二人で行く高原
フレデリックの執務室へ着くと、扉はすでに開いていた。
アトカが声を掛けるより先に、机の向こうにいたフレデリックが顔を上げる。
「入ってくれ、アトカ君、カイン君」
二人は並んで室内へ入った。
ギルベルトは呼出票をフレデリックへ渡すと、自分は同席者ではないことを確かめ、扉の外へ戻っていく。
机の上には、広げられた地図と数枚の報告書が置かれていた。
帝都を中心に描かれた地図の北西側。
山脈へ向かう街道の途中に、細い青線で囲まれた広い土地がある。
青線の中には白い羽根を模した印がいくつも並び、その中央近くに四角い塔の記号が記されていた。
アトカには見覚えのない場所だった。
カインは椅子へ座る前に、地図と窓の位置を見た。
執務室の窓は閉じられ、外の風は入ってこない。
壁も床も厚く、魔術を使う場所ではないと分かっていても、囲まれた室内へ入ると肩の力が僅かに抜ける。
フレデリックはその様子を急かさず待った。
「座ってくれ。訓練の途中で呼び出してしまったね」
「記録は途中まで書きました」
アトカが答えると、カインは持っていた記録板を机へ置いた。
フレデリックは二人の許可を得て記録へ目を通す。
赤い交換部品を二箇所破断したことより、標的の揺れと風によって二度発射を止めたことへ長く目を留めた。
「見えなくなったから撃たなかった。それでいい」
カインは頷いたが、褒められたことで表情を変えはしなかった。
「今日、君たちを呼んだのは、その判断が必要な任務の相談が届いたからだ」
フレデリックは訓練記録を脇へ置き、地図の青線を指した。
「蒼風高原。帝都から馬車で半日ほど北西へ進んだ場所にある。風の強い土地で、風車群が周辺の集落と街道施設へ動力を送っている。風車の回転を利用して水路の流れも支えているため、どちらか一方だけを止めれば済む設備ではない」
アトカは白い羽根の印を目で追った。
「今、そこに異常があるのですか?」
「確認されている事実から話すよ」
フレデリックは一枚目の報告書を開いた。
「三日前から、風車の回転が不安定になっている。止まったものもあれば、風向きと反対へ回り始めたものもある。水路の流量も落ちた。中継塔の周辺では、通常の点検量を超える風結晶が見つかっている」
次の紙には、現地の管理部が描いた簡単な見取り図があった。
塔の周囲へ斜線が引かれ、複数の場所に退避済みの印が付いている。
「現地管理部は、異常の強い区域から作業員を退避させている。設備を止める操作も試したが、中継塔へ近づくほど風圧が強くなり、内部確認まではできていない」
「魔獣は」
カインが尋ねた。
「集まり始めている。風属性魔力に引かれやすい個体が多いそうだ。現在の報告では、魔獣が異常を作った証拠はない。だが、作業員や水路を襲う危険はある」
カインは地図の外側へ目を移した。
蒼風高原を囲む青線の外には、山と街道の記号があるだけだった。
訓練場のような外壁はない。防護結界の範囲を示す線も見当たらない。
フレデリックは二人の力が必要な理由を分けて説明した。
アトカには、風属性魔力が設備の外へどのように流れ、水路や結晶へ影響しているかを観測する役割が求められている。
ただし、風をそのまま操作するのではない。現地で外部化している魔力の流れと、水を用いた観測によって、危険の向きや広がりを確かめる。
カインには、風結晶や設備の交換可能部分を限定的に破断する役割が求められている。何を壊してよいかは、現地の成人技師が設備図と実物を照合して指定する。カインが修理まで引き受ける任務ではない。
「二人だけで高原全体を直す仕事ではないよ」
フレデリックは地図から手を離した。
「現地管理部が退避と設備情報を担う。成人技師が残す部分と交換する部分を決める。魔獣への対応も、管理部の警備員と連携する。君たちが異常を除けた後は、修繕班へ引き渡す」
アトカは地図の上に置かれた二つの駒を見た。黒い駒と、翡翠色の駒。二人の位置を示すために用意されたものらしい。
「任務へ行くのは、僕とカイン先輩ですか?」
「ああ。特等枠から現地へ派遣する候補は二人だ」
候補。
決定ではない。
その言葉をアトカは聞き落とさなかった。
フレデリックは続ける。
「能力が適していることと、君たちが行かなければならないことは同じではない。断った場合も、特等枠での扱いや今後の評価は変えない。管理部には別の方法を検討してもらう」
すぐに返事を求める口調ではなかった。
任務の内容には不安がある。
風属性魔力が広い土地の設備へ広がっている。水路も魔獣も作業員もいる。
自分が見なければならないものは、訓練場の三つの水輪より遥かに多い。
それでも、今の説明だけで行けないとは思わなかった。
隣を見る。
カインは地図から目を上げていなかった。
フレデリックも同じものを見ていた。
「カイン君」
呼ばれても、カインはすぐに返事をしなかった。
「何が気になっている?」
問いは、参加するかどうかではなかった。
カインの指が、地図の青線の外側をなぞらずに止まる。
「壁がない」
「そうだね」
「訓練場なら、外れた先に防護板がある。結界もある。ここは……」
言葉が途切れる。
カインは説明を諦めたのではない。
地図の上に描かれていないものを、どう言えばよいか探している。
アトカは代わりに答えなかった。
自分が分かったつもりになって、カインの不安を短い言葉へ変えてはいけない。
カインは地図の端へ置かれた山の記号を見た。
「撃った後、どこで止まるか分からない」
黒い魔力は標的へ届けば終わるとは限らない。
結晶を穿った後も力が残れば、その奥の石や土へ入る。
破断した破片が風に乗れば、目の前に人がいなくても遠くの作業員へ届くかもしれない。
高原では風そのものが、予想した方向を変える。
「壊した後が見えない場所では、撃てない」
カインの声は低かった。
怯えているようには聞こえない。
けれど、怖くないから冷静なのではなかった。
怖いものを正確に見ようとしているから、言葉が短くなる。
フレデリックは否定しなかった。
「その不安は正しいと思う。広い場所だから安全なのではない。壁がなければ、被害の終わる位置も自動では決まらない」
フレデリックは成人側で用意できる条件を示した。
現地管理部には、破断を行う区域から人員を退避させる。
成人技師は、交換可能部分と支持部を現物へ印で示す。
風向きや視界が安定しない時には、作業を中止する。
予定された箇所以外の破断が必要になった場合、その場でカインへ任せず、成人責任者が改めて判断する。
カインの拘束具に熱、ひび、締めつけ、漏出、魔力の色の変化があれば、設備が残っていても任務を止める。
「ただし、それでも高原から壁が生えるわけではない」
フレデリックは言った。
「決めた条件があっても、君が撃てないと判断する場面は出る。その時は撃たなくていい。現地の大人が困っていても、設備が壊れそうでも、見えていないものへ撃つ義務はない」
カインがようやく顔を上げた。
「撃たなければ、止められない時でもか」
「君一人の一撃だけが解決方法になっているなら、任務の組み方が間違っている」
フレデリックは穏やかなまま言い切った。
「撃たない判断をした後の責任は、成人側が引き受ける。君が恐怖に負けたことにはしない」
カインの肩から力が抜けたわけではない。
地図の広さも、風の行き先も変わってはいない。
それでも、撃てない時に自分だけが失敗を背負う形ではなくなった。
アトカはそこで初めて口を開いた。
「カイン先輩。どこまで見えれば、撃つか決められますか?」
カインがアトカを見る。
「射線だけでは足りない」
「はい」
「標的の奥。割れた後に落ちる場所。風が変わった時に、人が入らないか」
アトカは一つずつ覚える。
「僕が見ます」
その言葉だけでは、カインを安心させる約束にはならない。
アトカは続けた。
「全部を僕の水で止める、という意味ではありません。霧や水膜で、風と破片の向きを見えるようにします。分からないところは、分からないと伝えます」
「見えないのに、撃てとは言わないか」
「言いません」
アトカは迷わず答えた。
「僕が見つけられなかった時は、別の方法を大人の方たちと考えます。カイン先輩の一撃を、分からないまま先へ進むためには使いません」
カインはアトカの言葉を聞き終えてから、地図へ視線を戻した。
「お前も条件を決めろ」
「僕のですか?」
「俺だけ止まっても、お前が全部を水で囲ったら同じだ」
アトカは返事を急がなかった。
蒼風高原には水路がある。
風車があり、魔獣がいて、作業員がいる。
見える危険が増えるほど、自分は水を広げて一度に抱えようとするかもしれない。できる量が多いことと、抱えるべき量が同じではないことは、灰庭でも学んだ。
「水の流れを分けすぎて、一つずつの行き先を説明できなくなったら止めます」
アトカは自分の言葉で条件を探した。
「呼吸が乱れた時も伝えます。義手に熱や感覚の遅れが出た時は、細かな操作を続けません」
カインはそれだけでは足りないと見ている。
「全部を守ろうとした時は」
アトカは口を閉じた。
自分がそうしている最中に、自分だけで気づけるとは限らない。
「カイン先輩が止めてください」
「止めたら、水を減らすか」
「はい。何を残すか、一緒に決めます」
カインは短く頷いた。
フレデリックは二人の条件を記録用紙へ書き加えていく。
アトカは観測できないものを、できると言わない。
カインは射線と破断後が見えない時には撃たない。
どちらかの身体や装具に停止条件が出た場合、もう一人が補うために無理を広げない。
成人責任者へ報告し、役割を組み直す。
「この条件であっても、不安は消えないと思う」
フレデリックは筆を置いた。
「それでも参加するかどうかを、それぞれに聞く。相手が行くから自分も、ではなく、自分の答えを聞かせてほしい」
先に見たのはカインだった。
アトカを説得役にはしない。
カインは再び地図を見る。
壁はない。
高原の外まで続く空白は、紙の上でも広い。
怖さがなくなったから行けるわけではない。条件を決めても、風は変わる。自分の力がどこまで届くか分からない瞬間は、きっと来る。
それでも、分からない時には撃たないと言える。
撃たなかった後を引き受ける大人がいる。
隣には、自分の代わりに決めるのではなく、見えたものと見えないものを伝えると約束したアトカがいる。
「怖くないわけじゃない」
カインは言った。
その言葉を口にしても、執務室の壁も床も壊れなかった。
「だが、行く」
フレデリックはすぐに褒めず、答えを記録した。
「分かった。参加を受け付ける」
次にアトカへ視線を向ける。
「アトカ君は?」
アトカはカインが行くと決めたからではなく、自分に求められているものを考える。
風を従わせる役割ではない。
広い場所を水で覆う役割でもない。
危険の行き先を見つけ、カインや現地の大人が選べる状態を作る。
「僕も行きます」
アトカは答えた。
「カイン先輩に撃ってもらうためではなく、撃つかどうかを選べるように見ます。僕自身も、全部を一人で持たないようにします」
「分かった。君の参加も受け付ける」
フレデリックは二人の答えを別々の欄へ記した。
同じ任務へ行く。
けれど、二人で一つの同意にまとめられたのではない。
それぞれが自分の不安と条件を持った上で、同じ場所へ向かうことを選んだ。
出発は昼過ぎと決まった。
現地管理部から最新の退避状況が届くまで待ち、その間に装具担当と成人治癒師の確認を受ける。
携行品は水の入った革袋、霧観測用の小瓶、通常の救護用品、現地図、破断箇所を残す記録札。
設備修理の道具は持たない。それは現地技師の仕事だった。
説明を終えたフレデリックは、地図を畳まず机へ残した。
「最後にもう一つ。現地へ着いて、説明と違うと感じたら、その場で参加を取り下げてもいい。ここで行くと答えたことは、最後まで続ける契約ではない」
「途中でもですか?」
アトカが確かめる。
「途中でもだ。状況が変われば答えが変わることもある」
カインはその言葉を聞き、地図の青線をもう一度見た。
今度は外側だけではなく、中央の塔と、そこへ続く細い道も見ていた。
二人は執務室を出た。
廊下の窓からは、午前の訓練場が見える。
先ほど残した青い模擬支柱はすでに片づけられ、別の学生たちが新しい課題を始めていた。
アトカは階段を下りながら尋ねる。
「怖いと話してくださって、ありがとうございます」
「礼を言うことか」
「僕だけでは、どこを見ればカイン先輩が決められるのか分かりませんでした」
カインは少し先を歩き、踊り場で足を止めた。
「お前も言え」
「何をですか?」
「見えない時と、持てない時」
アトカはその意味を理解し、柔らかく笑った。
「はい。言います」
昼過ぎ。
学園の正門前には、蒼風高原管理部の印を付けた馬車が停まっていた。
御者のほかに、学園から派遣された成人連絡員が同乗する。
現地へ着いた後、特等枠として任務区域へ入るのはアトカとカインの二人だが、移動と連絡まで子供だけへ任されるわけではない。
フレデリックは正門まで見送りに来た。
「帰還予定は明日の夕方。ただし、現地判断で延びる場合は連絡を優先する。予定へ合わせて無理に帰ろうとしなくていい」
「はい、フレデリック先生」
カインも頷く。
二人が馬車へ乗ると、御者が扉を閉めた。
車輪が動き始める。
帝都の中では、石造りの建物が道の両側へ続いている。
市場の布屋根が風を受け、鐘楼の旗が高く翻る。
人の声と車輪の音が重なり、窓の外を絶えず流れていく。
やがて外門を抜ける。
建物の列が途切れ、畑と低い草地が広がる。
遠くの山まで、視界を遮る壁はない。
カインは窓の外を見た。
囲いのない空は、執務室の地図で見るより広かった。
風が草を倒し、道の先へ細長い波を作っている。
自分の魔力を撃てば、どこまで届くのか。その答えはまだ見えない。
アトカは不安を消す言葉を探さなかった。
代わりに、窓の外の風と草の動きを見た。
「現地へ着いたら、最初に風の行き先を見ます」
カインは外を向いたまま答える。
「俺も見る」
馬車は帝都から離れ、蒼風高原へ続く坂道へ入った。
道は緩やかに上り、空が少しずつ近くなる。
二人は同じ景色を見ていた。
どこまで見えるかは、まだ分からない。
それでも、見えないまま進むのではなかった。




