泣かない子供たち
鍋の中で、根菜と豆がゆっくり煮えていた。
マルセルは木杓子で底をさらい、焦げついていないことを確かめる。
その間にも、広間にいる子供たちへ何度も目を向けていた。
食事の支度が整う前に、マルセルがトマを抱き上げ、広間の窓際に置かれた椅子へ移していた。
窓際では、トマが傷のある足を伸ばして木片を積んでいる。
机へ伏せて眠っていた少年の胸は、変わらない間隔で上下していた。
縫い物をしている少女の指先にも、新しい傷は見えない。
食事を作りながら、一人ずつ違うところを見ている。
「ミナ。器をお願いします。トマの分は窓際へ。シロの分は半分だけにしてください」
「分かった」
ミナは棚から木の器を取り出し、迷わず机へ並べていった。
形も大きさも揃っていないが、どれもきれいに洗われている。
広間と調理場にいる子供だけで、十人ほどになる。
それでも聞こえるのは、木片が触れ合う音、針が布を抜ける音、鍋の湯が揺れる音ばかりだった。
時折、短い笑い声は上がる。けれど、すぐに静けさへ戻っていく。
「食事にします」
マルセルが告げると、子供たちは慣れた様子で手を止めた。
木片を箱へ戻し、縫い物を畳み、それぞれの場所へ器を取りに来る。
押し合う者はいない。先に多く受け取ろうとする者もいなかった。
マルセルは一人ずつ顔を見ながら、鍋から食事をよそっていく。
「朝のパンは食べましたか」
「半分」
「夜の咳は」
「出てない」
「その指は、いつ傷つけました」
「さっき」
「食事の後で洗いましょう」
短い答えを聞くたび、マルセルは鍋の横に置いた小さな帳面へ印を書き足した。
食べた量、眠れた時間、咳、熱、小さな傷まで、子供ごとに分けて残している。
「全員の状態を覚えているのですね」
リリシアが小さく言った。
「覚えなければ、誰も代わりに見ません」
マルセルは手を止めなかった。
「記録を見せていただけますの?」
エルマが帳面へ目を向ける。
「子供たちの記録です。目的を聞いた上で、必要な部分だけお見せします」
「鎮静式を使う前と後で、反応がどう変わったかを確認したいですわ」
木杓子がほんの僅かに止まり、すぐに動き出した。
「食事の後で」
拒んではいない。だが、学園から来たというだけで、子供たちの記録をすべて差し出すつもりもないらしい。
最後にマルセルは、小さな器へ鍋の上澄みをよそった。
豆と根菜は細かく潰され、量もほかの半分ほどしかない。
「シロ」
広間の奥にいた幼い少年が顔を上げた。
六つか七つほどに見える。色の薄い髪が額へ張りつき、ほかの子供より身体も小さい。
シロは立ち上がり、二歩進んだところで右胸へ手を当てた。
すぐに離したが、マルセルは見逃さなかった。
「胸はどうしました」
「少し変」
「どこが変ですか」
シロはもう一度、右胸へ手を置いた。うまく説明できないらしく、首を横へ振る。
「分かんない。ここ」
リリシアはシロの前へ膝をついた。
「食事の後で、胸を診せてもらえますか。何をするかは、触れる前に説明します」
シロはマルセルを見る。
「私も一緒にいます」
マルセルが言うと、シロは小さく頷いた。
「半分食べたら休みましょう。急がなくて構いません」
「全部食べられるよ」
「食べられることと、全部食べた方がよいことは同じではありません」
シロは反論せず、近くの椅子へ座った。一口、二口と、ゆっくり食べ始める。
アトカは少年の胸元を見た。
呼吸はほかの子より少し短い。
水を近づければ、身体の外へ漏れる魔力を確かめられるかもしれない。
けれど、シロはまだ水で調べることへ同意していない。
アトカは何も出さず、食事の後にリリシアが診ることだけを覚えておいた。
子供たちが食べ始めてから、マルセルはようやく自分の器を用意した。
鍋の底に残ったものを少しだけよそい、広間の端に立ったまま口へ運ぶ。
「先生は座らないの?」
トマが窓際から尋ねた。
「後で座ります」
「いつも後でって言う」
マルセルは子供たちの器を見回した後、近くの椅子を引いた。
「今日は座りました」
腰を下ろすところまで見届け、トマは木片へ視線を戻した。
その時、広間の反対側で木の器が床へ落ちた。
鈍い音が響き、熱い汁が石床へ広がる。
「ユナ」
マルセルが立ち上がった。
リリシアの胸元にも白い光が集まりかける。
赤くなった皮膚を見た治癒が、本人の判断より先に傷へ向かおうとした。
リリシアは一度息を吸い、その光を外へ出さなかった。
今必要なのは、傷を見ずに塞ぐことではない。
熱を逃がし、どこまで傷ついているかを確かめることだった。
幼い少女の足首へ汁がかかっている。
ユナは濡れた靴下を見下ろしていた。
驚いた顔はしていない。泣き声も上げなかった。
周囲の子供たちは一度だけ顔を向けた。マルセルが駆け寄ると、それ以上動く者はいなかった。
助けが来ると分かっているからなのか。
それとも、心配し続ける感覚まで薄れているのか。
今のリリシアには見分けられなかった。
「足を上げてください」
ユナは言われたとおりにする。
マルセルが靴下を脱がせ、リリシアも隣へ膝をついた。足首の皮膚が薄く赤くなっている。
「熱かったですか」
「熱かった」
「今はどうですか」
ユナは赤くなった場所を見る。
「分かんない」
リリシアはユナの目を見た。
「火傷したところを水で冷やします。水をかけてもいいですか」
「うん」
アトカが掌へ清潔な水を作り、細い流れにして足首へ落とした。
ユナの足が冷たさに反応して僅かに動く。
「冷たいですか」
「冷たい」
「赤いところに、嫌な感じはありますか」
「ない」
リリシアは赤みと腫れを確かめた。
「軽い火傷です。しばらく冷やせば、大きく悪化する状態ではありません」
リリシアは治癒を使わなかった。赤みをすぐ消すことはできる。
それでも、冷やして守れば自然に塞がる傷へ、本人が求めていない魔術を重ねる必要はなかった。
「私も同じ見立てです」
マルセルは答え、冷たい水を含ませた布を足首へ当てた。
「次からは、器を両手で持ってください」
「うん」
ユナは床へこぼれた食事を見る。
「食べるの、なくなった」
悲しそうには見えない。けれど、自分の分が失われたことは分かっていた。
マルセルは自分の器を差し出す。
「これを食べてください」
「先生のは?」
「鍋に残っています」
実際には、鍋の底に残る量は僅かだった。
ユナは疑わず器を受け取る。
マルセルは鍋の底を木杓子でさらい、残った豆と崩れた根菜を少しだけ別の器へ移した。
トマがその手元を見ていた。
何か言いかけたように唇が開き、すぐに閉じる。
傷ついた足を休ませるよう言われた時よりも、迷いは短かった。
自分が何を気にしたのか、言葉へ届く前に見失ったようにも見えた。
ほかの子供たちも一度はマルセルへ視線を向けた。
だが、誰も自分の食事を分けようとはせず、先生の分が足りるのかとも尋ねなかった。
エルマが銀針を僅かに持ち上げる。
針先に、子供たちの胸元で生じた小さな反応が幾つか映った。
その上へ壁から流れる灰色が重なり、反応を弱めていく。
「心配に近い反応は生まれていますわ」
エルマが三人だけに聞こえる声で言った。
「ですが、言葉や行動になる前に弱くなっています」
「何も感じていないわけではないのか」
ギルベルトが尋ねる。
「ええ。生まれたものを長く保てないように見えますわ」
リリシアは、マルセルの器を受け取ったユナを見る。
先生の食事が減ったことへ、何かは感じた。
だが、それは心配として言葉になる前に薄れてしまった。
「鎮静式を完全に止める時間はないのですか」
リリシアが尋ねる。
マルセルはユナの足首へ当てた布を替えた。
「ありません」
「寝ている間も?」
「寝ている間こそ必要な子がいます」
「昼間も、今のような時もですか。ユナさんは熱さを感じて器を落とせました。でも、火傷した後の痛みは分かっていません」
「痛みが強すぎれば、足を動かせず、処置を拒む子もいます」
マルセルは静かに答える。
「どちらにも危険はあります」
「だから、あなたが深さを決める」
ギルベルトが言った。
「今はそうです」
「何を基準に変える」
「眠れるか。食べられるか。処置を受けられるか。自分やほかの子を傷つけないか」
マルセルは布を外し、赤みが広がっていないことを確認した。
「ここでは、痛みとの付き合い方を教える前に、今夜を越えなければならない子がいました」
リリシアはすぐには返さなかった。
マルセルは子供を見ている。食事量を覚え、咳を聞き、傷を見つける。
灰色も、何も考えず全員へ同じように流しているわけではない。
それでも、ユナは火傷した足を守るための痛みを感じられない。
ほかの子供たちも、マルセルを気遣う感情を言葉にする前に失っている。
「先生」
ミナが声をかけた。
「リタの分、どうする?」
広間を見回しても、リタという子供は見当たらない。
「いつもの場所へ置いてください。無理に呼ばなくていい」
ミナは一人分の器と小さく切ったパンを盆へ載せ、広間の奥にある扉の前へ置いた。
扉は僅かに開き、内側は暗い。
「リタ。ごはん」
返事はなかった。
ミナはそれ以上呼ばずに戻る。
しばらくすると、隙間から細い手が伸びた。器を掴み、音を立てず暗がりへ引き込む。
アトカは、その手だけを見た。
水滴を送れば中の様子を確かめられるかもしれない。
それでも、姿を隠している子を、見つけられるという理由だけで探ることはしなかった。
食事が終わり始める。
子供たちは器を重ね、決められた場所へ運んでいく。
マルセルは、一人ずつ残した量を帳面へ書き足していた。
シロの器には、半分ほど残っている。
「もういらない」
「吐き気は」
「ない」
「胸は」
シロは右胸へ手を当てた。
「まだ、少し変」
リリシアが立ち上がる。
「片づけが終わったら診ましょう。触れる前に、どこを診るか説明します」
「うん」
マルセルも頷いた。
「私も一緒に行きます」
ギルベルトが懐中時計を開いた。
「その前に確認する」
四人は広間の端へ集まり、短く互いの状態と帰路を答えた。
痛み、寒さ、吐き気に変化はない。アトカの義手も普段どおり動いている。
「わたしは、まだ怖いです」
リリシアが答えた。
「子供たちが痛みを分からないことも、この状態を急に変えることも、どちらも怖いです」
「その怖さが消えていないことは確認できた」
ギルベルトが言う。
エルマは、もっと細かく子供ごとの反応を測りたい気持ちが強くなっていると報告した。
「ですが、許可を得ていない子へ針は置きませんわ」
アトカも自分の状態を確かめる。
「建物全部へ水を広げたくなっています。灰色がどこから来るのか、今すぐ見たいです」
「理由は説明できるか」
「早く分かれば、みんなを助けられるかもしれないからです。でも、今ここで広げていいかは分かりません」
「分からないなら増やすな」
「はい」
確認が終わり、リリシアがシロの方へ戻ろうとした時だった。
食器を拭いていた少女が、マルセルへ近づいた。
ユナとは別の子だった。年は少し上に見える。
少女はマルセルの繕われた袖を、指先でつまんだ。
「先生」
「どうしました、ナナ」
「今夜も、静かにしてください」
マルセルはナナの顔を見る。
「昨日と同じくらいでいいですか」
ナナは頷いた。
「怖い夢を見たくない」
「分かりました」
その返事を聞いたナナの肩から、僅かに力が抜けた。
笑ったわけではない。
それでも、今夜も眠れると知って、張っていたものが少し緩んだように見えた。
灰色がなければ、ナナは怖い夢を見るかもしれない。
眠れず、夜が明けるまで震えるかもしれない。
灰色があれば、その夜を越えられるかもしれない。
リリシアは、火傷を負ったユナと、灰色を望むナナを交互に見た。
ユナには、傷を知らせる感覚が必要だった。
ナナには、悪夢から離れて眠る時間が必要だった。
同じ灰色でも、二人が必要としているものは違う。
ユナへ必要なのは、傷を守れる程度に感覚を残すことかもしれない。
ナナへ必要なのは、悪夢に呑まれず眠りへ入れる程度の静けさかもしれない。
どちらも「痛みや恐怖を消す」という一つの言葉だけでは決められなかった。
けれど今は、その違いをマルセル一人が決めている。
いつ始め、どこまで弱め、いつ終えるかを、ナナ自身へ尋ねる言葉もまだ足りていなかった。
それでも、灰色を危険だという理由だけで、ナナの願いまで聞かなかったことにはできない。
リリシアは止めてくださいとは言わなかった。
代わりに、ナナへ尋ねた。
「今夜、眠る前に、もう一度お話を聞いてもいいですか」
ナナは少し考えた後、頷いた。
「いいよ」
泣かない子供たちの中に、次に聞くための約束がひとつ残った。




