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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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残す灰色、流す灰色

地下搬入口を限定的に開いてから、ほどなくして正面入口の隔離扉が低く軋んだ。


白い命令幹はすでに失われている。

外側では学園の施設担当者が、古い隔離設備の固着した留め具を一つずつ外していた。


扉は一度には上がらない。


床との間に僅かな隙間が生まれ、そこで止まった。外から支持具が差し込まれ、閉じようとする古い仕組みを押さえる。


「入口から離れてくれたまえ」


隙間が開いたことで、初めてフレデリックの声がはっきり届いた。


ギルベルトが子供たちを下がらせる。アトカも入口へ続けていた水路を手前へ戻した。


外側で短い衝撃音が二度続く。


施設担当者が留め具を外し、扉の重さを支持具へ移した。

壁に残っていた白い痕が一瞬だけ光ったが、灰色を増やす命令は戻らない。


やがて隔離扉が、人が身を屈めれば通れる高さまで持ち上がった。


外の冷たい空気が灰庭へ流れ込む。


廊下に残っていた灰色が揺れ、子供たちの髪と服の裾を撫でた。


施設担当者が扉を二重の支持具で固定し、安全を確認する。


最初にフレデリックが中へ入った。長い銀髪には石の粉が付き、白いローブの袖も汚れている。


琥珀色の瞳は、まず特等枠の四人を見た。


次に子供たち。


マルセル。


開かれた地下搬入口。


誰が立ち、誰が座り、眠っている者の呼吸が保たれているかを一人ずつ確認する。


「全員、ここにいるね」


ギルベルトが頷いた。


「確認できている範囲では。地下は扉を開けただけです。誰も下りていません」


「よい判断だ」


フレデリックの後ろから、成人治癒師と救護職員が入ってくる。


救護職員は子供たちのいる側へ向かい、毛布、水、食べ物を置く場所を分けた。成人治癒師はリリシアの前へ膝をつく。


「引き継ぎをお願いします」


「はい」


リリシアは、シロの呼吸、トマの膝、ユナの足首、灰色が深まっていた時間、訴えが戻った順番を伝えた。


誰が今も痛みを訴えているか。


誰が寒いと言ったか。


誰が言葉を出さず、毛布を強く握っていたか。


成人治癒師は記録を受け取りながら、子供たちの呼吸、顔色、傷、体温を順に確認する。


「ここからは、わたしたちが監視を引き継ぎます」


その言葉を聞いても、リリシアはすぐにはシロから離れなかった。


「呼吸が浅くなる時は、右側の胸元を押さえる動きが先に出ます。眠っていても同じです」


「分かりました。変化があれば、あなたにも伝えます」


そこでようやく、リリシアは一歩だけ下がった。


魔導局の解析担当者二人も中へ入る。

一人は隔離扉の固定と白い残存痕を確認し、もう一人は地下搬入口の周囲へ感知具を置いた。


最後にバルトロが入口をくぐる。


外で成人治癒師から歩行可能と判断されていたが、顔色はまだ悪かった。口元を押さえ、何度も眉を寄せている。


「苦い」


「まだ苦いのですか?」


エルマが尋ねた。


「ずっと苦いんだよ」


「水を飲んでも消えませんの?」


「消えねえ」


成人治癒師が子供たちの最初の確認を救護職員へ引き継ぎ、バルトロの前へ戻ってきた。


「それでも飲んでください。口と喉を洗う意味があります」


「外でも飲んだ」


「もう一杯です」


差し出された水を、バルトロは不満そうに受け取る。


成人治癒師は口内と喉、呼吸、掌、腕と肩をもう一度確認した。

白い命令幹を喰ったことで生じた身体強化は、まだ完全には抜けていない。


「歩くことはできますが、次の魔力処理には参加させません。座って休んでください」


「俺だけ役目なしかよ」


「休んで、異常があれば伝えることが役目です」


バルトロは仲間たちを見回した。


肩を庇うアトカ。床へ座ったままのエルマ。子供たちのそばにいるリリシア。地下扉の鍵を預かっているギルベルト。


「お前ら、ひどい顔だな」


ギルベルトが返す。


「お前もな」


「俺は苦いだけだ」


「顔色も悪い。座れ」


「お前に言われたくねえ」


アトカは、言い返せるバルトロに少しだけ安心した。


成人治癒師は次にアトカの前へ来た。


「肩と接続部の周囲を確認します。触れてもよいですか」


「はい」


アトカは義手を膝へ置く。


成人治癒師は身体側の接続部周囲へ触れ、熱と痛みの位置を確かめた。

その後で、指を握る、開く、肘を曲げるという最低限の動作だけを頼む。


義手は動いた。


だが、身体側には重さと熱が残っている。


「白い術式へ水が押し返された時から痛みがあります」


「十段階なら、安静にしている今はいくつですか」


「三くらいです。隔離扉へ水を近づけた時は六か七になりました。地下搬入口の周囲では増えていません」


成人治癒師はフレデリックへ向き直った。


「身体側の接続部に熱と圧痛があります。義手内部の判断は学園の装具担当者へ渡します。現時点では新しい水を増やさず、維持しているものも順に手放すべきです」


フレデリックは頷き、アトカの前へ膝をついた。


「今も三つの水を保っているね」


床には、入口までの帰路、地下搬入口の周囲、リタの魔術灯を包む膜が残っている。


どれも小さい。


それでも、三つを同時に維持していた。


「帰路は、もう私たちが確保している。地下も、解析担当者と施設担当者が見る」


「でも、灰色が上がってきたら」


「エルマ君と解析担当者が知らせる。その時に、別の方法を選ぶ」


アトカは地下から立ち上る細い灰色を見た。


今すぐ水を広げれば、床下から上がる分も集められる気がする。


「僕がやった方が早いです」


口にしてから、自分の声が少し震えていることに気づいた。


早く終わらせ、肩を休めたい。


けれど、自分が手を放した後に何か起きることが怖い。


「アトカ君」


フレデリックは急かさなかった。


「水を手放すのが怖いかい」


アトカは少し迷ってから頷く。


「僕が消した後に、また灰色が増えたら怖いです」


「そうだね」


「誰かが痛いと言えなくなったら」


「その時は、もう一度止める方法を選ぶ」


「間に合わなかったら」


「その判断は私が引き受ける」


アトカが顔を上げた。


「間に合わなかった時も、君一人の責任にはしない」


床へ座るエルマ。


呼吸の浅いギルベルト。


魔力を使い、疲れたリリシア。


肩を痛めたアトカ。


「君たちは、ここまで保った。外へ知らせ、子供たちの声を戻し、白い命令の位置を示した」


フレデリックは、大人が引き受けるべき部分を明確に言葉にする。


「ここから先まで、君たちだけに背負わせない」


アトカは床の水を見た。


「一つずつ減らそう。最初は帰路だ」


正面入口は開いている。施設担当者が扉を固定し、外には救護職員もいる。


アトカは入口へ続く細い水路を消した。


肩の重さが、少しだけ軽くなる。


「次は地下です」


エルマは銀針を持ち上げかけ、両手の震えに気づいて床へ置き直した。


「針は置いたまま見ますわ。地下から上がる灰色の量は一定です。白い命令が再び動いている反応もありません」


解析担当者が感知具の表示を確かめる。


「地下から上がる外部魔力を一時的に遮る仮封鎖を置きます。空気は通し、灰色と白い残存痕だけを止めます」


地下搬入口の隙間へ、細い帯状の魔術具が差し込まれた。


空気の流れは残る。


灰色の上昇だけが、仮封鎖の内側で止まった。


「封鎖を確認しました」


「分かりました」


アトカは地下搬入口の周囲に置いていた水を消す。


成人治癒師が尋ねた。


「肩はどうですか」


「二くらいになりました」


「最後は明かりの水だね」


アトカは物置を見る。


リタが扉の陰からこちらを見ていた。


「リタさん。僕の肩が痛いので、明かりの水を一度消したいです」


リタの顔が強張る。


「暗くなる?」


「魔術灯は消しません。水を外すと、少し白く見えます」


「嫌」


返事はすぐだった。


アトカは困ってフレデリックを見る。


フレデリックは代わりに決めなかった。


「別の方法を考えよう」


マルセルが魔術灯へ近づく。


「薄い布を掛ければ、光を弱められます。水と同じ色にはなりませんが、明るさは変えられます」


「やってみる」


マルセルは棚から薄い布を二枚取った。


一枚目を魔術灯の前へ置く。


「まだ白い」


二枚目を重ねると、光が柔らかくなった。


「ちょっと暗い」


マルセルは布の端を折り、光の一部だけを二重にする。広間側を暗くし、物置側には一枚分の光を残した。


「これなら?」


リタはしばらく見た。


「さっきと違う。でも、嫌じゃない」


「この明るさでよいですか」


「うん」


アトカは水膜を消した。


肩からさらに力が抜ける。


義手が急に重く感じられ、身体が義手の側へ傾いた。フレデリックが背へ手を添える。


「座ろう」


「まだ立てます」


「立てることと、立っていた方がよいことは同じではないよ」


アトカは少しだけ口を尖らせた。


「みんな同じことを言います」


「大切なことは、何度も言われるものだからね」


壁際へ座り、義手を膝へ載せる。


維持し続けていた三つの水を全て手放しても、灰庭は崩れなかった。


誰かの痛みが、すぐに奪われることもない。


リタの明かりも残っている。


「残っている灰色を、どうしますか」


エルマが尋ねた。


「マルセルさんが以前流した灰色と、白い命令痕を帯びた灰色が混ざっていますわ」


古い灰色を一度に外せば、痛みや恐怖が急に戻る可能性がある。


だが、そのまま安全な鎮静として使い続けることもできない。


白い命令痕を帯びた部分には、全員を同じ濃さへ近づけようとした痕跡が残っている。


マルセルが流した古い灰色には同じ反応がなくても、終了条件を失い、長時間残されてきた問題があった。


フレデリックはマルセルを見る。


「君が流した経路は見分けられるかな」


「私が組んだ経路は分かります。ですが、白い術式に押し広げられた後、どこまで命令痕が混ざったかは、私一人では判断できません」


「エルマ君」


「白い命令痕が強く残る位置なら示せます。ですが、操作はしませんわ」


フレデリックは解析担当者と成人治癒師へ確認した。


成人治癒師は、三つの水を消した後のアトカの肩と接続部をもう一度診る。指の開閉にも遅れがないことを確認した。


「痛みは二まで下がっています」


成人治癒師はアトカへ条件を伝える。


「小さな水球一つ、二人分までなら試せます。ただし、痛みが四になる、接続部の熱が強くなる、指の動きが遅れる。そのどれかがあれば、すぐに止めてください」


「はい」


「二人分を終えた時点でも、必ず休みます」


「分かりました」


フレデリックが続ける。


「身体の内側には触れない。子供たちの身体周囲へ外部化している分だけだ。壁、床、地下に残るものは大人側で隔離する」


「はい」


アトカは掌の上へ、小さな水球を一つだけ作った。


マルセルが古い灰色の経路を示す。


エルマは、床に置いた銀針へ返る反応から、白い命令痕が強い場所だけを読み上げる。


アトカは二つの灰色を水球へ入れて保持しなかった。


外部化した灰色の縁へ、少量の水を触れさせる。


マルセルが流した古い灰色は、その場で静かに水へ変わった。


白い命令痕を帯びた部分でも、灰色そのものは水へ変わる。

しかし、乳白色の細い痕だけが水面へ分かれて残った。


解析担当者が透明な隔離容器を置く。


「命令痕を含む回収水はこちらへ。痕のない水も、古い鎮静由来なので別の容器へ分けます」


「少しずつならできます」


アトカは肩の痛みを確かめた。


小さな水球一つだけ。


今は増えていない。


ギルベルトが役割を分けようと口を開く。


フレデリックが先に告げた。


「指揮は私が引き継ぐ」


ギルベルトの表情が僅かに固まる。


自分の役目を奪われたと感じたのではない。


ようやく手放せることへ安心し、その安心を認めるのが悔しい顔だった。


「……お願いします」


「ありがとう。よく保ってくれた」


フレデリックは全員へ指示する。


「エルマ君は命令痕の位置を読むだけ。術式操作は行わない」


「承知しましたわ」


「リリシア君は、灰色を外した後の身体反応を成人治癒師と一緒に見る。治癒は緊急時だけだ」


「はい」


「ギルベルト君は、子供たちの名前と、灰色が深まる前に訴えていた状態を読み上げてくれたまえ。本人が違うと答えたら、その場で直す」


「分かりました」


「マルセルは、古い灰色をそのまま残さない。身体内部の鎮静を止める必要がある時は成人治癒師と確認し、外側の古い灰色を分けた後、必要な者にだけ新しい局所鎮静を組む」


「目的、範囲、深さ、終了時刻を先に決めます」


「そうしてくれたまえ」


「バルトロ君」


「何だ」


「今は何も喰わない。成人治癒師のそばで休むこと」


「休むの嫌いだ」


「知っているよ」


バルトロは不満そうに床へ座った。


それでも、勝手に灰色へ触れようとはしなかった。


「アトカ君は、子供たちの身体の外側へ残った古い灰色を少量ずつ水へ変える。白い命令痕が分かれたら、解析担当者へ渡す」


「はい」


全てを消すことが救いではない。


だが、終了条件を失った古い灰色を、安全だと決めて残すこともできない。


本人が選ぶためには、一度、白い命令の影響と古い運用を外す必要があった。


「始めよう」


フレデリックの指示で、ギルベルトが最初の名を読む。


「トマ」


少年が顔を上げた。


「膝に擦り傷。灰色が深まる前は、じりじりすると答えた」


トマは自分の膝を見る。


「今は少しだけ痛い」


「これから、身体の外側へ残っている古い灰色を一度外します」


リリシアが説明する。


「痛みが変わるかもしれません。その後で、もう一度どうしたいか聞きます」


「分かった」


マルセルは、膝へ使っていた局所鎮静を決めた時刻で止めた。


成人治癒師がトマの呼吸と顔色を確認する。


アトカの水が、トマの身体の外側へ薄く残っていた灰色へ一滴ずつ触れた。


灰色は水へ変わる。


そのうち、白い命令痕を帯びた部分からだけ、乳白色の細い痕が水面へ分かれた。


回収水が隔離容器へ移される。


トマの顔が少し歪んだ。


「じりじりが強くなった」


成人治癒師とリリシアが包帯と傷を確認する。


「血は増えていません。締めつけも強くありません」


リリシアが尋ねた。


「足を休ませた上で、痛みを少し弱めたいですか」


「少しだけ」


マルセルが新しい局所鎮静を組む。


建物の供給路へは繋がない。


膝の周囲だけ。


先に終了の印を置く。


「五分だけ使います。二分後に痛みと眠気を確認し、五分で一度止めます」


「うん」


新しい灰色が、膝の周囲へ浅く流れた。


「今は?」


「まだじりじりする。でも、さっきより小さい」


次はユナだった。


足首の火傷。


古い灰色を外し、白い命令痕を別の回収水へ分ける。

リリシアが冷たい清潔な布を当て直し、成人治癒師が火傷の状態を確認した。


「熱い」


ユナは顔を歪める。


「冷たい布を続けながら、痛みを少し弱めますか」


「少しだけ」


マルセルは、足首だけへ五分間使い、二分後に痛みと眠気を確かめると説明した。


ユナが頷いてから、新しい灰色が浅く流れる。


二人分を終えたところで、アトカの肩の痛みが増した。


「今、四です」


自分から報告する。


成人治癒師がすぐに接続部と指の動きを確認した。


「中止条件です。水を容器へ渡して、休んでください」


「はい」


アトカは、命令痕を含む回収水と、痕のない古い鎮静由来の水を、それぞれ別の隔離容器へ移した。


蓋が閉じられる。


アトカは手を止めた。


肩の痛みが三へ下がるまで、何もしない。


その間も作業は止まらなかった。


成人治癒師とリリシアが身体を見る。


マルセルが新しい局所鎮静の時間を確かめる。


ギルベルトが次の記録を読み上げる。


エルマが命令痕の位置だけを示す。


救護職員が水、食事、毛布を必要な者へ渡す。


解析担当者が廊下、壁、床に残る灰色を区画ごとに隔離する。


フレデリックが全体を見ている。


アトカが止まっても、守る仕事は続いていた。


成人治癒師が肩の状態を確認し、痛みが二まで下がってから、次の一人分だけを許可した。


アトカは小さな水球を一つ作る。


一人分を終える。


休む。


再び確認を受ける。


壁や床へ残った灰色には触れない。


地下も見ない。


それらは、仮封鎖の向こうで大人たちが扱う仕事だった。


ナナは、今夜の悪夢が怖いと伝えた。


だが、今は眠る時間ではない。


今は灰色を使わない。


眠る前に、誰がそばにいるか、どの深さを望むか、何分で確認するかを改めて決める。


シロは眠っている。


胸の異常を知らせる感覚まで沈めない。

成人治癒師とリリシアが呼吸を見続け、今は新しい灰色を使わなかった。


リタは灰色を望まない。


明かりは、本人が選んだ布の重ね方で保たれている。


一人ずつ違う。


外す場所も。


新しく流す場所も。


流さない場所も。


終える時刻も。


やがて、子供たちの身体の周囲へ残っていた古い灰色は、少量ずつ取り除かれた。


残ったのは、必要だと本人が選んだ場所へ、終了時刻を持って新しく流された細い鎮静だけだった。


灰庭から灰色がなくなったわけではない。


マルセルの行いが、全て正しかったことになったわけでもない。


それでも今、灰色は建物の都合で全員を同じにするものではなかった。


誰かが痛いと言う。


怖いと言う。


少しだけ弱めてほしいと言う。


今はいらないと言う。


その言葉を聞く。


身体の状態を確かめる。


何のために使うかを決める。


終える時刻を先に置く。


それから初めて、必要な場所へ流されるものになっていた。


アトカが最後の回収水を隔離容器へ移した。


義手を膝へ置き、肩から力を抜く。


「僕が受け持つ分は、終わりました」


疲れた声だった。


成人治癒師が肩の状態をもう一度確認する。


フレデリックは容器の封を確かめた。


「ありがとう。壁と床と地下に残るものは、ここから私たちの仕事だ」


アトカはすぐには返事をしなかった。


代わりに壁へ背を預け、目を閉じる。


今度は、手を放しても大丈夫だった。

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