空の広い朝
灰庭救護院に、学園の成人治癒師、救護職員、魔導局の監視担当者が配置されてから三日が過ぎた。
子供たちは、今も灰庭にいる。
地下区画と二階の一部は封鎖され、マルセル一人だけが食事も治療も灰色の使用も決める状態は終わった。
子供の身体を診る者、食事や生活を支える者、灰色の流れを監視する者、記録を管理する者が役割を分けている。
すべてが整ったわけではない。
夜中に泣く子もいる。痛みが戻ったことへ怒る子も、眠れず朝を迎える子もいる。
今後どこで暮らすのか決まっていない子も多く、成人の支援が長く続く保証も、まだ形にはなっていなかった。
それでも、誰かが「痛い」と呼べば、一人の判断だけでその声が消されることはなくなった。
夏の終わりが近づく王立エルシオン学園の朝は、相変わらず騒がしかった。
開け放たれた教室の窓から朗読の声が流れ、中央棟へ続く石廊下を教材箱が忙しなく運ばれていく。
戦技科の訓練場からは木剣の打ち合う音が響き、魔導科棟の上空では失敗した風球が洗濯物のように結界へ引っかかっていた。
「誰だ、朝から上空結界へ風を残したのは!」
教員の声が飛ぶ。
三階の窓から何人かの生徒が一斉に顔を引っ込め、その直後、引っかかっていた風球が萎んだ。
下を歩いていた学生たちが笑い、教員はさらに声を張り上げる。
その騒ぎを、アトカは訓練場の端から見上げていた。
騒がしい声が、すべて楽しい声とは限らない。
課題が難しいと訴える声も、訓練をやり直したくないとぼやく声も、転んだ膝が痛いと呼ぶ声も混じっている。
それでも、誰かが口にしたものを、周囲が勝手に静かにしてしまう場所ではなかった。
アトカは笑い声の向こうに、怒っている教員の声まで残っているのを聞いてから、空へ目を向けた。
雲の少ない青空だった。高い場所では薄い雲がゆっくり東へ流れ、地上にはまだ夏の熱が残っている。
けれど頬を撫でる風には、少しだけ乾いた冷たさが混じり始めていた。
「始めるぞ、アッシュフォード」
破断訓練を担当する教員に呼ばれ、アトカは視線を戻した。
訓練場の中央には、腰ほどの高さの模擬支柱が立っている。
灰色の粘土で作られた支柱の中央を青い帯が囲み、その外側には赤く塗られた交換部品が取り付けられていた。
壊してよいのは赤い部分だけ。
青い帯の内側には固定軸が通っており、そこを傷つければ訓練は失敗となる。
支柱から十五歩ほど離れた場所に、カインが立っていた。
首元と手首から黒い拘束具が覗いている。
両足は射線の正面へ揃えず、片側を僅かに引いている。
すぐ撃つためではない。対象と周囲を見渡した後、どちらへ避けても姿勢を崩さないための立ち方だった。
アトカは支柱とカインの間へ進み、義手を上げた。
足元の水槽から細い水が立ち上がる。水は地面を這わず、胸の高さまで昇ると、空中で透明な輪へ変わった。
一つ。
二つ。
三つ。
大きさの違う水輪が、カインから模擬支柱へ続く直線上に並ぶ。
最も手前の輪は、黒い魔力を放つ位置。
中央の輪は、魔力が通ってよい幅。
支柱の直前にある輪は、赤い交換部品へ届く角度を示している。
水輪の外へ出た一撃を、アトカが後から無理に止める訓練ではない。
カイン自身が撃つ前に、通る先を確認するための目印だった。
「水輪、固定しました」
アトカは一歩横へ退いた。
教員が時計盤を見ながら告げる。
「第一試行。赤い外環のみを破断。青い固定軸と支柱は残せ。破片は右側の回収布へ落とすこと」
カインは赤い外環、青い帯、三つの留め爪、背後の防護板を順に見た。
最後に水輪へ視線を移し、上側を指す。
「アトカ。そこが狭い。欠片が上へ跳ねる」
「分かりました。上だけ広げます」
支柱の直前にある水輪の上部が膨らみ、回収布へ続く形へ変わった。
「それなら通る」
黒い魔力が細く絞られ、水輪の中央を抜けた。
赤い外環の上側に亀裂が走り、一つ目の留め爪が外れる。外環は前へ傾いた。
カインは二射目を撃たなかった。
標的が動き、最初に見えていた破断位置が青い固定軸へ近づいていた。
「止める」
教員が時計盤へ指を置く。
「理由は」
「最初の射線では青に近い」
アトカは細い水を傾いた外環の下へ通し、重さが右側へ集まっていることを示した。
カインはそれだけで撃たず、自分でも位置を変えて見直す。
その時、訓練場を風が横切り、水輪が細かく揺れた。
カインの指先に黒い光が集まる。しかし放たれない。
風が抜け、水滴がまっすぐ落ちるのを待ってから、右側の留め爪だけを破断した。
赤い外環は青い固定軸へ触れず、回収布の内側へ落ちる。残った留め爪には、三射目を使わなかった。
「外環が外れた以上、そこから先は技師が取り外す。壊す必要はない」
教員の言葉に、カインは頷いた。
青い帯にも支柱にも傷はない。
「評価するのは、当てたことだけではない。標的が動いた後と、風で見えなくなった時に撃たなかったことだ」
カインは残った青を見上げ、拘束具に熱やひびがないことを確かめた。
アトカも水を水槽へ戻し、義手の指をゆっくり閉じる。どちらにも異常はなかった。
教員が次の模擬支柱を運ぶよう補助員へ合図する。
「位置を変えてもう一度だ。今度は支柱を吊るす。揺れを追って撃つな。射線が合うまで待て」
「はい」
アトカが答え、カインは吊り具の位置を見上げた。
補助員二人が滑車を使い、二つ目の模擬支柱を地面から持ち上げる。
支柱は細い鎖に吊られ、風を受けてゆっくり左右へ揺れた。
赤い交換部品は下側。
青い固定部は上側。
その背後には、破片を受けるための傾斜板が置かれている。
アトカは先ほどと同じ三つの水輪を作ろうとして、一度手を止めた。
吊られた支柱は動いている。
一直線に輪を並べても、標的がそこを通るのは短い間だけになる。
「カイン先輩。輪を動かした方が見やすいですか?」
カインは揺れる支柱と傾斜板を見比べた。
「動かすな」
「固定した方がいいですか?」
「輪まで動けば、どっちがずれたか分からない。撃てる場所だけ残してくれ」
アトカは頷いた。
三つの輪を並べる代わりに、支柱が揺れる範囲の中央へ細長い水の枠を一つだけ作る。
赤い交換部品が枠の中へ入り、青い固定部が外へ出る瞬間だけ、射線が成立する形だった。
「ここを通る時だけ、赤い部分が見えます」
「短いな」
「はい。間に合わなくても、次に戻ってきます」
カインは僅かにアトカへ視線を向けた。
急げとは言われていない。
一度を逃せば失敗になる訓練でもない。
揺れる支柱が左から戻る。
赤い部品が水の枠へ入る直前、隣の訓練場から強い風球が飛び、境界結界へぶつかった。
衝撃で風向きが乱れる。
吊られた支柱が予想より大きく振れ、水の枠を斜めに横切った。
カインの前には、すでに黒い魔力が集まっていた。
それでも撃たない。
赤い部品が枠を通り過ぎ、青い固定部が一瞬だけ射線へ重なる。
黒い魔力はカインの指先から離れず、そのまま消えた。
隣の訓練場で教員の叱責が上がる。
こちらの教員はそちらを一度見ただけで、時計盤へ何かを書いた。
吊られた支柱は大きく揺れた後、少しずつ元の幅へ戻っていく。
アトカは水の枠を広げなかった。
乱れた動きに合わせて安全範囲を曖昧にすれば、青い固定部まで撃てるように見えてしまう。
枠はそのまま。
支柱が戻るのを待つ。
「次で入ります」
アトカが告げる。
カインは構え直さない。最初から崩していなかった姿勢のまま、揺れの幅が小さくなるのを見る。
一往復。
まだ青い部分が近い。
二往復。
赤い部品が枠の中央を通る。
黒い魔力が放たれた。
水の枠の中を抜け、赤い部品の留め輪だけを穿つ。
赤い粘土が二つに割れ、傾斜板へ落ちた。
吊られた支柱は揺れ続けている。
けれど青い固定部は残り、鎖も切れていない。
アトカは思わず笑った。
「綺麗に外れましたね、カイン先輩」
カインは落ちた赤い部品ではなく、吊られたままの青い固定部を見た。
「狙った場所が見えていたからだ」
短い返事だった。
カインは自分の手を見なかった。
黒い魔力が怖くなっていないかを確かめるより先に、残った青い固定部を見ていた。
壊さなかったものを、自分の判断の結果として見ることができている。
アトカはその横顔を見たが、改めて褒め言葉を重ねなかった。
今の一言で、嬉しかったことは十分に伝わっていた。
教員が吊り具を下ろす。
「二人とも、ここまでにする。記録をまとめろ」
「まだ時間はあります」
アトカが時計盤を見ると、予定していた訓練時間は四分ほど残っていた。
教員は訓練場の入口へ顎を向ける。
「時間切れじゃない。呼び出しだ」
入口には、制服の襟元まで整えたギルベルトが立っていた。
片手に真鍮の懐中時計、もう片方に二枚の呼出票を持っている。
「アトカ、カイン。フレデリック学園長が二人を呼んでる」
アトカは水をすべて水槽へ戻したことをもう一度確認し、教員へ向き直った。
「訓練記録はどうしますか?」
「途中までで構わない。破断位置と、撃たなかった二回を記して持っていけ」
「分かりました」
カインは回収布の中に残る赤い破片を見た。
「青は」
「補助員が片づける。残した部分までお前が壊す必要はない」
教員の答えに、カインは一度頷いた。
アトカは記録板を受け取り、義手で固定具を押さえながら、第一試行の破断位置を書き込む。
隣ではカインが、第二試行について短く記した。
風圧による揺れ。射線不成立。発射せず。
揺れの収束後、赤い留め輪のみ破断。
青い固定部、吊り鎖、傾斜板に損傷なし。
書き終えたカインは、記録板をアトカへ渡す前に一行だけ付け加えた。
水の枠は固定。標的側のずれを確認できた。
アトカはその一行を読み、少し嬉しそうに目を細めた。
自分の水が役に立ったと褒められたからではない。
カインが、撃てた理由だけでなく、撃たなかった時に何を見ていたのかまで、自分の言葉で残していたからだった。
二人は教員へ訓練終了を告げ、ギルベルトのもとへ向かった。
「急ぎですか?」
アトカが尋ねる。
ギルベルトは懐中時計を開き、文字盤を見た。
「走る必要はない。だが、寄り道する時間もないな」
「僕たち二人だけですか?」
「ああ。呼出票も二枚だけだ」
カインがギルベルトの手元を見る。
「任務か」
「俺は内容を聞いてない。学園長から直接聞け」
ギルベルトはそう答え、二人の後ろに残された訓練場へ目を向けた。
吊り具から下ろされた模擬支柱には、青い固定部が傷一つなく残っている。
赤い交換部品だけが外され、補助員の手で回収箱へ入れられていた。
「青を残したのか」
「赤だけでよかったので」
アトカが答えると、ギルベルトはカインを見た。
「なら、記録を忘れるな。壊した場所より、壊さなかった理由の方を聞かれるかもしれない」
カインは記録板を持ち直した。
「書いた」
「返事だけは早いな」
ギルベルトが歩き出す。
アトカとカインも並んで訓練場を離れた。
中央棟へ続く道には、朝より多くの学生が行き交っていた。
魔導科の一年生が抱えた紙束を風に飛ばし、戦技科の生徒たちが笑いながら拾っている。
庭の噴水では水属性の授業が始まり、いくつもの小さな水球が陽光を受けて輝いていた。
青空は広く、学園の屋根の向こうまで続いている。
朝より風が強くなり、アトカの左袖とカインのローブの裾が同じ方向へ揺れた。
二人は歩幅まで揃えてはいない。
それでも、曲がり角では互いが来ていることを確かめ、自然に同じ道を選んでいた。
アトカは一度だけ空を見上げた。
どこへ行くための呼び出しなのかは、まだ知らない。
隣を歩くカインも何も尋ねなかった。
二人の間には、誰かが無理に埋める必要のない距離がある。
それでも中央棟の扉へ着くまで、どちらかが先へ離れることはなかった。
フレデリックの執務室がある最上階へ向かい、二人は同じ階段を上っていった。




