↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
蒼風に開く道
PR
91/133

白い風車の高原

馬車が最後の坂を上り始めると、車輪の音が変わった。


帝都を出た頃には固い道を規則正しく叩いていた音が、草の根と細かな石を踏む柔らかな響きへ変わっている。

窓の外を流れていた畑はいつの間にか途切れ、低い草原が斜面の先まで続いていた。


空が広かった。


建物の屋根も城壁もなく、遠くの山並みまで視界を遮るものがない。

夏の終わりの青空には薄い雲がいくつも浮かび、その影が草原の上を大きな生き物のように走っていた。


アトカは窓枠へ身を寄せた。


「カイン先輩。向こうに、白いものが見えます」


カインも反対側の窓から前方を見る。


坂の頂に、細い白線が何本も立っていた。


馬車が進むにつれ、それぞれの線が柱となり、柱の上に大きな羽根があることが分かってくる。


一基ではない。


丘の向こうにも、そのさらに先にも、白い風車が並んでいた。


高い場所に立つもの。水路に沿って低い場所へ並ぶもの。

二基ずつ向かい合うもの。遠くでは小さく見える羽根が、雲の影に入っては白く浮かび上がる。


だが、その多くは動いていなかった。


風は草を波立たせ、馬車の幌を鳴らしている。

それなのに白い羽根は空を切らず、同じ角度のまま止まっている。


中には、風が吹くたび僅かに前へ動き、何かに引き角度のまま止まっている。


風が吹戻されるように元の位置へ戻るものもあった。


カインは風車ではなく、その間にある地面を見ていた。


どこに道があり、どこに人がいて、風車が倒れた時に何へ届くのか。


窓から見える範囲だけでは分からない。


それでも、目を逸らさなかった。


「もうすぐ管理部の詰所です」


向かいに座る学園の成人連絡員が告げた。


「到着後、現地責任者から退避範囲と最新状況の説明があります。説明と実際が違う場合は、その場で止めて報告してください」


「はい」


アトカが答える。


カインも短く頷いた。


坂を上り切ったところで、馬車の横を強い風が抜けた。


幌が大きく鳴り、車体が僅かに揺れる。御者が速度を落とした。

その風はすぐに通り過ぎたが、窓の向こうの草は長く同じ方向へ伏せたままだった。


白い風車だけが動かない。


その不自然さは、近づくほどはっきりした。


やがて馬車は、石造りの低い詰所の前で止まった。


建物の脇には数台の荷車が寄せられ、工具箱や巻かれた縄が積まれている。

入口近くには退避を終えた管理人たちが集まり、負傷者の確認と人数の点呼を行っていた。


馬車の扉が開く。


先に降りた成人連絡員が地面と周囲を確かめ、二人へ合図した。


アトカが外へ出た瞬間、風が正面からぶつかった。


ローブの裾が大きく後ろへ流れ、胸元の翡翠色の留め石が陽光を返す。

帝都の通りを抜ける風とは違う。

建物の角で細く区切られず、遠くから来たままの広さで身体を包む風だった。


「わ……」


思わず声が漏れた。


顔を上げれば、空がどこまでも続いている。


低い場所では水路が光っていた。

風車の間を縫うように走る細い水面が、陽光を受けて銀色に揺れている。

ただし流れは弱く、ところどころで浅い底が見えていた。


後から降りたカインは、馬車の側面へ一歩寄った。


強風から身を隠したのではない。

拘束具の留め具と外套の裾が風でどう動くかを確かめ、歩き出す前に自分の状態を見ていた。


首元にも手首にも、異常な熱や漏れはない。


確認を終えると、馬車から離れて草地へ立つ。


囲いのない高原へ、自分から一歩を出した。


「王立エルシオン学園の方ですね」


詰所から一人の管理人が歩いてきた。


風に慣れた足取りで、突風が来ても姿勢を崩さない。

胸元には蒼風高原管理部の白い羽根章を付けている。


成人連絡員が書類を渡し、学園側の役割と二人の停止条件を簡潔に確認する。


管理人は最後まで聞いてから、アトカとカインへ向き直った。


「蒼風高原管理部で、今回の現場判断を預かっています。来ていただいて助かります。ただし、ここから先の作業をお二人だけに任せるつもりはありません」


管理人は詰所前に立てられた三色の旗を示した。


青い旗の内側は、点呼と安全確認を終えた移動区域。


黄色い旗の先は、成人管理人の案内がなければ入らない区域。


赤い旗は、風圧か結晶の増殖が確認され、全員が退避している区域。


「区域は風向きと設備の状態で変えます。旗だけを信じず、案内役と現場の指示を優先してください。破断が必要な場合は、こちらの技師が残す部分と外す部分を確認します」


カインが旗の先を見る。


「人が残っている場所は」


「今は青区域だけです。黄色区域には確認班が入る場合があります。その時は必ず所在を共有します。赤区域には入れません」


「風車の中は」


「内部確認が終わっていないものが多い。人がいないと断定できるまでは、外から壊さないでください」


カインは頷いた。


広い場所でも、人の位置を曖昧なままにはしない。


管理人はその返事を確認すると、少し離れたところで待っていた少年を呼んだ。


「ニルス。こちらへ」


少年は抱えていた記録板を胸元へ寄せ、早足で近づいてきた。


管理部と同じ羽根章を付けているが、外套は成人たちより短く、腰の工具袋も小さい。

風に乱された淡い茶色の髪を何度も押さえながら、アトカとカインの前で足を止める。


「見習い管理人のニルスです」


声ははっきりしていたが、視線はアトカの黒蜘蛛の紋章と、カインの拘束具の間を忙しく動いた。


「本日の朝まで、低地側の巡回補助をしていました。異常を最初に報告した風車と、水路の音が変わった場所を案内します」


言い終えた後、ニルスは少しだけ不安そうに管理部責任者を見る。


責任者が頷いた。


「ニルスは設備の判断をする者ではありません。ただ、毎朝同じ道を回っていたため、普段との違いを一番早く見つけています。案内中の安全判断は私が受けます」


見習いの知識を使う。


けれど、見習いへ責任まで渡さない。


役割が分けられていた。


アトカはニルスへ頭を下げる。


「アトカ・アッシュフォードです。よろしくお願いします、ニルスさん」


「カイン・デイスター」


カインは短く名乗った。


ニルスは二人の年齢が自分と大きく変わらないことへ、少し驚いたようだった。

それでも特等枠について何かを尋ねることはせず、記録板を開く。


管理部責任者が机の上へ高原図を広げた。


現在止まっている風車。


逆回転が確認された風車。


水路の流れが弱い場所。


結晶が増えた中継塔。


図面には多くの印が書き込まれている。


アトカはすぐに水を出さなかった。


図面だけでは、いつから、どの順番で変わったのか分からない。


「最初に変わったのは、どこですか?」


責任者が図面の北側へ指を置こうとした時、ニルスが小さく息を吸った。


何か言いたそうだった。


アトカは責任者の説明を遮らず、指が止まるのを待ってからニルスへ目を向ける。


「ニルスさんが最初に気づいたことも、聞いていいですか?」


「はい」


返事は早かった。


「最初は、風車じゃなくて水路の音でした」


ニルスは図面の低地側を指した。


「ここは朝になると、水が石の段を三つ下ります。詰所まで音が聞こえるんです。でも三日前は、二つ目の音がしませんでした」


「水が止まっていたのですか?」


「完全には止まっていません。少なかったんです。だから上流を見に行きました」


ニルスの指が、水路に沿って丘の上へ動く。


「その途中で、いつも一番先に回る風車が止まっていました」


「風が弱かった可能性は?」


成人連絡員が尋ねる。


ニルスは首を振る。


「その日は帽子が飛ばされるくらい吹いていました。鳥も低く飛んでいました。でも、その風車だけ動かなかったんです」


カインが図面を見る。


「いつも一番先に回るのは、なぜだ」


「高い丘から来た風が、最初に当たるからです。あれが回って、その後で低地の風車が順番に動きます」


一基の異常だけではない。


最初に風を受ける風車が止まれば、その先の設備にも影響が出る。


ただし、ニルスはそれを理論として説明しているわけではなかった。毎朝見てきた順番を話している。


アトカはさらに尋ねる。


「鳥が低く飛んでいたというのは、いつもと違うことですか?」


「強い風の日は、石柱の上で休みます。でも今は近づきません。あっちの古い柱です」


ニルスが詰所の外を指す。


白い風車の列から少し離れた場所に、背の高い石柱が二本立っていた。

上部には鳥が止まれる平たい場所がある。しかし今は一羽もいない。


「それと、昼に休む窪地も風が強くなりました。前はパンの包みを開いても飛ばなかったのに、昨日は布ごと飛びました」


「そこも案内できますか?」


「できます」


話すうちに、ニルスの肩から少しずつ力が抜けていく。


自分の知っている高原が、設備図にはない役に立っている。


アトカは図面へ目を落とした。


水路の音。


風車が回る順番。


鳥が休む柱。


風を避けられた窪地。


どれも魔力の測定値ではない。


だが、高原で毎日暮らしてきた者にしか分からない変化だった。


「最初に止まった風車から見たいです」


アトカが言った。


管理部責任者はすぐに認めず、現地図と最新の風向き記録を照合した。


「そこまでの道は青区域です。ただし、途中で水路を二度渡ります。一箇所は流量低下で石が滑りやすくなっている。ニルスは先頭へ出ず、私の後ろを歩くこと」


「はい」


「アッシュフォード君とデイスター君も、現地で違和感があれば止まってください。予定順を守ることより、戻れる状態を残すことを優先します」


二人も答えた。


出発前に、ニルスは高原図を畳みながら窓の外を見た。


「一つ、先に見てほしいものがあります」


詰所を出ると、風が再び三人の間を抜けた。


ニルスが指したのは、ほかより高い丘に立つ一基だった。


蒼風高原で最も大きな風車。


太い白い支柱の上で、長い四枚羽根が空へ広がっている。

丘の高さもあり、遠くの風車より一回り大きく見えた。


その頂上近くには、羽根の軸から少し外れた場所へ、小さな平場が張り出している。


人が横になれそうなほどの幅がある。


だが、見張り台にしては柵が低く、現在使われている様子もない。


「上に場所がありますね」


アトカが目を細める。


「何に使うのですか?」


ニルスは首を傾げた。


「分かりません。古い設計の名残だって教わりました。今は点検にも使いません」


管理部責任者も大風車を見上げる。


「高原の初期設備には、現在と用途の違う部分がいくつか残っています。安全確認が済んでいないため、あそこへ登る予定はありません」


それ以上の説明はなかった。


大風車の羽根も、ほかと同じように止まっている。


強い風だけが頂上の平場を通り抜け、誰もいない場所で短く音を鳴らした。


ニルスは歩き出す。


管理部責任者が先頭。


その後ろにニルス。


アトカとカインは、互いに近づきすぎない距離を保ちながら続く。


草地へ入ると、詰所から見ていた以上に風車は大きかった。

白い支柱は数人で囲んでも腕が届かないほど太く、羽根の影が地面をゆっくり横切っている。


動いていない羽根の影だった。


雲だけが流れているため、白い羽根は止まったまま、その上を光と影が何度も通り過ぎていく。


水路の脇を歩く。


水は確かに少なかった。


石の間を細く流れ、いつもなら水面の下にあるはずの苔が風に晒されている。

ニルスが話していた二つ目の段差では、水音がほとんどしなかった。


カインは水路から丘の下へ視線を動かす。


「この水は、どこへ行く」


「低地の畑と、詰所の貯水槽です。風車が水を送っているので、止まると下まで届かなくなります」


ニルスが答えた後、慌てて責任者を見る。


「合っています」


責任者が確認する。


「ただし、水が減ったことだけで今回の逆回転を説明できるとは限りません」


「分かりました」


アトカは、分からない部分を無理につなげなかった。


風車の列を抜けるにつれ、詰所の声は遠くなる。


代わりに草の擦れる音と、止まった羽根の隙間を抜ける風の音が大きくなった。


ある場所では、支柱の内部から低い震えが聞こえた。


別の場所では、羽根が一度だけ前へ動き、見えない何かに押し返されるように戻った。


カインはそのたび、風車と周囲の地面を見た。


まだ壊す場所を探しているのではない。


人の位置。


水路。


隣の風車。


破片が飛んだ場合に届く距離。


地図で空白だったものを、実際の景色で埋めている。


やがてニルスが足を止めた。


「ここです」


小さな丘の上に、一基の風車が立っていた。


ほかの風車より古く見えるわけではない。

白い支柱にも目立つ亀裂はなく、羽根の先にも大きな欠損はない。


それでも、周囲だけ様子が違った。


丘を上ってきた風が、風車の手前で二つに分かれている。


草は左右へ倒れているのに、支柱の正面だけが不自然に静かだった。


アトカは頬へ当たる風の変化を感じ、足を止める。


まだ水は出さない。


まず、目と耳で確かめる。


「これが、いつも最初に回る風車ですか?」


「はい」


ニルスは羽根を見上げた。


「三日前、ここだけ止まっていました」


その時、高原を渡っていた風が急に弱まった。


草の波が途切れる。


アトカのローブも、カインの外套も、一度だけ静かになる。


風車の四枚羽根は止まっていた。


誰も触れていない。


周囲の草も動いていない。


それなのに、白い羽根がゆっくりと動き始めた。


風が来ていた方向とは反対へ。


軸の奥から、低い唸りが響く。


一度。


二度。


白い羽根が、空を逆向きに切っていく。


ニルスの顔から、案内中に戻り始めていた明るさが消えた。


「これです」


少年は小さく息を呑んだ。


「最初に見た時も、風が止まった後に、反対へ回りました」


アトカは逆回転する羽根を見上げる。


カインは風車そのものではなく、回転した先と、丘の下にいる全員の位置を確かめた。


空はどこまでも青かった。


けれど白い風車の中では、風が空とは違う場所へ向かおうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。