黒日傘の魔女
それから、三日後のことだった。
アルン平原は、いつもと変わらず穏やかな昼下がりを迎えていた。
柔らかな風が麦畑を撫で、遠くでは牛の鳴き声が聞こえる。
庭先では、ルトが木剣を握り、父の指導を受けながら素振りを続けていた。
「腰が浮いてるぞ、ルト!腕だけで振るんじゃねえ。足から力を通せ!」
「分かってるよ! ――とぉッ!」
ルトが土を蹴り、木剣を振り抜く。
九歳の身体にはまだ大きな木剣だったが、その軌道は三年前とは比べものにならないほど鋭くなっていた。
踏み込み、腰、肩、腕。
父に教えられた通り、身体の動きを一本につなぎ、剣先へ力を伝えている。
アトカは庭の端に置かれた切り株へ座り、そんな兄の姿をじっと見つめていた。
庭の一角には、三日前に水の剣が地面を抉った跡が残っている。
ガイルが何度も土を運び込み、穴そのものは埋め戻していた。それでも、そこだけ草はなく、黒い土が痛々しく露出していた。
あの日以来、アトカは一人で魔術を使うことを禁じられている。
ステラが怒ったからではない。
またアトカ自身が傷つくことを、家族が恐れたからだった。
アトカにも、それは分かっていた。
だから今は水を浮かべず、ただ兄の剣が描く軌道を青い瞳で追っている。
兄のように、まっすぐ動かせたら。
自分の水にも、進むべき道を教えられたら。
もうお母さんを怖がらせずに済む。
その時、アトカはふと顔を上げた。
柵の向こう。
平原へ続く細い道の先から、一人の女性が歩いてくる。
その姿は、あまりにもこの土地に似つかわしくなかった。
漆黒のドレス。
繊細なレースをあしらった黒い日傘。
陽光を燃やしているかのような赤い髪と、それをまとめる黒い宝石の髪飾り。
女性は雨上がりのぬかるんだ道を歩いている。
それなのに、高級そうな黒い靴にも、長いドレスの裾にも、泥一つ付いていなかった。
靴底が地面へ触れる直前、小さな風が足を支えている。
風だけではない。
泥を遠ざける薄い膜。
日傘の内側へ熱を入れない冷気。
赤い髪を乱さない、緩やかな空気の流れ。
一つ一つは、ひどく小さな魔術だった。
それらが途切れることなく、呼吸をするような自然さで同時に働いている。
まるで世界の方が、その女性を汚さないように整っているようだった。
「……お父さん。誰か来たよ」
アトカの声に、ガイルとルトが道の方を向く。
家の中にいたステラも、慌ただしく勝手口から飛び出してきた。
柵の向こうに立つ女性を見た瞬間、ステラは大きく目を見開いた。
「嘘……。もう着いたの?」
「王都からなら、馬車でも一週間はかかるんじゃなかったか?」
ガイルが呆れた声を漏らす。
ステラは額へ手を当て、深く息を吐いた。
「伝書鳥が王都へ着いてから、ほとんど休まずに来たのよ。身体強化を使えば馬車より速いけれど……普通は、そんなことを何日も続けたりしないわ」
「相変わらず、どうかしてやがるな」
赤髪の女性は柵の前で足を止めた。
パサリ、と黒日傘が閉じられる。
その奥から現れたのは、翡翠色の瞳だった。
美しく、冷たく、相手の内側を一目で見抜いてしまいそうな知性を湛えている。
母の師だと聞いていたのに、その女性はステラよりもずっと若く見えた。
アトカは不思議に思いながら、彼女を見つめた。
ステラのかつての師。
数多くの魔術師から畏れられる大魔術師。
キルウェスタ。
「――ずいぶんと田舎臭いお招きですこと、ステラ」
キルウェスタは優雅に日傘を畳みながら、冷ややかな声を発した。
「おかげで、退屈な宮廷の夜会を二つほど欠席する羽目になりましたわ。感謝していただきたいものですわね」
「頼んだ覚えはあるけれど、急いで来てくれとは一言も書いていないわ」
「まあ。助けを求めておきながら、随分な言い草ですこと」
キルウェスタは当然のように柵を開け、庭へ入ってきた。
ガイルとステラへ向ける視線は一瞬だけだった。
次に、地面へ残された黒い土の跡を見る。
彼女の翡翠色の瞳が、わずかに細められた。
「なるほど。手紙に書かれていたよりも、派手に失敗したようですわね」
その声に責める響きはなかった。
ただ、事実を観察し、頭の中で何かを組み立てているようだった。
キルウェスタは視線を移し、切り株に座るアトカの前まで歩み寄った。
漆黒のドレスの裾を少し持ち上げ、優雅に膝を折る。
六歳のアトカと、目の高さを合わせるためだった。
キルウェスタの視線が、左右の空の袖を一度だけなぞった。
驚きもなかった。
憐れみも、嫌悪もなかった。
魔術具の形を確かめるように肩先を観察し、すぐにアトカの青い瞳へ戻る。
「この子が、あなたの手に余った最高級の原石ですのね」
「キルウェスタ様」
ステラが咎めるように名を呼ぶ。
キルウェスタは聞こえなかったかのように、アトカだけを見つめた。
「ご挨拶もできないほど、お口の躾が不完全なのかしら。それとも愛嬌というものを、お母様のお腹の中へ置き忘れてきたのですこと?」
ルトが木剣を握ったまま、アトカの横へ一歩出た。
「おい、アトカに――」
ガイルがその肩を掴んで止める。
「待て、ルト」
「でも!」
「アトカを見てろ」
キルウェスタの言葉は冷たく、鋭かった。
普通の子供なら、怯えて目を伏せてもおかしくない。
けれど、アトカは泣かなかった。
言葉の意味を理解できなかったわけではない。
それ以上に、目の前の魔術師から目を離せなかったのだ。
キルウェスタは、風へ腕を伸ばしていない。
杖も持っていない。
指先で道を示してもいない。
それでも彼女の周囲を流れる風は、一度も進む方向を間違えない。
魔術を使うためには、必ず手で方向を示さなければならない。
これまで、アトカはそう思っていた。
だが、違う。
手を伸ばさなくても、風は進むべき道を与えられている。
自分にも、まだ知らないやり方があるのかもしれない。
あの人のようになれたなら、もう水を間違った場所へ飛ばさずに済む。
お母さんを怖がらせることも、兄を傷つける心配もなくなる。
幼いアトカの胸に、初めて見る希望が灯った。
アトカはキルウェスタの翡翠色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「はじめまして。アトカです」
それから、キルウェスタの話し方を一生懸命に真似るように、少しだけ首を傾げる。
「お姉さんは、ずいぶんと……お口の悪いお方なんですのね」
「ぶっ……!」
ガイルが耐えきれずに噴き出した。
ルトも目を丸くした後、木剣を抱えたまま声を上げて笑う。
ステラだけは顔を青くし、アトカと師を交互に見た。
「ア、アトカ……!」
キルウェスタは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。
沈黙が落ちる。
やがて彼女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「ふふっ……」
先ほどまでの冷たい声とは違う、心底愉快そうな笑いがこぼれる。
「なかなか生意気な口を利く坊やですこと」
キルウェスタは細い指を伸ばし、アトカの額を軽く弾いた。
ぴん、と小さな音が響く。
アトカは目を瞬かせたが、視線を逸らさなかった。
その様子を見て、キルウェスタは満足そうに目を細める。
「――気に入りましたわ、アトカ坊や」
そう言って立ち上がると、庭に残る黒い土の跡へ再び目を向けた。
「ですが、口の利き方が面白いというだけで弟子を選ぶほど、わたくしは安い魔術師ではありませんの」
キルウェスタはステラへ顔を向ける。
「あなたが見た現象を、最初から余すことなく説明なさい。推測と事実を混ぜることは許しませんわ」
「分かったわ」
「それからガイル。庭の周囲から人と家畜を遠ざけなさい。念のため、家の窓も閉めておくことですわね」
「お、おう」
ガイルは反射的に頷いた後、眉をひそめる。
「なんで俺の名前を知ってるんだ?」
「ステラの夫というだけで調査する価値は十分ですわ。もっとも、面白みのない経歴でしたけれど」
「来て早々、喧嘩を売ってんのか?」
キルウェスタは既にガイルを見ていなかった。
翡翠色の瞳が、再びアトカを捉える。
「アトカ坊や」
「はい」
「あなたがあの日、何をしようとして、何を失敗したのか。わたくしに自分の言葉で話してごらんなさい」
アトカは庭の黒い跡を見つめた。
胸の奥が少しだけ苦しくなる。
それでも、キルウェスタの前では不思議と逃げたいとは思わなかった。
この人なら、自分にも分からなかった失敗の理由を見つけてくれるかもしれない。
「お水で、兄ちゃんの剣を作りました」
アトカはゆっくりと言葉を選ぶ。
「丸太に飛ばしたかったけど、まっすぐ行きませんでした。お水が、どっちに行けばいいのか分からなくなったみたいに、ぐちゃぐちゃになりました」
キルウェスタは笑わなかった。
褒めもしなかった。
ただ真剣に、アトカの言葉を最後まで聞いている。
「そう」
短く答えると、彼女は黒い日傘の石突きで地面を軽く叩いた。
途端に、庭を吹き抜けていた風が止まる。
草一本揺れない静寂の中で、キルウェスタは傲然と微笑んだ。
「それでは始めましょうか」
キルウェスタは黒い日傘の石突きで、地面を軽く叩いた。
庭を吹いていた風が止まり、草一本揺れない静寂が訪れる。
「最初から水を出そうとしてはいけませんわ」
「お水を使わないの?」
「ええ。まずは、あなたの中にある魔力を見つけなさい」
キルウェスタの翡翠色の瞳が、アトカを真っ直ぐに捉える。
「形を与えるのも、外へ放つのも、その後ですの」
彼女は傲然と微笑んだ。
「最初の授業は、覚醒からですわ。アトカ坊や」
アトカと魔女の最初の授業は、そこから始まった。




