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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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9/43

帝都で会おう

それから一年が経ち、ルトは十歳に、アトカは七歳になった。


十歳。


それは、この国の子供たちにとって一つの大きな節目だった。

親元を離れ、帝都にある学園へ入り、剣を学ぶ者は剣を、魔術を学ぶ者は魔術を、そして己が何者であるかを少しずつ知っていく年齢である。


その朝、アッシュフォード家の庭には、帝都から迎えの馬車が来ていた。


磨かれた車輪。黒く艶のある馬体。荷台に積まれたルトの荷物。

いつもは土と草の匂いに満ちている農家の庭に、その馬車だけが少し不釣り合いなほど立派に見えた。


出発の時を告げる蹄の音が、静かな庭に小さく響く。


「……兄ちゃん、とうとう行くんだね」


アトカは、いつもの切り株の特等席からゆっくりと立ち上がった。


両腕のない身体で重心を取りながら、一歩、また一歩とルトのもとへ歩いていく。

雪のような白髪が朝の風に揺れ、澄んだ青い瞳は、泣くまいとしているせいか、いつもより少しだけ強く光っていた。


ルトは腰に下げた剣の柄をぎゅっと握ると、弟の前で膝を折った。


そして、かつて何度もそうしたように、アトカの頭を優しく撫でる。


けれど、その手はもう、以前よりずっと大きく、ずっと逞しくなっていた。


「泣くなよ、アトカ。ほんの少しの間だ」


「……泣いてないよ。兄ちゃんこそ、帝都で迷子にならないでね」


アトカは精一杯、いつものように笑ってみせた。


本当は胸の奥がぎゅっと痛かった。毎朝一緒に剣の素振りを見ていた兄がいなくなる。

夕暮れに畑の横で話してくれた学園の夢を、明日からはすぐ隣で聞けなくなる。それが寂しくないはずがなかった。


それでも、アトカは泣かなかった。


庭の木々の向こう、影の中には、漆黒のドレスを纏ったキルウェスタが立っていた。

この一年、何度も何度も自分を叩き直し、できないことをできないまま許してくれなかった師匠。


あの人に、情けない顔は見せられない。


そして何より、兄の旅立ちを涙で引き止めるような弟にはなりたくなかった。


ルトはアトカの強がりを見抜いているように、少しだけ困った顔で笑った。


「大丈夫だ。迷子になったら、そのへんの奴に聞く」


「それ、ちょっと心配だよ」


「なら、お前が三年後に迎えに来てくれ」


ルトはそう言って、アトカの額に自分の額をこつんと合わせた。


二人の間に、短い沈黙が落ちる。


風が庭を抜け、馬車の馬が小さく鼻を鳴らした。


「約束だ、アトカ」


ルトの声は、いつもの兄の声だった。


けれど、その奥には、これから一人で帝都へ向かう少年としての覚悟があった。


「三年後、お前も十歳になったら学園へ来い。その時は、お前がどれだけ凄い魔術師になったか、俺に見せてくれ」


アトカはゆっくりと瞬きをした。


三年後。


その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちていく。


「うん……約束だよ」


アトカは小さく頷いた。


そして、今度は強がりではなく、自分の意思で笑った。


「僕、兄ちゃんがびっくりするくらい強くなる。ちゃんと魔術師になって、帝都で兄ちゃんに会いに行く」


「ああ。楽しみにしてる」


ルトはもう一度だけ、アトカの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。


「おーい、ルト!あんまり出発を遅らせるなよ!」


勝手口の方からガイルの声が飛ぶ。


その隣では、ステラが涙をこらえるように口元を押さえながら、けれど優しく微笑んでいた。


ルトは立ち上がり、ガイルとステラへ深く頭を下げた。


「父さん、母さん。行ってきます」


「おう。しっかり学んでこい」


「無理はしすぎないのよ。ちゃんと食べて、ちゃんと眠るのよ」


「分かってるよ、母さん」


ルトは笑い、それから最後にアトカを見た。


「じゃあな、アトカ」


「うん。行ってらっしゃい、兄ちゃん」


「王都で会おう」


その一言を残して、ルトは馬車へ駆け込んだ。


重い扉が閉まる。御者が手綱を鳴らす。


馬車はゆっくりと動き出し、砂利道を軋ませながら、アッシュフォード家の庭を離れていった。


アトカは動かなかった。


両腕のない身体で必死に重心を保ちながら、ただまっすぐに馬車を見つめ続けた。

車輪が土を蹴り、馬車の輪郭が少しずつ小さくなっていく。角を曲がり、丘の向こうへ消え、やがて完全に見えなくなっても、アトカはまだその道を見つめていた。


兄が去った庭は、急に広くなったように感じられた。


いつもならルトの声があった場所に、風の音だけが残っている。


けれど、アトカは肩を震わせなかった。


泣かなかった。


胸の奥で、兄の言葉が何度も響いていた。


三年後。


帝都で会おう。


その時までに、凄い魔術師になってみせる。


アトカはゆっくりと息を吸った。


冷たい朝の空気が肺を満たす。


雪のような白髪が風に揺れ、青い瞳が、兄の消えた道の先を真っ直ぐに見据える。


もう、ただ待っているだけの弟ではいられない。


いつか帝都の門を叩く時、自分は兄の隣に立つにふさわしい魔術師でありたい。


誰にも憐れまれるのではなく。誰かに守られるだけでもなく。


自分の力で、大切な人の隣へ歩いていける存在になりたい。


庭の木陰で、キルウェスタが黒い日傘をわずかに傾けた。


「良い顔ですわね、アトカ坊や」


その声に、アトカは振り返らないまま答えた。


「先生」


「何ですの」


「今日の訓練、いつもより厳しくしてください」


一拍の沈黙。


それから、キルウェスタは愉快そうに唇を吊り上げた。


「後悔しても知りませんわよ」


アトカは兄が消えた道を見つめたまま、静かに笑った。


「しません」


その日から、アトカの三年間が始まった。


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