水滴と風の競争
風のない場所で、白い羽根だけが逆向きに回っていた。
一度。
二度。
軸の奥から響く低い唸りに合わせ、長い羽根が本来とは反対へ空を切る。
丘を覆う草はほとんど動いていない。
アトカの左袖も、カインの外套も垂れたままだった。
それなのに風車の羽根だけが、内側から押されているように速度を増側から押していく。
管理部責任者はすぐに腰の笛を鳴らした。
短い音が二度、高原へ響く。
離れた風車の下にいた管理人たちが作業を止め、青い旗の内側へ下がっていく。
丘の下では別の管理人が腕を上げ、退避を確認した合図を返した。
「この風車の周囲を黄色区域へ変更します」
責任者は風車から距離を取り、地面へ黄色い標識杭を差した。
「ニルス、羽根の下へ入らないこと。アッシュフォード君とデイスター君も、支柱へ近づく前に状態を確認してください」
「はい」
アトカは答えたが、すぐに魔術を使わなかった。
逆回転している羽根を見る。
支柱の継ぎ目。
羽根の軸。
風車の下を通る細い水路。
白い支柱の周囲へ残る草の向き。
風が止まってから羽根が動き始めたのであれば、外から押されたのではない。
けれど、それだけで内部に何があるかまでは分からなかった。
「音は、いつもどこから聞こえますか?」
アトカが尋ねる。
ニルスは風車の下側を指した。
「普通は上です。羽根が回ると、軸のところが鳴ります。でも今の音は……もっと下から聞こえます」
「支柱の中ですか?」
「たぶん。でも、ここでこんな音がしたのは初めてです」
ニルスは耳を澄ませた。
唸りは一定ではない。
低く長く続いた後、途切れる。
少し間を置いて、再び響く。
そのたびに羽根の回転が速くなった。
管理部責任者は携行記録板へ時間と回転方向を書き込む。
「内部点検口は風車の反対側です。ただし、今は開けません。
羽根の回転が止まるまでは、近づかないでください」
カインは支柱から十分に離れた場所で、羽根が外れた場合の落下範囲を見ていた。
羽根は長い。
軸から外れれば、丘の斜面だけでなく、その下の水路まで届く。
「低地側に人は」
「全員退避させました」
「風車の裏は」
「確認します」
責任者は手旗を上げた。
丘の反対側にいた管理人が、誰も残っていないことを示す白旗を返す。
カインはそれを見てから、風車の横にある岩と水路の位置を覚えるように視線を動かした。
まだ壊すものは決まっていない。
だから黒い魔力も出さない。
アトカは義手を胸の前まで上げた。
「水滴を飛ばしてもいいですか。風車には触れさせません」
責任者は目的を確認する。
「何が分かりますか?」
「風が外から押しているのか、風車の近くへ引かれているのかを見ます。水滴の動きだけなので、内部の構造や原因までは分かりません」
「支柱から五歩以内へ入れないこと。羽根の回転が変わったら止めてください」
「分かりました」
アトカの周囲に、十数個の水滴が浮かんだ。
指先ほどの小さな水滴。
木の実ほどの水滴。
薄く広がった水の膜に近いもの。
すべて同じ形にはしない。
丸い水滴は風の向きを追いやすい。
大きな水滴は、押す力の強弱が形に出る。
薄いものは、流れが分かれる場所で裂け方が変わる。
アトカは水滴を風車の周囲へ並べた。
丘の上側。
水路側。
支柱の左右。
羽根の正面から離れた位置。
水滴を飛ばしたのではない。
それぞれをその場へ留め、周囲の風を受けさせる。
最初はどれも動かなかった。
逆回転する羽根だけが、低い音を立てている。
やがて丘の上から風が戻ってきた。
草が一斉に伏せる。
アトカのローブが後ろへ流れ、水滴も低地側へ押された。
ほとんどの水滴は、風と同じ方向へ進んだ。
しかし支柱の左側へ置いた三滴だけが途中で止まった。
水滴の表面が震える。
低地側へ押されながら、別の力に横から引かれている。
一滴が細長く伸びた。
次の瞬間、風向きに逆らって支柱の裏側へ滑った。
「アトカ」
カインの声が飛ぶ。
「近づけすぎるな」
「はい」
アトカは水滴を支柱へ触れさせず、その場で維持する。
残る二滴も同じ方向へ引かれた。
風は丘の上から低地へ吹いている。
水滴は横へ曲がり、支柱の裏側へ回り込もうとしている。
「風車の裏へ、流れがあります」
アトカは見えたことだけを伝えた。
「普通の風とは違うのですか?」
ニルスが尋ねる。
「丘を下りている風は、こちらです」
アトカは低地側へ進む丸い水滴を示す。
「でも、薄い水滴には別の魔力が触れています。風車の裏へ引かれています」
風属性魔力を風のまま動かしているわけではない。
外へ現れ、水滴へ触れている流れが、どちらへ向かっているかを読んでいる。
アトカは支柱の裏へ回り込もうとする三滴を、その場で小さな霧へほどいた。
霧はすぐには散らなかった。
白い支柱の後ろで渦を巻き、一度上へ昇る。
その後、風車から離れるように北側へ流れた。
「裏で回ってから、向こうへ出ています」
アトカが北の丘を指す。
ニルスが記録板を抱え直した。
「あっちは次の風車があります。その先は水路の分岐です」
管理部責任者は周辺の旗と退避状況を確かめる。
「現在の青区域内です。移動観測を許可します。ただし、次の青旗で一度停止。ニルスは道の案内だけをしてください。設備へ触れる判断はしないこと」
「はい」
「私も外側の管理路を通って追います。笛が三度鳴ったら、理由を確認する前にその場で停止してください」
アトカとカインも頷いた。
アトカは北へ流れた霧を消さず、少し先へ進ませた。
霧の先に、新しい水滴を三つ作る。
水滴は風に乗って軽く跳ねた。
一滴目が丘を越える。
二滴目が草の間を抜ける。
三滴目は途中で横へ引かれ、白い風車の列へ向かう。
「行きます」
ニルスが先に道を示した。
アトカとカインが続く。
三人は逆回転する風車を離れ、白い羽根の並ぶ高原を走り始めた。
風が戻ってきた。
今度は正面からではない。
丘の斜面を斜めに駆け上がり、三人の横を抜けていく。
アトカの水滴が風を受け、陽光の中で細かく光った。
水滴は一直線には進まない。
草の上で一度沈み、別の風を受けて高く上がる。
風車の支柱へ近づくと、その周囲を半周してから次の丘へ向かう。
アトカは一滴だけを追うのではなく、離れた水滴を次々と作り、動きの違いを見ていた。
丘の上を進む水滴は、自然の風に押されて低地へ流れる。
風車の近くへ入った水滴は、途中で向きを変える。
水路の上では、表面が細かく揺れながら上流側へ引かれるものもある。
同じ風が、すべてを同じ方向へ動かしているのではない。
「右です!」
ニルスが声を上げた。
前方の草が深くなり、まっすぐ進めなくなっている。
三人は白い風車の下を回り込んだ。
頭上では止まった羽根が大きな影を落としている。
カインは走りながらも、羽根の真下へ入らないよう外側を選ぶ。
アトカもその進路へ合わせた。
ニルスだけが先へ出そうになり、カインが声で止める。
「近い」
ニルスは頭上を見た。
自分が止まった羽根の下へ入りかけていたことに気づき、二歩戻る。
「すみません」
「謝るより、外を通れ」
「はい」
カインはニルスを自分の後ろへ置き、羽根から離れた側を走った。
水滴は先へ進んでいる。
けれど、追いつくために危険な場所を突っ切ることはしない。
白い支柱を大きく回り、再び水滴の列へ戻る。
丘を下ると、細い水路が横切っていた。
石の段を流れる水は少なく、底が何箇所も露出している。
ニルスはいつも使っている飛び石を指した。
「ここを渡れます。でも二つ目が滑ります」
先頭のカインが足を止めた。
二つ目の石には苔が残り、表面だけが水に濡れている。
カインは飛び越えず、脇に落ちていた短い板を持ち上げた。
魔力は使わない。
板の端を一つ目と三つ目の石へ渡し、体重を掛けずに安定を確かめる。
「これなら通れる」
「壊さなくても置けましたね」
アトカが言う。
「置けば済む」
カインは先に渡り、反対側から板が動かないことを足で押さえた。
ニルスが続く。
最後にアトカが渡る。
三人が通り終えると、カインは板を元の場所へ戻した。後から来る管理人が、飛び石の状態を見失わないためだった。
その間にも、水滴は先へ進んでいる。
アトカは離れすぎた水滴を消し、新しいものを作った。
今度は高さを変える。
地面すれすれ。
腰の高さ。
頭上より高い位置。
三段に並べて風へ放つ。
低い水滴は草に遮られ、自然の風に押されにくい。
高い水滴は大きく低地へ流される。
中央の水滴だけが、風車の列へ近づくたび北西へ曲がった。
「高いところの風は、丘を下っています」
アトカは走りながら伝える。
「でも風車の近くでは、真ん中の流れだけが向こうへ引かれています」
「地面の近くは?」
カインが尋ねる。
「弱いです。草の間で止まっています」
「なら、引いているものは地面じゃない」
断定ではない。
少なくとも、地面全体が同じ方向へ吸っている動きではないと分かる。
ニルスが前方を指した。
「水路の分岐です!」
二本の水路が合流する場所に、小さな石橋が架かっていた。
普段は水車板を使って流量を分ける場所らしい。
今は水位が低い。
それでも橋の下では、残った水が不自然に渦を巻いていた。
アトカの水滴が橋へ近づく。
一滴は水路へ落ち、流れに乗って低地へ進む。
一滴は橋の下へ吸い込まれ、渦を一周した後、上流側へ押し戻される。
残る一滴は、水面へ落ちずに橋の上を通り過ぎ、北西の丘へ向かった。
「同じ場所で、三方向です」
アトカが足を止める。
自然の水。
外から吹く風。
風車や水路に沿って動く魔力。
それぞれが別の方向へ進んでいる。
アトカは橋の上へ薄い霧を広げた。
霧は風に押されて低地へ流れながら、一部だけが細い筋となって北西へ伸びる。
その筋を追うように、水路の渦も僅かに形を変えた。
「こっちです」
ニルスは北西の丘へ続く管理路を示した。
「この先に、音がしなくなった二つ目の水路があります。その向こうが中継塔です」
管理部責任者が外側の道から追いついた。
「ここまでの観測結果を教えてください」
アトカは息を整えながら、見えたものを順に伝えた。
自然の風は高地から低地へ流れている。
風車の近くでは、別の魔力の流れが北西へ向かっている。
水路の一部では、その流れに触れた水が上流側へ押し返されている。
すべての風車で同じ強さではない。
最初に逆回転した風車から離れても、北西へ引かれる傾向は続いている。
「原因は分かりますか?」
責任者が尋ねる。
「まだ分かりません」
アトカははっきり答えた。
「ただ、風車から外へ風が出ているようには見えません。周りにある流れが、風車や水路を通って同じ方向へ引かれています」
責任者は中継塔の方角を見る。
塔はまだ丘の向こうで見えない。
「中継塔から吹いているのではなく、そちらへ集まっている可能性があるということですか」
「はい。でも、塔が引いているとはまだ決められません。途中に別の場所があるかもしれません」
管理部責任者は記録へ、異常方向を北西と記す。
原因の欄は空白のままにした。
「次の丘まで進みます。青区域の終端です。そこで中継塔が見えるはずです」
再び移動する。
今度は水滴が先を走るのではなく、三人と並ぶように進んだ。
アトカは水滴を広い範囲へ散らさず、前方と左右へ五滴ずつ置く。
追うべき方向が見えたからこそ、必要以上に増やさない。
丘はこれまでより急だった。
ニルスが先に登り、足場の固い場所を示す。
カインはその後ろを進みながら、左右の草むらへ目を配る。
風車の影に入れば視界が途切れる。
長い草が揺れれば、何かがいてもすぐには分からない。
水滴だけを見て走るアトカの代わりに、カインは地上を見ていた。
丘の上へ近づいた時、アトカの右側に置いた水滴が一斉に潰れた。
丸い形を保てず、横へ引き伸ばされる。
「止まってください」
アトカが声を上げる。
三人はその場で足を止めた。
管理部責任者も後方で笛へ手を掛ける。
丘の向こうから、強い風が来る。
だが水滴は、こちらへ押し戻されなかった。
正面から来た風を受けながら、さらに北西へ引かれている。
二つの力に挟まれ、薄い楕円へ変わっていた。
アトカは水滴を一つだけ前へ進ませた。
丘の頂を越える。
次の瞬間、水滴が細く伸び、見えない糸に引かれるように向こう側へ飛んだ。
三人は慎重に丘を上る。
頂へ出た瞬間、景色が大きく開けた。
低地に並ぶ白い風車群。
それらの間を通る複数の水路。
さらに奥には、石造りの中継塔が立っている。
塔の上空には雲がない。
煙も出ていない。
外壁が崩れている様子も、ここからは見えなかった。
それでも、高原のあちこちへ置いた水滴が同じ方向を示している。
右の風車から。
左の水路から。
丘の上から。
低地の草原から。
それぞれ別の場所にあった水滴が、細い光の筋となって中継塔の方角へ流れていく。
自然の風は東へ向かっている。
水滴へ触れる魔力だけが、北西の塔へ集まっている。
ニルスが息を呑んだ。
「全部、塔へ行ってる……」
「塔の近くへ集まっています」
アトカは訂正した。
「塔の中へ入っているかは、ここからでは分かりません」
カインは中継塔だけを見なかった。
塔へ続く管理路。
途中にある風車。
水路の位置。
丘の下で作業をしている管理人たち。
そして長い草の中に、風とは違う揺れを見つけた。
「伏せろ」
カインの声が低く響く。
ニルスが反応するより先に、アトカが薄い水膜を三人の前へ立てた。
攻撃を受け止めるためではない。
草むらから飛び出すものの輪郭を見るためだった。
長い草が左右へ割れる。
灰色の獣が丘を駆け上がってくる。
狼に似た魔獣。
額から伸びる二本の角には、薄緑の結晶が枝のように付着している。
一体目。
その後ろから二体目。
少し離れた場所から三体目。
三頭のホーンウルフが丘の頂へ姿を現した。
水膜へ触れた風が、角の結晶の周囲で渦を巻く。
アトカたちを見つけても、すぐには飛びかかってこなかった。
三頭は同時に鼻先を上げた。
中継塔へ集まっていく魔力の流れを探すように、薄緑の角を北西へ向ける。
角の結晶が淡く光った。
一頭が地面を蹴る。
向かった先はアトカたちではない。
丘の下。
水路脇の風車で、退避を始めた管理人たちがいる方向だった。
残る二頭も後を追う。
「管理人がいます!」
ニルスが叫ぶ。
管理部責任者が笛を三度鳴らした。
高く鋭い警報が、高原中へ響く。
三頭のホーンウルフは草を蹴り、白い風車の列へ駆け下りていく。
アトカの水滴も、同じ方向へ風に引かれていた。
けれど今、追わなければならないのは風ではない。
アトカとカインは同時に丘を蹴った。




