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アトカの空白の腕  作者: 鷺沼鳩屋
痛みを奪う救い
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救われた夜

ナナが自分の席へ戻っても、周囲の灰色は濃くならなかった。


少女が頼んだのは、今夜、眠る前の鎮静である。

昼間から深くする必要はない。

それにリリシアは、使う前にもう一度話を聞かせてほしいと約束していた。


マルセルも今は術式へ触れず、食事を終えた子供たちの器を片づけている。


「先に、シロさんを診ます」


リリシアが告げた。


シロは広間の端で、丸めた布へ背を預けていた。

右胸に片手を置いているが、先ほどより呼吸が乱れている様子はない。


「シロさん。今から胸の動きと魔力の流れを見ます。服の上から胸へ触れてもいいですか」


「うん」


「嫌になったら、途中でも言ってください」


シロはもう一度頷いた。


リリシアは胸へ手を当てる前に、呼吸の回数と顔色を確かめた。

それから白い光を指先へ細く集め、服の上から右胸へ触れる。


治すための光ではない。

身体の中で魔力がどう流れているかを確かめるため、表面へ薄く添えるだけだった。


シロの呼吸に合わせて、胸の内側の魔力が狭い場所を通り抜けていく。

完全に止まってはいない。だが、息を吸うたび右側だけ流れが遅れ、胸元へ小さな重さを残していた。


「今、苦しくはありませんか」


「少し変」


「さっきより強いですか」


シロは考えてから、首を横へ振った。


「同じ」


「今は呼吸を保てています。すぐに根本へ強い処置をするより、休んで変化を見た方がよいと思います」


「変って言えばいい?」


「はい。まだほかの言葉が分からなくても、『変』で大丈夫です」


シロの肩から、僅かに力が抜けた。


マルセルもそばで診察を見ていた。


「以前から、右胸の魔力路が狭い子です。疲労や恐怖が重なると、さらに流れが細くなります」


「過去の状態を確認してもよろしいですか」


「記録があります」


マルセルは答えたが、すぐには帳面を取りに行かなかった。


「先ほど、ナナさんの鎮静についても確認したいと話しました」


リリシアがナナを見る。


少女は机へ頬をつけていたが、眠ってはいなかった。こちらの声を聞き、目だけを向ける。


「ナナさん。今夜のことを考えるために、前に灰色を使った時の記録を見てもいいですか」


「先生がいいなら」


「マルセルさんではなく、ナナさんはどう思いますか」


ナナは少し困ったように視線を動かした。


「全部読むの?」


「必要なところだけです。怖い夢と、眠れなかった時のことを確認したいです」


「そこだけなら、いいよ」


「ありがとうございます」


マルセルは戸棚から二冊の帳面を取り出した。


革の表紙は擦れ、角が丸くなっている。表紙に結ばれた木札には、ナナとシロの名が記されていた。


エルマが席へ着く前に、ギルベルトが言う。


「記録するのは、今回の調査に関係する部分だけだ。書かれている内容をそのまま持ち出すな」


「承知していますわ」


エルマは自分の記録紙を一枚だけ取り出した。


マルセルがナナの帳面を開く。


灰庭へ来た頃のナナは、扉が動くたび机の下へ隠れ、夜になっても眠らなかった。

誰かが腕へ近づくと呼吸を乱し、傷の処置も受けられなかった。


三日目の夜には食事も水もほとんど取れず、夜明け前に意識を失いかけている。


次の頁に、初めて灰色を使った記録があった。


鎮静式、浅度。


対象は、恐怖による呼吸の乱れ。


継続時間、二十分。


接触への拒絶は残す。


マルセルは傷へ触れず、呼吸が落ち着いた後も同じ部屋にいた。

ナナが眠ったことを確かめると術式を止め、その時刻まで記録している。


「この夜の処置は、必要だったと思います」


リリシアが言った。


マルセルが顔を上げる。


「呼吸が乱れ、眠れず、食事も取れなくなっていました。恐怖だけを浅く弱め、触れられたくないという反応は残している。終える条件と時刻も決めています」


「わたしでも、同じような処置を考えたかもしれません」


ナナは机へ頬をつけたまま、リリシアを見ていた。


「灰色が、ナナさんを助けた夜だったのですね」


「たぶん」


少女の返事は小さかった。


覚えているからではない。

帳面に書かれている自分のことを、まだ自分の感覚として受け取れていないようだった。


エルマが次の頁を開く。


その後も、最初の数回には目的と時間が細かく書かれていた。


包帯を替える間だけ、痛みと恐怖を浅くする。


眠りにつくまで二十分。


呼吸が落ち着いたら終了。


朝になれば完全に外す。


だが、頁を進めるにつれて時間は長くなっていった。


三十分。


一時間。


夜の半分。


扉の音へ怯えないよう、昼間も薄く継続。


やがて、日付の横には「鎮静継続」とだけ書かれるようになった。

始めた時刻も、終えた時刻もない。

ナナが何を怖がったかではなく、「夜間覚醒なし」「拒絶なし」「食事量安定」という結果が並んでいる。


エルマの筆が止まった。


「最初の記録には、ナナさんの反応と、術式を止めた時刻がありますわ」


次の頁へ指を移す。


「こちらには、施設が静かだったことしか残っていません」


「術式を切れば、元へ戻りました」


マルセルが言う。


「扉の音へ怯え、食事ができなくなる。眠れば悪い夢を見る。短く使っても、止めるたびに同じ苦しみが戻りました」


「だから、止める時間を短くした」


ギルベルトが確認する。


「はい」


「最後には、止めなくなった」


マルセルは否定しなかった。


リリシアは最初の頁と、最後の頁を見比べる。


救護として始まったことは、記録からも分かる。

マルセルは眠れない子を休ませ、傷を広げないよう守った。


しかし後の頁には、ナナが何を感じたのかが残っていない。


「ナナさん」


リリシアが呼びかける。


「今夜、灰色を使ってほしいと頼んでくれましたね」


「うん」


「眠った後も、朝まで同じ深さで続けてほしいですか」


ナナは目を瞬いた。


「分かんない」


「途中で目が覚めた時は、もう一度聞いてほしいですか。それとも、そのままにしてほしいですか」


ナナはさらに長く考えた。


「それも、分かんない」


マルセルが口を開きかける。


その前に、アトカが帳面を覗き込んだ。


「マルセルさん」


「何でしょう」


「最初の夜の次の日に、ナナさんへ聞いたところはどこですか」


マルセルの視線が止まる。


「何をです」


「灰色で眠れたから、次の夜も同じようにしたいかです」


アトカは頁を戻した。


「最初は二十分で止めています。その後、ナナさんが起きている時に、どこまでならいいか聞かなかったんですか」


マルセルはすぐには答えなかった。


「当時のナナは、尋ねても答えられる状態ではありませんでした」


「いつなら答えられるかは、どうやって確かめたんですか」


責める声ではなかった。


アトカには、本当に記録の中から答えを見つけられなかった。


マルセルは帳面へ目を落とした。


開始した理由はある。


深くした理由もある。


止めなかった理由もある。


だが、ナナが再び自分で選べるようになったかを確かめた記録はなかった。


「ありません」


やがてマルセルが答えた。


広間では、洗った器を重ねる音がした。


ナナは机へ頬をつけたまま、マルセルを見ている。

怒ってはいない。責めてもいない。

その事実が、灰色の作用なのか、マルセルを信じているからなのか、今は誰にも分からなかった。


「シロさんの記録も、必要なところだけ確認します」


リリシアが言った。


シロは自分の名を聞き、布へ預けていた背を起こした。


「見てもいいですか。胸が変になる時のところだけです」


「先生も見る?」


「はい」


「じゃあ、いいよ」


マルセルがシロの帳面を開いた。


過去に一度、呼吸が大きく乱れた夜があった。

シロは胸を押さえ、痛い、怖いと繰り返し、その恐怖によってさらに呼吸を速めていた。


マルセルは痛みと恐怖を浅く弱めた。

呼びかけへ返事ができる程度は残し、身体を支えながら呼吸が戻るまで待った。


「この時も、灰色が助けになっています」


リリシアが記録を読んだ。


「発作そのものを治したわけではありません。でも、恐怖で悪化する流れを弱め、身体が戻る時間を作っています」


マルセルの指が、帳面の端へ触れる。


「これも間違いだったと言われれば、私は受け入れられません」


「間違いだったとは言いません」


リリシアは即座に答えた。


その返事に、マルセルが初めて僅かに顔を上げた。


エルマが後の頁を確かめる。


最初の発作では、「痛い」「怖い」と記されている。


次は、「胸が変」。


さらに後になると、胸へ手を当てても「何でもない」と答えていた。


「発作の回数は減っています」


マルセルが言う。


「恐怖で悪化することも減りました」


「ですが、始まりを伝える言葉も減っていますわ」


エルマは記録紙へ、三つの言葉だけを書いた。


痛い。


変。


何でもない。


「鎮静によって休めたことと、異常を伝えられなくなったことが、同じ頁にあります」


マルセルは反論しなかった。


シロは自分の胸へ手を置いている。


「今は、『変』って言えるよ」


「はい」


リリシアがシロを見る。


「その言葉を、なくさないようにしたいです」


シロは完全には分からない様子だった。

それでも、自分が言った「変」を否定されなかったことだけは伝わったらしく、手を胸から離した。


「必要だった夜まで否定するつもりはありません」


リリシアはマルセルへ向き直る。


「ナナさんが眠れた夜も、シロさんの呼吸が戻った夜も、救いだったと思います」


「では、なぜ今のままではいけないのです」


「その夜に必要だった処置を、終えられなくなっているからです」


マルセルの眉間に皺が寄る。


「終えれば、苦しみは戻ります」


「戻ると思います」


リリシアは嘘をつかなかった。


「すぐには眠れない子もいるでしょう。怖いと泣く子も、処置を嫌がる子もいると思います」


「それを誰が支えるのです」


答えは簡単には出せなかった。


マルセルは長い間、一人で子供たちの夜を見てきた。

今日来たばかりの四人が、軽々しく代わりを約束することはできない。


アトカは、並べられた二冊の帳面を見る。


「僕たちだけで、ずっといることはできません」


マルセルがアトカを見る。


「でも、先生一人のままでいいとも思いません」


「ほかに誰も来なかったのです」


「だから、帰った後に誰へ伝えるかも調べます」


アトカは言葉を探しながら続ける。


「今すぐ全部止めるとは言えません。でも、助けてもらった後に、次も同じにするか聞けるようにはしたいです」


マルセルは答えなかった。


信じたわけでも、退けたわけでもない。ただ、ナナの帳面へ視線を落とした。


ギルベルトが二冊の記録を閉じる。


「今日は、灰色が正しかったか間違っていたかを決めに来たわけではない。どこで使われ、何を助け、何を失わせたかを持ち帰る」


「今夜の鎮静はどうします」


マルセルが尋ねる。


リリシアはナナを見る。


「眠る前に、ナナさんへもう一度聞きます。今分からないことを、無理に決めさせるつもりはありません」


「聞いても、答えられなければ」


「その時は、答えられないことも一つの状態として残してください」


エルマが記録紙をマルセルへ向けた。


そこには、ナナとシロの名前ではなく、確認できた違いだけが書かれていた。


短い鎮静で休めた。


終える時刻があった。


継続するうちに本人の言葉が減った。


終了を本人へ尋ねた記録がない。


「わたくしは、今夜の答えを先に作りませんわ」


エルマは言った。


「ですが、始めた時刻だけでなく、終える判断がどこにあるのかは確認します」


マルセルは長い間、記録紙を見ていた。


やがて、ナナの帳面を閉じる。


救われた夜は、確かに記されていた。


けれど、灰色がなくても朝を迎えられるようになった日は、どの頁にも残っていなかった。

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