短い静けさ
物置の扉は、細く開いたままだった。
その隙間から見えるのは、暗がりだけである。
リタの姿は見えない。
けれど、扉の向こうには浅い呼吸があり、床へ置かれた器のそばで布が擦れる音がしていた。
「全部、分かんなくなるのは嫌」
リタは先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「でも、包帯を取る時だけ、少し静かにしてほしい」
「分かりました」
マルセルは扉から数歩離れた場所で答える。
「怖さを完全には消しません。処置を始めてから、古い包帯を外す間だけ弱めます」
扉の奥から返事はない。
拒んでいるのではない。
言われた内容を、自分の中で確かめているようだった。
リリシアも近づかなかった。
リリシアは扉の向こうへ呼びかけようとして、一度止まった。
「今は、お名前を呼んでも大丈夫ですか」
「うん」
「ありがとうございます、リタさん」
リリシアは扉の手前へ、清潔な布と水の入った器を置いた。
すぐには中へ入らない。
「処置をする人を決めましょう。マルセルさんが包帯を外しますか。それとも、わたしが行いますか」
「先生がいい」
返事は早かった。
「分かりました」
リリシアは、自分が処置を担うべきだと考えるのをやめた。
治癒を扱える自分が処置すべきだとは決めない。
リタにとっては、正しい技術だけでなく、誰に触れられるかも重要だった。
「わたしは、傷の状態を見る役目にします。触れる必要がある時は、先に伝えます」
「うん」
「アトカ君たちは、外で術式を確認します。中へは入りません」
アトカが扉から離れた位置で答える。
「水も、中には入れません。灰色が決めた範囲より広がった時だけ止めます」
「見ない?」
「見ません」
「本当に?」
「はい」
アトカは迷わず答えた。
「リタさんが見てもいいと言うまでは、扉の中を水で探ったりもしません」
暗がりの中から、小さく息を吐く音が聞こえた。
安心したのかどうかは分からない。
それでも、先ほどより呼吸が一つ長くなった。
ギルベルトは懐中時計を開いた。
「術式を使う時間も先に決める」
マルセルを見る。
「どの段階から必要だ」
「古い布が傷へ貼りついています。水で濡らし、剥がし始める時からです」
「終わりは」
「古い包帯を全て外した時点で弱めます。新しい布を巻く間は、本人の状態を見て判断します」
「判断するのは、お前だけではない」
ギルベルトが言う。
マルセルは僅かに目を伏せた。
「リタにも確認します」
「それと、時間でも切る」
ギルベルトは懐中時計の針を合わせた。
「最長で五分だ」
「五分で外れない場合は」
「一度止める。状態を確認した後、必要ならもう一度本人へ聞く」
マルセルは傷の状態を思い出すように考えた。
「急がず行えば、五分以内で外せると思います」
「なら、五分」
ギルベルトは指先に小さな遅延印を作った。
灰色の術式そのものを強制的に壊すものではない。
五分が経過した時、マルセルの手元へ明確な合図を返す印だった。
本人の集中が処置へ向き、時間を見落とした場合にも、終わりを知らせる。
「一分前にも合図を出す」
「分かりました」
エルマは細い銀針を三本、扉の外へ立てた。
「一つは灰色の深さ。一つは恐怖による呼吸の乱れ。もう一つは拒絶反応を測りますわ」
「拒絶も消すの?」
扉の向こうから、リタが尋ねた。
「消しませんわ」
エルマは針を置いたまま答える。
「あなたが嫌だと思った時、その反応が弱くなりすぎていないかを見るためです」
「嫌って言ったら、止まる?」
「止まります」
マルセルが答えた。
今度は、誰かに促される前だった。
「声が出なければ、床を三回叩いてください」
暗がりから、軽い音が三度返る。
小さな指で床を叩いた音だった。
「聞こえました」
マルセルが言う。
「その合図でも止めます」
シロのために作った合図とは違う。
リタが暗い場所にいても、声が出なくても使えるもの。
この子のための合図だった。
「始める前に、四人の状態を確認する」
ギルベルトが告げた。
灰色を意図的に使う以上、自分たちの感覚が鈍っていないかを先に確かめる必要がある。
名前。
現在地。
担当。
身体の状態。
帰路。
調査を続けたい理由。
アトカは義手の指を握り、開いた。
右肩の熱は、先ほど水を減らしてから少しずつ薄れている。
「重さはほとんど戻りました。痛みはありません。水は扉の外側だけに置きます」
リリシアは治癒の漏出がないことを確認した。
「リタさんの処置を自分で行いたい気持ちはあります。でも、本人はマルセルさんを選びました。その判断を変えたいとは思いません」
エルマも銀針へ意識を集中させすぎていないかを報告する。
ギルベルトは全員の答えを聞き、頷いた。
「問題なし。始める」
マルセルが、物置の扉の前へ腰を下ろす。
「入ってもよいですか」
「先生だけ」
「分かりました」
マルセルは身体を横へ向け、隙間からゆっくり中へ入った。
扉は閉めない。
リタが閉じ込められたと感じないよう、細い隙間を残したままにする。
リリシアはその外側へ座った。
中を覗かず、必要な時に声が届く距離を選ぶ。
「最初に、傷を見ます」
マルセルの声が暗がりから聞こえる。
「まだ灰色は使いません」
布が動く。
リタの呼吸が少し速くなる。
「腕を出せますか」
しばらくして、扉の隙間から細い腕が差し出された。
肘から先だけ。
古い包帯が巻かれている。
布は清潔に保たれていたが、内側の一部が乾いた傷へ貼りついているらしい。
腕が僅かに震えていた。
リリシアは視線を傷へ向ける前に尋ねる。
「見てもよろしいですか」
「うん」
「触れずに見ます」
包帯の外側に、新しい出血はない。
悪臭もなく、熱を持っている様子も薄い。
だが、交換を続けなければ皮膚へ貼りつき、傷を再び開く可能性がある。
「交換は必要だと思います」
リリシアが告げる。
「ただし、急いで剥がす必要はありません。十分に水を含ませてから外しましょう」
「聞こえましたか」
マルセルが尋ねる。
「うん」
「始めてもよいですか」
腕の震えが少し強くなる。
返事はすぐには来なかった。
「灰色、先にして」
「どこを静かにしますか」
マルセルが尋ねる。
「怖いの」
「痛みは残しますか」
「少し弱くして」
「全部ではなく?」
「うん。取ってるの、分かるくらい」
マルセルは扉の外へいる三人へ視線を向けた。
暗がりで顔は見えない。
それでも、声には明確な希望があった。
恐怖は、処置を受けられる程度に。
痛みは、何をされているのか分かる程度に。
「恐怖を半分より浅く。痛みは表面だけ弱めます」
マルセルが説明する。
「接触への拒絶は残します」
「確認しますわ」
エルマが銀針へ魔力を通した。
針先から伸びた線が、扉の隙間を越えず、外側から灰色の流れだけを読む。
「開始前の恐怖反応は高め。呼吸も速くなっています。拒絶反応は明確に残っていますわ」
「始めます」
マルセルの手元に、灰色の淡い光が生じた。
建物全体から流れるものとは違う。
細く、弱い。
リタの腕の周囲だけへ向けられている。
アトカは扉の外側へ細い水の膜を置いた。
灰色が予定の範囲を越えた時だけ受け止める。
今は触れない。
マルセルの灰色が、包帯の周囲へ薄く重なった。
リタの呼吸が一度止まり、その後、少しだけ長くなる。
「今、どうですか」
マルセルが尋ねる。
「怖い」
「始める前と同じですか」
「少し小さい」
「痛みは」
「まだ分かんない」
「包帯へ水を含ませます」
マルセルが清潔な水を古い布へ少しずつ垂らす。
リタの指が動く。
腕を引こうとする反応が出た。
だが、実際には引かなかった。
「冷たい」
「はい。水です」
「今は痛くない」
「まだ剥がしていません」
マルセルは急がない。
貼りついた部分へ水が染み込むのを待つ。
一分。
ギルベルトが時間を確認する。
エルマの銀針は、恐怖反応が完全には消えていないことを示している。
灰色も、予定の深さから増えていない。
「これから端を持ち上げます」
マルセルが告げる。
「嫌になったら、言うか、三回叩いてください」
「うん」
包帯の端が少し上がる。
リタの呼吸が速くなった。
「痛い」
すぐに言葉が出た。
「どのくらいですか」
「引っ張られる」
「分かりました。止めています」
マルセルの手が止まる。
痛いと言ったから、さらに灰色を深くするのではない。
まず処置を止める。
リリシアが扉の外から尋ねた。
「水をもう少し入れた方がよいと思います。続けても大丈夫ですか」
暗がりの中で、リタが息を整えようとしている。
「灰色、もう少しだけ」
「怖さですか。痛みですか」
マルセルが聞く。
「怖いの」
「痛みは今のまま?」
「うん」
「分かりました」
マルセルは恐怖へ作用する流れだけを僅かに深くした。
痛みへ向かう灰色は変えない。
エルマの銀針がそれぞれの変化を捉える。
「恐怖反応だけ低下。痛みの反応と拒絶は残っていますわ」
「範囲も越えていません」
アトカが報告する。
再び水を含ませる。
今度はさらに長く待つ。
「もう一度、端を上げます」
リタの指が床を掴んだ。
包帯が少しずつ剥がれていく。
「痛い」
「止めますか」
「まだ、いい」
「続けます」
包帯が傷へ強く貼りついている場所へ届く。
リタの腕が大きく震えた。
床を叩く音が一度。
二度。
三度目は来ない。
「怖い」
「聞こえています」
マルセルは処置を進めない。
「止めますか」
「少し待って」
「待ちます」
灰色は増やさない。
痛みを消さない。
リタが次の言葉を出すまで、包帯を持ったまま動きを止める。
「取った方がいいんだよね」
「傷のためには、今日交換した方がよいです」
リリシアが答える。
「ですが、今すぐ続けるかはリタさんが決めて構いません」
「明日でもいい?」
「明日になれば、今より貼りつく可能性があります」
「もっと痛い?」
「その可能性があります」
暗がりで、鼻をすする音がした。
「今日やる」
「分かりました」
マルセルが答える。
「水を増やしてから、もう一度だけ剥がします」
二分が過ぎる。
古い包帯は半分以上外れていた。
新しい水が、残った部分へ染み込んでいく。
リタは痛いと何度か言った。
怖いとも言った。
そのたびに処置は一度止まる。
灰色を深くするかは、マルセルが勝手に決めなかった。
「もう少し静かにしますか」
「今のまま」
「分かりました」
三分を過ぎた頃。
最後に貼りついていた部分が、皮膚から離れた。
リタが短く声を上げる。
腕が引かれる。
それでもマルセルは追いかけて掴まなかった。
包帯を離し、動きを止める。
「外れました」
暗がりで、荒い呼吸が続く。
「全部?」
「古い包帯は全部です」
リタは返事をしなかった。
床を叩く音もない。
逃げるように腕を引いたが、しばらくすると、再び隙間から差し出した。
今度は包帯のない腕だった。
古い火傷の跡。
その一部へ新しい傷が重なっている。
出血は僅か。
膿や強い腫れは見られない。
「見てもいい」
リタが言った。
リリシアは傷へ視線を向ける。
「ありがとうございます」
外から見える範囲だけを確認する。
「悪くなってはいません。汚れを落として、薬を塗った新しい布を巻けば大丈夫だと思います」
「白いのは?」
「今は必要ありません」
リリシアは答えた。
「自然に塞がろうとしています。治癒を入れず、傷を守るだけでよい状態です」
マルセルが新しい布を取る。
ギルベルトの遅延印が一度だけ淡く光った。
開始から四分。
終了一分前の合図だった。
「灰色を弱め始めます」
マルセルが告げる。
「まだ包帯、巻いてない」
リタが言う。
「恐怖を少し戻します。急には切りません」
「痛いのも?」
「痛みは、ほとんど元の深さです」
「じゃあ、怖いのだけ?」
「はい」
灰色が少しずつ薄くなる。
リタの呼吸がまた速くなった。
「怖い」
「聞こえています」
マルセルは薬を塗った布を傷へ当てる前に、必ず声をかけた。
「今から触れます」
布が皮膚へ乗る。
リタの腕が震える。
「冷たい」
「薬です」
「痛いのは少し」
「分かりました」
新しい包帯が、一周ずつ巻かれていく。
もう灰色は、始めた時の半分以下になっていた。
リタは痛いと分かっている。
怖さも戻っている。
それでも、何をされているのか理解したまま処置を受けている。
最後の結び目を作った時、ギルベルトの遅延印が二度目の光を返した。
五分。
「終わりだ」
ギルベルトが告げる。
マルセルは灰色を止めた。
建物全体へ流れる浅い作用は残っている。
だが、リタだけへ向けていた鎮静は消えた。
エルマの銀針が、恐怖と痛みの反応が戻っていることを示す。
接触への拒絶も、最初と同じ強さへ近づいていた。
「終わりました」
マルセルが言う。
「包帯も?」
「新しいものへ替えました」
暗がりで、リタが自分の腕を見ているらしい。
包帯の上を指で触れる音がする。
「今、痛い」
「どんな痛みですか」
リリシアが尋ねる。
「じんじんする」
「強くなっていますか」
「同じくらい」
「分かりました。急に強くなったり、熱くなったりしたら教えてください」
「うん」
マルセルは物置から出た。
扉の隙間は、そのまま残す。
中からリタが出てくることはなかった。
だが、扉を閉めてほしいとも言わなかった。
「灰色は、役に立ちましたか」
エルマが暗がりへ尋ねた。
「うん」
リタの返事は小さい。
「なかったら、できなかったと思う」
少し間が空く。
「でも、ずっとは嫌」
マルセルはその言葉を聞いていた。
「分かりました」
否定も、説得もせずに答える。
「次に使う時も、始める前に時間を決めます」
「次も先生がやる?」
「あなたが望むなら」
「明るいのは嫌」
「今と同じ暗さにしますか」
再び間が空いた。
「真っ暗じゃなくていい」
リタは言った。
「少しだけ見える方がいい」
物置の奥には、小さな明かりが一つもない。
今までリタは、暗い場所にいる方が安全だと考えられていた。
あるいは、マルセルがそう判断していた。
だが今、リタ自身が、完全な暗闇ではなく、何をされているのか少し見える明るさを選んだ。
「次は、明かりの強さも一緒に決めましょう」
マルセルが答える。
灰色は、確かに役に立った。
リタが必要な処置を受ける時間を作った。
痛みも恐怖も全て奪わず、本人が何をされているのかを理解したまま、包帯を交換できた。
だからこそ、役に立ったことを理由に、終わらせる時刻を失ってはならなかった。
物置の暗がりから、包帯を巻いた小さな手が一度だけ見えた。
何かを確かめるように光のある広間へ伸び、すぐには引っ込まなかった。




