つ目が滑ります」


先頭のカインが足を止めた。


二つ目の石には苔が残り、表面だけが水に濡れている。


カインは飛び越えず、脇に落ちていた短い板を持ち上げた。


魔力は使わない。


板の端を一つ目と三つ目の石へ渡し、体重を掛けずに安定を確かめる。


「これなら通れる」


「壊さなくても置けましたね」


アトカが言う。


「置けば済む」


カインは先に渡り、反対側から板が動かないことを足で押さえた。


ニルスが続く。


最後にアトカが渡る。


三人が通り終えると、カインは板を元の場所へ戻した。後から来る管理人が、飛び石の状態を見失わないためだった。


その間にも、水滴は先へ進んでいる。


アトカは離れすぎた水滴を消し、新しいものを作った。


今度は高さを変える。


地面すれすれ。


腰の高さ。


頭上より高い位置。


三段に並べて風へ放つ。


低い水滴は草に遮られ、自然の風に押されにくい。


高い水滴は大きく低地へ流される。


中央の水滴だけが、風車の列へ近づくたび北西へ曲がった。


「高いところの風は、丘を下っています」


アトカは走りながら伝える。


「でも風車の近くでは、真ん中の流れだけが向こうへ引かれています」


「地面の近くは?」


カインが尋ねる。


「弱いです。草の間で止まっています」


「なら、引いているものは地面じゃない」


断定ではない。


少なくとも、地面全体が同じ方向へ吸っている動きではないと分かる。


ニルスが前方を指した。


「水路の分岐です!」


二本の水路が合流する場所に、小さな石橋が架かっていた。


普段は水車板を使って流量を分ける場所らしい。


今は水位が低い。


それでも橋の下では、残った水が不自然に渦を巻いていた。


アトカの水滴が橋へ近づく。


一滴は水路へ落ち、流れに乗って低地へ進む。


一滴は橋の下へ吸い込まれ、渦を一周した後、上流側へ押し戻される。


残る一滴は、水面へ落ちずに橋の上を通り過ぎ、北西の丘へ向かった。


「同じ場所で、三方向です」


アトカが足を止める。


自然の水。


外から吹く風。


風車や水路に沿って動く魔力。


それぞれが別の方向へ進んでいる。


アトカは橋の上へ薄い霧を広げた。


霧は風に押されて低地へ流れながら、一部だけが細い筋となって北西へ伸びる。


その筋を追うように、水路の渦も僅かに形を変えた。


「こっちです」


ニルスは北西の丘へ続く管理路を示した。


「この先に、音がしなくなった二つ目の水路があります。その向こうが中継塔です」


管理部責任者が外側の道から追いついた。


「ここまでの観測結果を教えてください」


アトカは息を整えながら、見えたものを順に伝えた。


自然の風は高地から低地へ流れている。


風車の近くでは、別の魔力の流れが北西へ向かっている。


水路の一部では、その流れに触れた水が上流側へ押し返されている。


すべての風車で同じ強さではない。


最初に逆回転した風車から離れても、北西へ引かれる傾向は続いている。


「原因は分かりますか?」


責任者が尋ねる。


「まだ分かりません」


アトカははっきり答えた。


「ただ、風車から外へ風が出ているようには見えません。周りにある流れが、風車や水路を通って同じ方向へ引かれています」


責任者は中継塔の方角を見る。


塔はまだ丘の向こうで見えない。


「中継塔から吹いているのではなく、そちらへ集まっている可能性があるということですか」


「はい。でも、塔が引いているとはまだ決められません。途中に別の場所があるかもしれません」


管理部責任者は記録へ、異常方向を北西と記す。


原因の欄は空白のままにした。


「次の丘まで進みます。青区域の終端です。そこで中継塔が見えるはずです」


再び移動する。


今度は水滴が先を走るのではなく、三人と並ぶように進んだ。


アトカは水滴を広い範囲へ散らさず、前方と左右へ五滴ずつ置く。


追うべき方向が見えたからこそ、必要以上に増やさない。


丘はこれまでより急だった。


ニルスが先に登り、足場の固い場所を示す。


カインはその後ろを進みながら、左右の草むらへ目を配る。


風車の影に入れば視界が途切れる。


長い草が揺れれば、何かがいてもすぐには分からない。


水滴だけを見て走るアトカの代わりに、カインは地上を見ていた。


丘の上へ近づいた時、アトカの右側に置いた水滴が一斉に潰れた。


丸い形を保てず、横へ引き伸ばされる。


「止まってください」


アトカが声を上げる。


三人はその場で足を止めた。


管理部責任者も後方で笛へ手を掛ける。


丘の向こうから、強い風が来る。


だが水滴は、こちらへ押し戻されなかった。


正面から来た風を受けながら、さらに北西へ引かれている。


二つの力に挟まれ、薄い楕円へ変わっていた。


アトカは水滴を一つだけ前へ進ませた。


丘の頂を越える。


次の瞬間、水滴が細く伸び、見えない糸に引かれるように向こう側へ飛んだ。


三人は慎重に丘を上る。


頂へ出た瞬間、景色が大きく開けた。


低地に並ぶ白い風車群。


それらの間を通る複数の水路。


さらに奥には、石造りの中継塔が立っている。


塔の上空には雲がない。


煙も出ていない。


外壁が崩れている様子も、ここからは見えなかった。


それでも、高原のあちこちへ置いた水滴が同じ方向を示している。


右の風車から。


左の水路から。


丘の上から。


低地の草原から。


それぞれ別の場所にあった水滴が、細い光の筋となって中継塔の方角へ流れていく。


自然の風は東へ向かっている。


水滴へ触れる魔力だけが、北西の塔へ集まっている。


ニルスが息を呑んだ。


「全部、塔へ行ってる……」


「塔の近くへ集まっています」


アトカは訂正した。


「塔の中へ入っているかは、ここからでは分かりません」


カインは中継塔だけを見なかった。


塔へ続く管理路。


途中にある風車。


水路の位置。


丘の下で作業をしている管理人たち。


そして長い草の中に、風とは違う揺れを見つけた。


「伏せろ」


カインの声が低く響く。


ニルスが反応するより先に、アトカが薄い水膜を三人の前へ立てた。


攻撃を受け止めるためではない。


草むらから飛び出すものの輪郭を見るためだった。


長い草が左右へ割れる。


灰色の獣が丘を駆け上がってくる。


狼に似た魔獣。


額から伸びる二本の角には、薄緑の結晶が枝のように付着している。


一体目。


その後ろから二体目。


少し離れた場所から三体目。


三頭のホーンウルフが丘の頂へ姿を現した。


水膜へ触れた風が、角の結晶の周囲で渦を巻く。


アトカたちを見つけても、すぐには飛びかかってこなかった。


三頭は同時に鼻先を上げた。


中継塔へ集まっていく魔力の流れを探すように、薄緑の角を北西へ向ける。


角の結晶が淡く光った。


一頭が地面を蹴る。


向かった先はアトカたちではない。


丘の下。


水路脇の風車で、退避を始めた管理人たちがいる方向だった。


残る二頭も後を追う。


「管理人がいます!」


ニルスが叫ぶ。


管理部責任者が笛を三度鳴らした。


高く鋭い警報が、高原中へ響く。


三頭のホーンウルフは草を蹴り、白い風車の列へ駆け下りていく。


アトカの水滴も、同じ方向へ風に引かれていた。


けれど今、追わなければならないのは風ではない。


アトカとカインは同時に丘を蹴った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。