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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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ここが変

シロの膝から力が抜けた。


床へ倒れる前に、マルセルが身体を抱き留める。

少年は返事をしようとしたが、息を吸うたび右胸が小さく跳ね、声にならなかった。

顔色は青白く、額と首筋には汗が浮かんでいる。


広間の子供たちが一斉に手を止めた。

木片も、布も、重ねかけた器も動かない。誰も泣かず、誰も駆け寄らない。


ミナは棚の前で立ち尽くし、トマは傷のある足へ体重をかけないまま長椅子を見ていた。

ナナは机の縁を握っている。それぞれに何かは起きているのに、声にも動きにもならなかった。


その代わり、壁と床を流れていた灰色が、広間の奥からシロへ向かって少しずつ集まり始めていた。

建物は、子供たちが誰かを呼ぶより先に、苦痛を静めようとしている。


「シロ。聞こえますか」


マルセルの呼びかけにも、浅く速い呼吸だけが返る。


「そのまま身体を起こして支えてください」


リリシアが駆け寄った。


マルセルはシロを広間の長椅子へ運び、背中へ畳んだ毛布を入れた。

身体を少し前へ傾け、胸を圧迫しない姿勢を作る。何度も同じ発作へ対応してきた動きだった。


リリシアはシロの正面へ膝をつく。


「シロさん。わたしの声が聞こえたら、指を一度動かしてください」


シロの右手は、マルセルの袖を強く掴んでいた。その人差し指が僅かに動く。


「聞こえています」


リリシアは顔色、唇、胸と腹の動きを順に確かめた。

怖くないわけではなかった。

呼吸が一度詰まるたび、胸の内側から治癒を急いで流したい衝動が押し上がる。


それでも、原因も分からないまま強い光を入れれば、狭い魔力路を無理に押し広げるかもしれない。

リリシアは指先へ集まった白い光を細く保ち、すぐには治癒を流さなかった。


「胸の状態を見る光を使います。触れてもいいですか」


シロの指が、もう一度動いた。


リリシアは服の上から右胸へ掌を添えた。

白い光を身体の表面へ薄く広げ、内側から返る魔力の動きを読む。

傷を塞いだり、経路を作り替えたりするための光ではない。


「右胸の魔力路が狭くなっています。息を吸う時に、さらに縮んでいます」


マルセルが即座に答える。


「記録にある発作と同じです。恐怖で呼吸が速くなると、周囲の経路も狭まります」


「今ここで、原因そのものは治せません」


治せないと口にするのは怖かった。

けれど、できないことを隠して強い治癒を使う方が、シロの身体を危険にする。


リリシアははっきり告げた。


「無理に広げれば、魔力路を傷つけるかもしれません。今は呼吸が途切れないように支えます」


マルセルは頷き、シロの背を支えたまま呼吸を数える。


ギルベルトが尋ねた。


「いつもと違うところは」


「気づくのが遅い」


マルセルの声が硬くなる。


「以前なら、ここまで悪くなる前に痛いと訴えていました。今は顔色が変わるまで、自分から言わない」


エルマはシロの身体へ触れない位置へ銀針を三本立てた。

胸の収縮、呼吸の間隔、建物から流れ込む灰色を、それぞれ別の線として映す。


銀針が拾うのは、身体の外へ表れた変化だけだった。

シロの内側を勝手に覗くのではない。

リリシアの診察と、外へ漏れた魔力の動きを重ね、同じ変化が起きているかを確かめる。


「今から、呼吸と灰色の動きを見ますわ。嫌なら、指を動かしてくださいませ」


シロの指は動かなかった。答える余裕がない可能性もある。

エルマはそれを同意とは決めず、針を身体へ近づけないまま、広間の空気に現れた反応だけを追った。


針先の灰色が急に太くなる。


「建物からの鎮静が、シロさんへ集まっていますわ」


壁や床から伸びた灰色が、発作を見つけたように長椅子へ向かっている。

痛みと恐怖を沈め、いつもの静かな状態へ戻そうとしていた。


「シロへ入る流れだけを見分けられるか」


「外から集まっている分なら分けられますわ。身体の内側へ入ったものには触れません」


ギルベルトがアトカを見る。


「外だけだ。急に切るな」


「はい」


アトカは長椅子の周囲へ細い水の輪を作った。

水はシロの身体へ触れず、床と壁から伸びてくる灰色の前へ置かれる。


「身体の中へは触りません。新しく来る灰色だけを、少しずつ水へ変えます」


細い灰色の一本が水の輪へ触れ、澄んだ水へ変わった。

灰色を含んだ水へ移したのではない。外へ現れている魔力そのものを、アトカの扱える水へ変えたのだ。


次の一本も、急がずに変える。


もっと多く変えれば、灰色の流入をすぐ止められる。

けれど、シロの身体の中にはすでに鎮静が残っている。

外だけを急に消せば、痛みと恐怖が一度に戻るかもしれない。


アトカは水の輪を広げず、エルマが示した一本だけを選んだ。


シロの肩が震え、マルセルの袖を掴む手へ力が入った。

灰色に沈められていた緊張が、少しずつ本人へ戻り始めている。


「呼吸の間隔が短くなっていますわ」


エルマが告げる。


マルセルの指先へ、反射的に灰色が集まった。


「一度深くします。このまま恐怖が増せば、収縮も強くなる」


「待ってください」


リリシアが止める。


「発作は、灰色を薄くしたから始まったのではありません。もう苦しかったのに、それを伝えられなかったんです」


「言葉を取り戻す前に呼吸が止まれば意味がない」


「止めません。必要な呼吸は、わたしが支えます」


声が震えないようにするだけで精一杯だった。

それでも、怖いからといって灰色へ判断を返すことはしなかった。


リリシアの白い光が、シロの右胸へ細く添えられる。

狭まった経路を無理に広げるのではなく、次の呼吸で通る魔力が途中で途切れないよう、一拍だけ下から支える。


シロが息を吸う。


胸が途中で止まりかけ、白い光に支えられて僅かに続いた。空気が入り、上がっていた肩が少し下がる。


「続けられるか」


「何度もは無理です。長く支えれば、治癒が経路そのものを変えようとします」


「強い収縮の間隔は」


エルマが銀針の明滅を追う。


「五回に一度ですわ。次の大きな収縮まで、まだ数拍あります」


ギルベルトは、診察光に映った収縮の脈動へ遅延術式を重ねた。

身体そのものではなく、次に経路を強く狭めようとしている魔力現象だけを狙う。


「三秒後、次の強い収縮を遅らせる。そこまで支えろ」


ギルベルトは懐中時計を開かなかった。

今は文字盤を見るより、シロの呼吸とエルマの声を数える方が早い。

術式が働くまでの三秒を、自分で一拍ずつ数える。


「分かりました」


リリシアが一度、シロの呼吸を支える。


二度目は浅い収縮だった。


三秒後、銀針が強く明滅する直前に、ギルベルトの術式が働いた。

収縮そのものは消えない。ただ発現が僅かに遅れ、先に息を吸うための間が生まれる。


シロの胸へ空気が入った。


「次に、遅らせた収縮が来ますわ」


「分かってる」


ギルベルトは時間を告げ、リリシアが次の一拍へ備える。


遅れていた収縮が来る。白い光がその一度だけを支えた。

シロは苦しそうに息を吐いたが、呼吸は途切れなかった。


ギルベルトは新しい遅延種を重ねなかった。

次々と遅らせれば、後から収縮が続けて発現する危険がある。

今作った一度の余地を、リリシアが呼吸へ、アトカが灰色の抑制へ使えたことを確認してから、次の判断を待つ。


「シロさん」


リリシアが呼びかける。


少年の視線が、ゆっくり彼女へ向く。


「胸のどこが変ですか。右ですか、左ですか」


シロは答えられない。左手で胸の中央を押さえたまま、目だけを動かす。


リリシアは自分の右胸を指した。


「こちらですか」


シロの手が、僅かに右へ動いた。


「右ですわ。針の反応とも一致しています」


エルマが記録する。


「正しい言葉でなくて構いません」


リリシアは続けた。


「重い。熱い。冷たい。押される。分からなければ、もっと変でも大丈夫です」


シロは自分の胸へ意識を向けるように目を閉じた。


アトカが、外から伸びる灰色をもう一本だけ水へ変える。


少年の眉が寄った。


苦痛が、初めて表情に現れた。


マルセルの手へ再び灰色が集まる。


「苦しませています」


「苦しさは、最初からありました」


リリシアはシロから目を逸らさない。


「顔に出たから始まったのではありません。今、わたしたちにも分かるようになったんです」


マルセルの指が止まった。


シロは、灰色を薄める前から発作を起こしていた。

苦しくなかったのではない。

苦しさが本人の言葉にも、周囲の目にも届きにくくなっていただけだった。


アトカが長椅子から少し離れた位置で声をかける。


「シロさん。僕の水で、外から来る灰色だけを少し減らしています。急には減らしません」


少年の目がアトカへ動く。


「怖かったら、怖いと言ってください。分からなかったら、分からないでも大丈夫です」


シロの呼吸が一度乱れた。マルセルの袖を掴む手がさらに強くなる。


「怖いと、もっと苦しくなる」


掠れた声だった。


広間にいた全員がシロを見る。


マルセルの顔が強張った。


記録の初めに残っていた言葉だった。


「そうです。怖くなると呼吸が速くなり、胸がもっと狭くなることがあります」


リリシアは否定しなかった。


シロの目に涙が浮かぶ。


「じゃあ、言わない」


「言わなくても、怖さはなくなりません」


リリシアの白い光が、次の呼吸を支える。


「言ってくれれば、わたしたちが今の状態を分かれます。怖いままでも、呼吸は一緒に支えます」


エルマが針を見る。


「次は浅い収縮ですわ。その次が強いです」


ギルベルトが間隔を数える。


アトカは水の輪を保ち、それ以上灰色を減らさない。マルセルは鎮静を深めず、シロの背を支え続ける。


一人ではなかった。


怖いと言ったことで、誰かが離れることも、処置を止めることもなかった。


シロの頬を涙が伝う。


「怖い」


今度は、先ほどよりはっきりした声だった。


マルセルの指先で揺れていた灰色が消える。


「聞いています」


短く答え、背を支える手を緩めなかった。


その言葉に治療の力はない。狭い経路を広げることも、恐怖を消すこともできない。

それでも、怖いと言った直後にもマルセルが離れなかったことを、シロは掴んだ袖から確かめられた。


次の強い収縮が来る。


ギルベルトが告げ、リリシアが一拍だけ支える。シロは息を詰まらせ、大きく咳き込んだ。


マルセルは身体を前へ支え、背をゆっくりさする。


「咳を止めなくて構いません。息を吐いてください」


シロは何度か咳をし、その後で短く息を吸った。


先ほどより深い。


エルマが針の動きを追う。


「最も強い収縮は越えましたわ。まだ狭いですが、間隔が戻り始めています」


発作が治ったわけではない。右胸の魔力路も狭いままだった。

ただ、呼吸が完全に途切れる危険な波を、四人とマルセルで一度越えた。


リリシアは診察光を薄くし、支える回数を減らした。

治癒を続けすぎず、シロ自身の呼吸へ少しずつ戻していく。


「シロさん。今は、どんな感じですか」


少年は泣きながら右胸を押さえる。


すぐには答えられない。


一度息を吸い、胸が狭まるのを確かめる。


「右が……ぎゅってする」


リリシアは頷いた。


「右が、ぎゅっとするのですね」


「うん」


「吸う時と、吐く時では、どちらが強いですか」


シロはもう一度呼吸を確かめた。


「吸うと、ぎゅってする」


エルマの銀針が、その直後に強く明滅した。


「シロさんの言葉の方が、針より先ですわ」


不完全で幼い言葉だった。それでも、身体の異常を術式より早く伝えた。


マルセルはシロの背を支えたまま、その言葉を聞いていた。


発作の回数、呼吸、魔力路の動き。長く記録してきたものより先に、シロ自身が危険を伝えている。


「シロ」


マルセルが静かに呼ぶ。


「ほかには、何かありますか」


シロは涙を拭わず、右胸を押さえたまま考える。


「怖い」


「聞いています」


マルセルは灰色を使わなかった。


シロの指が、彼の袖を握り直す。


「それから」


少年は息を吸った。まだ胸は狭い。それでも、先ほどのように声を失うほどではない。


「ここが、痛い」


マルセルの目が僅かに揺れた。


かつて同じ言葉を聞いた夜、マルセルは灰色で恐怖と痛みを浅く沈め、シロの呼吸を守った。

その判断で助かった夜がある。


だが今、シロは灰色を深めなくても、怖いと伝え、右胸の異常を説明し、呼吸を続けている。

マルセル一人ではなく、複数の手が同時に支えていた。


消せば、呼吸はもう少し楽になるかもしれない。


それでも彼は、指先へ灰色を集めなかった。


「聞こえている」


シロは泣いたまま、もう一度息を吸った。


右胸はまだ狭い。呼吸も完全には戻っていない。

リリシアの光も、ギルベルトの遅延も、アトカの水も、エルマの観測も、マルセルの手も、発作そのものを治したわけではなかった。


それでも、シロが出した言葉は途中で灰色へ沈まなかった。


怖い。


右が、ぎゅっとする。


痛い。


その一つずつを、誰かが聞き、次の処置へ渡していた。


広間では、ミナもナナもシロを見ていた。

灰色が増えないままでも、誰も叫び出さなかった。

怖さが消えたからではない。マルセルが支え、リリシアが呼吸を診て、ほかの三人がそれぞれの場所を守っていることを見ていた。


今度は、誰もその涙を消さなかった。

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