↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
PR
80/133

帰る理由を忘れない

壁の中の白い術式は、再び姿を隠していた。


焦げた柱。


補修された木板。


古い石壁。


見た目は、発見する前と何も変わらない。


それでも、広間にいる全員が、そこへ意識を向けていた。


誰かが見ているかもしれない。


灰色の流れを、長い間記録していたかもしれない。


その事実は、痛みとは違う形で子供たちを緊張させている。


トマは机の上へ置いていた木片を握ったまま、柱を見ていた。


ミナは畳みかけた布を膝へ置き、動きを止めている。


ナナは扉の音が鳴るたびに顔を上げた。


物置のリタも、薄明かりの中から広間を見続けていた。


マルセルは灰色を深めなかった。


子供たちが怖がっている。


それが分かっていても、反射的に静めることをしなかった。


「先生」


トマが呼ぶ。


「誰が見てたの?」


「まだ分かりません」


「悪い人?」


「それも分かりません」


マルセルは答える。


分からないものを、安全だとも危険だとも決めつけない。


「でも、何かあれば学園の人たちがいる」


ミナが言った。


それは質問ではなかった。


確かめるような声だった。


ギルベルトが答える。


「今はいる」


「帰ったら?」


「次に誰が来るのか決めてから帰る」


「決まらなかったら?」


ギルベルトは僅かに黙った。


簡単に、帰らないとは言えない。


調査結果をフレデリックへ持ち帰らなければ、支援を増やすこともできない。


「決めるために、一度学園へ戻る必要がある」


ミナの表情が動く。


不安。


失望。


引き止めたい気持ち。


それらが生まれかけた。


次の瞬間。


柱の奥で、白い光が瞬いた。


先ほどより強い。


一度。


二度。


三度。


エルマが銀針を取り出す。


「反応していますわ」


「何にだ」


ギルベルトが尋ねる。


「こちらからの連絡ではありません。灰色の流れにも、大きな変化は――」


言葉が途切れた。


建物全体を包む灰色が、一斉に動いた。


壁。


床。


天井。


細い隙間へ染み込んでいた魔力が、広間の中央へ流れ出す。


これまでのように、恐怖を示した子供一人へ集まるのではない。


建物の中にいる全員を、同じ深さへ沈めようとしている。


「増加していますわ」


エルマの銀針が強く明滅する。


「通常の三倍。まだ上がります」


「マルセル、止めろ」


ギルベルトが告げる。


「私ではありません」


マルセルはすでに壁へ手を向けていた。


灰色の供給線へ命令を送る。


弱める。


止める。


しかし、反応がない。


「制御を受けつけません」


「白い術式が上書きしていますの?」


エルマは柱へ銀針を向けた。


隠れていた白い輪郭が、木板の上へ浮かび上がる。


白い線が灰色の供給路へ重なり、マルセルの命令を塞いでいた。


「観測だけではありませんわ」


エルマの顔が強張る。


「条件を満たした時、灰色を動かす経路が隠されています」


「何の条件だ」


「分かりません。観測式を見つけたことか、灰色の変化が続いたことか、外部へ連絡したことか」


灰色がさらに濃くなる。


広間の輪郭が、僅かに霞んだ。


視界が悪くなったわけではない。


目には見えている。


ただ、見えているものを危険だと考える感覚が薄れていく。


アトカは右肩へ意識を向けた。


義手の接続部には、先ほどまで僅かな熱が残っていた。


今は、それが気にならない。


重さもないように感じる。


本当に戻ったのか。


それとも、違和感を問題だと思えなくなったのか。


「確認の時間です」


アトカが言った。


前の確認から十分は経っていない。


だが、灰色が急増した時点で確認することになっていた。


ギルベルトがすぐに頷く。


「全員、壁際へ集まれ。マルセルも答えろ」


「子供たちは」


「まず俺たちが自分を保つ。その後に子供を見る」


冷たい判断ではない。


自分が灰色へ沈められたまま子供を助けようとすれば、何をされても問題ないと考える側へ回る可能性がある。


四人は広間の中央から離れ、入口に近い壁際へ集まった。


帰路へ最も近い場所だった。


アトカは水を床へ流す。


灰色を全て止めようとはしない。


入口までの道だけを水でなぞり、自分たちがどちらから来たのかを形として残す。


「ギルベルト・クロノス」


ギルベルトが最初に答える。


「帝都下層、灰庭救護院一階広間。担当は指揮、時間管理、外部連絡」


呼吸を一度確かめる。


「身体の痛みなし。疲労はある。灰色の増加へ危険を感じている」


そこで僅かに言葉が止まった。


「帰路は正面入口から北西。下層門でバルトロと合流。学園へ戻り、学園長へ報告する」


「続ける理由は」


エルマが尋ねる。


「子供たちとマルセルの安全を確認し、白い術式の機能を特定するためだ」


「帰る理由は?」


ギルベルトはすぐに答えようとした。


しかし、言葉が出ない。


帰る理由。


調査結果を持ち帰る。


支援を決める。


カインへ何があったか話す。


フレデリックへ報告する。


分かっているはずなのに、どれも重要ではないように感じられる。


このまま灰庭へ残ってもよい。


子供たちは静かだ。


食事もある。


急いで戻る必要などない。


「ギルベルト先輩」


アトカが呼ぶ。


「止まっています」


「ああ」


ギルベルトは自分の胸元を握った。


「帰る理由を、弱くされています」


危険を自覚したことで、声に緊張が戻る。


「報告が必要だ。学園長が次の人員と支援を決める。俺たちだけでここへ残っても、今夜以降を支えられない」


「確認しましたわ」


エルマが記録する。


次に自分の名を告げる。


「エルマ・ガトランド。灰庭救護院一階広間。術式解析と記録担当」


銀筆を持つ指を動かす。


「指先に軽い痺れがあります。先ほど白い術式を偽装した影響ですわ」


一度言葉を切る。


「灰色の濃度を危険だと判断しています。ですが、解析を続ければ全て分かるような気がしています」


「それは普段と違うか」


ギルベルトが尋ねる。


エルマは白い術式を見る。


複雑な構造。


隠された経路。


観測と操作を兼ねた仕組み。


解きたい。


今すぐ全てを知りたい。


そのためなら、少しくらい危険でも構わない。


「違いますわ」


エルマは答えた。


「知りたいとは普段も思います。ですが、今は帰らず調べ続けてもよいと感じています。指の痺れも、問題ではないように思えていました」


「影響あり」


ギルベルトが確認する。


「帰路は」


「正面入口。北西の下層門。帰る理由は、記録を学園長へ渡し、観測式を安全に隔離できる人員を用意するためですわ」


「続行理由は」


「今すぐ子供たちへ作用している灰色を、解除または浅くするためです」


「影響あり。続行理由と帰還理由は言える。次」


リリシアが胸元へ手を置く。


「リリシア・クラウツ。灰庭救護院一階広間。子供たちの状態確認と、必要な場合の治癒判断を担当しています」


自分の内側を確かめる。


治癒の光は漏れていない。


疲労はある。


シロの発作を支えた分、魔力も減っている。


それなのに、まだ何人でも診られるような気がしていた。


「疲れています」


リリシアははっきり言った。


「でも、疲れていないように感じ始めています」


自分の言葉に、僅かな恐怖が戻る。


「治癒を使えば、建物にいる全員をすぐ楽にできるような気もします」


「実際にできるか」


ギルベルトが尋ねる。


「できません」


リリシアは答えた。


「わたしの魔力は減っています。全員へ治癒を広げれば、状態を見分けられません。灰色と混ざる危険もあります」


「続ける理由は」


「急に深くなった灰色から、子供たちの呼吸と拒絶を守るためです」


「帰る理由は」


「わたしたちだけでは、今夜以降の支えを続けられないからです」


一瞬。


帰ることへの罪悪感が薄れていることに気づく。


これまでは、子供を残して帰ることが怖かった。


今は、残しても何も問題ないように感じ始めている。


それもまた、灰色の作用だった。


「それと」


リリシアは続ける。


「帰らなくてもよいと思い始めたこと自体が、帰る理由です」


ギルベルトが頷く。


「確認した」


最後に、アトカの番になる。


「アトカ・アッシュフォード。灰庭救護院一階広間。経路確認と外部魔力の制御を担当しています」


義手の指を閉じる。


開く。


肘を曲げる。


動く。


異常はないように見える。


右肩の接続部を確かめる。


「痛くありません」


アトカは言った。


それから、言い直す。


「痛くないと感じています」


三人がアトカを見る。


「違うのですの?」


エルマが尋ねる。


「水を減らした後も、少し熱が残っていました。でも、今は何も気になりません」


義手をもう一度握る。


「接続部を押すと、普段より硬いです。重さも、本当は残っていると思います」


「動かせるか」


「動かせます。でも、動かせるから問題ないと思っています」


アトカは灰色の濃さを見た。


怖くない。


白い術式が建物を動かしている。


灰色が全員を沈めようとしている。


それでも、自分が水を広げれば全部受け止められるような気がした。


「水を建物全部へ広げたいです」


「理由は」


「僕なら止められると思うからです」


「右肩に異常がある状態でか」


ギルベルトが問う。


アトカは答えようとして、止まる。


止められる。


大丈夫。


自分がやればよい。


そう思うほど、ステラやガイル、ルトの顔が遠くなる。


戻る場所を思い出しても、胸が動かない。


「皆に、戻ると言いました」


アトカが呟く。


「カイン先輩にも、何があったか話すと言いました」


それは事実だった。


だが、約束を破ることが怖くない。


「今は、それを守らなくても平気だと思っています」


言葉にした瞬間、自分の感覚が自分のものではないとはっきり分かった。


アトカにとって、戻る場所は何より大切なものだった。


家族へ戻らないこと。


帰ると約束した相手へ戻れないこと。


それを平気だと思うはずがない。


「影響を受けています」


アトカは言った。


「帰る理由は、僕が帰りたいと思えなくなっているからです」


ギルベルトが即座に判断する。


「四人全員、影響あり。調査段階を終了する」


「撤退ですの?」


エルマが尋ねる。


「この濃度のままなら撤退だ。ただし、子供を置いて扉を出れば終わりではない」


広間を見る。


子供たちにも灰色が深く作用している。


先ほどまで柱を怖がっていたトマは、もう木片遊びへ戻っていた。


ミナも、何事もなかったように布を畳み始めている。


リタは物置の扉から姿を消していた。


恐怖が消えたのではない。


怖さを保てなくなったのだ。


シロは長椅子で眠っている。


呼吸は今のところ安定している。


だが、発作が起きても、再び異常を伝えられなくなる可能性がある。


「マルセル」


ギルベルトが呼ぶ。


「名前、現在地、役割、身体状態を答えろ」


マルセルは灰色の供給線を止めようと、壁へ手を当てたままだった。


「今、その必要がありますか」


「ある」


「子供たちを先に」


「お前が影響を受けているか確認しなければ、子供を任せられない」


マルセルの顔に一瞬、苛立ちが浮かぶ。


だが、その苛立ちもすぐに薄れる。


「マルセル・グレイ」


ゆっくり答える。


「灰庭救護院の広間。子供たちの生活と治療を管理しています」


「身体は」


「問題ありません」


「疲労は」


「ありません」


リリシアがマルセルを見る。


顔色は悪い。


目の下には深い影。


食事もほとんど取っていない。


シロの発作を長く支え、リタの処置も行った。


疲れていないはずがない。


「もう一度聞きます」


リリシアが言う。


「身体はどうですか」


「動けます」


「動けるかではありません」


マルセルは答えない。


「眠いですか。重いですか。頭痛は。手の震えは」


一つずつ尋ねる。


マルセルは自分の手を見る。


壁へ当てていた指が、細かく震えている。


「少し、震えています」


「他には」


「頭が重い」


「疲れは」


長い沈黙。


「あるのでしょう」


他人のことのような答えだった。


「帰路は分かりますか」


ギルベルトが尋ねる。


「ここが私のいる場所です」


「建物の外へ出る道だ」


マルセルは入口を見る。


吊るされた二枚の布。


その向こうに路地がある。


見えている。


だが、外へ出る必要がないように感じる。


「正面です」


「外へ出る理由は」


「ありません」


即答だった。


ギルベルトの目が細くなる。


「火災が起きてもか」


「起きません」


「白い術式が建物を制御している。何を起こすか分からない」


「それでも、この子たちを置いては出られない」


「一緒に出るという選択は」


マルセルは子供たちを見る。


「外へ出す必要はありません」


その言葉に、リリシアの背筋が冷える。


危険がないから残すのではない。


危険そのものを重要だと思えなくされている。


マルセルは、最も深く灰色へ触れてきた。


長い年月、建物全体の鎮静を自分の魔力と結びつけている。


影響も、四人より早く深い可能性があった。


「マルセルさん」


アトカが呼ぶ。


「子供たちを守りたいですか」


「当然です」


「どうしてですか」


マルセルの表情が止まった。


「この子たちは、私が見なければ」


続きが出ない。


自分が見なければならない。


他に誰もいない。


いつもなら、そこから幾つもの理由が続いたはずだった。


食事を作る者がいない。


夜にそばへいる者がいない。


傷を記録する者がいない。


「守りたいからではなく、役目だから残っているのですか」


アトカが尋ねる。


「同じことです」


「同じではありません」


マルセルの目が僅かに揺れる。


「トマさんが転んだ時、先生は包帯を見ました。ナナさんへ自分の食事を渡しました。シロさんが怖いと言った時、聞こえていると答えました」


アトカは一つずつ伝える。


「役目だけではなかったと思います」


マルセルの手の震えが強くなる。


「この子たちが心配ですか」


返事はない。


灰色が、その心配を沈めている。


それでも、完全には消えていない。


マルセルはシロを見る。


胸元へ手を置いたまま眠る、小さな少年。


次に、包帯を巻いたトマ。


物置のリタ。


「心配です」


ようやく言葉が出た。


「今、そう言われるまで分からなかった」


「影響を受けています」


ギルベルトが告げる。


「ここにいる全員を、このまま残せない」


その時。


柱の白い輪郭が、さらに強く光った。


灰色の濃度が、もう一段上がる。


広間の音が遠くなる。


子供たちの表情から、最後に残っていた緊張まで消えていく。


アトカの水へも灰色が絡みつき、流れを止めようとする。


エルマの銀針の光が、一斉に弱まった。


「濃度、通常の五倍」


声にも力がない。


「拒絶反応が、急速に低下していますわ」


「入口までの水路を保て」


ギルベルトが命じる。


アトカは床へ描いた水の線を見る。


正面入口。


路地。


下層門。


学園。


家族。


帰る場所。


どれも遠く感じる。


それでも、言葉にする。


「僕は、アトカ・アッシュフォードです」


水路が一度揺れる。


「ここは灰庭救護院です」


入口までの線を太くする。


「僕の役目は、帰る道を残すことです」


右肩が重い。


今度は、その重さを問題として受け取れた。


「右肩に異常があります。だから、水を全部には広げません」


ギルベルトが隣で答える。


「俺はギルベルト・クロノス。指揮と撤退を決める」


エルマも銀針を握り直す。


「わたくしはエルマ・ガトランド。術式を記録し、分からないものを分からないまま持ち帰りますわ」


リリシアが続く。


「わたしはリリシア・クラウツ。全員を今すぐ治すのではなく、声を聞ける状態を守ります」


四人の声が、灰色の中へ残る。


名前。


場所。


役割。


帰る理由。


灰色は感情を鈍らせる。


身体の危険を遠ざける。


恐怖を奪い、痛みを沈め、戻る必要まで薄くする。


だが、自分たちが決めた言葉までは、まだ奪われていなかった。


ギルベルトが入口へ向き直る。


「一度、外へ出る」


「子供たちは」


マルセルが尋ねる。


「置いていかない」


ギルベルトは答えた。


「まず全員を、灰色が最も薄い入口側へ移す」


「動ける子は自分で歩いてもらいます」


リリシアが言う。


「動けない子だけを支えます。怖くなくても、危険がないわけではないと伝えます」


エルマは白い術式を見る。


「相手に、わたくしたちが何をするか知られるでしょう」


「構わない」


ギルベルトは懐中時計を開く。


「観測されないことより、ここにいる者を守る方を優先する」


柱の中で、白い光が脈打つ。


灰色は、建物全体を同じ静けさへ沈めようとしている。


その中で四人は、何度も自分の名を繰り返した。


帰りたいと思えなくなっても。


怖くなくなっても。


大丈夫だと感じても。


それを、進んでよい理由にはしなかった。


戻る道は、戻りたいという感情だけで作るものではない。


自分が自分でなくなる前に決めた約束を、忘れないために残すものだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。