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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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3/36

水の剣と失われた方角

「……アトカ。もう一度だけ、お母さんの言う通りにやってみてくれる?」


ステラは、乾いた声をどうにか穏やかに整え、切り株に腰掛ける我が子へ告げた。


けれど、杖を握る指には必要以上の力が入っている。


春先の風は柔らかい。それなのに、背中には冷たい汗が幾筋も伝っていた。


アトカが母から魔術を習い始めて、三年が経っていた。


兄のルトは九歳。アトカは六歳。


白い髪と澄んだ青い瞳を持つ幼い少年は、庭の隅に置かれた切り株へちょこんと座り、母の強張った顔を不思議そうに見上げている。


左右の袖は、今日も中身のないまま風に揺れていた。


「うん!お母さん、僕、がんばる!」


アトカは屈託のない笑みを浮かべ、小さなお腹にぐっと力を入れた。


彼にとって、これは恐ろしい訓練ではない。


大好きな母と一緒に行う楽しい時間であり、少し離れた場所で剣を振るう兄に、また「すごい」と言ってもらうための誇らしい挑戦だった。


「ほら、ルト!腰が浮いてるぞ! もう一回だ!」


庭の反対側では、ガイルの太い声が響いている。


「分かってるよ!――とぉッ!」


ルトが、木剣を力いっぱい振り抜いた。


九歳の身体にはまだ大きな木剣が、鋭く風を切る。


足を踏み込み、腰を回し、肩から両腕を通して剣先へ力を伝える。

その動きはまだ荒削りだったが、幼い頃の見よう見まねとは違い、確かに剣士の形を帯び始めていた。


アトカはその姿を、眩しそうに見つめた。


兄のようになりたい。


兄のように、格好よく剣を振りたい。


自分には剣を握る指も、振り上げる腕もない。


けれど、この三年間で、水を目の前へ浮かべることだけは上手になった。


ならば、その水を剣の形にできれば、自分も兄のようになれるかもしれない。


アトカは、ただ純粋にそう思っていた。


「いい、アトカ」


ステラはアトカの前へ膝をつき、青い瞳と目線を合わせた。


「いつものように、お水を浮かべてみましょう。その後で、あそこにある丸太の的へ向けて、ほんの少しだけ動かしてみるの」


庭の端には、切断した丸太を地面へ立てた的が置かれている。


ステラは杖先で丸太を示した。


「勢いよく飛ばさなくていいわ。ゆっくりでいいの。お水が、空の上をそっと滑っていくところを思い浮かべて」


「そっと、すべる……」


「ええ。急がなくていいからね」


アトカは真剣な顔で頷いた。


魔術師が魔力へ方向を与える際、多くは手や杖を基準として使う。


肩から肘へ。


肘から手首へ。


そして、指先や杖先へ。


身体の中を巡る魔力に一本の流れを作り、その先端を向けることで、術者の意思を現実の方向へ変える。


だが、アトカの魔術は、その流れに従わなかった。


そもそもアトカが生み出す水は、体内から放たれた魔力が変化したものではないように見えた。


アトカが強く思い描くと、身体から離れた空間に水が現れる。


始点となるはずの身体と、結果として現れる水が、最初から切り離されているのだ。


三年間、ステラは様々な方法を試してきた。


視線を基準にする方法。


呼吸に合わせる方法。


身体の正面を起点として捉える方法。


足先の向きに合わせる方法。


声によって進む先を定める方法。


しかし、どれも安定しなかった。


アトカは水を浮かべられる。


大きさも、少しずつ変えられるようになった。


それなのに、その水を自分の望む場所へ動かそうとした瞬間だけ、魔術と身体の結びつきが曖昧になる。


どこから、どの道を通って、どこへ向かわせるのか。


魔力に進むべき軸を与えることが、どうしてもできなかった。


それでもステラは、諦めきれなかった。


この子には才能がある。


それだけは、母としても、魔術師としても疑いようがない。


だからこそ、その才能を扱えるようにしてやりたかった。


「大丈夫よ」


ステラは、アトカにではなく、自分へ言い聞かせるように呟いた。


「今日は少し動かすだけ。危ないと思ったら、すぐにやめればいいわ」


一歩下がり、杖を構える。


アトカが小さく息を吸った。


「ふぅ……」


息が吐き出された瞬間、庭を吹き抜けていた風が弱まった。


葉擦れの音が遠のく。


ルトの木剣が風を切る音さえ、薄い膜の向こう側へ離れていったように感じられた。


アトカの正面。


胸の高さほどの何もない空間で、周囲を満たす魔力がわずかに波打つ。


淡い霧が滲み出した。


霧は小さな雫となり、互いに引き寄せられるように集まり始める。


やがて、透明な水球が宙へ浮かび上がった。


そこまでは、いつもと同じだった。


「上手よ、アトカ。そのまま――」


ステラの言葉が止まる。


水球が、形を変え始めていた。


球体が細長く伸びる。


上下が潰れ、中央へ芯が通る。


一方の端が鋭く整い、もう一方には握り柄のような細い部分が生まれた。


さらに、その境目から左右へ小さく水が張り出し、鍔の形を作る。


それは、庭の向こうでルトが振るっている木剣を真似たものだった。


無骨で、少し歪んでいて、それでも確かに剣と呼べる形をしていた。


透明な水の剣。


「できた……」


アトカが、目を輝かせた。


「お母さん、見て!兄ちゃんと同じだよ!」


ステラは答えられなかった。


水を浮かべることと、形を固定することは違う。


絶えず流れ、崩れようとする水を立体の形へ留め、柄と鍔と刃を分けたまま維持するには、極めて細かな制御が必要になる。


それを六歳の子供が、誰に教えられたわけでもなく成し遂げている。


しかも、水の剣はただ形を保っているだけではなかった。


刃の周囲で、草の葉が細かく震えている。


透明な刃の内部では、水が中心へ向けて押し固められ、異様な密度を生んでいた。


ステラは息を呑んだ。


形の精密さに目を奪われ、その内側に蓄えられた圧力へ気づくのが遅れた。


「……アトカ。そのまま動かさないで」


ステラは杖を握り直した。


「今日はここまでにしましょう。そのお水を、ゆっくり――」


消して。


そう続けるより早く、アトカが庭の反対側を見た。


「兄ちゃん!」


ルトが声に気づき、木剣を止める。


「見ててね!僕も剣を作れたんだよ!」


「えっ、剣!?」


ルトの赤い瞳が輝いた。


その反応が嬉しくて、アトカは丸太の的へ顔を向けた。


「待って、アトカ!」


ステラの声が鋭くなる。


けれど、アトカは母が何を恐れているのか知らない。


兄に、自分の剣を見せたかった。


ただ、それだけだった。


「あの的に、飛べ!」


水の剣が震えた。


アトカの意思に反応し、前へ進もうとする。


しかし、水の剣には進むべき軸がなかった。


視線は丸太を捉えている。


身体も的の正面を向いている。


それでも、身体から離れた場所に生まれた魔術は、アトカのどこを始点として進めばよいのか定められない。


前へ進もうとする力が生まれる。


同時に、下へ落ちようとする力が働く。


横へ逸れた流れを、別の流れが押し戻そうとする。


行き場を失った力が、水の剣の内側で衝突した。


「アトカ、伏せて!」


しゅん、と空間を削るような音がした。


水の剣は丸太へ向かわなかった。


アトカの真横へ弾かれ、ほんの数歩先の地面へ突き刺さる。


同時に、ステラの杖が振り抜かれた。


アトカを包むように、薄い水の膜が立ち上がる。


直後、地面が爆ぜた。


ドォォォォォンッ!!


押し固められていた水が一気に解放され、庭の土を抉った。


泥と小石が爆風に巻き上げられ、水飛沫とともに周囲へ降り注ぐ。


立ち上がった水膜が大きくたわみ、飛んできた土塊を受け止めた。


切り株が衝撃で傾く。


アトカは支えを失い、地面へ転がった。


「アトカ――ッ!」


ステラは泥水の中へ飛び込み、倒れたアトカを抱き起こした。


「アトカ!返事をして!」


「げほっ……ごほっ……」


アトカは泥だらけの顔で咳き込みながら、ゆっくりと目を開いた。


ステラの水膜が間に合ったおかげで、大きな怪我はなかった。


それでも白い髪も頬も服も泥に汚れ、濡れた袖が重そうに地面へ垂れている。


「お母さん……」


アトカの青い瞳に涙が溜まった。


「ごめんなさい……。僕、まっすぐ飛ばしたかったのに……」


涙が頬の泥と混じり、顎の先から落ちる。


その姿を見た瞬間、ステラはアトカを強く抱きしめていた。


「いいの。謝らなくていいのよ」


声が震える。


「あなたが無事なら、それでいいの。ごめんなさい。お母さんが、もっと早く止めるべきだったわ」


「でも、僕が勝手に……」


「それでもよ」


ステラは空っぽの袖ごと、小さな身体を包み込んだ。


母として、ただ怖かった。


そして魔術師として、それ以上に恐ろしかった。


ステラはアトカを抱いたまま、庭に穿たれた穴を見つめた。


六歳の子供が、兄への憧れだけで作り出した水の剣。


その力が進む方向を失っただけで、庭の土を深く抉った。


もし、水膜が間に合わなかったら。


もし、今の刃がアトカ自身へ向かっていたら。


もし、ルトやガイルのいる方へ逸れていたら。


考えただけで、息が詰まる。


怖いのは、アトカではない。


この子を傷つけかねないほど大きく、それでいて、誰も扱い方を知らない力だ。


そして、もう一つ。


ステラは、水の剣が現れた空間を見つめた。


これまで、自分はアトカが体内の魔力をうまく外へ放てず、正面の空間へ滲ませているのだと考えていた。


だが違う。


先ほど、アトカの身体から魔力が流れ出した感覚はなかった。


アトカが剣を思い描いた途端、周囲の魔力がそのイメージへ応じて形を変えたのだ。


己の内にある魔力を認識し、身体へ巡らせる覚醒位階。


肉体や杖を通して魔力を外へ放ち、現象として操る放魔位階。


通常の魔術師は、その段階を踏んで成長していく。


だが、アトカの魔術は、その道筋から外れていた。


「まさか……」


ステラの唇が震えた。


「同調の、兆し……?」


同調位階。


己の魔力と外界の魔力の拍子を重ね、世界そのものへ働きかける、魔術師の到達点の一つ。


六歳の子供が踏み入れられるような領域ではない。


今の現象だけで、同調へ到達していると断じることなどできなかった。


それでも、放魔だけでは説明できない。


アトカが魔力を押し出すより先に、外界の魔力がイメージへ応じている。


完成された同調ではない。


けれど、その前触れに似た何かが、この子の中で目覚め始めている。


「……ステラ!」


爆音を聞きつけたガイルが、ルトを連れて駆け寄ってきた。


「アトカ!」


ルトは真っ青な顔で弟のそばへ膝をついた。


「兄ちゃん……ごめんね」


アトカは涙を流しながら、消え入りそうな声で言った。


「僕、失敗しちゃった。剣、見せたかったのに……」


ルトは何も言わず、自分の袖でアトカの頬についた泥を乱暴に拭った。


「失敗なんかいいだろ」


「でも……」


「怪我してないなら、それでいい」


ルトは、泥で汚れた弟の額へ自分の額を軽くぶつけた。


「剣なら、また作ればいい。今度は俺も一緒に考えるから」


アトカは目を丸くし、やがて泣きながら小さく笑った。


その兄弟の姿を見て、ステラは決意した。


自分の知識では足りない。


母としての愛情だけでは、この力からアトカを守れない。


魔術師として積み重ねてきた経験だけでは、この子へ正しい道を示せない。


この子には、もっと大きな器を持つ師が必要だ。


世界の理を知り、常識から外れた現象を、無理に常識の中へ押し込めることなく扱える者。


アトカの異質な才能を、アトカ自身を守るための魔術へ変えられる者。


その日の夜。


アッシュフォード家の暖炉には、赤い火が静かに揺れていた。


泣き疲れたアトカは寝台で眠っている。


ルトもその隣で、弟を見守るように身体を丸め、寝息を立てていた。


ガイルは暖炉の前で腕を組み、険しい表情で炎を見つめている。


「ステラ。本当に、あの人を呼ぶのか?」


「ええ」


ステラは机に向かい、羊皮紙へペンを走らせていた。


宛先は王都。


かつてステラへ魔術を叩き込んだ、あまりにも気まぐれで、あまりにも尊大で、そして誰よりも優秀だった師。


キルウェスタ。


「今の私では、アトカの才能を潰してしまうかもしれない」


ペンを持つ手が、一度だけ止まった。


「いいえ。それよりも先に、あの子が自分の力で傷ついてしまう。あの方なら……きっと、この子の魔術を見誤らない」


ガイルはしばらく黙っていたが、やがて重い息を吐いた。


「あの人が来たら、家が一つ壊れるくらいじゃ済まないかもしれないぞ」


「それでも、アトカが壊れるよりいいわ」


ステラの声には、迷いがなかった。


手紙の最後に、一文を書き加える。


ただ助けてほしいと頼むだけでは、あの師は動かない。


人助けを訴えるよりも、退屈を嫌う性質と、魔術師としての誇りを刺激した方がよほど確実だ。


『齢六歳にして、同調位階を思わせる兆しを示す、両腕のない子供がいます。形状制御は一流。しかし、魔術に進むべき軸を与えることができず、指向性は皆無。この最高級の原石を、貴女ならば魔術師へ仕立てられますか。退屈な日々に飽いているなら、ぜひ一度、田舎の庭を見物にいらしてください』


ステラは最後に署名を記し、封蝋を落とした。


翌朝。


その手紙は、かつての冒険者仲間の伝手を頼り、王都へ向けて送り出された。

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