兄の木剣と魔女の扇
アトカが、あの赤髪の魔女――キルウェスタへ弟子入りしてから、数日が過ぎていた。
毎日、同じことの繰り返しだった。
アトカは庭の切り株へ座らされ、目を閉じたまま、真っ青な顔で大粒の汗を流している。
水を浮かべることもない。
剣の形を作ることもない。
魔術を教わっているというのに、傍目には、ただ座っているだけにしか見えなかった。
それでも、小さな身体は今にも張り裂けそうなほど震えていた。呼吸は浅く、時折、苦しそうに唇が歪む。
逃げ出しもせず、嫌だとも言わず、ただ歯を食いしばって耐えている。
その前に立つキルウェスタは、漆黒の日傘を差したまま、冷たい翡翠色の瞳でアトカを見下ろしていた。
「魔力の練りが甘いですわ。呼吸が乱れれば、巡りも乱れる。心臓で息をしなさいと、何度言えば分かりますの?」
アトカは言い返さなかった。
震える唇をどうにか動かし、小さく「はい」と答えると、再び深く息を吸う。
その姿を見ているだけで、ルトの胸の奥は焼けるように熱くなった。
アトカが拾われた子であることは、ルトも知っている。
大雨の夜、森の中で父に見つけられたのだと、幼い頃から聞かされていた。
けれど、そんなことはルトには何の関係もなかった。
アトカは弟だ。
腕がなく、兄と同じように木剣を握ることはできない。それでも、いつもルトの後を一生懸命についてきた。
転んで泣きそうになっても、ルトが振り返れば、嬉しそうに笑った。
自分が木剣を振れば、誰よりも目を輝かせて褒めてくれた。
大切な弟だった。
その弟を、王都からやってきた上等な服の魔女が、楽しそうに苦しめている。
少なくとも、その時のルトには、そうとしか見えなかった。
母は胸元で手を握り締めている。
父も苦い顔をしているくせに、何も言わず見守っている。
だったら、自分が止めるしかない。
自分はアトカの兄なのだから。
「キルウェスタ!」
気づいた時には、ルトは木剣を握り締め、庭へ飛び出していた。
切り株の上のアトカが、驚いて目を開ける。
「俺と勝負しろ!アトカは俺が守る!」
庭を流れていた風が、ぴたりと止まった。
「ルト!何を言っているんだ。相手が誰だと思ってる!」
ガイルが慌てて踏み出し、ルトの肩へ手を伸ばす。
だが、その前へ漆黒の日傘が差し出された。
「構いませんわ、ガイル」
キルウェスタは父を制すると、ゆっくりルトへ振り返った。
燃えるような赤い髪の下で、翡翠色の瞳が細められる。
弟を背に隠すように立ち、木剣を握り締めるルトを、彼女は何も言わずに見つめた。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、その瞳の冷たさが揺らいだ。
遠い何かを懐かしむような、ひどく寂しげな光だった。
だが、それはすぐに、いつもの意地の悪い微笑みに覆い隠された。
「わたくしへ勝負を挑むとは、ずいぶんと威勢のよいお兄様ですこと」
キルウェスタは日傘を閉じ、傍らのステラへ預けた。
空いた手をドレスの袖へ添え、漆黒の裾をわずかに揺らす。
「よろしいでしょう。その木剣一本に込めた覚悟、品定めして差し上げますわ」
武器を構えることもない。
魔術を見せることもない。
ただ、何の備えもないように優雅に立っている。
その態度が、余計に腹立たしかった。
「――おおおおおッ!」
ルトは地面を蹴った。
父から毎日叩き込まれてきた足運び。
真っ直ぐ踏み込み、腰を回し、腕だけで振らず、身体全体の力を剣先へ通す。
何度も注意されたことを必死に思い出しながら、キルウェスタの頭上へ木剣を振り下ろした。
当たる。
そう確信した。
だが、木剣は何も捉えず、空を切った。
「なっ……!」
キルウェスタは、消えたわけではなかった。
ただ木剣が通る場所から、半歩だけ外れている。
ルトはすぐに木剣を引き戻した。
横薙ぎ。
斜めからの振り下ろし。
踏み込みからの返し。
父に教わった型を、息もつかずに繰り出していく。
それでも、刃は一度も届かなかった。
キルウェスタは漆黒のドレスの裾を翻しながら、一歩、半歩、時には爪先をずらすだけで、木剣の軌道から外れ続ける。
走っているのはルトだけだった。
息を切らしているのも、歯を食いしばっているのも、ルトだけだ。
キルウェスタは涼しい顔のまま、ルトの全力を見透かすように躱している。
「型は綺麗ですわね」
冷ややかな声が、すぐ耳元で聞こえた。
「ですが、ただそれだけ。遅いですわ」
気づいた時には、キルウェスタがルトの懐へ入り込んでいた。
「――っ!?」
近すぎる。
木剣を振るうための間合いではない。
ルトが慌てて下がろうとした瞬間、キルウェスタの細い手のひらが、胸の中央へそっと触れた。
心臓の、すぐ上だった。
「己の魔力すら巡らせられない肉体など、ただ力任せに動く肉塊ですのよ」
キルウェスタの魔力が、一拍だけルトの心臓へ触れた。
骨を砕くための力ではなかった。
眠ったままの何かを叩き起こすような、鋭く正確な拍子だった。
ドン、と胸の奥で衝撃が弾ける。
「が、はっ……!」
息が詰まった。
心臓を内側から強く掴まれたような熱が走る。
ルトの身体は後方へ浮き上がり、庭の地面へ投げ出された。
だが、背中が土へ叩きつけられる寸前、一筋の風が身体を受け止めた。
勢いだけを殺されたルトは、そのまま地面を転がる。
呼吸ができない。
胸が熱く、痛い。
手足へ力が入らず、うずくまることしかできなかった。
「ルト!」
「兄ちゃん!」
父とアトカの声が、遠くから聞こえた。
悔しかった。
あれだけ鍛えたのに、かすりもしなかった。
弟を守るどころか、キルウェスタへ傷一つつけることさえできない。
自分はここまで弱かったのか。
そう思った、その時だった。
ドクン。
激痛の塊となっていた心臓が、今までにないほど強く脈打った。
「……っ!?」
熱い。
心臓の奥から、これまで感じたことのない熱が溢れ出す。
それは血の流れへ重なり、肩から腕へ、腰から脚へ、指先から足の裏まで、猛烈な勢いで駆け巡っていった。
何だ、これは。
痛みが薄れていく。
身体が、信じられないほど軽い。
地面へ伏していたルトの身体が、弾かれたように起き上がった。
呼吸が深くなる。
視界が広がる。
足の裏で土を掴む感覚が、先ほどまでとはまるで違った。
骨も、筋肉も、流れる血さえもが、身体中に満ちた熱を力へ変えている。
「うおおおおおッ!」
ルトは地面を蹴った。
土が後方へ弾け、身体が矢のように飛び出す。
先ほどとは比べものにならない速さだった。
風が耳元で裂け、景色が後ろへ流れていく。
キルウェスタの翡翠色の瞳が、初めてわずかに見開かれた。
届く。
今度こそ、この剣は届く。
ルトは全身の力を木剣へ込め、キルウェスタの首筋へ横薙ぎの一撃を放った。
パシィン、と乾いた音が響いた。
木剣が、ぴたりと止まる。
「……あら」
キルウェスタは一歩も動いていなかった。
いつ抜いたのか。
ドレスの袖に隠されていた小さな黒い扇が開かれ、ルトの木剣を受け止めている。
細い扇骨一本さえ軋んでいない。
「少しは見どころがあるじゃありませんの」
声は相変わらず意地が悪い。
けれど、その口元には、先ほどまでなかった愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「あ……が……」
そこで、ルトの身体を支えていた熱が途切れた。
全身を巡っていた魔力が一気に散り、猛烈な疲労が押し寄せる。
膝から力が抜けた。
木剣が手を離れ、地面へ落ちる。
倒れ込む寸前、キルウェスタが片手でルトの襟を掴んだ。
その細い腕からは想像もできないほど簡単に、九歳の身体を支えてみせる。
「覚えておきなさい、ルト・アッシュフォード」
キルウェスタは閉じた扇を口元へ当て、静かに告げた。
「貴方が今掴んだものは、完成された才能などではありません。自分の内側にある魔力へ、ほんの一瞬触れただけ」
薄れていく意識の中で、ルトは必死にその言葉を聞いた。
「ようやく、覚醒の入口を見つけたにすぎませんわ」
キルウェスタの翡翠色の瞳が、ルトを真っ直ぐに見下ろしている。
「弟を守りたいのなら、その熱を一度きりの奇跡で終わらせないことです」
その言葉を最後に、ルトの意識は暗闇へ沈んでいった。
遠くで、アトカが何度も兄の名を呼んでいる。
悔しかった。
負けたことが。
届かなかったことが。
守ると叫びながら、何もできなかったことが。
けれど、それ以上に。
心臓の奥に残る微かな熱が、ルトへ告げていた。
もっと強くなれ。
一度きりで終わらせるな。
アトカを守れる兄であるために。
そしていつか、胸を張って弟の隣へ立てる剣士になるために。




