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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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ゼロ点の魔術師

翌朝。


アッシュフォード家から少し離れた森の中。


人家も畑もない木々の開けた場所に、古い切り株が一つ残されていた。


六歳のアトカは、その上へ小さく腰掛けている。


雪のような白髪が朝の光を受けている一方で、伏せられた青い瞳は暗く沈んでいた。


四日前、自分の魔術が暴発した。


母の悲鳴。


泥と水にまみれた庭。


地面へ穿たれた大きな穴。


真っ青な顔で駆けつけてきた父と兄。


その光景が、今も胸の奥へ重く残っている。


また失敗したらどうしよう。


今度こそ、家族を傷つけてしまうかもしれない。


アトカが足元の草を見つめていると、目の前へ長い影が落ちた。


パサリ、と黒い日傘が閉じられる。


「あら。朝から随分と陰気な顔をしていますのね、アトカ坊や」


顔を上げると、漆黒のドレスを纏ったキルウェスタが立っていた。


燃えるような赤い髪。


相手の内側まで見透かすような翡翠色の瞳。


その後ろには、ステラとガイル、ルトの姿もある。


ステラは胸元で両手を組み、ガイルはいつでも動けるように足を開いている。


ルトも木剣を抱え、不安そうにアトカを見ていた。


キルウェスタは三人を一瞥すると、再びアトカへ視線を戻す。


「今日は授業を始める前に、あなたの中で何が起きているのかを調べますわ」


「お水を出すの?」


「一度だけ。四日前と同じ水の剣を作り、その場へ留めなさい。飛ばす必要はありませんわ」


アトカの身体が僅かに強張った。


また暴発するかもしれない。


その恐れを見抜いたキルウェスタが、片手を軽く上げる。


薄い魔力が森の中へ広がった。


木々の間へ目に見えない糸が張り巡らされ、ばらばらに吹いていた風が一定の方向へ整えられていく。


森の一角を包み込む、薄く強固な領域。


暴れた魔力を外へ逃がさず、キルウェスタのもとへ集めるための備えだった。


「失敗して構いませんわ」


冷ややかな声だった。


けれど、そこには揺るぎない確信があった。


「今は、わたくしがすべて止めます」


アトカは小さく息を吸った。


恐怖は消えていない。


それでも、この人が見ているなら大丈夫かもしれない。


幼い吐息とともに、周囲の魔力が揺れた。


アトカの胸の高さに、透明な霧が滲み出す。


霧は雫となり、互いに集まりながら細長く伸びていった。


柄。鍔。透き通った刀身。


水はルトの木剣を写し取ったような形へ変わり、表面には木目に似た細かな模様まで浮かんだ。


四日前より速い。


そして、さらに精緻だった。


ステラが息を呑む。


ルトも赤い瞳を大きく見開いた。


だが、キルウェスタだけは水の剣ではなく、それが生まれるまでの魔力を見ていた。


アトカの体内から、魔力が外へ押し出された形跡があまりにも薄い。


覚醒によって自分の魔力を捉え、放魔によって外へ送り出したわけではない。


周囲に満ちた魔力がアトカのイメージへ引かれ、水という結果を先に形作っている。


それは同調に限りなく近い現象だった。


だが、完成した同調のように、アトカと外界の魔力が安定した拍子を共有しているわけではない。


位階として同調と断じることも、無関係だと切り捨てることもできない。


自分の内側にある魔力すら十分に捉えていない子供へ、外界だけが先に応じている。


覚醒を飛び越えたのではない。


覚醒へ至る前から、同調の縁へ触れてしまっている。


キルウェスタの胸の奥で、歓喜と警戒が同時に湧き上がった。


正しく導けば、いつか世界の理へ触れる。


だが、このままでは遠からず自分自身を巻き込み、周囲まで壊す。


基礎を持たないまま、結果だけが先へ進みすぎている。


キルウェスタは水の剣へ指先を伸ばした。


「動かさないで」


白い指が刀身の腹へ触れる。


髪の毛より細い魔力が内部へ入り込み、無意識に絡められた流れの結び目を見つけ出した。


指先が僅かに動く。


結び目が解け、閉じ込められていた圧力がキルウェスタの領域へ逃がされる。


水の剣はぐにゃりと崩れた。


透明な水となって地面へ落ち、べしゃりと情けない音を立てる。


「……え?」


アトカが顔を上げる。


キルウェスタは落ちた水を一度見下ろした。


「見事な形ですわ」


その後で、容赦なく続ける。


「ですが、魔術としてはゼロ点ですわね」


「ゼロ点……?」


アトカの青い瞳が揺れる。


ステラが口を開きかけたが、キルウェスタの視線に止められた。


「ステラ。あなたはこの子に、魔術を嫌わせなかった」


ステラが僅かに顔を上げる。


「失敗を責めず、力を恐れるものだとも教えなかった。水が浮かぶたびに喜び、形を作るたびに褒めたのでしょう」


「……ええ」


「それは母親にしかできない、大切な仕事ですわ」


キルウェスタはそこで言葉を切った。


「ですが、魔術師としての基礎は教えられていない」


ステラの顔が強張る。


「あなたが学んだ型は、肩から腕へ魔力を流し、手と指によって方向や距離を定めるものですわね」


「そうよ」


「腕は魔術にとって重要ですわ」


キルウェスタは淡々と告げた。


「魔力を外へ導く道であり、方向を定める支点であり、細かな命令を形へ伝える器官でもある。その二本を持たないことは、この子にとって明確な不利です」


アトカは黙って聞いていた。


キルウェスタは言葉を濁さなかった。


腕がなくても何も変わらないとは言わない。


失われているものを、なかったことにはしない。


「だからこそ、腕を持つ者の型を、そのままこの子へ教えても意味がありませんの」


キルウェスタは切り株の前へ膝を折り、アトカと目線を合わせた。


「アトカ坊や。あなたには腕がありません」


アトカの空の袖が、朝の風に僅かに揺れる。


「そのために難しくなることは、これから幾つもありますわ」


厳しい声だった。


けれど、憐れみはなかった。


「ですが、難しいことと、魔術師になれないことは同じではありません」


アトカの青い瞳が上がる。


「僕も、なれるの?」


「なりますわ」


キルウェスタは即答した。


「ただし、水を作るところからではありません」


細い指先が、アトカの胸元を軽く叩く。


「今のあなたは、自分の魔力を知らないまま、外界の魔力へ触れています。だから少し形が崩れただけで、何を直せばよいのか分からなくなる」


「僕の魔力……?」


「ええ。外にある水でも、外界の魔力でもありません」


もう一度、胸元を叩く。


「あなたの内側にあるものですわ」


キルウェスタは立ち上がると、アトカの周囲へ意識を向けた。


森を満たしていた魔力が、薄い膜によって遠ざけられていく。


先ほどまでアトカのすぐ近くにあった何かが、急に遠くなった。


水を作ろうとしても、外界が応じない。


アトカは戸惑って顔を上げる。


「お水が来ない」


「来ないようにしましたの」


キルウェスタは傲然と微笑んだ。


「外へ手を伸ばす前に、まず自分の中を知りなさい」


「どうすればいいの?」


「目を閉じなさい」


アトカは言われた通りに瞼を閉じる。


暗闇の中で、自分の呼吸だけが聞こえた。


胸が上下する。


心臓が動く。


足が地面へ触れている。


けれど、魔力がどこにあるのかは分からない。


「見つける。練る。身体の中へ巡らせる」


キルウェスタの声が静かに届く。


「外へ出すのは、そのすべてができるようになってからですわ」


アトカは小さく息を吸った。


「これが、最初の授業?」


「ええ」


キルウェスタの唇が、不敵な笑みを形作る。


「覚醒から始めますわ、アトカ坊や」


水を生み出すことも。


剣の形を作ることも。


それより前に、自分の中にある魔力を知る。


アトカは目を閉じたまま、胸の奥へ意識を向けた。


「……頑張ります」


「頑張るだけでは足りませんわ」


即座に返される。


「何度ゼロ点を突きつけられても、考えて、やり直しなさい。泣くことも、疲れて休むことも許します」


そこでキルウェスタは一度言葉を切った。


「ですが、諦めることだけは許しません」


アトカは真剣に頷いた。


「はい。お願いします、キルウェスタ先生」


それが、アトカ・アッシュフォードにとって最初の訓練だった。


そして、長く過酷な師弟の日々の始まりでもあった。


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