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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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白い欠片

リタが選んだ薄明かりの中で、物置はようやく静かになった。


灰色に沈められた静けさではない。


包帯を替え終えたリタが、自分で決めた明るさの中に座っている。

足には新しい布が巻かれ、止めると決めた時刻を過ぎた灰色は、もう残っていなかった。


「次も、同じにしますか?」


マルセルが尋ねる。


リタはすぐに頷かなかった。水膜に散らされた魔術灯の光を見上げ、少し考える。


「その時に聞いて」


「分かりました」


マルセルは帳面へ、暗い場所を好むとは書かなかった。


今日、どの明るさを選んだか。途中で変えたか。次回は改めて尋ねること。


一つずつ書き直していく。


アトカは魔術灯を包む水膜を薄くした。光の形を保てる最低限まで減らし、義手の指を閉じる。


その時、水面の端に小さな波が走った。


灯りから起きた揺れではない。


物置の外。廊下の壁から流れてきた灰色が、水膜へ僅かに触れていた。


アトカは顔を上げる。


「今、誰かが灰色を使いましたか」


マルセルが振り返った。


「使っていません」


「リタさんの足にも?」


「止めたままです」


リリシアはリタのそばへ膝をついた。

呼吸、顔色、包帯を巻いた足。先ほどまでと大きな変化はない。


「痛みはどうですか」


「少しある」


「怖さは?」


「今は、そんなにない」


答えた直後、リタの眉間にあった僅かな緊張が薄れた。


身体が楽になったようにも見える。


けれど、リリシアは安心しなかった。


「リタさん。今、何か変わりましたか」


リタは自分の胸へ手を置く。


「分かんない」


先ほどまで、自分で明るさを決めたことを何度も確かめていた。

その声から、決めたことを守ろうとする力だけが少し抜けている。


廊下では、エルマが銀針を一本持ち上げた。


「壁の流れが動きましたわ」


針先の青い光が、灰色の流れへ沿って細く伸びている。

物置へ向かう線は、マルセルの手元から始まっていない。


「どこからですか」


リリシアが尋ねる。


「この壁の奥です」


エルマは銀針を壁へ触れさせず、指二本分の距離で止めた。


「灰色の濃度が変わった後から、別の拍子が返っていますわ。先ほどまでは建物の古い供給路が揺れたのだと思っていましたが、同じ間隔で繰り返しています」


ギルベルトが懐中時計を開く。


「何秒だ」


「十一秒ですわ」


全員が待った。


長針の下で細い秒針が進む。


十一秒後、壁の奥で白い光が一度だけ瞬いた。


目で見えたのは一瞬だった。灰色へ紛れるような、乳白色の細い線。


アトカの水膜にも、同じ時刻に波が立った。


「記録しましたわ」


エルマの声が僅かに上ずる。


知りたい。


その気持ちが表情に出ている。


「壁を開けますの?」


「先に条件を決める」


ギルベルトはエルマではなく、マルセルを見た。


「この壁の中に何がある」


マルセルは古い漆喰壁へ近づいた。


「灰色を建物へ流す供給部があります。火災前から使われていた配管です」


「お前の術式は、そこを通って全館へ広がるのか」


「はい」


マルセルは隠さなかった。


「最初は個別の処置だけに使っていました。ですが、一人で夜を見きれなくなってから供給部を使いました。夜間だけ。それから、より長く」


「勝手に広がったわけではないんだな」


「違います。建物全体へ流したのは、私です」


物置の中で、リタがマルセルを見る。


マルセルの声は小さくならなかった。


「ただ、壁の奥には後から加えた部品があります」


「何ですの?」


エルマが尋ねる。


「聖印片です」


答えた後、マルセルは壁の下部にある木板へ手を掛けた。


「七年前、薬品や保存食と一緒に届きました。灰色の濃さを安定させ、建物内の偏りを減らすものだと説明されました」


「誰から届いた」


ギルベルトが問う。


「名は聞いていません。救護を支援する者だとだけ」


それ以上を問われる前に、マルセルは続けた。


「指示書に従って、私が取り付けました」


ギルベルトはすぐに木板を開けさせなかった。


「外した場合の影響は」


「分かりません。取り付けてから外したことはありません」


「なら、外さない。蓋を開けて見るだけだ。エルマも触れるな。アトカは水を中へ入れるな」


「はい」


「分かりましたわ」


アトカも頷く。


「外に漏れている魔力だけを見ます」


リリシアはリタへ向き直った。


「壁を開けます。音や光が怖かったら教えてください。言葉が出なければ、わたしの袖を引いても構いません」


リタは少し迷い、リリシアの袖の端を指で挟んだ。


「ここにいて」


「はい」


マルセルが木板の留め具を外す。


中から現れたのは、火災前の古い金属管だった。表面は黒ずみ、何度も補修された跡がある。


その中央に、周囲とは年代の違う小さな部品が嵌め込まれていた。


掌の半分ほどの乳白色の聖印片。


表面は滑らかで、文字も紋章も見えない。


「これです」


マルセルが言った。


「取り付けた後、灰色の揺れは減りました。遠い部屋だけ薄くなることも、入口側だけ濃くなることも少なくなった」


「だから使い続けたのですか」


リリシアが尋ねる。


「はい」


「中に何があるか、調べましたか」


「いいえ。完成済みの聖印片でした。壊せば使えなくなると思い、指示書にない操作はしませんでした」


エルマは銀針を持ったまま、すぐには近づかなかった。


「観測だけを行いますわ。聖印片へ魔力を入れず、表面から漏れているものだけを拾います」


「何本使う」


「一本です。異なる二つの流れが重なっていると確認できた場合だけ、二本目を置きます」


ギルベルトは懐中時計を見る。


「一分。指の痺れ、頭痛、集中の途切れが出たら、その時点で終わりだ」


「承知しましたわ」


エルマは銀針を聖印片の手前へ置いた。


針先に青い光が灯る。


最初に浮かんだのは、マルセルが説明した通りの経路だった。


建物内を巡る灰色の濃さを拾い、薄い場所へ多く、濃い場所へ少なく流す。

供給路の偏りを小さくするための安定機能。


「外側の構造は、説明と一致していますわ」


マルセルの肩が僅かに下がる。


だが、エルマの視線は針先から離れなかった。


「その下に、もう一層あります」


「安定機能とは別か」


「ええ。拍子が違いますわ」


エルマは二本目の銀針を取り出し、一本目と並べた。


一本目は灰色の濃度。


二本目は、その奥を走る白い流れ。


青い光の間に、細い乳白色の線が現れた。


白い線は灰色と同じ方向へ流れていない。


各部屋から聖印片へ戻っている。


「これは、何ですか」


マルセルが尋ねた。


「建物内の反応を集めていますわ」


エルマは断定を急がず、一つずつ読む。


「灰色の濃度。流れた方向。人がいる位置。大きく動いた場所。呼吸や身体反応に伴う魔力の揺れ」


「そんな機能は、指示書にありません」


「個人名までは記録していません。ですが、どの場所にいる誰かの反応が強まったかは区別できます」


リリシアはリタの袖を握る指を見る。


「怖い、痛い、嫌だという反応もですか」


「今の観測だけでは、感情の名前までは分かりませんわ。ただ、平静な時とは異なる反応として拾っています」


白い線が一度、強く明滅した。


リタがリリシアの袖を握り直した瞬間だった。


聖印片から別の線が伸びる。


今度は戻る線ではない。


灰色の供給路へ向かっている。


「何か送っています」


アトカが言った。


水膜の端へ触れた灰色が、先ほどより濃い。


「リタさんの方へ来ています」


「止められますか」


リリシアが尋ねる。


「身体へ入る前の分だけなら、水へ変えられます。でも、今は全部を変えません」


アトカは物置の入口へ薄い水の線を一筋だけ置いた。


灰色の一部が触れ、水へ変わる。


残った流れの動きを見失わない範囲に留める。


リタの眉が寄った。


「暗くしないで」


「変えません」


リリシアが答える。


「今の明るさのままです」


リタが言葉を出したことで、白い線はさらに強くなった。


聖印片から供給路へ、短い命令が繰り返し送られる。


十一秒。


また十一秒。


そのたびに、リタへ向かう灰色が少しずつ増えようとした。


マルセルが灰色の流れを手元で絞る。


「止めます」


流れは一度弱まった。


だが次の十一秒で、聖印片が再び灰色を押し出した。


マルセルの顔色が変わる。


「私ではありません」


誰も、すぐに責める言葉を返さなかった。


マルセルは聖印片を見つめる。


「私は今、減らしました」


「確認していますわ」


エルマの二本の銀針には、別々の動きが出ている。


マルセルの灰色は弱める方向。


白い線は、弱まった分を戻す方向。


「白い方が、あなたの操作を補正しています」


「安定ではないのですか」


「濃度だけを安定させているのなら、リタさんが嫌だと言った直後に追加する理由がありません」


エルマは白い線の行き先を追う。


一つは物置。


一つは廊下。


一つは眠っている子供たちの部屋。


さらに細い枝が、入口と窓の古い設備へ続いている。

外から何かが触れた時、同じ力を返すよう組まれた経路もあった。


ただし、今はまだ動いていない。


「観測だけではありませんわ」


エルマの声が低くなる。


「この聖印片は、建物内の反応が決められた範囲を外れると、灰色を追加しています。薄くなった場所を埋めるだけではない。痛みや恐怖や拒絶に伴う揺れまで、静かな状態へ戻す対象として扱っています」


ギルベルトが尋ねる。


「建物全体を同じ状態にする命令か」


「その可能性が高いです。ただ、聖印片だけで全てを行っているわけではありません。壁と床の奥へ、さらに大きな経路が続いています」


乳白色の線は、聖印片の裏から下へ伸びていた。


壁の中。


床の下。


そして灰庭の外へ。


「外へ送っているのか」


「送信先は分かりません。ですが、ここで終わってはいませんわ」


マルセルが聖印片へ手を伸ばしかける。


「触るな」


ギルベルトが止めた。


マルセルの手が宙で止まる。


「外せば止まるかもしれません」


「外した結果、灰色が一気に流れ込むかもしれない。入口や窓へ続く枝もある。今は構造が分かっていない」


「ですが、私が取り付けたものです」


「だから一人で外すのか」


ギルベルトの声は強かった。


マルセルは手を下ろした。


ギルベルトは続ける。


「全館へ灰色を流したのは、お前の判断だ。聖印片を確かめず使ったことも消えない。でも、隠されていた機能まで全部お前一人の判断だったことにするな」


マルセルはすぐには答えなかった。


物置の中で、リタが二人を見ている。


やがてマルセルは、白い欠片から視線を外さずに言った。


「建物全体へ流したのは私です。長く使ったのも、子供たちが静かになったことを良い変化だと考えたのも」


一度、言葉を切る。


「ですが、この命令は知りませんでした」


「記録しますわ」


エルマが答えた。


「あなたが知っていたことと、知らなかったことを分けて残します」


「知らなかったと言えば、許されるとは思っていません」


「許すかどうかを、今ここで一つに決めるための記録ではありませんわ」


エルマは銀針を一本ずつ聖印片から離した。


一分になる前だった。


「観測を終了します。これ以上は追いません」


ギルベルトが頷く。


「蓋は閉じるのか」


「完全には閉じないでくださいませ。位置を見失わないよう、隙間だけ残します。ですが、誰も触れない印を付けますわ」


マルセルは木板を戻し、指二本分だけ開けた状態で止めた。


ギルベルトが細い紐を渡し、エルマが観測済みの印を記す。

解除や破壊の印ではない。成人の解析担当者が来るまで触れないための印だった。


アトカは物置の入口に置いた水を減らした。


リタへ向かう灰色は、まだ完全には止まっていない。


「このままでは、また深くなります」


「マルセル」


ギルベルトが呼ぶ。


「手元で減らせる範囲だけ減らせ。白い命令と争って全部を止めようとするな」


「分かりました」


「リリシアは子供たちの状態。エルマは観測だけ。アトカは帰路を残せ。俺は時間と入口を見る」


それぞれの役割が決まる。


誰も、白い欠片をその場で壊そうとはしなかった。


リタはまだリリシアの袖を握っている。


「また、勝手に暗くする?」


「しません」


リリシアは答えた。


「この明るさを選んだことも、変えないでほしいと言ったことも、聞こえています」


リタの指から、少しだけ力が抜けた。


その反応を、壁の奥の白い線が拾う。


十一秒後。


乳白色の聖印片が、もう一度静かに脈打った。


マルセルの灰色を安定させるための欠片。


そう説明され、七年間使われてきたもの。


けれど、その内側では、誰かの痛みや恐怖や拒絶が生まれるたび、それを静けさから外れた反応として測っていた。


そして今。


白い欠片は、灰庭の子供たちだけではなく、そこへ入った四人の反応まで数え始めていた。

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