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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
欠けた子と魔女の手
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初めての水球

アルザード王国、最東端。


隣国との国境を分かつ大森林の裾野に、緑の風が絶えず吹き抜ける平原がある。

名を、アルン平原地方。


王都の華やかさからは遠く離れ、街道を外れれば見渡す限りの草原と畑が広がる、穏やかで静かな辺境の地。その一角に、小さな農家がぽつりと建っていた。


そこは、かつて若き日に冒険者として名を馳せた夫婦が、剣と杖を置き、静かな余生を送るために選んだ我が家だった。


「――おらっ、とぉッ!そこだぁ!」


庭の中央から、元気な声が響いた。


額に大粒の汗を浮かべ、無骨な木剣を両手で力いっぱい振り抜いたのは、六歳になる兄のルト・アッシュフォードである。


夜のように黒い髪を揺らし、情熱を宿した赤い瞳を輝かせながら剣を振るうその姿には、幼いながらも将来の剣士を思わせる力強さがあった。


ルトが握っている木剣は、父ガイル・アッシュフォードが昔使っていた大剣の端材を削り、子供用に作り直してくれたものだった。

まだ本物の剣とは比べものにならないほど軽く、刃もない。ただの木の剣にすぎない。それでもルトにとっては、どんな宝石よりも大切な宝物だった。


「ほら、ルト!腰が浮いてるぞ!そんなんじゃ、魔物の突進なんざ簡単に食らっちまうぞ!」


裏の畑から一仕事を終えて戻ってきたガイルが、クワを片手に豪快な野次を飛ばした。


三十八歳になるガイルの体躯は、冒険者を引退した今でも岩のように分厚く、畑仕事用の粗末な服を着ていても、かつて前線で魔物と渡り合っていた戦士の名残がはっきりと残っている。


「わかってるよ、お父さん!――ふんっ!」


ルトは泥だらけの足をぐっと踏み込み、今度は横一線に木剣を払った。


その隣。


庭の隅に置かれた切り株の上には、兄とは対照的な美しさを持つ三歳の少年が座っていた。


雪のように白い髪を風になびかせ、澄み渡る青い瞳をきらきらと輝かせているのは、弟のアトカ・アッシュフォードである。


小さな身体を包む衣服の袖は、左右ともに空っぽのまま、風に揺れていた。


生まれつき、アトカには両腕がない。


けれど、その瞳に陰りはなかった。


そこにあるのは、自分にないものへの悲しみではなく、目の前で木剣を振るう大好きな兄への、まっすぐな憧れだけだった。


「兄ちゃん、かっこいい!ブンッて音がした!」


アトカが弾むような声を上げると、ルトは得意げに胸を張った。


「だろ? お父さんの構えを真似してみたんだ。俺、将来は絶対に冒険者になって、お父さんより強い剣士になるんだからな!」


ルトは木剣を誇らしげに抱え、わざと大きくふんぞり返ってみせる。


アトカはそんな兄を眩しそうに見つめていたが、やがて自分も負けじと、小さな胸をふくらませた。


「アトカもね、兄ちゃんに見せたいものがあるんだよ」


「ん? なんだよ、アトカ」


ルトが不思議そうに首を傾げ、木剣の先を地面につけてアトカの方へ歩み寄る。

ガイルも「ほう?」と髭面を緩め、少し離れた場所から二人を見守った。


アトカはふふん、と幼い得意顔で鼻を鳴らす。


手がない。


おもちゃを掴むことも、泥団子を丸めることも、兄のように剣を振るうこともできない。


けれど、幼いアトカにとって、それは世界を暗くする理由ではなかった。

手がないのなら、手がなくてもできることで兄を驚かせればいい。

自分にできないことを数えるより、今の自分にできることを見つける方が、アトカにとってはずっと自然だった。


アトカは切り株の上で、小さな足をぷらぷらと揺らした。


そして、ほんの少し真剣な顔になり、「ふぅ」と息を吐く。


次の瞬間だった。


「……うわっ?」


ルトが短い驚きの声を上げ、一歩後ろへ飛び退いた。


アトカの目の前。


何もないはずの空間に、きらきらと輝く小さな水滴が、じわじわと滲み出るように現れたのだ。


水は一つではなかった。


二つ、三つ、四つ。


朝露のように澄んだ水滴が、アトカの周囲の宙へぽつぽつと浮かび上がり、風に流されることもなく、ぷかぷかと漂い始める。


アトカが楽しげに笑うと、水滴たちはまるで小さな生き物のように集まり、くっつき、やがて握り拳ほどの大きさの水球へと姿を変えた。


「すご……すごすぎるだろ、これ……!触ってもいいか?」


ルトの赤い瞳が、これ以上ないほど輝いた。


「いいよ!兄ちゃん、触ってみて!」


アトカが自慢げに胸を張ると、宙に浮かぶ水球の一つがふるりと揺れた。


本当は、ルトの目の前までそっと運ぶつもりだった。


しかし、幼いアトカにはまだ、浮かべた水を思い通りに動かす力などなかった。

水球は狙った方向とはまったく違う軌道を描き、不規則にふらふらと飛んだかと思うと、たまたまルトの顔面へまっすぐ突っ込んだ。


ぱしゃり。


水球が弾け、ルトの顔と黒髪を容赦なく濡らす。


「あっ、ごめん! まだ上手に動かせなくて……!」


アトカが慌てて身を乗り出す。


ルトは濡れた黒髪をぶるぶると震わせ、しばらく固まっていた。

けれど次の瞬間、ぱっと顔を上げると、満面の笑みで叫んだ。


「すっげえなぁ!アトカは天才だ!俺の剣と同じくらいかっこいいぞ!」


ルトは興奮のあまり木剣を放り出し、アトカの周りをぴょんぴょん飛び跳ねた。


褒められたアトカは、顔を真っ赤にして、嬉しそうに「ふっふん」と笑う。


憧れの兄に褒められた。


それだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。


その時、家の勝手口の扉が、がたごとと音を立てて開いた。


「こらこら、ルト。あんまり騒ぐと、せっかく乾きかけた洗濯物が……って、あら? あらあら!?」


洗濯籠を抱えて出てきたのは、母のステラ・アッシュフォードだった。


三十代後半を迎えてなお、現役時代の聡明さを残す瞳が、庭の中央で起きている不思議な光景を捉える。


ステラは目を丸くし、抱えていた洗濯籠をぽろりと落とした。


白いシーツが庭の草の上へ広がる。


けれど、今の彼女はそれどころではなかった。


「……アトカ?それ、あなたがやっているの……?」


「お母さん!見て見て!お水、ぷかぷか!」


アトカは、母が驚いてくれたことが嬉しくてたまらなかった。


さらに自慢げに笑い、浮いている水球をもう少しだけ大きく膨らませようとする。


水球はぷるぷると震えながら、少しだけ膨らんだ。


ステラはしばらく瞬きを繰り返していたが、やがて頬へ手を当て、ぱっと表情を明るくした。


「まぁ……すごいのね、アトカ!教えてもいないのに、こんなに綺麗な水の玉を浮かべるなんて。お母さん、びっくりしちゃったわ!」


ステラはかつて冒険者の魔術師として活動していた。


だからこそ、目の前で起きていることが普通ではないことくらいは分かった。


魔術式もない。


杖もない。


詠唱もない。


幼い子供の遊びのような無邪気さで、水が宙に浮いている。


それがどれほど異常なことなのか、ステラはまだ正確には理解できていなかった。

ただ、この時の彼女には、我が子が見せてくれた初めての魔術が、ただただ愛おしく、誇らしかった。


「うおっ!?なんだあ、その水ん玉は!本当にアトカがやったのか!?」


ガイルがクワを放り投げ、大股で歩み寄ると、アトカの前にどさりと膝をついた。


「お父さん!そうだよ、アトカがやったんだ!すげえんだぞ!」


ルトが自分のことのように鼻を高くして叫ぶ。


ガイルは強面の顔をくしゃくしゃにして、アトカと水球を交互に見つめた。


「ははっ、こいつはたまげた!ルトは剣、アトカは魔術か。うちの息子たちは揃って大物だな!」


「ええ、間違いないわ。ガイル……この子、私が教えてもいないのに、こんなに綺麗に水を浮かべているのよ。もしかしたら、本当にすごい才能があるのかもしれないわ」


ステラは落とした洗濯籠を拾い上げながら、楽しそうに微笑む。


「アトカは私と同じ、水に適性があるのかもしれない。ガイル、私、決めたわ。明日からアトカに、少しずつ魔術を教えてみる」


「おう! そりゃいい! アトカ、お母さんに楽しい魔術をたくさん教えてもらえ!」


ガイルは豪快に笑い、大きな手でアトカの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。


アトカはくすぐったそうに首を縮めながら、声を上げて笑う。


ステラはアトカの前にしゃがみ込み、手のない小さな身体を優しく抱きしめた。

空っぽの袖ごと、我が子を包み込むように抱き寄せ、肩へそっと頬を寄せる。


「アトカ。明日からね、お母さんと一緒に、もっと色んな練習をしましょうね」


「いろんな、練習……?」


「ええ。あなたのその力はね、きっとあなたを世界で一番輝かせてくれる、とっても素敵な宝物なのよ」


アトカの青い瞳が、さらに大きく輝いた。


その瞬間、ぷかぷかと宙を舞っていた水球が、ぱちん、と弾けた。


庭の草の上に、小さな水たまりがいくつもできる。


同時にアトカは、「ふあぁ……」と大きなあくびを一つこぼし、ガイルに撫でられたまま、こくりと小さく首を垂れた。


三歳の子供にとって、あれほどの集中はよほど疲れることだったのだろう。


「おっと、おねむの時間か。魔術師様は、すぐにお疲れになっちまうんだな」


ガイルは笑いながら、アトカをそっと抱き上げた。


ルトは地面に転がった木剣を拾い上げ、悔しそうに、けれど嬉しそうに叫ぶ。


「ずるいぞ、アトカ!俺も剣の特訓がんばるからな!今度は俺がもっとすごいの見せる!」


眠そうなアトカは、ガイルの腕の中でうとうとしながらも、小さく笑った。


「うん……兄ちゃんの剣、また見せてね……」


「もちろんだ!」


アルン平原の風が、庭先を優しく吹き抜けていく。


濡れた草が陽の光を受けてきらきらと輝き、遠くでは畑の麦が穏やかに揺れていた。


それは、どこにでもあるような辺境の家族の、ささやかで温かな午後だった。


――だが、この時のガイルとステラは、まだ知る由もなかった。


幼いアトカが無邪気に浮かべたその水が、自分たちの考える「少し普通ではない才能」などという言葉では到底収まらないものだということを。

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