先生と呼ぶ声
長机の上には、二つの透明な隔離容器が置かれていた。
一方には、終了条件を失った古い鎮静を水へ変えた回収水。
もう一方には、白い命令痕を含む回収水が封じられている。
乳白色の細い痕は水面から分かれたまま動かず、解析担当者が容器の脇へ触れないよう札を立てていた。
トマとユナへ新しく使われた局所鎮静も、決めていた五分で一度止められている。
成人治癒師が二人の傷と痛みを確認し、今は再使用せずに様子を見ていた。
泣いている子がいた。疲れて眠っている子もいる。急に空腹を思い出し、腹を押さえる子もいた。
灰庭は静かではない。
けれど、誰の声か分からないほど、全員が同じ静けさへ沈んでもいなかった。
フレデリックは地下搬入口の封印を確認し、魔導局の担当者へ、今夜は外側から交代で監視するよう命じた。
地下と二階の一部は封鎖し、安全を確認した入口側と広間だけを使う。
「私と成人治癒師、救護職員がここに残る。マルセル、君にも今夜はここにいてもらう。ただし、建物全体への灰色は禁止する。個別に必要な場合も、本人の希望、範囲、深さ、終了時刻を先に確かめる」
「私一人では決めない、ということですね」
「そうだね。命に関わり、本人へ確認できない時も、必要な者へ最小限だけだ」
マルセルは目を伏せた。
今すぐ子供たちから引き離されるわけではない。それでも、これまで握っていた判断の多くを手放すことになる。
「誰かが来ることを望んでいました」
マルセルは言った。
「ですが、実際に判断を止められると、子供たちが自分の手から離れていくようにも感じます」
「君は長く、決めることと守ることを同じものとして扱ってきた」
フレデリックは責める口調ではなかった。
「決めなければ守れない場面もある。だが、相手の声を聞かずに決め続ければ、守ることは支配へ変わる」
マルセルは、眠っているシロを見た。胸元へ手を置く仕草を、いつからか異常の合図として受け取らなくなっていた。
「私は、聞いていたつもりでした」
「聞いていたことは消えない。聞けなくなったことも、同じように消えない」
広間の隅では、バルトロが水を飲むたびに苦いと顔をしかめていた。
エルマは壁へ背を預け、両手を膝の上に置いている。
ギルベルトは、もう秒針を追う必要のない懐中時計へ何度も指を掛け、そのたび手を離した。
成人治癒師は、壁際に座るアトカの肩と義手の指の動きを確認する。
「痛みは、今いくつですか」
「二です」
開閉はできるが、指の動きは先ほどより僅かに遅い。
「今夜はもう水を使わないでください。義手内部は、学園へ戻ってから装具担当者へ渡します」
「はい」
リリシアがアトカの隣へ座った。
「何か気になることがあれば、治癒師さんかフレデリック先生へ先に伝えましょう。わたしたちだけで抱えなくても大丈夫です」
アトカは頷いた。それでも地下も、子供たちも、マルセルの今後も気になる。
「眠いです」
思わず口にすると、エルマが答えた。
「それでよいのですわ。わたくしも眠いですもの」
「お前はさっきまで地下へ行きたがってただろ」
ギルベルトが言う。
「行きたいことと眠いことは両立しますわ」
「寝ながら行くなよ」
「行きませんわよ」
言い返した後、エルマは欠伸を隠そうとして失敗した。張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
フレデリックは四人へ、学園へ戻ってもよいと伝えた。
「子供たちの話も聞くんですよね」
アトカが尋ねる。
「ああ。ただし、今夜ここでマルセルの処遇を最終決定するわけではない」
「僕も聞きたいです」
「途中で眠ってもよいなら、いて構わない」
「寝ません」
答えた直後、アトカは欠伸をした。
バルトロが笑う。
「もう眠そうじゃねえか」
「バルトロ先輩も目が赤いです」
「苦いからだ」
「それだけではありませんわ」
フレデリックは広間へ椅子を並べさせた。
正式な聴取ではない。マルセルを責めるためでも、許すためでもない。
今後、誰が何を望み、何をされたくないのかを確かめるための時間だった。
「これから話してくれる希望や、嫌だったことを、今後の安全と支援のために記録してもよいかな」
フレデリックは閉じた帳面を膝へ置いて説明した。
「名前を残したくない時や、書かないでほしいことがある時は、その場で言ってよい。後から訂正したいことや、残してほしくない部分ができた時も、本人と一緒に扱いを決める。何も言わないことを、書いてよいという意味にはしない」
最初に手を上げたトマへ、フレデリックはもう一度、名前を含めて記録してよいかを確かめた。トマが頷く。
その後も、話す者ごとに記録してよい範囲を短く尋ねた。
「先生、灰色使った」
トマが言う。
「痛くないのはよかった。夜に膝が痛かった時も、先生がすぐ来てくれた」
トマは包帯の上へ指を浮かせた。
「先生は、ぼくが呼んだら来る。転んだ時も、包帯を直してくれる」
マルセルは黙って聞いている。
「だから、先生がいなくなるのは嫌」
トマは一度マルセルを見てから続けた。
「でも、灰色で痛くなくなったら、転んだのも分かんなかった。痛いって言った時に、全部消すのも嫌」
「痛くない方と、分かる方。どちらが本当かな」
フレデリックが尋ねる。
「両方」
「先生に、どうしてほしい?」
「聞いてほしい。少しにするか、いらないか」
マルセルは唇を開きかけたが、フレデリックが視線で待つよう促した。
今は、子供の言葉を最後まで聞く時間だった。
次にユナが話した。
「足が熱かった時、先生が冷たい布を替えてくれた。灰色も、先生のがいちばん安心する」
それは、長く自分の傷を見てきた相手へ向ける信頼だった。
「先生にやってほしい。でも、寝てる時に勝手にするのは嫌。朝、何も分かんなくなるから」
「頼みたいことと、勝手にされたくないことは、両方なのね」
リリシアが確認する。
「うん。先生なら、聞いたら分かってくれると思ってた」
マルセルの指が僅かに動いた。
「分かりました」
短く答え、言い訳は重ねなかった。
ミナはマルセルのすぐ近くへ座っていた。
「わたし、先生がいなくなったら困る」
名前を残してよいと答えてから、ゆっくり話す。
「御飯をどれくらい食べるかも、薬がどこにあるかも、夜に誰が起きやすいかも、先生が知ってる。熱が出たら、一晩中起きてる」
マルセルが子供たちを長く支えてきた時間は、灰色の問題だけで消えるものではない。
「知らない人が来ても、すぐ先生の代わりにはならない」
「そうだね」
フレデリックは否定しなかった。
「代わりを一人作るのではなく、マルセル一人しか知らないことを、必要な者と少しずつ共有する」
ミナは眉を寄せた。
「先生が決めないの、変」
「私も、そう感じています」
マルセルが答える。
「嫌?」
「怖いです。自分がいらなくなるように感じます」
ミナはすぐに首を横へ振った。
「いらなくないよ」
その声は強かった。
「でも、嫌なことしたら嫌って言う。灰色で嫌じゃなくしないで」
マルセルは目を伏せる。
「はい」
ナナは名前を残さないことを選んだ。
「夜、夢が怖い時、先生を何回呼んでも来てくれた。先生がいると、眠れる」
毛布を胸元まで引き上げる。
「だから、夜の灰色が全部なくなるのは嫌」
「今夜も使いたいかい」
「使いたい。でも、朝まで何も分からないのは嫌。途中で起きたら、先生にいてほしい」
「います」
マルセルが答えた。
「私と成人治癒師もいる。眠る前に、深さと時間をもう一度決めよう」
フレデリックが続けると、ナナは頷いた。
物置の入口にいるリタは、記録を後で自分へ見せることを条件に話した。
「先生、いなくならない?」
「今夜はいます」
マルセルが答える。
「先生、包帯を替える時、痛くしないようにしてくれる。暗くしたい時も、前は分かってくれた」
リタは灯りを覆う布を見る。
「だから先生がいい。でも、分かんない答えは嫌。勝手に暗くするのも、灰色にするのも嫌」
「明日、何も告げずにマルセルを連れていくことはしない」
フレデリックが言う。
「君たちとの関係を断たない形を基本に考える。ただし、この建物へ戻れるかは、安全確認が終わってから決める」
「先生は、わたしたちの先生じゃなくなる?」
「君たちとの関係を保つことを基本に考える」
約束できる範囲だけが示された。
その時、毛布の上でシロが身動きした。
目を開き、浅く息を吸う。右手が胸元へ動くと、成人治癒師とリリシアがすぐに顔を覗き込んだ。
「胸が変ですか」
「少し。今は、ちょっとだけ」
成人治癒師が呼吸と脈を確認する。
「急いで治癒や鎮静を使う状態ではありません。そばで見ます」
マルセルは立ち上がりかけ、途中で止まった。
「そばへ行ってもよいですか」
シロが頷く。
マルセルは毛布の横へ座った。
「灰色を使いますか」
「今はいらない」
「分かりました」
「先生」
「はい」
「息できなくなった時、先生が助けてくれた」
シロの声はまだ弱い。
「先生がいなかったら、怖かった」
マルセルの目が揺れる。
「でも、さっきは怖いって言えた。次も消さないで」
「はい」
「息できなくなったら助けて。灰色じゃないと無理なら、先に言って」
「言える状態なら、必ず聞きます。必要な時も、成人治癒師と確認して、最小限にします」
「それでいい」
シロは、この言葉を記録してよいと答えた。
右手は胸元へ置かれたままだった。
マルセルは、その手を異常の合図として見続ける。もう、何もないとは記録しない。
子供たちの言葉には、同じものが繰り返し含まれていた。
先生が来てくれた。
先生が傷を見てくれた。
先生が食べさせ、眠れない夜に起き、息が苦しい時に助けてくれた。
だから、いなくなってほしくない。
だからこそ、聞いてほしかった。
信じていなかったから拒んだのではない。
信じていた相手なら、自分の痛い、怖い、嫌だという声を受け取ってくれると思っていた。
マルセルは、膝の上で両手を握った。
「泣いた時も」
トマが思い出したように言う。
「先生、すぐ来た」
「うん」
ミナも頷く。
「でも、前は何があったか聞いてくれた。だんだん、泣いたら先に灰色になった」
責めるための言葉ではなかった。
子供が覚えている順番を、そのまま話しただけだった。
ナナが毛布の中から言う。
「先生、泣き声がすると、すごく怖い顔してた」
マルセルが息を止めた。
「怖い顔?」
「怒ってない。困った顔。早く静かにしなきゃって顔」
広間で泣いている幼い子の声が響く。
マルセルの肩が僅かに揺れた。
その泣き声へ駆け寄らなければと思う。苦しみを見つけ、何とかしなければと思う。
同時に、聞きたくないと思った。
もう一人、助けなければならない子がいると知らされることが怖い。
泣き続けられれば、自分の手では足りないと突きつけられる。
痛みを消せなければ、守れていないように感じる。
その恐怖を、マルセルは長い間、疲労や責任の重さだと思っていた。
だが違った。
「私は……」
声が掠れた。
子供たちがマルセルを見る。
「私は、皆さんが泣くことが怖かったのですね」
フレデリックは答えを与えなかった。
マルセル自身が続けるのを待つ。
「泣き声を聞けば、誰かが傷ついている。苦しんでいる。私が助けられていないと分かる」
握った手へ力が入る。
「最初は、泣いている理由を聞こうとしていました。けれど、聞いてもすぐには解決できないことが増えました。薬が足りない。人が足りない。夜が明けても、助けは来ない」
言葉の途中で、マルセルの目から涙が落ちた。
一滴だけではなかった。
俯いた頬を伝い、握った手の甲へ落ちる。
「皆さんが苦しむことが怖かった。それだけではありません」
マルセルは涙を拭かなかった。
「苦しんでいる皆さんを前に、何もできない自分を見ることが怖かった」
広間の泣き声は止まらない。
誰も灰色を流さない。
それでも、成人治癒師が幼い子のそばへ行き、救護職員が水を渡し、何が嫌なのかを尋ねている。
泣き声は、見捨てられている証ではなかった。
誰かへ届くための声だった。
「私は、皆さんの痛みを和らげるためだけに灰色を使ったのではありません」
マルセルは震える息を吐いた。
「自分が皆さんの泣き声に耐えるためにも、静かにしたのです。泣かなくなれば、守れたと思えるから」
ミナの目が大きくなる。
「皆さんのためだと信じながら、自分が怖くない静けさを選びました」
マルセルは初めて、声を詰まらせた。
「皆さんが私を信じて呼んでくれたのに、その声を、私の恐怖で消しました」
涙が次々に落ちる。
「それが、私の間違いです」
誰も、すぐに許すとは言わなかった。
トマは包帯の膝を見た。ユナはマルセルの手を見つめ、ナナは毛布を握っている。リタは扉の陰から出てこない。
ミナが尋ねた。
「先生も、泣くの?」
「はい」
「先生が泣くのは、灰色にしないの?」
マルセルは目を閉じた。
「しません」
「どうして?」
「今、悲しくて、怖くて、間違えたと分かったからです。この涙まで消せば、また分からなくなります」
ミナは少し考えた。
「じゃあ、わたしたちのも消さないで」
「はい」
マルセルは泣いたまま答えた。
「私が怖くても、消しません。まず、何があったのかを聞きます」
トマが尋ねる。
「ずっと泣いてても?」
「一人で止められない時は、誰かを呼びます」
「灰色じゃなくて?」
「灰色が必要か、本人に聞きます。聞けない状態なら、成人治癒師と必要な分だけ決めます」
シロが目を閉じたまま言う。
「怖いって言ってもいい?」
「言ってください」
「先生も?」
マルセルは涙の残る顔で頷いた。
「私も、怖い時は怖いと言います」
フレデリックが、そこで初めて口を開いた。
「今の気づきは、君の責任をなくすものではない」
「はい」
「だが、同じことを繰り返さないためには必要な気づきだ。泣き声を危険の合図として受け取ることと、泣き声そのものを消すことは違う」
「はい」
「今の言葉を、記録してよいかな」
マルセルは子供たちを見た。
「皆さんの言葉と混ぜず、私自身の記録として残してください」
フレデリックは頷いた。
子供たちの希望は、本人が残してよいと答えた範囲だけを記した。マルセルの恐怖と判断は、彼自身の証言として分けて残す。
慕う声を、彼の正しさの証拠にはしない。
嫌だったという声を、共に暮らした時間の否定にも使わない。
やがてミナが腹を押さえた。
「先生、お腹空いた」
泣いていたマルセルの表情が止まる。
子供の夕食は、責任についての話が終わるまで待ってはくれない。
「食事を温めます」
立ち上がろうとして、疲労で僅かによろめく。フレデリックが腕を支えた。
「君も食べた方がよい。外にも救護職員がいる。食事を運んでもらおう」
「食べる量と、苦手なものを伝えます」
マルセルは、自分で全てを行うとは言わなかった。
ミナが確認する。
「先生も一緒?」
「一緒に食べます」
「泣いたまま?」
マルセルは頬を拭ったが、すぐに別の涙が滲んだ。
「少し、時間が掛かるかもしれません」
「じゃあ、そのままでいい」
許すという言葉ではなかった。
ただ、泣いている者を、すぐに静かにしなくてもよいという言葉だった。
アトカは壁際で、そのやり取りを見ていた。いつの間にか目が半分閉じている。
「アトカ君。起きていますか」
リリシアが呼ぶ。
「起きています」
「今、目を閉じていました」
「少しだけです」
「横になりましょう」
「話は終わりましたか」
「今夜の分は、終わりました」
アトカはフレデリックを見る。
「マルセルさんを、連れていかないんですね」
「今夜はね。今後も子供たちとの関係を完全に断つことは基本にしない。ただし、この建物で同じように暮らせるかは、安全確認と調査の後に決める」
その答えを聞き、アトカは身体から力を抜いた。
ギルベルトも壁へ背を預け、エルマは座ったまま目を閉じている。
バルトロだけが、運ばれてくる食事の話を聞いて顔を上げた。
「俺の分もある?」
「君は待っている間に食料を全て食べただろう」
フレデリックが言う。
「あれは待ってる間の分だ」
「夕食は別なのかな」
「別だ」
バルトロが満足そうに頷いた。
広間には、まだ泣き声がある。
包帯の下では傷が痛む。地下には白い術式の根元が残り、マルセルの責任も明日になれば消えない。
それでも今夜、子供たちは先生と呼ぶ相手のそばで食事をする。
その関係は断ち切られず、同じ形にも戻されない。
先生と呼ぶ声も、泣き声も、嫌だという声も。
誰か一人が正しいと決めた静けさへ沈められず、灰庭の夜に残っていた。




