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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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薄明りの中で

物置の扉から伸びたリタの手は、すぐには暗がりへ戻らなかった。


新しい包帯を巻いた腕が、広間から差し込む光の中に残っている。


指先がゆっくり開く。


閉じる。


包帯の下で傷が動く感覚を確かめているようだった。


「じんじんする」


リタが言った。


「強くなりましたか」


リリシアは扉から離れた位置で尋ねる。


「さっきと同じ」


「熱くはありませんか」


「少しあったかい。でも、嫌な熱さじゃない」


リリシアは頷いた。


見えない場所にいる相手へ向けた動きだったため、確認したことが声でも伝わるように答えた。


「分かりました。急に熱くなったり、包帯の中が濡れたりしたら教えてください」


「血が出たってこと?」


「そうかもしれません。薬が多く染み出しただけの場合もあります。ですから、自分だけで決めずに呼んでください」


「先生を?」


「マルセルさんでも、近くにいる人でも構いません」


少し間を置いて、リリシアは続ける。


「わたしがまだここにいる間なら、わたしを呼んでも大丈夫です」


扉の奥から、返事はなかった。


けれど、伸ばされた手も引っ込まなかった。


マルセルは処置に使った布を片づけていた。


古い包帯は別の容器へ入れ、血や薬が付着したものと、再利用できる布を分けている。


一つ一つの動きは、先ほどまでと変わらない。


ただ、時折、物置の扉へ視線を向けていた。


「明かりを用意しましょう」


マルセルが言う。


リタの指が僅かに動く。


「今?」


「次の処置まで待っても構いません」


「今、試してもいい?」


「もちろんです」


マルセルは広間の棚へ向かい、小さな灯りを取り出した。


掌に収まるほどの古い魔術灯だった。


外側の金具は黒ずみ、何度も修理されている。


火を使わず、内部の光石へ僅かな魔力を流すことで明るくなる道具だった。


マルセルが指を触れると、白い光が灯る。


広間を照らすには弱い。


だが、長く暗闇にいた目には十分に眩しく感じる強さだった。


物置の中から、息を呑む音が聞こえた。


伸びていた腕が素早く扉の内側へ引かれる。


「消して」


マルセルはすぐに光を消した。


「消しました」


暗がりから、荒い呼吸が続く。


壁を流れていた灰色が、リタへ向かって僅かに動いた。


恐怖を沈めようとする反応だった。


マルセルは壁へ手を伸ばしかける。


「待ってください」


リリシアが静かに止めた。


マルセルの手が止まる。


「でも、呼吸が乱れています」


「リタさんは、明かりが強かったから消してほしいと伝えられました」


リリシアは扉の向こうへ聞こえるよう、声を落として話す。


「今は、その言葉が届いたことを先に伝えたいです」


マルセルは少し考え、手を下ろした。


「リタ」


呼びかける前に、一度言葉を止める。


「今は名前を呼んでも大丈夫ですか」


「うん」


「明かりは消えています。もう点けていません」


暗がりの中から、細い息が吐き出される。


「勝手に点けません」


「うん」


「灰色も、今は強めていません」


返事はない。


それでも呼吸は、少しずつ長くなっていく。


リタが自分で戻ろうとしている。


マルセルは、その時間を奪わなかった。


「さっきのは明るすぎました」


アトカが言った。


物置の入口へ近づかず、広間の中央に立ったまま話す。


「光を直接入れない方法があります」


扉の奥から小さな声が返る。


「どうするの?」


「水で薄い膜を作って、明かりの前に置きます」


アトカは義手を上げた。


掌の上へ、小さな水球が生まれる。


「光が水を通ると、少し広がります。目へ真っ直ぐ入らないようにできます」


「暗くなる?」


「さっきより暗くできます」


「水、こっちに来る?」


「物置の中には入れません。明かりの周りだけに置きます」


リタはしばらく黙っていた。


「水を見せて」


アトカは物置へ向かって歩かなかった。


代わりに、広間の床へ水球を浮かべる。


扉から見える位置ではあるが、近すぎない場所だった。


「ここでいいですか」


扉の隙間が、ほんの少し広がった。


暗がりの中から、片方の目だけが覗く。


水球が広間の光を映して揺れている。


透明な表面へ、窓や机の形が歪んで映っていた。


「触らない?」


「何にも触れさせません」


アトカは答えた。


「明かりを点ける時も、リタさんがいいと言うまで待ちます」


覗いていた目が一度閉じる。


「やって」


マルセルは再び魔術灯を手に取った。


「どこへ置きますか」


「遠く」


「広間の机の上でよいですか」


「もっと向こう」


マルセルは、物置から最も離れた窓際の机へ灯りを置いた。


「ここです」


「まだ点けないで」


「分かりました」


アトカは水球を薄く広げる。


丸い膜が魔術灯の周囲を包む。


光を完全に閉じ込めるものではない。


点けられた光が一方向へ強く伸びず、柔らかく散るようにするための膜だった。


「準備できました」


アトカが告げる。


「少しだけ点けて」


マルセルが魔術灯へ指を触れる。


最も弱い明るさ。


水の膜の内側で、白い光が小さく灯る。


先ほどのような鋭さはなかった。


淡い明るさが、机の表面と周囲の床へ広がる。


物置までは、薄い夕暮れほどの光しか届かない。


「今はどうですか」


マルセルが尋ねる。


扉の隙間から覗いていた目が、光の方へ動く。


「まだ明るい」


「消しますか」


「消さないで」


すぐに返事があった。


「もう少し暗くできる?」


「できます」


アトカは水の膜を僅かに厚くした。


光がさらに柔らかくなる。


輪郭が薄れ、床の傷や壁の煤も、はっきりとは見えなくなった。


「これくらいは?」


長い沈黙。


リタは扉の隙間から、広間を見ている。


「さっきよりいい」


「続けますか」


「うん」


エルマは銀針を取り出しかけ、手を止めた。


計測するための魔力が、リタを緊張させる可能性がある。


「灰色の深さだけ測ってもよろしいですの?」


扉の奥へ確認する。


「針、見える?」


「今は出していませんわ」


「音する?」


「床へ置く時に、少しだけします」


「じゃあ、今はいらない」


「分かりましたわ」


エルマは銀針を鞄へ戻した。


観測できるからといって、全てを測る必要はない。


リタが今確かめているのは、術式の数値ではなく、自分で選んだ明るさの中にいられるかどうかだった。


「先生」


「ここにいます」


「近くに来ないで」


「この場所にいます」


マルセルは物置から離れた壁際へ座った。


姿は、扉の隙間から見える。


けれど手を伸ばしても届かない距離だった。


「いなくならない?」


「いなくなりません」


「ずっと?」


マルセルは答えを急がなかった。


ずっとという言葉を、今夜も、明日も、その先も変わらない約束として受け取ることはできる。


しかし、守れない約束をして安心させることは、別の形でリタの判断を奪う。


「今、この明かりを試している間はここにいます」


マルセルは答えた。


「その後、離れる時は先に伝えます」


物置の奥で、布が動いた。


「分かった」


マルセルがすぐそばにいなくても、姿は見える。


離れる時には知らされる。


完全に安心したわけではない。


それでも、いつの間にかいなくなるわけではないと分かるだけで、リタの呼吸は少し穏やかになった。


広間の子供たちも、物置の方を気にしていた。


トマは机の上へ肘をつき、光の中に浮かぶ水膜を見ている。


「きれい」


「触らないでくださいませ」


エルマが先に止める。


「触んないよ」


「先ほどから気になっている顔をしていますわ」


「見るだけ」


トマは水へ手を伸ばすことはしなかった。


ミナは洗った布を畳みながら、物置の扉を見ている。


「リタ、出てくるの?」


「出るとは言っていません」


リリシアが答えた。


「明るさを試しているだけです」


「出てこないなら、暗いままでも同じじゃない?」


「同じではありません」


「何が違うの?」


リリシアは、扉の隙間から覗く片目を見る。


「暗くするしかないのと、暗さを自分で選ぶことは違います」


ミナは布を持ったまま考える。


「出ないって決めるのも?」


「はい」


「怖いから出ないのと、今日は出ないって決めるのも違う?」


リリシアは少しだけ言葉を選んだ。


「怖さがあって出ないこともあります。でも、怖いと分かった上で、今日はここにいると決められるなら、その選び方も大事だと思います」


「怖くなくしないの?」


「怖さが強すぎて、何も選べない時には弱めた方がよいこともあります」


リリシアは答える。


「でも、今のリタさんは、明るい、暗くして、消さないでと自分で伝えています。だから、わたしはその言葉を先に聞きます」


物置の扉が、また僅かに開いた。


先ほどまでは目だけだった。


今度は、額と鼻先まで見える。


リタは広間へ出てこない。


扉の陰へ身体の大半を隠したまま、淡い光を見ている。


肩まで伸びた髪は乱れ、顔色は青白かった。


包帯を替えた腕を胸元へ抱えている。


マルセルは動かなかった。


呼びかけもしない。


リタが顔を見せたことを特別な成功として扱えば、次も同じことを求められているように感じるかもしれない。


アトカも水膜を保つだけで、視線を向け続けなかった。


「今はどうですか」


リリシアが尋ねる。


「ちょっと怖い」


「明かりを消しますか」


「消さない」


「もう少し暗くしますか」


リタは魔術灯を見る。


広間の机。


壁。


マルセル。


アトカたち。


全ての形が、完全には見えない。


それでも、誰がどこにいるかは分かる。


「このまま」


「分かりました」


しばらく誰も話さなかった。


鍋の残りが冷える音。


外の路地を誰かが歩く足音。


遠くで扉が閉まる音。


そのたび、リタの肩が僅かに動く。


灰色は強められていない。


怖さは残っている。


それでもリタは、暗がりへ完全には戻らなかった。


「リタ」


ミナが声をかける。


リタの身体が強張る。


ミナはすぐに続けなかった。


先ほどまでなら、何も気にせず近づいていたかもしれない。


今はリタの顔を見て、自分の声が何かを起こしたことに気づいている。


「名前、嫌だった?」


扉の陰から、小さな返事が来る。


「今は、大丈夫」


「何て言おうとしたか忘れた」


「じゃあ、いい」


「うん」


短いやり取りだった。


それでも、ミナは大丈夫だと言われたことを理由に、さらに話しかけ続けなかった。


相手の返事を聞き、そこで止まった。


リタは扉の隙間に残っている。


少しすると、包帯を巻いた腕を外へ出した。


次に、もう片方の手が扉の縁へ掛かる。


身体を一歩外へ出すことはない。


ただ、両手が光の中へ出ていた。


「先生」


「聞こえています」


「次の包帯の時も、これがいい」


リタは水膜に包まれた魔術灯を見る。


「真っ暗じゃなくて、でも、白くないの」


「分かりました」


マルセルは答える。


「同じ明るさを記録します」


「同じじゃなくてもいい」


マルセルが僅かに目を見開く。


「その時に決める」


リタは言った。


「明るい方がいいかもしれないし、暗い方がいいかもしれない」


「そうですね」


マルセルの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「その時に、もう一度聞きます」


これまでの記録には、リタは暗い場所を好むと書かれていた。


明るい場所へ出られない。


名前を呼ばれることを嫌がる。


大きな音を怖がる。


それらは間違いではない。


だが、今日のリタが選んだ明るさを、そのまま明日も必要な明るさだと決めることはできない。


マルセルは帳面を開いた。


暗所を希望。


その一文を書きかけ、手を止める。


代わりに、今日起きたことを順番に記した。


最初の魔術灯は強すぎた。


本人が消してと伝えたため、即時消灯。


水膜で光を拡散。


本人の希望に合わせ、二段階暗くした。


薄明かりは継続を希望。


次回の明るさは、その時に本人へ確認する。


「書いた?」


リタが尋ねる。


「書きました」


「真っ暗が好きって書いてない?」


「書いていません」


「見せて」


マルセルは立ち上がらず、帳面を床へ置いた。


それから、リタが読める向きへゆっくり回す。


近づけない。


取りに来るようにも言わない。


帳面は二人の中間に置かれた。


リタは扉から顔を出したまま、文字へ目を凝らす。


距離があり、全ては読めない。


「もう少し近く」


マルセルは帳面だけを押した。


「そこ」


手を止める。


リタは記録を読む。


長い時間をかけて、一行ずつ。


「合ってる」


「よかったです」


「先生が決めたって、書いてない」


「あなたが決めましたから」


リタは記録とマルセルを交互に見た。


やがて、扉の陰から片足を出す。


裸足だった。


床へつま先をつける。


すぐに引き返せるよう、身体の重さはまだ物置の中へ残している。


誰も励まさなかった。


もう一歩、と求めなかった。


出てこられて偉いとも言わなかった。


リタは帳面へ近づくため、自分で足を出した。


それだけだった。


淡い光の中で、少女の足が床へ触れている。


灰色は深まらない。


水膜に包まれた魔術灯が、白すぎない光を広間へ落としていた。


真っ暗ではない。


明るくもない。


他の誰かが安全だと決めた光でもない。


リタが今ここにいられると選んだ、薄明かりだった。

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