今は使わない
最も強い収縮を越えても、シロの呼吸はまだ浅かった。
右胸の魔力路は狭いまま、息を吸うたび小さく縮んでいる。
けれど、先ほどのように空気が完全に止まる波は弱まり、肩が上がる間隔も少しずつ長くなっていた。
リリシアは右胸へ添えていた白い光を薄くする。
支え続ければ、治癒がシロ自身の流れへ代わろうとする。
今は、呼吸が自分の力で続くかを確かめなければならなかった。
「シロさん。光を少し減らします」
少年はマルセルの袖を握ったまま、小さく頷いた。
「苦しくなったら、さっきと同じように教えてください。言葉が出なければ、指を一度動かすだけでも構いません」
シロの人差し指が、確かめるように一度動く。
「はい。それで分かります」
リリシアが光をさらに細くすると、シロの胸が自力で持ち上がった。途中で右側が詰まり、眉が寄る。それでも空気は入っている。
「今は?」
「右が……ぎゅっとする」
「吸う時ですか」
「うん。さっきより、少しだけ」
リリシアは頷き、エルマを見る。
シロの身体から離れた位置に置かれた銀針は、呼吸に合わせて淡く揺れていた。
大きな明滅はない。エルマは胸の外へ表れる魔力の動きと、壁から流れ込もうとする灰色を追っている。
「今の間隔が続くなら、すぐに先ほどと同じ強さの波が来る様子はありませんわ。ただし、まだ安定したとは記録しません」
「分かりました」
ギルベルトは遅延の円環を消した。次の収縮を遅らせる準備は残しているが、発動はさせない。
アトカも長椅子の周囲に置いた水の輪を細くした。
建物から新しく伸びてくる灰色だけを見張り、必要な分だけ水へ変えられる状態を保つ。
誰も役目を離れてはいない。それでも、先ほどまでのように全員が力を使い続けてはいなかった。
シロ自身の呼吸が戻る場所を残すためだった。
マルセルは少年の背を支えたまま、手の中の鎮静印へ視線を落とした。
灰色を使えば、恐怖は弱まる。胸の締めつけも、今より気にならなくなるかもしれない。
呼吸が恐怖で速くなることも抑えられる。
これまでの発作では、そうして危険な波を越えてきた。
だが、そのたびにシロは自分の胸がどう変なのかを言えなくなっていった。
「シロ」
マルセルが呼ぶ。
少年の目が、ゆっくり彼へ向く。
「灰色を使ってほしいですか」
シロは答えなかった。
問いの意味が分からないのではない。
これまで発作が起きれば、マルセルが必要な深さを決めていた。
シロが選ぶ前に、怖さも痛みも静かになっていた。
自分へ尋ねられたこと自体を、どう受け取ればよいのか分からないようだった。
マルセルは答えを急かさなかった。
「使うと、どうなるの?」
やがてシロが尋ねる。
「怖さが弱くなります」
「ぎゅってするのも?」
「一部は分かりにくくなるでしょう」
「息は楽になる?」
マルセルはすぐに肯定しなかった。
「恐怖で呼吸が速くなっている分は、落ち着くかもしれません。ただ、右胸の魔力路が狭いこと自体は治りません」
シロは右胸へ手を当てる。
「ぎゅってするのが分からなくなったら、先生は分かる?」
「顔色や呼吸、魔力の動きから分かることもあります」
マルセルの声が僅かに低くなる。
「ですが、今日のように、あなたが言うより遅くなることもあります」
少年は黙った。
マルセルが自分の見落としを隠さず答えたことに、リリシアは口を挟まなかった。
灰色を使うべきか。使わないべきか。
どちらかへ導く言葉を足せば、シロが選んだように見えても、実際には大人の望む答えへ寄せることになる。
リリシアは呼吸だけを見た。
今は空気が入っている。右胸の収縮も、すぐに強まってはいない。考える時間を取れる状態だった。
「使わなかったら?」
シロが尋ねる。
マルセルは鎮静印を見た。
「怖さも、胸の感覚も残ります」
「また苦しくなる?」
「なる可能性はあります」
シロの指がマルセルの袖を強く握る。
「その時は?」
「もう一度聞きます」
マルセルは答えた。
「あなたが言えないほど苦しくなった場合は、顔色や呼吸を見て必要な処置をします。ただ、今の答えを、ずっと変えてはいけない約束にはしません」
「後で使ってって言ってもいい?」
「構いません」
「途中で止めてって言っても?」
「止められる状態なら止めます。すぐに止めることで身体へ急な負担が出る場合は、その理由を伝えて少しずつ弱めます」
シロはリリシアを見る。
「本当?」
「はい」
リリシアは頷いた。
「今使うかどうかと、後で使うかどうかは、同じ答えでなくて構いません」
「使わない方がいいの?」
「わたしが決めることではありません」
「でも、使わないで息が止まったら?」
その問いに、リリシアの胸が強く縮んだ。
簡単に大丈夫とは言えない。灰色を使わなくても安全だと、今の診察だけで断定もできない。
「息が止まりそうになるまで、何もしないわけではありません」
リリシアは一つずつ伝えた。
「胸の動きは、わたしが見ています。強く狭まる波はエルマさんが知らせます。ギルベルトさんは、その波が来る時間を少しだけ遅らせられます。アトカ君は、建物から新しく集まる灰色を必要な分だけ水へ変えています」
シロは四人を見る。
「マルセルさんは、シロさんの身体を支え、これまでの発作との違いを教えてくれます」
「先生もいる?」
「います」
マルセルが答えた。
「灰色を使わないと答えても、私は離れません」
シロの目に涙が溜まった。
怖さが増したためなのか、離れないと言われたためなのかは、誰にも決められなかった。
「今は……」
少年は息を吸う。
右胸が小さく詰まる。
すぐに次の息を求めず、一度だけ細く吐く。先ほど教えられた動きを、自分から試していた。
「今は、使わない」
マルセルの手の中で、灰色の印が揺れた。
「今は、灰色を使わないという意味ですか」
「うん」
「後で答えを変えても構いません」
「うん」
マルセルは鎮静印を消した。
灰色を間違いだと認めたからではない。
シロが、今は使わないと選んだからだった。
広間では、ミナもナナも、シロとマルセルを見ていた。
ナナが机の縁へ置いた手を僅かに上げる。
「使わない方がいいの?」
リリシアは首を横へ振った。
「シロさんは、今の胸と呼吸を確かめて、今は使わないと決めました。ナナさんが今夜眠る時にどうしたいかは、同じ答えでなくて構いません」
「使ってって言ってもいい?」
「はい。どこまで静かにしてほしいか、いつ止めてほしいかも一緒に考えます」
ナナはシロを見る。
「シロも、後で使っていいの?」
「いいよって、先生が言った」
シロが掠れた声で答えた。
マルセルも頷く。
「今の選択を守ることと、後の選択を縛ることは違います」
子供たちの間に短い沈黙が落ちた。
誰もシロを我慢できる子として褒めず、灰色を求めるナナを弱いとも言わなかった。
それぞれの身体と夜に、別の答えがあってよいことだけが残った。
「ありがとうございます」
リリシアは言いかけ、言葉を止めた。
灰色を拒んだことへ礼を言えば、使わない答えを歓迎したことになる。
代わりに、シロの顔を見る。
「答えを聞きました。変えたくなったら、また教えてください」
「うん」
広間の壁から、細い灰色がもう一度シロへ伸びた。
アトカはすぐに全てを消さなかった。エルマの示した流れだけへ水を触れさせ、シロへ新しく入ろうとする分を水へ変える。
灰色は澄んだ一筋の水となり、床の上の輪へ加わった。
「今、新しく来た分を一つだけ変えました」
アトカが伝える。
シロは自分の胸へ手を置いたまま頷く。
「急に全部なくなってはいません。身体の中に残っている分は、僕には触れません」
「分かった」
その返事の直後、シロの右胸が少し強く縮んだ。少年の肩が上がり、息が止まりかける。
リリシアの指先へ白い光が集まる。
けれど、シロはすぐにマルセルの袖を一度握り直した。
決めていた合図ではない。
リリシアは意味を勝手に決めず、尋ねる。
「苦しいですか」
シロが頷く。
「光で支えてほしいですか。それとも、もう一度自分で吸ってみますか」
少年は迷った後、小さく答えた。
「もう一回」
「分かりました。見ています」
シロは息を吐く。
一度で長くは吐けない。細い息が途切れ、また肩が上がる。それでも、すぐに白い光は入らなかった。
エルマが銀針の動きを追う。
「今の間隔なら、次の強い収縮までは数拍ありますわ。変化があればすぐ伝えます」
ギルベルトも円環を構えたまま、発動させない。
マルセルは背を支える手へ余計な力を入れず、シロが前へ倒れすぎない位置だけを保つ。
シロがもう一度息を吸う。
右胸で一度詰まる。
その後、空気が入った。
「入った」
シロ自身が言った。
「はい。自分で入りました」
リリシアは白い光を掌の中へ収めた。
成功を褒めすぎない。次も同じようにできるとは限らない。
それでも、今の一呼吸を本人のものとして受け取る。
「今は?」
「まだ、ぎゅってする。でも、さっきより少し弱い」
エルマが針を見る。
「外へ表れている収縮も、先ほどより弱くなっていますわ」
シロの言葉を確認した後で、観測結果を重ねる。
針の方が正しい答えなのではない。
本人が伝えたことと、外から確認できたことが一致していると分けて残すためだった。
マルセルは、長椅子の脇へ置かれていた帳面へ手を伸ばした。
開こうとして、一度止まる。
「シロ」
「なに?」
「今のことを記録してもいいですか」
少年は帳面を見る。
「何を書くの?」
マルセルは空いた頁を見せた。
「あなたが言ったことと、私たちが確認したことです」
「先生が思ったことも?」
その問いに、マルセルの指が止まった。
これまでの帳面には、マルセルが改善と判断した結果が並んでいた。
夜間覚醒なし。
拒絶なし。
鎮静継続。
だが、それらは本人の言葉と、マルセルの判断を同じ欄へ置いた記録でもあった。
「私が判断したことは、あなたの言葉とは分けて書きます」
「見せてくれる?」
「書いた後に読みます」
シロは少し考えた。
「いいよ」
マルセルは頁の上へ時刻を書き、すぐには筆を進めなかった。
「最初に言ったのは、何でしたか」
「右が、ぎゅっとする」
「次は」
「吸うと苦しい」
「怖いとも言いました」
「うん」
マルセルは一つずつ、シロへ確かめながら書く。
本人の言葉。
「右が、ぎゅっとする」
「吸うと苦しい」
「怖い」
「今は、使わない」
「さっきより少し弱い」
その下へ欄を分ける。
確認した状態。
右胸部の魔力路が吸気時に収縮。
最も強い波を越えた後、収縮間隔は延長。
灰色を新たに深めず、呼吸を継続。
本人へ途中で選択を変更できると説明。
現時点では灰色を使用しない。
さらに、行動した者と内容を書く。
リリシア――呼吸と身体状態を診察。自力で吸えない一拍のみ支援。
ギルベルト――強い収縮の発現を一度遅延。
アトカ――外部から新しく流入する灰色のみを水へ変換。
エルマ――呼吸、外部魔力、灰色の変化を観測。
マルセル――姿勢を保持。灰色の効果と不利益を説明。本人の選択後、鎮静印を解除。
マルセルは最後に、自分の判断を書くための欄を見た。
以前なら、発作軽減と書いて終えていただろう。
だが今は、シロの胸の狭さも、恐怖も残っている。
「改善とは書かないの?」
シロが尋ねた。
「まだ、そう決めません」
「悪いの?」
「悪化とも決めません」
マルセルは答える。
「呼吸は先ほどより長くなりました。胸の狭さは残っています。怖さもあります。灰色を使わずに一呼吸できました。それぞれ別に残します」
シロは完全には理解していない様子だった。
それでも、自分が言った「怖い」が消されず、「良くなった」という一言へ変えられなかったことは分かったらしい。
「読んで」
マルセルは最初の行から、ゆっくり読み上げた。
「本人の言葉。右が、ぎゅっとする。吸うと苦しい。怖い。今は、使わない。さっきより少し弱い」
シロは胸へ手を当てたまま聞いている。
「違うところはありますか」
「ない」
「書き足したいことは」
少年は考えた。
「先生がいた」
マルセルの筆が止まる。
シロは袖を握った手を見た。
「ずっと、いた」
マルセルはすぐに書かなかった。
「それも記録してよいですか」
「うん」
本人の言葉の最後へ、一行が加わる。
「先生が、ずっといた」
マルセルは書き終えた頁を閉じなかった。
インクが乾くまで、シロから見える向きに開いておく。
シロの呼吸はまだ完全には戻っていない。
右胸も、ときどき小さく縮んでいる。
灰色を使わないという答えも、この先ずっと変わらないものではなかった。
それでも今この時、誰かが代わりに選ぶ前に、シロは自分で答えた。
今は使わない。
その言葉は、改善にも拒絶にも書き換えられず、シロが選んだ時刻と一緒に残された。




