右腕の始まり
ルトのいない庭は、以前より少しだけ広く、そして静かに感じられた。
兄が王都へ旅立ってから数ヶ月。
アトカは毎日のように、庭の片隅にある切り株の上で目を閉じ、自分の心臓の音を聴き続けていた。
最初の頃は、魔力というものが自分の内側で暴れる嵐のように感じられた。
掴もうとすれば逃げ、抑えようとすれば膨れ上がり、少しでも意識を乱せば全身の奥でばらばらに跳ね回る。けれど今は違う。
「――ふぅ……」
七歳になったアトカは、小さく息を吐いた。
胸の奥で、心臓が規則正しく鳴っている。
その拍動に合わせて、魔力が流れる。
血管の隅々を巡り、指先のない肩の先まで行き渡り、また静かに中心へ戻ってくる。
以前のような荒々しさはない。アトカの内側を巡る魔力は、いまや彼自身の呼吸と同じほど自然に、滑らかに、完全な制御下で循環していた。
その様子を横で見ていたキルウェスタは、黒い日傘をぱさりと閉じ、ふんと鼻を鳴らした。
「……まあ、一年近くもかけて、ようやくこの程度ですか。遅いにもほどがありますわね」
いつものように手厳しい言葉だった。
だが、翡翠色の瞳には、隠しきれない満足の色があった。
七歳で、覚醒位階における魔力循環をここまで安定させた。
普通の魔術師が聞けば、冗談だと笑うか、あるいは顔を青くして黙り込むような成果である。
しかしキルウェスタは、それを褒め言葉として口にはしない。
アトカも、それを分かっていた。
「うん! ありがとう、キルウェスタ先生!」
アトカは誇らしげに胸を張り、にっと笑った。
これでようやく、また魔術を使う修行に戻れるかもしれない。
水を浮かべるだけで終わらない。ちゃんと外へ放ち、自分の意思で形を作る。その一歩へ進めるかもしれない。
そんな期待に胸を膨らませていたアトカだったが、その日の午後、アッシュフォード家に届いた一つの荷物が、彼の修行をまったく別の段階へ進めることになった。
ごとり、と重い音がリビングに響く。
王都から派遣された馬車が、アッシュフォード家の前へ頑丈な木箱を一つ届けていったのだ。
箱には王都でも最高級の魔導工房で使われる封蝋が押され、宛先には流麗な文字でキルウェスタの名が記されていた。
ガイルは怪訝そうに木箱を眺め、腕を組んだ。
「……キルウェスタ先生宛てか。ずいぶん物々しい荷物だな」
「開けて構いませんわ」
ソファーに腰掛けたキルウェスタは、まるで自分には関係がないとでも言うように、退屈そうに爪を眺めていた。
ガイルは首をひねりながらも、木箱の封を外した。
蓋が開く。
その瞬間、彼の顔が強張った。
「……おいおい」
箱の中に、一本の右腕が横たわっていた。
それは人の肉でできたものではない。
精巧な木製の義手だった。
世界樹の末端枝を削り出したかのような、美しい木目。触れれば温もりさえ感じられそうな滑らかな表面。
肩の接合部から肘、手首、五本の指先に至るまで、人間の腕と同じ可動域を持つよう緻密に作り込まれている。
関節の内側には、髪の毛よりも細い金属糸が幾重にも編み込まれていた。
ただの義手ではない。
魔力を通し、神経の代わりに魔力循環で動かすための、王都最高峰の魔導工房でなければ作れない特注品だった。
ガイルは思わず声を荒らげた。
「キルウェスタ先生、これ……王都の魔導工房製の特注義手じゃねぇか!?こんなもん、辺境の領地一つ買えるぞ!どうしてこんなものを急に……!」
勝手口から様子を覗いていたステラも、箱の中身を見た瞬間、口元を押さえて絶句した。
「世界樹の魔導義手……本物なの……?」
大人二人が言葉を失う中、キルウェスタだけは平然としていた。
「大袈裟ですわね。少しばかり出来の良い玩具でしょう」
「玩具で領地が買えてたまるか!」
「おかげで、わたくしの今後半年分の紅茶の質をいくつか落とす羽目になりましたわ。まったく、嘆かわしい出費ですこと」
「そんな程度の話じゃねぇだろ、これ……!」
ガイルが頭を抱える。
だが、アトカは大人たちの会話をほとんど聞いていなかった。
彼はテーブルへ近づき、箱の中の右腕をじっと見つめていた。
怖くはなかった。不気味でもなかった。
むしろ、なぜか胸の奥が熱くなる。
それは、自分には生まれつき存在しなかったものだった。
手。指。腕。
誰かの服の裾を掴むこと。
本のページをめくること。
ティーカップを持つこと。
兄の手を握り返すこと。
アトカが知らなかった日常の形が、その木製の右腕の中に静かに眠っているように見えた。
キルウェスタはソファーから立ち上がり、アトカの隣へ歩み寄った。
そして木箱から義手を取り出す。
「アトカ坊や」
「はい」
「右肩を出しなさい」
アトカは緊張しながらも頷いた。
キルウェスタは彼の服の袖を丁寧にまくり、剥き出しになった右肩の先へ、その義手をあてがった。
接合部の留め具が、まるで最初からそこにあるべきだったかのように、アトカの身体へぴたりと合う。
かちり、と小さな音がした。
「……あ」
アトカは目を見開いた。
自分の右側に、重さがある。
今まで空っぽだった場所に、何かがある。
けれど、義手はだらりと垂れ下がったまま動かなかった。
指先も、手首も、肘も、何一つ反応しない。便利な仕掛けで勝手に動くような機能は、どこにも備わっていなかった。
キルウェスタはアトカの耳元で、静かに告げた。
「この義手には、勝手に動くような凡庸な仕掛けなど一切ありませんわ」
アトカは息を呑む。
「これが、貴方の次の課題です」
キルウェスタの声は厳しかった。
しかし、その奥には確かな期待があった。
「この一年で学んだ魔力操作の応用。貴方の体内を巡る魔力を、その義手の中へ流し込みなさい。異物として扱うのではありません。道具として振り回すのでもありません。その腕を、貴方の神経の続きとして受け入れるのです」
「僕の……神経の続き……」
「ええ。心臓で息をし、血管で魔力を巡らせ、その先にこの腕があると思いなさい。肩で終わっていたはずの流れを、もう一度その先へ伸ばすのです」
アトカは、自分の右肩に繋がった木製の腕を見つめた。
重い。
とても重い。
けれど、それ以上に不思議だった。
ただの木のはずなのに、どこか自分を待っているように感じられた。
キルウェスタは意地悪く微笑む。
「手始めに、明日の朝までに指先を一本、貴方の意思で動かしてみせなさい」
「明日の朝までに……?」
「ええ。できなければ、その腕はただの高価な木屑ですわ。そして貴方は、再びゼロ点です」
相変わらず容赦のない言葉だった。
ガイルが思わず口を挟む。
「おい、キルウェスタ先生。いくらなんでも明日の朝は――」
「ガイル」
キルウェスタは振り返らずに言った。
「この子は、三年後に王都へ行くのでしょう?」
ガイルは言葉を止めた。
ステラも黙る。
キルウェスタはアトカだけを見ていた。
「兄に、凄い魔術師になった姿を見せるのでしょう?」
アトカの青い瞳が、静かに揺れた。
次の瞬間、その揺れは消えた。
「……はい」
キルウェスタは満足そうに笑うと、黒日傘を手に取った。
「ならば、泣き言を言う時間などありませんわ。せいぜい足掻きなさい、アトカ坊や」
そう言い残し、キルウェスタはリビングを出ていった。
部屋には、しばらく沈黙が残った。
ガイルは心配そうにアトカを見る。
ステラも、今すぐ抱きしめたいのを堪えるように両手を握っていた。
けれど、アトカは二人に向かって笑った。
「大丈夫だよ、お父さん、お母さん」
その声は少し震えていた。
それでも、確かな決意があった。
「僕、動かしてみる」
アトカは自分の右肩に繋がった動かない義手を見つめる。
重い。冷たい。
まだ、自分のものではない。
けれど、これはキルウェスタ先生が自分のために用意してくれた、世界に一つだけの右腕だった。
兄との約束へ続く、最初の形だった。
(動かせばいいんだ)
アトカは静かに息を吸った。
心臓の音を聴く。魔力の流れを感じる。
肩で途切れていたはずの道を、さらにその先へ。
木の腕の中へ。金属糸の奥へ。
まだ何も感じない暗闇のような場所へ、自分の魔力をそっと伸ばしていく。
(僕の魔力で、僕の腕にするんだ)
生まれつき腕のない少年が、魔術によって自分の右腕を得るための、新たな特訓が始まった。




