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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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暖炉の前の教育論

その夜、アッシュフォード家の居間は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


ルトとアトカは泥のように眠り込み、ステラも二人の寝顔を確かめるため、二階の寝室へ戻っている。


暖炉の前に残されたのは、ガイルとキルウェスタの二人だけだった。


ぱちぱちと薪が爆ぜる音が、夜の静けさの中へ小さく響いている。


長椅子へ深く腰掛けたキルウェスタは、片手でワイングラスを傾けていた。


燃えるような赤い髪が暖炉の火を受け、ゆらゆらと輝いている。


翡翠色の瞳は細く伏せられ、その表情からは、昼間ルトを地面へ転がしたことへの後悔など、微塵も読み取れなかった。


沈黙を破ったのは、ガイルだった。


「――昼間の立ち合い、どういうつもりだ。キルウェスタ先生」


低く、重い声だった。


太い腕を胸の前で組み、視線は暖炉の炎へ向けたまま動かさない。


けれど、その全身から漂う圧は、かつて前線で幾度も死線を越えてきた戦士のものだった。


目の前にいる女が、最強と称される同調位階の魔術師であることは分かっている。


それでも、息子を叩き伏せた相手へ、父親として何も言わずにいることはできなかった。


キルウェスタは、グラスの中の赤い液体をゆっくりと揺らした。


「どういうつもりとは、随分な物言いですわね」


ふっと鼻で笑い、ようやくガイルへ目を向ける。


「わたくしはただ、生意気な子犬へ身の程を教えて差し上げただけですの」


「ルトは子犬じゃない。俺の息子だ」


「ええ。ですから、余計に疑問なのですわ」


キルウェスタは長い脚を優雅に組み替えた。


「ガイル。貴方こそ、あの子へ何を教えているのかしら」


「何?」


「今日、ルト坊やの心拍へ、わたくしの魔力の拍子を一瞬だけ重ねました」


キルウェスタの翡翠色の瞳が、鋭く細められる。


「あの子の内側に眠っていた魔力は、驚くほど素直に全身へ巡りましたわ。筋肉、骨格、呼吸、反射。そのすべてが、流れ込んだ魔力をほとんど本能だけで力へ変えた」


グラスを傾けながら、淡々と言葉を続ける。


「骨一本傷つけないよう加減したとはいえ、あの年齢で、覚醒したばかりの魔力を即座に身体強化へ転じるとは思いませんでしたわ」


「……そうか」


「そうか、ではありません」


キルウェスタの声が僅かに低くなる。


「あれほどの素質がありながら、貴方は身体強化の一つも教えていない。やらせているのは、退屈な素振り、足運び、姿勢、呼吸。泥臭い肉体の基礎ばかり」


唇に、薄い嘲笑が浮かぶ。


「随分と贅沢な飼い殺しですこと」


挑発的な言葉だった。


だが、ガイルは動じなかった。


暖炉の火を見つめたまま、静かに息を吐く。


「身体強化にかまけて、基礎を怠った剣士の寿命は長くない」


その声は低く、地を這うようだった。


「それが、俺が戦場で見てきた現実だ」


キルウェスタは何も言わない。


ガイルは膝の上で、ゆっくりと拳を握った。


「魔力で身体を強くすることを覚えたガキは、すぐに錯覚する。自分が強くなったとな。速くなった。どんな相手にも踏み込める。どんな攻撃でも避けられる。そう思い込む」


炎の中で、赤く焼けた薪が崩れた。


「だが、魔力なんてもんは万能じゃない。恐怖で乱れる。痛みで途切れる。仲間の悲鳴一つで呼吸が狂えば、身体強化なんざ一瞬で消える」


ガイルの目に、暖炉とは別の炎が映っていた。


遠い戦場。


倒れていった仲間たち。


若さと才能だけを頼りに前へ出て、二度と帰らなかった者たち。


「その時、身体そのものの足運びも、骨に染み込んだ型も持たない剣士がどうなると思う」


キルウェスタは答えなかった。


ガイルは、自らその答えを吐き出す。


「死ぬんだ」


暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


「魔力が途切れた瞬間に、剣の振り方も、避け方も、立ち方も分からなくなる。ただの木偶になって、戦場の真ん中で死ぬ」


怒鳴るような荒さはなかった。


だからこそ、その言葉は重かった。


「俺は、そういう若い剣士を何人も見てきた。才能があった奴もいた。魔力に恵まれた奴もいた。だが、基礎を舐めた奴から順番に死んでいった」


ガイルは、自分の身体へ刻まれた古傷を確かめるように、拳を握り直した。


「ルトには、俺と同じ傷を負ってほしくない。俺が見てきた死に方をしてほしくない」


キルウェスタは黙ったまま、グラスを口元へ運ぶ。


「だから、あいつが魔力なしでも正しい足運びと剣筋を反射で出せるようになるまでは、身体強化を先に覚えさせるつもりはなかった」


ガイルは、ようやくキルウェスタへ顔を向けた。


「魔力が途切れても、身体に残るものを先に叩き込む。それが俺の教え方だ」


キルウェスタは何も返さなかった。


茶化すような笑みも、今は消えている。


ガイルは再び炎へ目を戻した。


「それに、あいつら兄弟は十歳になったら、王都の学園を受けさせる。これはステラとも、ずっと前から決めていたことだ」


十歳。


魔術や武芸の道を志す子供たちが、王都の学園へ挑めるようになる年齢。


「身体強化も、実戦も、そこで同年代の連中と学べばいい」


ガイルの声が、僅かに柔らかくなった。


「同じ壁にぶつかって、同じ悔しさを味わって、同じ場所で立ち上がる。そういう相手がいるから、剣士は一人きりにならずに済む」


強くするだけでは足りない。


生き残らせなければならない。


そして、孤独にしてはならない。


ガイルにとって、それが息子へ与えられる最善だった。


「俺が先回りして何もかも教え込めば、ルトは学園で仲間と悩む機会まで失う。力が周りより上か下かって話じゃない。あいつには、同じ年頃の仲間と剣を学んでほしいんだ」


しばらく、居間には薪の爆ぜる音だけが響いた。


やがてキルウェスタは、グラスに残っていたワインを飲み干し、指先でその縁を軽く叩いた。


「……ふん」


小さく鼻を鳴らす。


「いかにも前衛上がりらしい、泥臭くて凡庸な教育論ですこと」


「否定するか」


「いいえ」


キルウェスタは意外にも、あっさりと首を横へ振った。


「お生憎様ですが、わたくしは貴方のその凡庸な正解を否定するつもりはありませんわ」


ガイルが片眉を上げる。


「意外だな」


「勘違いなさらないで頂戴。わたくしはただ、ルト坊やの人生へ、そこまで深く口を挟むつもりがないだけですの」


いつものように冷たい物言いだった。


だが、その声音には、先ほどまでとは違う静けさがあった。


キルウェスタは長椅子から立ち上がった。


漆黒のドレスの裾が、暖炉の光の中で優雅に揺れる。


「ルト坊やは、貴方が育てればよろしいわ」


空になったグラスを机へ置く。


「泥臭い基礎でも、凡庸な正解でも、父親として信じるものがあるのなら、それを貫きなさい。少なくとも、あの子は貴方の教育で折れるほど柔ではなさそうですもの」


そう言い残し、階段へ向かって歩き出す。


だが、ガイルの横を通り過ぎる直前、キルウェスタは足を止めた。


「けれど、アトカ坊やの魔術は違います」


その一言で、居間の空気が変わった。


キルウェスタの声から、僅かな戯れさえ消えている。


「あの子は、自分の内側にある魔力すら満足に認識できていない。それにもかかわらず、漏れ出した魔力が外界を巻き込み、本人のイメージだけを現象へ変えてしまう」


暗がりの中で、翡翠色の瞳が鋭く光った。


「既存の魔術教育では、あの子を正しく導けませんわ」


ガイルは黙って聞いている。


「あの子へ、杖を握る方法を教えることはできない。指先へ魔力を集める感覚も、腕を伸ばして術へ方向を与える型も使えない」


キルウェスタは階段へ目を向けた。


二階では、アトカが眠っている。


「それだけなら、別の道を探せばよいだけですわ」


けれど、と続ける。


「あの子の異質さは、腕がないことではありません。自分の魔力を制御できないまま、外界の魔力を巻き込み得ることです」


その声には、魔術師としての冷徹な分析と、僅かな熱が同居していた。


「周囲と同じ型を、同じ順序で教えていては間に合わない。いずれあの子自身が壊れるか、あの子の力が周囲を壊します」


ガイルの眉間に、深い皺が刻まれる。


キルウェスタは言葉を続けた。


「だから、わたくしが教えます」


それは相談ではなかった。


決定を告げる言葉だった。


「ルト坊やの剣へは、これ以上余計な手出しをしません。今日の覚醒も、本人が自ら入口を掴んだ以上、後は貴方が導けばよろしい」


漆黒のドレスが、僅かに揺れる。


「ですが、アトカ坊やの魔術に関しては、わたくしの領分です」


キルウェスタの声は静かだった。


静かだからこそ、絶対の宣言に聞こえた。


「あの子には、わたくしが教えられる限りのすべてを叩き込みます。自分の魔力を見つける方法も、練り上げる方法も、身体へ巡らせる方法も」


指先が、階段の手すりへ触れる。


「外界の魔力へ触れた時、自分を見失わないための境界も。いつか同調へ至る日が来たとしても、世界に呑まれず、自分の意志を保ち続けるための心も」


その瞳が、ほんの僅かに細められた。


「文字通り、骨の髄まで教え込みますわ」


ガイルは、しばらく何も言わなかった。


暖炉の炎を見つめながら、考えている。


やがて、低い声を絞り出した。


「一つだけ、約束してくれ」


キルウェスタは振り返らない。


「何ですの?」


「強くすることだけを、目的にしないでくれ」


階段へ向けられていたキルウェスタの足が止まった。


「あいつが自分の力で、自分も誰かも傷つけずに生きられるようにしてやってほしい」


ガイルは膝の上で拳を握りしめた。


「それから、どれだけ変わった力を持っていても、あいつが俺たちの息子だってことだけは忘れないでくれ」


キルウェスタはしばらく答えなかった。


やがて、肩越しに僅かに顔を向ける。


「言われるまでもありませんわ」


翡翠色の瞳が、暖炉の光を受けて細く輝いた。


「わたくしが育てるのは、力ではありません」


唇に、いつもの傲慢な笑みが戻る。


「一人の魔術師ですもの」


それだけ告げると、キルウェスタは階段を上り始めた。


ガイルは、その背中を見つめる。


「……頼む」


昼間ルトのことで怒りを滲ませていた時とは違う声だった。


父親としての不安と、それでも託すしかないという覚悟が混じっている。


「アトカを、よろしくお願いします。先生」


キルウェスタは振り返らなかった。


けれど、階段の途中で、ほんの僅かに足を止めた。


「教育論は凡庸ですけれど」


口元だけで笑う気配がする。


「父親としては、及第点を差し上げてもよろしくてよ」


それだけ言い残し、キルウェスタは二階へ消えていった。


残されたガイルは、しばらく暖炉の火を見つめていた。


ルトには、魔力が途切れても崩れない、泥臭い剣の基礎を。


アトカには、既存の型では学べない子のための、新しい魔術の道を。


それが本当に正しいのか、今のガイルには分からなかった。


ただ一つだけ確かなのは、どちらの子も自分の大切な息子だということだった。


「……強くなれよ」


誰へ向けた言葉だったのか、ガイル自身にも分からない。


ルトへ向けたものか。


アトカへ向けたものか。


あるいは、二人を守り続けなければならない、自分自身へ向けたものだったのか。


その呟きは、暖炉の火と夜の静けさの中へ、ゆっくりと溶けていった。


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