水の剣と失われた方角
「……アトカ。もう一度だけ、お母さんの言う通りにやってみてくれる?」
ステラは、乾いた声をどうにか穏やかに整え、切り株に腰掛ける我が子へ告げた。
けれど、杖を握る指には必要以上の力が入っている。
春先の風は柔らかい。それなのに、背中には冷たい汗が幾筋も伝っていた。
アトカが母から魔術を習い始めて、三年が経っていた。
兄のルトは九歳。アトカは六歳。
白い髪と澄んだ青い瞳を持つ幼い少年は、庭の隅に置かれた切り株へちょこんと座り、母の強張った顔を不思議そうに見上げている。
左右の袖は、今日も中身のないまま風に揺れていた。
「うん!お母さん、僕、がんばる!」
アトカは屈託のない笑みを浮かべ、小さなお腹にぐっと力を入れた。
彼にとって、これは恐ろしい訓練ではない。
大好きな母と一緒に行う楽しい時間であり、少し離れた場所で剣を振るう兄に、また「すごい」と言ってもらうための誇らしい挑戦だった。
「ほら、ルト!腰が浮いてるぞ! もう一回だ!」
庭の反対側では、ガイルの太い声が響いている。
「分かってるよ!――とぉッ!」
ルトが、木剣を力いっぱい振り抜いた。
九歳の身体にはまだ大きな木剣が、鋭く風を切る。
足を踏み込み、腰を回し、肩から両腕を通して剣先へ力を伝える。
その動きはまだ荒削りだったが、幼い頃の見よう見まねとは違い、確かに剣士の形を帯び始めていた。
アトカはその姿を、眩しそうに見つめた。
兄のようになりたい。
兄のように、格好よく剣を振りたい。
自分には剣を握る指も、振り上げる腕もない。
けれど、この三年間で、水を目の前へ浮かべることだけは上手になった。
ならば、その水を剣の形にできれば、自分も兄のようになれるかもしれない。
アトカは、ただ純粋にそう思っていた。
「いい、アトカ」
ステラはアトカの前へ膝をつき、青い瞳と目線を合わせた。
「いつものように、お水を浮かべてみましょう。その後で、あそこにある丸太の的へ向けて、ほんの少しだけ動かしてみるの」
庭の端には、切断した丸太を地面へ立てた的が置かれている。
ステラは杖先で丸太を示した。
「勢いよく飛ばさなくていいわ。ゆっくりでいいの。お水が、空の上をそっと滑っていくところを思い浮かべて」
「そっと、すべる……」
「ええ。急がなくていいからね」
アトカは真剣な顔で頷いた。
魔術師が魔力へ方向を与える際、多くは手や杖を基準として使う。
肩から肘へ。
肘から手首へ。
そして、指先や杖先へ。
身体の中を巡る魔力に一本の流れを作り、その先端を向けることで、術者の意思を現実の方向へ変える。
だが、アトカの魔術は、その流れに従わなかった。
そもそもアトカが生み出す水は、体内から放たれた魔力が変化したものではないように見えた。
アトカが強く思い描くと、身体から離れた空間に水が現れる。
始点となるはずの身体と、結果として現れる水が、最初から切り離されているのだ。
三年間、ステラは様々な方法を試してきた。
視線を基準にする方法。
呼吸に合わせる方法。
身体の正面を起点として捉える方法。
足先の向きに合わせる方法。
声によって進む先を定める方法。
しかし、どれも安定しなかった。
アトカは水を浮かべられる。
大きさも、少しずつ変えられるようになった。
それなのに、その水を自分の望む場所へ動かそうとした瞬間だけ、魔術と身体の結びつきが曖昧になる。
どこから、どの道を通って、どこへ向かわせるのか。
魔力に進むべき軸を与えることが、どうしてもできなかった。
それでもステラは、諦めきれなかった。
この子には才能がある。
それだけは、母としても、魔術師としても疑いようがない。
だからこそ、その才能を扱えるようにしてやりたかった。
「大丈夫よ」
ステラは、アトカにではなく、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「今日は少し動かすだけ。危ないと思ったら、すぐにやめればいいわ」
一歩下がり、杖を構える。
アトカが小さく息を吸った。
「ふぅ……」
息が吐き出された瞬間、庭を吹き抜けていた風が弱まった。
葉擦れの音が遠のく。
ルトの木剣が風を切る音さえ、薄い膜の向こう側へ離れていったように感じられた。
アトカの正面。
胸の高さほどの何もない空間で、周囲を満たす魔力がわずかに波打つ。
淡い霧が滲み出した。
霧は小さな雫となり、互いに引き寄せられるように集まり始める。
やがて、透明な水球が宙へ浮かび上がった。
そこまでは、いつもと同じだった。
「上手よ、アトカ。そのまま――」
ステラの言葉が止まる。
水球が、形を変え始めていた。
球体が細長く伸びる。
上下が潰れ、中央へ芯が通る。
一方の端が鋭く整い、もう一方には握り柄のような細い部分が生まれた。
さらに、その境目から左右へ小さく水が張り出し、鍔の形を作る。
それは、庭の向こうでルトが振るっている木剣を真似たものだった。
無骨で、少し歪んでいて、それでも確かに剣と呼べる形をしていた。
透明な水の剣。
「できた……」
アトカが、目を輝かせた。
「お母さん、見て!兄ちゃんと同じだよ!」
ステラは答えられなかった。
水を浮かべることと、形を固定することは違う。
絶えず流れ、崩れようとする水を立体の形へ留め、柄と鍔と刃を分けたまま維持するには、極めて細かな制御が必要になる。
それを六歳の子供が、誰に教えられたわけでもなく成し遂げている。
しかも、水の剣はただ形を保っているだけではなかった。
刃の周囲で、草の葉が細かく震えている。
透明な刃の内部では、水が中心へ向けて押し固められ、異様な密度を生んでいた。
ステラは息を呑んだ。
形の精密さに目を奪われ、その内側に蓄えられた圧力へ気づくのが遅れた。
「……アトカ。そのまま動かさないで」
ステラは杖を握り直した。
「今日はここまでにしましょう。そのお水を、ゆっくり――」
消して。
そう続けるより早く、アトカが庭の反対側を見た。
「兄ちゃん!」
ルトが声に気づき、木剣を止める。
「見ててね!僕も剣を作れたんだよ!」
「えっ、剣!?」
ルトの赤い瞳が輝いた。
その反応が嬉しくて、アトカは丸太の的へ顔を向けた。
「待って、アトカ!」
ステラの声が鋭くなる。
けれど、アトカは母が何を恐れているのか知らない。
兄に、自分の剣を見せたかった。
ただ、それだけだった。
「あの的に、飛べ!」
水の剣が震えた。
アトカの意思に反応し、前へ進もうとする。
しかし、水の剣には進むべき軸がなかった。
視線は丸太を捉えている。
身体も的の正面を向いている。
それでも、身体から離れた場所に生まれた魔術は、アトカのどこを始点として進めばよいのか定められない。
前へ進もうとする力が生まれる。
同時に、下へ落ちようとする力が働く。
横へ逸れた流れを、別の流れが押し戻そうとする。
行き場を失った力が、水の剣の内側で衝突した。
「アトカ、伏せて!」
しゅん、と空間を削るような音がした。
水の剣は丸太へ向かわなかった。
アトカの真横へ弾かれ、ほんの数歩先の地面へ突き刺さる。
同時に、ステラの杖が振り抜かれた。
アトカを包むように、薄い水の膜が立ち上がる。
直後、地面が爆ぜた。
ドォォォォォンッ!!
押し固められていた水が一気に解放され、庭の土を抉った。
泥と小石が爆風に巻き上げられ、水飛沫とともに周囲へ降り注ぐ。
立ち上がった水膜が大きくたわみ、飛んできた土塊を受け止めた。
切り株が衝撃で傾く。
アトカは支えを失い、地面へ転がった。
「アトカ――ッ!」
ステラは泥水の中へ飛び込み、倒れたアトカを抱き起こした。
「アトカ!返事をして!」
「げほっ……ごほっ……」
アトカは泥だらけの顔で咳き込みながら、ゆっくりと目を開いた。
ステラの水膜が間に合ったおかげで、大きな怪我はなかった。
それでも白い髪も頬も服も泥に汚れ、濡れた袖が重そうに地面へ垂れている。
「お母さん……」
アトカの青い瞳に涙が溜まった。
「ごめんなさい……。僕、まっすぐ飛ばしたかったのに……」
涙が頬の泥と混じり、顎の先から落ちる。
その姿を見た瞬間、ステラはアトカを強く抱きしめていた。
「いいの。謝らなくていいのよ」
声が震える。
「あなたが無事なら、それでいいの。ごめんなさい。お母さんが、もっと早く止めるべきだったわ」
「でも、僕が勝手に……」
「それでもよ」
ステラは空っぽの袖ごと、小さな身体を包み込んだ。
母として、ただ怖かった。
そして魔術師として、それ以上に恐ろしかった。
ステラはアトカを抱いたまま、庭に穿たれた穴を見つめた。
六歳の子供が、兄への憧れだけで作り出した水の剣。
その力が進む方向を失っただけで、庭の土を深く抉った。
もし、水膜が間に合わなかったら。
もし、今の刃がアトカ自身へ向かっていたら。
もし、ルトやガイルのいる方へ逸れていたら。
考えただけで、息が詰まる。
怖いのは、アトカではない。
この子を傷つけかねないほど大きく、それでいて、誰も扱い方を知らない力だ。
そして、もう一つ。
ステラは、水の剣が現れた空間を見つめた。
これまで、自分はアトカが体内の魔力をうまく外へ放てず、正面の空間へ滲ませているのだと考えていた。
だが違う。
先ほど、アトカの身体から魔力が流れ出した感覚はなかった。
アトカが剣を思い描いた途端、周囲の魔力がそのイメージへ応じて形を変えたのだ。
己の内にある魔力を認識し、身体へ巡らせる覚醒位階。
肉体や杖を通して魔力を外へ放ち、現象として操る放魔位階。
通常の魔術師は、その段階を踏んで成長していく。
だが、アトカの魔術は、その道筋から外れていた。
「まさか……」
ステラの唇が震えた。
「同調の、兆し……?」
同調位階。
己の魔力と外界の魔力の拍子を重ね、世界そのものへ働きかける、魔術師の到達点の一つ。
六歳の子供が踏み入れられるような領域ではない。
今の現象だけで、同調へ到達していると断じることなどできなかった。
それでも、放魔だけでは説明できない。
アトカが魔力を押し出すより先に、外界の魔力がイメージへ応じている。
完成された同調ではない。
けれど、その前触れに似た何かが、この子の中で目覚め始めている。
「……ステラ!」
爆音を聞きつけたガイルが、ルトを連れて駆け寄ってきた。
「アトカ!」
ルトは真っ青な顔で弟のそばへ膝をついた。
「兄ちゃん……ごめんね」
アトカは涙を流しながら、消え入りそうな声で言った。
「僕、失敗しちゃった。剣、見せたかったのに……」
ルトは何も言わず、自分の袖でアトカの頬についた泥を乱暴に拭った。
「失敗なんかいいだろ」
「でも……」
「怪我してないなら、それでいい」
ルトは、泥で汚れた弟の額へ自分の額を軽くぶつけた。
「剣なら、また作ればいい。今度は俺も一緒に考えるから」
アトカは目を丸くし、やがて泣きながら小さく笑った。
その兄弟の姿を見て、ステラは決意した。
自分の知識では足りない。
母としての愛情だけでは、この力からアトカを守れない。
魔術師として積み重ねてきた経験だけでは、この子へ正しい道を示せない。
この子には、もっと大きな器を持つ師が必要だ。
世界の理を知り、常識から外れた現象を、無理に常識の中へ押し込めることなく扱える者。
アトカの異質な才能を、アトカ自身を守るための魔術へ変えられる者。
その日の夜。
アッシュフォード家の暖炉には、赤い火が静かに揺れていた。
泣き疲れたアトカは寝台で眠っている。
ルトもその隣で、弟を見守るように身体を丸め、寝息を立てていた。
ガイルは暖炉の前で腕を組み、険しい表情で炎を見つめている。
「ステラ。本当に、あの人を呼ぶのか?」
「ええ」
ステラは机に向かい、羊皮紙へペンを走らせていた。
宛先は王都。
かつてステラへ魔術を叩き込んだ、あまりにも気まぐれで、あまりにも尊大で、そして誰よりも優秀だった師。
キルウェスタ。
「今の私では、アトカの才能を潰してしまうかもしれない」
ペンを持つ手が、一度だけ止まった。
「いいえ。それよりも先に、あの子が自分の力で傷ついてしまう。あの方なら……きっと、この子の魔術を見誤らない」
ガイルはしばらく黙っていたが、やがて重い息を吐いた。
「あの人が来たら、家が一つ壊れるくらいじゃ済まないかもしれないぞ」
「それでも、アトカが壊れるよりいいわ」
ステラの声には、迷いがなかった。
手紙の最後に、一文を書き加える。
ただ助けてほしいと頼むだけでは、あの師は動かない。
人助けを訴えるよりも、退屈を嫌う性質と、魔術師としての誇りを刺激した方がよほど確実だ。
『齢六歳にして、同調位階を思わせる兆しを示す、両腕のない子供がいます。形状制御は一流。しかし、魔術に進むべき軸を与えることができず、指向性は皆無。この最高級の原石を、貴女ならば魔術師へ仕立てられますか。退屈な日々に飽いているなら、ぜひ一度、田舎の庭を見物にいらしてください』
ステラは最後に署名を記し、封蝋を落とした。
翌朝。
その手紙は、かつての冒険者仲間の伝手を頼り、王都へ向けて送り出された。




