帝都で会おう
それから一年が経ち、ルトは十歳に、アトカは七歳になった。
十歳。
それは、この国の子供たちにとって一つの大きな節目だった。
親元を離れ、帝都にある学園へ入り、剣を学ぶ者は剣を、魔術を学ぶ者は魔術を、そして己が何者であるかを少しずつ知っていく年齢である。
その朝、アッシュフォード家の庭には、帝都から迎えの馬車が来ていた。
磨かれた車輪。黒く艶のある馬体。荷台に積まれたルトの荷物。
いつもは土と草の匂いに満ちている農家の庭に、その馬車だけが少し不釣り合いなほど立派に見えた。
出発の時を告げる蹄の音が、静かな庭に小さく響く。
「……兄ちゃん、とうとう行くんだね」
アトカは、いつもの切り株の特等席からゆっくりと立ち上がった。
両腕のない身体で重心を取りながら、一歩、また一歩とルトのもとへ歩いていく。
雪のような白髪が朝の風に揺れ、澄んだ青い瞳は、泣くまいとしているせいか、いつもより少しだけ強く光っていた。
ルトは腰に下げた剣の柄をぎゅっと握ると、弟の前で膝を折った。
そして、かつて何度もそうしたように、アトカの頭を優しく撫でる。
けれど、その手はもう、以前よりずっと大きく、ずっと逞しくなっていた。
「泣くなよ、アトカ。ほんの少しの間だ」
「……泣いてないよ。兄ちゃんこそ、帝都で迷子にならないでね」
アトカは精一杯、いつものように笑ってみせた。
本当は胸の奥がぎゅっと痛かった。毎朝一緒に剣の素振りを見ていた兄がいなくなる。
夕暮れに畑の横で話してくれた学園の夢を、明日からはすぐ隣で聞けなくなる。それが寂しくないはずがなかった。
それでも、アトカは泣かなかった。
庭の木々の向こう、影の中には、漆黒のドレスを纏ったキルウェスタが立っていた。
この一年、何度も何度も自分を叩き直し、できないことをできないまま許してくれなかった師匠。
あの人に、情けない顔は見せられない。
そして何より、兄の旅立ちを涙で引き止めるような弟にはなりたくなかった。
ルトはアトカの強がりを見抜いているように、少しだけ困った顔で笑った。
「大丈夫だ。迷子になったら、そのへんの奴に聞く」
「それ、ちょっと心配だよ」
「なら、お前が三年後に迎えに来てくれ」
ルトはそう言って、アトカの額に自分の額をこつんと合わせた。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
風が庭を抜け、馬車の馬が小さく鼻を鳴らした。
「約束だ、アトカ」
ルトの声は、いつもの兄の声だった。
けれど、その奥には、これから一人で帝都へ向かう少年としての覚悟があった。
「三年後、お前も十歳になったら学園へ来い。その時は、お前がどれだけ凄い魔術師になったか、俺に見せてくれ」
アトカはゆっくりと瞬きをした。
三年後。
その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちていく。
「うん……約束だよ」
アトカは小さく頷いた。
そして、今度は強がりではなく、自分の意思で笑った。
「僕、兄ちゃんがびっくりするくらい強くなる。ちゃんと魔術師になって、帝都で兄ちゃんに会いに行く」
「ああ。楽しみにしてる」
ルトはもう一度だけ、アトカの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「おーい、ルト!あんまり出発を遅らせるなよ!」
勝手口の方からガイルの声が飛ぶ。
その隣では、ステラが涙をこらえるように口元を押さえながら、けれど優しく微笑んでいた。
ルトは立ち上がり、ガイルとステラへ深く頭を下げた。
「父さん、母さん。行ってきます」
「おう。しっかり学んでこい」
「無理はしすぎないのよ。ちゃんと食べて、ちゃんと眠るのよ」
「分かってるよ、母さん」
ルトは笑い、それから最後にアトカを見た。
「じゃあな、アトカ」
「うん。行ってらっしゃい、兄ちゃん」
「王都で会おう」
その一言を残して、ルトは馬車へ駆け込んだ。
重い扉が閉まる。御者が手綱を鳴らす。
馬車はゆっくりと動き出し、砂利道を軋ませながら、アッシュフォード家の庭を離れていった。
アトカは動かなかった。
両腕のない身体で必死に重心を保ちながら、ただまっすぐに馬車を見つめ続けた。
車輪が土を蹴り、馬車の輪郭が少しずつ小さくなっていく。角を曲がり、丘の向こうへ消え、やがて完全に見えなくなっても、アトカはまだその道を見つめていた。
兄が去った庭は、急に広くなったように感じられた。
いつもならルトの声があった場所に、風の音だけが残っている。
けれど、アトカは肩を震わせなかった。
泣かなかった。
胸の奥で、兄の言葉が何度も響いていた。
三年後。
帝都で会おう。
その時までに、凄い魔術師になってみせる。
アトカはゆっくりと息を吸った。
冷たい朝の空気が肺を満たす。
雪のような白髪が風に揺れ、青い瞳が、兄の消えた道の先を真っ直ぐに見据える。
もう、ただ待っているだけの弟ではいられない。
いつか帝都の門を叩く時、自分は兄の隣に立つにふさわしい魔術師でありたい。
誰にも憐れまれるのではなく。誰かに守られるだけでもなく。
自分の力で、大切な人の隣へ歩いていける存在になりたい。
庭の木陰で、キルウェスタが黒い日傘をわずかに傾けた。
「良い顔ですわね、アトカ坊や」
その声に、アトカは振り返らないまま答えた。
「先生」
「何ですの」
「今日の訓練、いつもより厳しくしてください」
一拍の沈黙。
それから、キルウェスタは愉快そうに唇を吊り上げた。
「後悔しても知りませんわよ」
アトカは兄が消えた道を見つめたまま、静かに笑った。
「しません」
その日から、アトカの三年間が始まった。




