ゼロ点の呼吸
「心臓で息をしなさい、アトカ坊や」
キルウェスタ先生の冷たい声が、頭の上から降ってきた。
僕は森の開けた場所に置かれた切り株の上で、目を閉じて座っていた。
朝はまだ涼しかったはずなのに、額からは大粒の汗が流れている。
汗は頬を通り、首筋から服の襟へ染み込んでいった。
それでも、身体を動かしてはいけない。
目を開けてもいけない。
今日の修行で、先生は僕に一度も水を使わせてくれなかった。
水を浮かべることも、剣の形を作ることも、どこかへ飛ばすことも許されない。
ただ切り株へ座って、自分の心臓の音を聞く。
朝からずっと、それだけだった。
「肺で息をするだけなら、獣にだってできますわ」
僕の周りを歩きながら、先生が言った。
靴が草を踏んでいるはずなのに、足音はほとんど聞こえない。
「貴方は、心臓の拍動まで使って魔力を呼吸なさい。血がどこを巡り、身体のどこへ熱を運んでいるのか。その一つひとつを認識するのですわ」
最初は、何を言われているのか全然分からなかった。
心臓で息をするなんて、できるはずがない。
息は口や鼻から吸うものだ。
空気は胸へ入って、また外へ出ていく。
心臓は、ただ胸の中で動いているだけだと思っていた。
けれど、目を閉じたまま長い間じっとしていると、今まで聞こえなかった音が少しずつ分かるようになってきた。
ドクン。ドクン。
胸の奥で、心臓が動いている。
一度鳴るたびに、小さな熱が生まれる。
その熱は細い道を通り、お腹や背中、首や足の先へ広がっていく。
これが魔力なのだろうか。
そう思った瞬間、僕はいつものように、その熱を肩の先へ動かそうとした。
お母さんと何度も練習したやり方だった。
肩から先へ。
そこに腕があるつもりで、もっと遠くへ。
けれど、その先には何もない。
魔力は肩の辺りで行き止まりになった。
押し出そうとするほど、熱は胸の中へ戻ってくる。
行き場をなくした熱が膨らみ、喉の奥までせり上がってきた。
「……う、くっ……」
息が詰まった。
胸の内側が熱い。
心臓が、さっきまでよりもずっと大きな音を立てている。
ドクン。ドクン。ドクン。
「また肩先へ逃がそうとしましたわね」
先生の声が、すぐ近くから聞こえた。
「そこに指先の代わりを探してはなりません。外へ出すことばかり考えるから、自分の中で魔力が迷子になるのですわ」
「でも……苦しい……」
「ええ。苦しいでしょうね」
先生は、少しも慌てていなかった。
「ですが、その程度で逃がしていては、いつまで経っても貴方の魔力にはなりません。散らさず、押し込めず、血の流れに沿って巡らせなさい」
胸の熱が、さらに強くなる。
身体の内側で、何かが暴れている。
怖かった。
四日前、水の剣が地面へ落ちた時の音を思い出した。
泥と水が空まで飛び上がって、お母さんが僕の名前を叫んだ。
お父さんも兄ちゃんも、真っ青な顔で駆け寄ってきた。
また同じことになったらどうしよう。
今度は僕の外ではなく、身体の中で魔力が弾けてしまったら。
「先生……」
「わたくしが見ていますわ」
その声は、いつもと同じように冷たかった。
けれど、不思議なくらい迷いがなかった。
「貴方の心臓が傷つく前に、わたくしが止めます。わたくしの目の前で勝手に壊れることなど、許しませんわ」
後ろで、お母さんが小さく息を呑む音が聞こえた。
お父さんと兄ちゃんも、少し離れた場所から見ている。
目を閉じていても、三人が心配していることは分かった。
僕が拾われた子だということは、ずっと前から知っている。
大雨の日に、お父さんが森で僕を見つけた。
それでも、お母さんもお父さんも、僕を本当の息子ではないように扱ったことなんて一度もない。
兄ちゃんも同じだ。
僕が何も持てなくても、同じように遊んでくれた。
転べば起こしてくれた。
ご飯を食べる時には、できないところを当たり前のように手伝ってくれた。
僕にとっては、三人が本当の家族だった。
だからこそ、怖かった。
僕の力で、大好きな家族を傷つけたくない。
僕の魔術を見て、お母さんがもう一度あんな顔をするのは嫌だった。
何かできるようになりたい。
畑仕事も、薪割りも、兄ちゃんと同じ剣の稽古も、僕には同じやり方ではできない。
けれど、僕にできることが何もないわけではない。
魔術をきちんと使えるようになれば、きっと家族の役に立てる。
誰かを怖がらせるのではなく、守れる力にできる。
そうなりたかった。
ドクン、と心臓が強く跳ねた。
胸に溜まった熱が、一気に広がろうとする。
「……怖い……」
小さな声が、口から漏れた。
「結構ですわ」
先生は、すぐに答えた。
「怯えなさい、アトカ。恐怖は、危険がそこにあると教えてくれる感覚です。捨てる必要はありませんわ」
ひんやりとした指先が、僕の額へ触れた。
「ですが、恐怖から目を逸らしてはなりません。自分の魔力を見ようとしなくなった魔術師は、いつか必ず、その力に飲み込まれます」
先生の指先から、冷たく澄んだ魔力が伝わってきた。
冬の朝に触れた水のように冷たい。
けれど、ただ冷やされているのとは違った。
キルウェスタ先生の魔力には、一定の拍子があった。
静かで、揺らがず、どこまでも同じ速さで続いている。
僕の中で暴れていた熱が、その拍子に触れた。
押さえつけられたわけではない。
無理やり動かされたわけでもない。
ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸の隣へ、真っ直ぐな一本の糸を置いてもらったような感じだった。
こう動けばいい。
この速さで巡ればいい。
言葉を聞いたわけではない。
それなのに、先生の魔力が教えようとしていることが、少しだけ分かった。
僕は壊れているわけではない。
魔力の通り道がないわけでもない。
ただ、自分に合った巡らせ方を、まだ知らなかっただけだ。
先生の拍子を真似るように、胸の熱を動かしてみる。
肩先へ押し出すのをやめる。
心臓から胸へ。
胸からお腹へ。
背中を通り、足の先へ。
足の先まで届いた熱を、今度は反対側からゆっくり戻していく。
焦らない。
外へ出そうとしない。
一周して、また心臓へ。
ドクン。
心臓が鳴る。
その音に合わせて、魔力が身体を巡る。
ドクン。
もう一度。
さっきまで暴れていた熱が、少しずつ一つの流れへ変わっていく。
「――ふぅ……っ」
僕は長く息を吐いた。
喉を塞いでいた苦しさが、ゆっくりと消えていく。
胸の中へ溜まっていた魔力は、どこにも弾けなかった。
水にもならなかった。
ただ僕の身体の中を巡り、僕の意思に従って心臓へ戻ってきた。
ほんの一瞬だけだった。
それでも、自分の内側にある魔力を、初めて自分で動かせた。
初めて、自分のものとして触れられた。
「目を開けなさい」
先生の声が聞こえた。
僕はゆっくりと目を開けた。
赤い髪が、木漏れ日の中で揺れている。
キルウェスタ先生は僕の額から指を離し、翡翠色の瞳でじっと見下ろしていた。
口元には、いつもの少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「及第点、と言いたいところですが」
先生はわざとらしく肩をすくめた。
「今のは、わたくしの拍子を借りて成功しただけですわ。やはりゼロ点ですわね」
少し悔しかった。
けれど、前にゼロ点と言われた時ほど悲しくはなかった。
何ができていないのか、今は分かる。
次に何をすればいいのかも、少しだけ見えた。
「はい。でも、次は一人でもっとうまくやってみせます」
僕が答えると、先生は一瞬だけ目を細めた。
「まあ。少しは見られる顔になりましたわね」
僕は先生を見上げて笑った。
身体はまだ震えていた。
胸の奥も少し痛い。
額から流れた汗が、頬の先から地面へ落ちた。
それでも、不思議と怖くはなかった。
後ろから、息を震わせるような音がした。
振り返ると、お母さんが泣いていた。
けれど、四日前とは違う。
両目に涙を浮かべながら、安心したように笑っている。
僕が自分の魔力を巡らせ、何も壊さず、こうして目を開けたことを喜んでくれていた。
お父さんは大きく息を吐き、兄ちゃんは木剣を胸へ抱えながら、嬉しそうに何度も頷いている。
三人の顔を見た瞬間、僕の胸の奥がまた熱くなった。
けれど、それはさっきまでの苦しい熱とは違う。
暴れることも、僕を傷つけることもない。
もっと柔らかくて、温かい。
心臓の奥へ、静かに小さな火が灯ったような熱だった。




