言葉にならない時の為に
シロの発作は、すぐには終わらなかった。
呼吸の間隔は少しずつ戻り、右胸を強く締めつける収縮も先ほどより弱くなっている。
それでも息を吸うたびに眉が寄り、マルセルの袖を握る指にはまだ力が残っていた。
「今はどうですか」
リリシアが尋ねると、シロは胸元へ手を当て、何度か呼吸を確かめてから答えた。
「少し、ぎゅってする」
「先ほどより強いですか。弱いですか」
「弱い」
「怖さは」
シロは少し考える。
「まだある」
「分かりました」
リリシアは怖さをなくそうとはせず、今の状態として受け取った。エルマも銀針の明滅を確かめる。
「胸の収縮も、シロさんの言葉と一致していますわ。今の間隔が続けば、次の強い波までは十拍前後ありそうです」
「遅延は減らす」
ギルベルトの指先に残っていた円環が、さらに小さくなる。
収縮が起きるたび時間をずらし続ければ、シロ自身の魔力路がどの速さへ戻ろうとしているのか分からなくなる。
必要な時だけ間を作り、越えられる波は本人の身体へ返す。
リリシアも診察光を細くした。
何度も治癒を添えた右胸には、外から支えられた影響が残っている。
今以上に流せば、狭い魔力路を無理に広げる動きへ変わりかねなかった。
「次の強い収縮は、まず自分で越えられるか見ます」
シロが不安そうにリリシアを見る。
「苦しくなったら?」
「すぐに教えてください」
「言えなかったら?」
その問いに、リリシアの返事が止まった。
発作が強くなれば、言葉を作る余裕がなくなる。
灰色がなくても、苦しさの中で話せないことはある。
ようやく言葉を取り戻したからといって、いつでも伝えられるとは限らなかった。
「では、言葉以外の合図を決めましょう」
アトカが言った。シロが顔を向ける。
「声が出なくてもできるものです」
アトカは義手の指をゆっくり握る。
「誰かの手や服を一度握ったら、胸がぎゅっとする。二回なら、怖い」
「三回は?」
「すぐに助けてほしい時にしましょう」
リリシアが答えた。
「息が入らない。今までより急に苦しくなった。自分では待てないと思った時です」
「自分では、分かんないかも」
「分からなくても構いません。今までと違うと思った時や、何かが急に変わった時も三回で大丈夫です。合図を受け取ったら、何が必要かはわたしたちが確認します」
マルセルはシロが掴んでいる袖を見た。何度も繕われ、布が厚くなっている。
「私の袖でなくても使える合図にした方がよいでしょう」
シロの顔が僅かに強張った。
「先生、いなくなるの?」
「今すぐではありません」
マルセルはすぐに答える。
「ですが、私が水を取りに行っている時や、ほかの子を見ている時もあります」
まだ不安そうなシロの手の下へ、マルセルは自分の掌を置いた。
「誰かの手を握る。毛布を引く。椅子を叩く。音を出せるなら、それでも構いません」
「それなら、シロさんが胸へ手を置いた時も、周りが確認する合図にしましょう」
アトカが言う。
「さっきも、言葉より先に胸を押さえていました」
エルマは記録紙の中央へ線を引いた。
「本人が伝える合図と、周囲が気づく変化を分けますわ」
左側には、一度握る、二度握る、三度握る。右側には、右胸へ手を置く、動きが止まる、肩だけで息をし始める、顔色が変わる、返事が遅くなる、と記す。
「ただ手が動いただけで、意味を決めてはいけない」
ギルベルトが紙を見る。
「合図らしい動きがあったら、まず本人へ確認する。返事ができなければ、身体の状態を見て動く」
「はい」
リリシアが頷く。
「これなら『痛い』と言えない時でも、前より早く気づけます」
マルセルは記録紙を読み返した。
シロの顔色や呼吸は、以前から見ていた。
だが、それらは発作が進んだ後に表れる変化だった。
胸元へ手を置く仕草も何度か記録していたが、痛みの訴えがなかったため、前兆とは結びつけていなかった。
「胸へ手を置く動きは、以前からありました」
「記録には?」
エルマが尋ねる。
「何度か。ただ、発作の前兆とは断定しませんでした」
「今日、シロさん自身が右胸の異常と結びつけましたわ」
「ええ」
見えていたものを書いた記録が、嘘だったわけではない。
それでも、シロ自身の言葉が加わったことで、同じ動作から受け取れる意味が変わった。
「シロ。胸へ手を置いた時は、毎回ぎゅっとしていましたか」
「分かんない」
「今日より前は」
「……たぶん」
マルセルは続きを急がせず、言い直した。
「分からなくてもいいです。次から、胸へ手を置いた時に教えてください」
「うん」
「言葉が出なければ、一度握る」
シロがマルセルの袖を一度握った。
「今、ぎゅっとしていますか」
「少し」
エルマが銀針を見る。
「弱い収縮が来ていますわ」
合図と外へ表れた反応が一致していた。シロは息を吸う。右胸で僅かに詰まったが、空気は自力で入った。すぐに次を吸おうとせず、一つだけ待って細い息を吐く。
「今の呼吸は、自分で入りました」
リリシアは褒めるのではなく、起きたことを伝えた。
「先生も何もしてない?」
「姿勢は支えています」
マルセルが答える。
「灰色は使っていません」
「白いのは?」
「わたしも、今は使っていません」
リリシアが掌を見せる。白い光は出ていなかった。
シロは自分の胸へ意識を向けた。苦しさは残っている。
それでも、すべてを外から動かされなければ呼吸できないわけではなかった。
アトカは長椅子を囲んでいた水の輪を少し細くした。
外から流れてくる灰色は先ほどより弱く、建物側が発作へ反応して供給を増やそうとする動きも落ち着き始めている。
その一方で、右肩へ小さな熱が生じていた。義手の接続部が、普段より少し温かく、重い。
「ギルベルト先輩」
アトカはすぐに報告した。
「右肩が少し熱いです」
全員の視線が向く。
「痛みは」
「ありません。義手の指も動きます。でも、さっきより肩が重いです」
「水を減らせ」
ギルベルトが即座に言う。
「灰色の監視は」
「わたくしが針で流れを見ますわ。増えた時だけ、アトカさんへ知らせます」
「でも、水を全部なくすと」
「全部はなくさなくていい。シロへ入る主な流れだけ残せ。ほかは解除しろ」
アトカは頷き、広間側へ広げていた水を戻した。
床と壁を囲む輪を縮め、シロへ直接伸びる灰色の経路だけへ細い水を残す。
水の量が半分以下になると、右肩の重さも僅かに薄れた。
「どうだ」
「少し楽になりました」
「その状態を保て。変わったらまた言え」
「はい」
マルセルはアトカを見ていた。
「子供を助けている途中でも、役目を減らすのですね」
「はい」
「その分を、ほかの者が引き受ける」
「一人で全部しなくても、今は四人いますから」
アトカはシロの背を支える腕を見る。
「先生もいます」
マルセルは答えなかった。
灰庭では、マルセルが手を放せば代わりはいなかった。
疲れても、眠くても、傷があっても食事を作り、子供が泣けば起き、発作が起きれば一人で支えた。
役目を減らすことは、そのまま誰かを放置することだった。
だから、手を放さずに済むよう灰色を使った。
子供たちを静め、自分一人で全員を支えられる形へ変えた。
けれど今、アトカが水を減らしてもシロへの支えは消えていない。
エルマが流れを見て、ギルベルトが時間を判断し、リリシアが治癒の限界を決め、マルセルが姿勢を保っている。
誰が役目を減らしても、必要なところだけを別の誰かが受け取っていた。
「次の強い収縮は、先ほどより長く空きそうですわ」
エルマが告げる。
ギルベルトは円環を消した。
「今回は遅らせない」
シロが不安そうに袖を二度握る。
「怖いのですね」
マルセルが確認すると、少年が頷いた。
「灰色を使いますか」
シロは胸元へ手を置き、呼吸を一度確かめる。
「今は、使わない」
「分かりました」
マルセルは迷わず受け入れた。
「三回握ったら、灰色を使う?」
「三回は、すぐに助けてほしい合図です」
リリシアが説明する。
「灰色を使うか、白い光で支えるか、姿勢を変えるか。その時の状態を見て決めます」
「三回は灰色って決めないの?」
「決めません。その時に必要な助けが、毎回同じとは限らないからです」
シロは難しそうな顔をしたが、分からないまま頷いた。
やがて銀針の明滅が強まり、エルマが声を落として告げる。
「強い波が近づいています。今の変化なら、あと五拍ほどですわ」
シロが息を吐く。四拍目でマルセルの袖を一度握り、胸が締めつけられ始めたことを伝えた。
二拍目にはもう一度握る。怖い。
三度目は来なかった。
右胸が強く狭まり、息が止まりかける。
それでもシロは自分で吸おうとした。胸が詰まり、僅かに空気が入る。
「入っています」
リリシアは白い光を使わず、ギルベルトも時間を遅らせない。
シロは短い呼吸を二度繰り返した後、長く息を吐いた。右胸の収縮が緩み、銀針の光も弱くなる。
「越えましたわ」
シロの身体から力が抜けた。倒れたのではない。長く張りつめていたものが緩み、マルセルの腕へ重さを預けた。
「終わった?」
「大きな収縮は、今は終わっています」
リリシアが答える。
「また起きる可能性はあります。ですから、しばらく休みながら見ます」
「治ったんじゃない?」
「原因は残っています。でも、今回の発作は落ち着いてきています」
怖さが戻った分、シロは泣き、自分の胸の変化を考え、言葉や合図へ変えた。
それは灰色に沈められていた時より、身体を疲れさせたかもしれない。
それでも、その疲れも本人へ届いている。
「疲れましたか」
「うん。眠い」
「ここで眠っても大丈夫です」
マルセルが毛布を肩へ掛ける。
「灰色は?」
「使ってほしいですか」
「今は、いらない」
「分かりました」
灰色を使わなくても、眠るまでそばにいるという答えだった。
シロの呼吸は時折浅くなり、そのたび胸元へ手が動いた。
強い収縮が戻らないまま、マルセルの袖を掴んでいた指が緩んでいく。
少年は泣いた跡を頬へ残して眠った。
広間の子供たちは遠巻きに見ていた。
誰も泣かず、騒がない。
それでも、灰色に視線を戻された時のように、すぐ作業へ戻る者はいなかった。
トマは包帯を巻いた膝を伸ばしたまま尋ねる。
「シロ、痛かったの?」
リリシアは眠る少年を見てから答えた。
「右の胸が締めつけられて、息を吸うと苦しかったそうです」
「それが痛い?」
「痛みの一つかもしれません」
「怖いも?」
「怖いは、怖いです。痛いとは違います。でも、一緒に起きることがあります」
トマは自分の膝を見る。
「ぼくの膝も、何か言ってる?」
「今は、休んでほしいと伝えています」
「でも、分かんない」
「見て確かめることはできます」
トマは包帯の上へ手を置いた。強く押しそうになり、触れるだけで止める。
子供たちの間へ、少しずつ言葉が増えていた。
痛い。怖い。苦しい。疲れた。
まだ自分の感覚として理解できなくても、誰かの身体に起きていることとして聞き始めていた。
その時、広間の奥で小さな音がした。物置へ続く扉の隙間から、空になった器が押し出されている。
ミナが取りに行こうとすると、扉の向こうから細い声がした。
「先生」
マルセルが振り返る。
「聞こえています」
「包帯、替える日?」
「予定では今日です」
リタの腕には古い火傷の傷があり、布が皮膚へ貼りつきやすい。
交換のたびに強い恐怖を示し、これまでは処置の前から灰色を深くしていた。
「やらないと駄目?」
「汚れたままにすれば、傷が悪くなる可能性があります」
マルセルは嘘をつかなかった。扉の向こうから浅い呼吸が聞こえる。
「怖い」
「聞こえています」
「痛いのも、嫌」
リリシアは姿を見ようとせず、扉から離れた位置で声をかけた。
「お名前を呼ばれることも怖いと聞いています。今は呼ばない方がよければ、そう言ってください」
しばらくして、小さな声が返る。
「今は、いい」
「分かりました」
「白いの、使う?」
「まだ決めていません。傷を見てから、必要な処置を考えます」
「灰色は?」
リリシアが尋ねる。
「使ってほしいですか」
暗がりで布が擦れた。
「全部、分かんなくなるのは嫌。でも、包帯取る時だけ、少し静かにしてほしい」
マルセルの表情が変わった。
灰色を拒んだのではない。処置の前から後まで深く沈めてほしいとも言わなかった。
痛みと恐怖があると分かった上で、必要な時間だけ弱めてほしいと選んでいる。
「分かりました」
マルセルは答える。
「始める前に、どのくらい静かにするか一緒に決めましょう」
扉の向こうから、僅かな返事が聞こえた。
「うん」
シロは灰色を使わず眠っている。リタは、包帯を外す間だけ灰色を求めている。
どちらが正しいのではない。必要な助けが違う。
広間の壁には今も薄い灰色が流れている。
けれど初めて、その深さと時間を決める言葉が、マルセル以外の口から発せられていた。




