↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
PR
79/187

白い欠片

。

リタが選んだ薄明かりの中で、物置はようやく静かになった。


灰色に沈められた静けさではない。


包帯を替え終えたリタが、自分で決めた明るさの中に座っている。

足には新しい布が巻かれ、止めると決めた時刻を過ぎた灰色は、もう残っていなかった。


「次も、同じにしますか?」


マルセルが尋ねる。


リタはすぐに頷かなかった。水膜に散らされた魔術灯の光を見上げ、少し考える。


「その時に聞いて」


「分かりました」


マルセルは帳面へ、暗い場所を好むとは書かなかった。


今日、どの明るさを選んだか。途中で変えたか。次回は改めて尋ねること。


一つずつ書き直していく。


アトカは魔術灯を包む水膜を薄くした。光の形を保てる最低限まで減らし、義手の指を閉じる。


その時、水面の端に小さな波が走った。


灯りから起きた揺れではない。


物置の外。廊下の壁から流れてきた灰色が、水膜へ僅かに触れていた。


アトカは顔を上げる。


「今、誰かが灰色を使いましたか」


マルセルが振り返った。


「使っていません」


「リタさんの足にも?」


「止めたままです」


リリシアはリタのそばへ膝をついた。

呼吸、顔色、包帯を巻いた足。先ほどまでと大きな変化はない。


「痛みはどうですか」


「少しある」


「怖さは?」


「今は、そんなにない」


答えた直後、リタの眉間にあった僅かな緊張が薄れた。


身体が楽になったようにも見える。


けれど、リリシアは安心しなかった。


「リタさん。今、何か変わりましたか」


リタは自分の胸へ手を置く。


「分かんない」


先ほどまで、自分で明るさを決めたことを何度も確かめていた。

その声から、決めたことを守ろうとする力だけが少し抜けている。


廊下では、エルマが銀針を一本持ち上げた。


「壁の流れが動きましたわ」


針先の青い光が、灰色の流れへ沿って細く伸びている。

物置へ向かう線は、マルセルの手元から始まっていない。


「どこからですか」


リリシアが尋ねる。


「この壁の奥です」


エルマは銀針を壁へ触れさせず、指二本分の距離で止めた。


「灰色の濃度が変わった後から、別の拍子が返っていますわ。先ほどまでは建物の古い供給路が揺れたのだと思っていましたが、同じ間隔で繰り返しています」


ギルベルトが懐中時計を開く。


「何秒だ」


「十一秒ですわ」


全員が待った。


長針の下で細い秒針が進む。


十一秒後、壁の奥で白い光が一度だけ瞬いた。


目で見えたのは一瞬だった。灰色へ紛れるような、乳白色の細い線。


アトカの水膜にも、同じ時刻に波が立った。


「記録しましたわ」


エルマの声が僅かに上ずる。


知りたい。


その気持ちが表情に出ている。


「壁を開けますの?」


「先に条件を決める」


ギルベルトはエルマではなく、マルセルを見た。


「この壁の中に何がある」


マルセルは古い漆喰壁へ近づいた。


「灰色を建物へ流す供給部があります。火災前から使われていた配管です」


「お前の術式は、そこを通って全館へ広がるのか」


「はい」


マルセルは隠さなかった。


「最初は個別の処置だけに使っていました。ですが、一人で夜を見きれなくなってから供給部を使いました。夜間だけ。それから、より長く」


「勝手に広がったわけではないんだな」


「違います。建物全体へ流したのは、私です」


物置の中で、リタがマルセルを見る。


マルセルの声は小さくならなかった。


「ただ、壁の奥には後から加えた部品があります」


「何ですの?」


エルマが尋ねる。


「聖印片です」


答えた後、マルセルは壁の下部にある木板へ手を掛けた。


「七年前、薬品や保存食と一緒に届きました。灰色の濃さを安定させ、建物内の偏りを減らすものだと説明されました」


「誰から届いた」


ギルベルトが問う。


「名は聞いていません。救護を支援する者だとだけ」


それ以上を問われる前に、マルセルは続けた。


「指示書に従って、私が取り付けました」


ギルベルトはすぐに木板を開けさせなかった。


「外した場合の影響は」


「分かりません。取り付けてから外したことはありません」


「なら、外さない。蓋を開けて見るだけだ。エルマも触れるな。アトカは水を中へ入れるな」


「はい」


「分かりましたわ」


アトカも頷く。


「外に漏れている魔力だけを見ます」


リリシアはリタへ向き直った。


「壁を開けます。音や光が怖かったら教えてください。言葉が出なければ、わたしの袖を引いても構いません」


リタは少し迷い、リリシアの袖の端を指で挟んだ。


「ここにいて」


「はい」


マルセルが木板の留め具を外す。


中から現れたのは、火災前の古い金属管だった。表面は黒ずみ、何度も補修された跡がある。


その中央に、周囲とは年代の違う小さな部品が嵌め込まれていた。


掌の半分ほどの乳白色の聖印片。


表面は滑らかで、文字も紋章も見えない。


「これです」


マルセルが言った。


「取り付けた後、灰色の揺れは減りました。遠い部屋だけ薄くなることも、入口側だけ濃くなることも少なくなった」


「だから使い続けたのですか」


リリシアが尋ねる。


「はい」


「中に何があるか、調べましたか」


「いいえ。完成済みの聖印片でした。壊せば使えなくなると思い、指示書にない操作はしませんでした」


エルマは銀針を持ったまま、すぐには近づかなかった。


「観測だけを行いますわ。聖印片へ魔力を入れず、表面から漏れているものだけを拾います」


「何本使う」


「一本です。異なる二つの流れが重なっていると確認できた場合だけ、二本目を置きます」


ギルベルトは懐中時計を見る。


「一分。指の痺れ、頭痛、集中の途切れが出たら、その時点で終わりだ」


「承知しましたわ」


エルマは銀針を聖印片の手前へ置いた。


針先に青い光が灯る。


最初に浮かんだのは、マルセルが説明した通りの経路だった。


建物内を巡る灰色の濃さを拾い、薄い場所へ多く、濃い場所へ少なく流す。

供給路の偏りを小さくするための安定機能。


「外側の構造は、説明と一致していますわ」


マルセルの肩が僅かに下がる。


だが、エルマの視線は針先から離れなかった。


「その下に、もう一層あります」


「安定機能とは別か」


「ええ。拍子が違いますわ」


エルマは二本目の銀針を取り出し、一本目と並べた。


一本目は灰色の濃度。


二本目は、その奥を走る白い流れ。


青い光の間に、細い乳白色の線が現れた。


白い線は灰色と同じ方向へ流れていない。


各部屋から聖印片へ戻っている。


「これは、何ですか」


マルセルが尋ねた。


「建物内の反応を集めていますわ」


エルマは断定を急がず、一つずつ読む。


「灰色の濃度。流れた方向。人がいる位置。大きく動いた場所。呼吸や身体反応に伴う魔力の揺れ」


「そんな機能は、指示書にありません」


「個人名までは記録していません。ですが、どの場所にいる誰かの反応が強まったかは区別できます」


リリシアはリタの袖を握る指を見る。


「怖い、痛い、嫌だという反応もですか」


「今の観測だけでは、感情の名前までは分かりませんわ。ただ、平静な時とは異なる反応として拾っています」


白い線が一度、強く明滅した。


リタがリリシアの袖を握り直した瞬間だった。


聖印片から別の線が伸びる。


今度は戻る線ではない。


灰色の供給路へ向かっている。


「何か送っています」


アトカが言った。


水膜の端へ触れた灰色が、先ほどより濃い。


「リタさんの方へ来ています」


「止められますか」


リリシアが尋ねる。


「身体へ入る前の分だけなら、水へ変えられます。でも、今は全部を変えません」


アトカは物置の入口へ薄い水の線を一筋だけ置いた。


灰色の一部が触れ、水へ変わる。


残った流れの動きを見失わない範囲に留める。


リタの眉が寄った。


「暗くしないで」


「変えません」


リリシアが答える。


「今の明るさのままです」


リタが言葉を出したことで、白い線はさらに強くなった。


聖印片から供給路へ、短い命令が繰り返し送られる。


十一秒。


また十一秒。


そのたびに、リタへ向かう灰色が少しずつ増えようとした。


マルセルが灰色の流れを手元で絞る。


「止めます」


流れは一度弱まった。


だが次の十一秒で、聖印片が再び灰色を押し出した。


マルセルの顔色が変わる。


「私ではありません」


誰も、すぐに責める言葉を返さなかった。


マルセルは聖印片を見つめる。


「私は今、減らしました」


「確認していますわ」


エルマの二本の銀針には、別々の動きが出ている。


マルセルの灰色は弱める方向。


白い線は、弱まった分を戻す方向。


「白い方が、あなたの操作を補正しています」


「安定ではないのですか」


「濃度だけを安定させているのなら、リタさんが嫌だと言った直後に追加する理由がありません」


エルマは白い線の行き先を追う。


一つは物置。


一つは廊下。


一つは眠っている子供たちの部屋。


さらに細い枝が、入口と窓の古い設備へ続いている。

外から何かが触れた時、同じ力を返すよう組まれた経路もあった。


ただし、今はまだ動いていない。


「観測だけではありませんわ」


エルマの声が低くなる。


「この聖印片は、建物内の反応が決められた範囲を外れると、灰色を追加しています。薄くなった場所を埋めるだけではない。痛みや恐怖や拒絶に伴う揺れまで、静かな状態へ戻す対象として扱っています」


ギルベルトが尋ねる。


「建物全体を同じ状態にする命令か」


「その可能性が高いです。ただ、聖印片だけで全てを行っているわけではありません。壁と床の奥へ、さらに大きな経路が続いています」


乳白色の線は、聖印片の裏から下へ伸びていた。


壁の中。


床の下。


そして灰庭の外へ。


「外へ送っているのか」


「送信先は分かりません。ですが、ここで終わってはいませんわ」


マルセルが聖印片へ手を伸ばしかける。


「触るな」


ギルベルトが止めた。


マルセルの手が宙で止まる。


「外せば止まるかもしれません」


「外した結果、灰色が一気に流れ込むかもしれない。入口や窓へ続く枝もある。今は構造が分かっていない」


「ですが、私が取り付けたものです」


「だから一人で外すのか」


ギルベルトの声は強かった。


マルセルは手を下ろした。


ギルベルトは続ける。


「全館へ灰色を流したのは、お前の判断だ。聖印片を確かめず使ったことも消えない。でも、隠されていた機能まで全部お前一人の判断だったことにするな」


マルセルはすぐには答えなかった。


物置の中で、リタが二人を見ている。


やがてマルセルは、白い欠片から視線を外さずに言った。


「建物全体へ流したのは私です。長く使ったのも、子供たちが静かになったことを良い変化だと考えたのも」


一度、言葉を切る。


「ですが、この命令は知りませんでした」


「記録しますわ」


エルマが答えた。


「あなたが知っていたことと、知らなかったことを分けて残します」


「知らなかったと言えば、許されるとは思っていません」


「許すかどうかを、今ここで一つに決めるための記録ではありませんわ」


エルマは銀針を一本ずつ聖印片から離した。


一分になる前だった。


「観測を終了します。これ以上は追いません」


ギルベルトが頷く。


「蓋は閉じるのか」


「完全には閉じないでくださいませ。位置を見失わないよう、隙間だけ残します。ですが、誰も触れない印を付けますわ」


マルセルは木板を戻し、指二本分だけ開けた状態で止めた。


ギルベルトが細い紐を渡し、エルマが観測済みの印を記す。

解除や破壊の印ではない。成人の解析担当者が来るまで触れないための印だった。


アトカは物置の入口に置いた水を減らした。


リタへ向かう灰色は、まだ完全には止まっていない。


「このままでは、また深くなります」


「マルセル」


ギルベルトが呼ぶ。


「手元で減らせる範囲だけ減らせ。白い命令と争って全部を止めようとするな」


「分かりました」


「リリシアは子供たちの状態。エルマは観測だけ。アトカは帰路を残せ。俺は時間と入口を見る」


それぞれの役割が決まる。


誰も、白い欠片をその場で壊そうとはしなかった。


リタはまだリリシアの袖を握っている。


「また、勝手に暗くする?」


「しません」


リリシアは答えた。


「この明るさを選んだことも、変えないでほしいと言ったことも、聞こえています」


リタの指から、少しだけ力が抜けた。


その反応を、壁の奥の白い線が拾う。


十一秒後。


乳白色の聖印片が、もう一度静かに脈打った。


マルセルの灰色を安定させるための欠片。


そう説明され、七年間使われてきたもの。


けれど、その内側では、誰かの痛みや恐怖や拒絶が生まれるたび、それを静けさから外れた反応として測っていた。


そして今。


白い欠片は、灰庭の子供たちだけではなく、そこへ入った四人の反応まで数え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。